03
それから、いくつもの昼と夜を眺めました。分厚い雲が空を覆っている日もあれば、細かな雨が降る日もありました。逆に、真っ青な空に太陽が白く照り輝き、大地を灼く日もありました。
笛の音は聞こえてくる夜もあれば、聞こえない夜もありました。音色はある時は優しい風を連想させ、ある時はまた別の物を連想させました。息を少し吹きかけるだけで白く凝ってしまう短い草、その匂いや感触を龍は知りません。でも、笛に耳を傾けながら、これと似たようなものなのだろうか、と想像してみたりもしました。
そして遂にその日、籠りの終わる日が来ました。あの男がやって来たのです。洞窟の入口から差し込んできた黒い影法師の先端は、ちょうど龍の鼻先にかかる位置にあり、龍ははじかれたように顔を上げました。
『お前…』
陽光を背にしているため、顔はよく見えませんでしたが、微笑んでいるようでした。
龍は半ばよろめきながらも、立ち上がります。きのみも薬草もとうに食べ尽くしていました。そのせいか、体にうまく力が入りません。
『くっ…』
それでも、歯を食いしばり、岩壁に手をつき、何とか体を支えます。
そう、龍はこの男にずっと会いたかったのです。この30日間、ずっと、何かにつけて彼の事を考えていました。
まず、伝える事があるとしたら、その事でしょうか。一度口を開いたら、胸の内に渦巻いていた様々な物が一息に溢れ出してきそうな気もします。
ぴしり、と音がしました。力を込め過ぎたのでしょうか、足の爪が半ばから折れています。それほど、この体は衰弱していたのでしょうか。ですが、龍にとっては、とにかく男の元に行く事が優先すべき事であり、再び前に向けて足を踏み出します。
再びぴしり、と先ほどよりもやや大きな乾いた音が鳴ると共に、重たい何かがすぐ足元に落ちました。見れば、半ば凍りつき、先端にいくつもの氷柱をなしていた不格好な翼が折れて、転がっています。龍は息を呑みました。
『お前…!』
男は静かに入口に佇んだまま、動揺した様子もありません。
『お前、一体…』
龍は焦りました。衝動のままに距離をつめようとすれば、一歩を踏み出す度に、体のそこかしこに亀裂が入り、それらは小さく剥がれ、時にはもげて、地面に落ちていきます。
『お前、…一体、我に』
ぴしり。
『我に、…何をしたのだ!?』
男の胸に手をかけようとした時、龍は気づきました。そこにあったのは鋭い爪の植わった三本の指ではなく、目の前に立つ男と同じ、5本の指を持つ人間の手だったのです。龍はおそるおそる、己の顔に触れてみました。そこにあったのは、ひんやりと固い外殻ではなく、皮膚の柔らかな感触でした。
「これは…」
「おいで」
戸惑う龍の手を、男は笑って引きました。あ、と龍は転びそうになるのを何とか踏みとどまりました。見れば、足の形も変わっています。前よりも小さく縮み、手と同じように指は左右に5本ずつあり、先端には薄桃色の爪が植わっています。
「痛っ」
足の裏に小さな痛みを感じたのはその少し後です。立ち止まり、そっと足を持ち上げてみると、足の指の中でも一番小さなそれと同じくらいの黒い小石がくっついていました。以前なら、こんな存在など意識に入ってくる事すらなかったでしょう。しばし、龍はそれを凝と見つめていましたが、再び男が急かすように手を引っ張ります。
「こっちだよ。早くおいで」
やがて二人は、大きな湖の前に到着しました。
「ご覧」
湖面に写っていたのは、男と、そして人間の女でした。女は、隣に立つ男に比べて一回り小柄で、肩や腕など体は全体的に丸みを帯びて柔らかい印象を与えます。そして、ふさふさと長い豊かな髪が波打ちながら体全体を覆っていました。
「これは…我、なのか?」
目を丸くして見つめる女を、男は自分の上着を脱いで包んでくれました。襟を掻き合せると、暖かで良い匂いがします。それを肺いっぱいに吸い込めば、呼応するように身体の内側から暖かい物が溢れ出してきます。
このような事がありうるのでしょうか。それまでの自分は、常に冷気に浸されていました。それは、自分の内から生まれ、体を分厚く覆い、そして近づく物全てを凍てつかせてきました。
ふと目を開けると、男の腕が服の上から、彼女の体に回されていました。女は恐る恐る、男の逞しい腕に触れてみました。そして、そのままそっと肘に向けて滑らせてみると、男はくつくつと笑いました。
「擽ったいじゃないか」
「…冷たくはないのか?」
問うてみましたが、答えはありません。変な事を口にしたのでしょうか。
「おい…」
恐る恐る、後ろにいる男の方を向こうとすれば、腕に力が込められます。腕の中に閉じ込められる恰好となった女の耳を、からりと明るい笑い声が打ちました。
「…いきなり何だ……」
女の憮然とした呟きにも、男は笑い続けるだけです。腕も緩めてくれません。
一体何なのでしょう。
「お前は、どうなんだい?」
暫くして、漸く笑いを収めた男が逆に問いかけます。
「どうって、何が?」
「寒くはないかい?」
女は、口を小さく開けたまま固まりました。もう自分を閉じ込めていた氷の鎧はありません。手に息を吹きかけてみても、爪の先に小さな氷柱ができる事もありません。
「我は…」
抱きしめる力が強くなりました。どうにかもがいて体を反転させると、掌を当てた箇所がちょうど心臓の上でした。とくり、とくり、と重く緩やかな音がします。耳を押し当てると、音は優しく頭の先からつま先までを包んでくれるようにも思えました。
「もう少しだけ、こうさせてくれれば…」
小さな声で辿たどしくつぶやけば、大きな掌が頭に置かれました。
「好きなだけ」
女は、顔が熱くなるのを感じました。