02
10日経ち、20日経ちました。最初は小山をなしていた木の実も、もはや数個を残すだけになっていました。薬草の方も、一口齧ってみましたが、苦くてすぐに吐き出してしまいました。
一体あの男は何を考えているのでしょうか。そもそも自分はなぜ、あの男の申し出を易易と受け入れてしまったのでしょう。龍にはわかりません。吐く息は相変わらず白く冷たく、暗い洞窟の中で星のような煌きを伴いながら地面に霜をおろします。
気がつくと、あの男の事ばかり考えています。あの男はその気になれば、龍を殺す事もできたはずです。今までそうしようとして、失敗した人間は何人もいました。大抵は、自慢の武器が役に立たないのを見ると、たちまち萎縮してしまうものでした。しかし、あの男が最初に手にとったのは、木を削って作った横笛で、しかもそれで龍と対等以上に戦って見せたのです。
この男は、今まで出会った生き物とは違う。最初はその事に焦り、そして苛立ちました。次に来たのは恐怖でした。殺されるかもしれない。初めてそう思ったのです。それまで、龍は常に命を奪う側にいました。勿論、そうしようと思ってしたのではありません。龍自身の骨や表皮すら凍りつかせても有り余る冷気に、他の生き物が勝手に触れ、死ぬだけの事です。立ち向かってくる相手には牙をもって報いました。大人しく傷つけられるわけにはいかなかったからです。
そう、たったそれだけの事。いつも、龍と龍を取り巻く世界はそのようにできていました。他の存在が、長く近くにいた例はありません。龍はいつも一匹だけで、それが当たり前でした。龍と同じ存在、力の上でも対等に立つ事のできる存在など、今までいませんでしたし、考えた事もありませんでした。
入口の方を伺うと、既に暗くなっています。そんな時は、よく人間の焚く火を目印に狩りをしたものです。もっとも、時間と共に、人間もその危険性を悟り、警戒を強めたために、やりにくくはなっていましたが。
実を言うと、人間の一人や二人を食べたところで、腹を満たせるものではありませんでした。いや、そもそも龍は腹いっぱいに食べた、という経験がいくら思い返してみてもありません。
「お前が今のまま人を襲い続けるのなら、永遠にさまよう事になる。いつまでも満たされる事がないよ」
龍は、ほう、と息をつきました。
もし、約束を投げ出して、ここから逃げ出したとしたら、どうなるか。
ふと龍はそんな事を考えました。
男は追ってくるでしょうか。今度こそ剣で龍を殺すでしょうか。そうしなければ、また人やポケモンを襲うでしょうから。でも、その想像はまるで霧がかかったようにぼんやりとしたものでした。
あの男は強い。その気になれば、今すぐにでも洞窟に入ってきて龍を殺す事もできるでしょう。ですが、洞窟を訪れるのは風と、太陽や月の光くらいです。
「好きにすれば良い」と口にした手前、何をされても文句は言えませんが、あの男が何か行動を起こす気配はありません。と言っても、龍は洞窟から出ていないのですから、あの男がどこで何をしているかなど知るよしもありませんし、想像する術もありません。
『奴は、今頃どうしているのだろう…?』
闇の中に問いかける声だけが谺します。こんな風に、自分以外の存在に思いを馳せるのは今までにない事でした。
やがて、澄んだ音が静寂を裂いて洞窟の中に流れ込んできました。忘れるはずもありません。あの男の笛です。龍は頭をあげ、よろよろと入口に向かいました。空には二つに断ち割ったような半月がかかり、その周囲には砂粒のような星が無数に散らばっています。
あの男が近くにいる。
心臓が大きく脈打つのが、感じられました。胸に前足を当てると、鎧のように分厚く張った氷が、微かに震えました。体の中で、心臓だけが大きく膨らんだかのようです。一つ、二つ、と脈打つ度に喉元までせり上がったり、あるいは氷の鎧のすぐ下に体当たりしたりと、心臓はまるでそれ自体が独立した命を持ったかのように暴れます。
どこにいる。
首を伸ばして見渡してみましたが、見つかりません。
近くにいるのか。
いるのなら。
いるのなら。
心臓の音がより高まるのを感じました。
あの男が近くにいる。ただそれだけの事なのに、何故こんなにも体中が疼くのでしょうか。
龍は、洞窟の外へ一歩を踏み出そうとしました。途端、一際高い音が鼓膜を打ちました。
「30日間」
その余韻の中に、男の声が蘇ります。
「間違っても、外に出たり、他の生き物を襲ったりしてはいけないよ。さもないと、すべてが」
『すべてが水の泡になる…』
そう呟くと、龍は項垂れ、穏やかさを取り戻した笛の音に背を押されるようにして、洞窟の奥へと戻っていきました。木の実の一つを手に取ろうとしましたが、やめました。今、それに手を出したら、全てを食べきってしまうかもしれませんでした。代わりに、薬草を拾いあげて噛みました。やはり、この味は好きになれそうにありません。それでも、少しずつでも、龍はそれを咀嚼しました。苦味が口の中いっぱいに広がります。でも、今度は吐き出そうとは思いませんでした。
蹲り、目を閉じていると、笛の音が氷の鎧を通り抜け、優しく体に触れてくれるのを感じました。
心臓も、先ほど暴れまわっていたのが嘘のように、穏やかに緩やかに脈を打ちます。
『あと』
あと、何日あるのだろう。太陽が登っては沈むのを見た回数を数えようとしましたが、うまく思い出せません。二つ三つ多く余計に数えているような気もすれば、逆に数え忘れがあるような気もします。
『あいつ…』
あと何日残っているのかはわかりませんが、できる事なら、夜だけでも良いから、あの笛を聞いていたい。龍はそう思いました。そうすれば、あの男との約束を、30日間の籠りを全うできる気がしました。