痣
「駄目だよ。ここからは出られない」
薄暗い部屋の中で、硬質な声が囁く。それに微かだが骨の軋む音が被さる。指が空を掻いた。
「無理をしないで。どくけしが効いているとはいえ、君の体力はまだ回復していない」
部屋の中には人影が二つ。声の主ともう一人。そのもう一人は何か言おうとしたらしいが、声を出すだけの力がないのか、長い息を吐いた。ぐらりと傾いだ体を影は受け止めた。抱きしめ、背中をさすってやる。やがて、静かになると、声の主は壊れ物を扱うような手つきで相手の体を床の上に押し戻した。クッションを頭の下にあてがい、毛布を元通りにかけてやる。
「…そう、今は眠るんだ」
耳元で囁いた声は低く、どこか歌うような調子を帯びていた。
廊下に出て、こちらの姿を認めた相手は目を見開いた。青みを帯びた目に警戒の色が見える。問い質したいと思いつつも、何と声をかけて良いのか判断しかねているといったところか。
「N様」
それに対して、ゲーチスはいつもの通り敬称をつけて呼び、軽く頭を下げる。N様。N、と面と向かって呼び捨てにしたのは一度だけ。彼にとっては息子であり、同時にその実質はどうであれ、主君として戴く存在でもある。これまでも、そしてこれからもそれは変わらない。
それでも、こちらを見る目から強張りは消えない。
「ご安心を」
場を繋げるために、再び彼の側から口を開く。
「…彼女の処遇に関しては、今後ワタクシからは口を挟みません」
え、と少し目を見開く。
「何を驚くことがあるのですか?貴方は王。このゲーチスは臣下の一人に過ぎません。最終的に『決める』のは貴方以外にはありえませんよ」
そう。常にそういう形で「歴史」は動く。
「ですが、ワタクシやダークトリニティはともかくとして、問題は他の者たちです。最終的な結末はさておき、団員や賢人たち、ここに来るまでの過程を引っ掻き回された事を根に持つ者も少なくありません」
「そうだね」
「個人的な感情を捨て去るのは決して容易くはありません。そのような者たちが、彼女がこの城で生きていると知ったら、どのような行動に出るか」
ゲーチスは薄く嗤う。矛となり盾となるポケモンがいなければ、組織に散々盾突いてきた危険分子もただの非力な小娘である。
「ですが、それを防ぐ術がないわけではない」
言葉を切り、街頭で演説をしていた時のように暫し左右を歩く。
「そう、貴方から命じれば良いのです」
難しい事ではない。お前はいつもそうしてきたのだから。
「そうすれば彼らも従いましょう。それが、敬愛する『王』からの物ならば…」
「わかってる」
足を止め、相手の方に向き直る。Nは視線を避けるように俯いた。ゲーチスが言葉裏に仕込んだ物はちゃんと受け取ったらしかった。
「わかっているよ、ゲーチス。言われるまでもない。…だから」
「ええ。ただし、先ほども言ったように、ワタクシは今後口を挟みません。それだけは覚えておいてください」
Nの姿が廊下の向こうに消えたのを待って、ゲーチスは部屋の中へと足を進めた。
灯りが点いていれば、鮮やかな色が視界を満たし、時間の流れすら異なっていると感じられるようにもなるだろう。青、赤、黄色、緑、橙。様々な色のレールがつなげられ、その上を走る玩具の電車の乾いた音が、途中におかれた障害物にぶつかっては途切れ、また続く。それは大して広さのないこの部屋の何処にいても耳につき、感覚を切り刻む。
少女はそこから少し離れた場所に寝かされていた。顎の下まで引き上げられた毛布には皺一つなく、少女の寝息に合わせて規則正しい上下運動を繰り返している。ほどけた鳶色の髪が枕から零れ、青地に白い雲を描いた床の上に波打ちながら広がっている。デスカーンとのバトルで偶々浴びてしまった猛毒もまだ完全に消えたわけではないらしく、顔色はやや青い。飛んできた瓦礫の破片で切った額には包帯が巻かれている。手慣れた物である、とゲーチスは素直に感心した。
Nが、生き物であれ無機物であれ、この部屋に何かを自らの手、自らの意志で持ち込むのは初めてである。しかも、それは「敵」としてプラズマ団の、自身の思想に立ち向かってきた相手、最終的には自分を敗北せしめた張本人だ。彼の手持ちの最後の一匹が倒れた時、ゲーチスは彼女を処分する事を決め、実際にそれは成功しようとしていた。正直に言うと、毒に侵された状態でずっと立っていられたというのは驚くべき事だ。もっとも力尽きたのはポケモンよりもトレーナーの方が先だった。主を庇おうとするダイケンキも肩で息をしている状態で、トドメを刺すのは造作もない事だった。
しかし、邪魔が入った。それをしたのは、それまで螺子の切れた人形のように呆然と立っていたNだった。歯をむき出して唸るポケモンをなだめ、床に転がった少女の体を抱え上げた。
ゲーチスは眉根を上げた。横ではサザンドラが攻撃の合図を待っていたが、Nを巻き添えにする事を彼は望まなかった。確かに、彼が描いていたシナリオからはずれた事、少女を英雄としてこの城に導きいれ、挙句の果てには敗北した事について、仕置きはしておくべきだろうが、やりすぎは禁物だ。
「本当に貴方には随分と引っ掻き回されましたよ」
ゲーチスは、くつくつと嗤う。下っ端たちや賢人たちを含め、あの場に居合わせなかった他の者に、Nの敗北やその後に起こった事は知られていない。ゲーチスが虚実をうまく整合して作ってやった物を「事実」として信じている。彼らにとって最も重要なのは自らの「信念」を体現する存在としてのNであり、彼が英雄である事、勝利する事は彼自身が愛する数式と同様に絶対不変の論理だ。存在する事が当然の事だ。そしてNと対になりえた存在、Nと戦った少女については時間と共に忘れられる。彼女は今まさにゲーチスの目の前で、息をしているのに。
さて、とゲーチスは思案する。彼女をここで殺してしまうのは容易いが、それではあまりにも味気ない。逆に生かした場合の利用方法については先ほどからいくらでも思いつける。言う事を聞かせるための人質。万が一、Nが反旗を翻した時のスペア。まあ何にしろ、ほとぼりが冷めるまでは隠しておかなければなるまい。それについてはNが上手くやるだろう。そんな事を考え、おかしくなる。
「…今日のワタクシは機嫌が良いようです。少しお話でもしましょうか」
一人ごち、枕元に腰を下ろす。
「貴方はワタクシがアレをバケモノと言った時に非難しましたね。それが自分の子供に言う言葉なのか、と」
信じられない。自分の子供に。それが親の言う言葉なのか。
他にも言いたい事はあるのに、感情言葉に置き換える力の方が追いつかない。目を見開き、ただ口をパクパクと動かす事しかできない。
「貴方の親は、さぞかし貴方を愛していたでしょうね。貴方はそれが当たり前と思ってきた。だからワタクシが非道に見えた。ですが、直に理解できるようになりますよ。ワタクシの言った事の意味が」
ゲーチスは、あの時と同様に、口の片端だけを持ち上げた。
「子供とは純粋で無邪気な生き物です。黒と白、どちらにも染まりうる。弱い者に優しくよりそう事もできれば、壊してしまう事もできます」
愛情と破壊衝動。子供は大人に近づくに従ってこの内部に抱える二つの感情を統合したり制御したりする術、他者と折り合いつながっていく事を学んでいくが、ゲーチスはNをその過程に進ませなかった。
成長は汚濁に触れる事でもある。それ故に、人は「純粋さ」を保つ、あるいは持っているように見える何者かに憧れ、畏怖し、それを「英雄」と呼ぶ。そして「英雄」に理想の実現を託す事、あるいは「英雄」の掲げる思想に心酔する事に自らの救済を見出す。しかし、「英雄」を送り込んだ神の意図は必ずしも善意や愛情ではない。そして「英雄」もまた、人間や神の意図を伝達する役目を果たせなくなれば「死ぬ」。
だから、「英雄」は成長のある段階から先へは進ませてはならない。神話を見ていると、至るところにそのための苦心が認められる。「英雄」は人とあらゆる意味で隔絶した存在でなければならない。Nを育てる環境も、それに近づけるようゲーチスは細心の注意を払ってきた。
広大な城内の一室に閉じ込め、ゲーチス自身を含めた周囲の人間との触れ合いを極力減らした。代わりにポケモンたちを与えた。彼は心ない人間に傷つけられたポケモンたちを抱擁し、その痛みに寄り添い、涙を流した。彼らの言葉に耳を傾け、理解した。
しかし、同時にそのような感情と対極にある破壊衝動もまた彼の中には確実に根付いていた。目を上げれば、その片鱗が室内のそこかしこに目につく。
進路を妨げられ、行ったり来たりを繰り返す電車の玩具。家庭用のバスケットゴールには、電池が切れて動かなくなった玩具が投げ込まれ、引っ掛かっている。壁にかかったアートパネルも近くで見れば、ダーツの矢が数本突き刺さっている他にも、細かい傷が縦横無尽に走っているのがわかるだろう。
そして、とゲーチスは毛布をまくる。左手を引っ張り出すと、指の痕が五本分、手首の上を枷のように取り巻いている。それを辿り、軽く動かすと少女は小さく呻き、眉を寄せた。
「安心して良いですよ。折れてはいません」
むしろ、手首で済んだ事を幸運に思うべきだろう。N本人には悪意はなかったに違いない。安静にしているのが必要なのに、色々と騒ぐから大人しくさせただけだ。だが、もし相手がポケモンなら、そうはしなかっただろう。何故なら、Nの元に現れる前に彼らは十分すぎるほど傷ついているのが普通だったからだ。
それにしても、と改めて痣に目を落とす。既に黒く変色しているそれは、暫くは消えないだろうし場所も場所だから目立つだろう。つけた本人も見過ごしはしまい。だが、反省はするだろうか。謝ったとしても、それが二度と繰り返さないという確証に果たしてつながるだろうか。
暫く思いをめぐらせ、ゲーチスは漸く少女の手を解放した。床に落ちた時、彼女は小さく声を上げたようだったが、覚醒には至らなかった。
「大変お名残惜しいですが、今日はこれでお暇します。そろそろあれが戻ってきますので」
あのバケモノが。
「近いうちに、今度は貴方が起きている時にうかがう事にしましょう。何故ワタクシがあれをバケモノと呼ぶのか。何故、貴方をここで殺さないのか。何故、貴方の生殺与奪の権をあれに握らせてやったのか」
課題は多すぎるだろうか。だが、そう難しいものでもあるまい。
「貴方なりの見解をお聞かせ願えれば嬉しいですね」
左手を拾い上げ、甲に軽く口づける。そして腹部の上で軽く指を組ませ、毛布を被せた。痣は視界から消えた。
「良い夢を」