雷焔一閃
09.緊褌一番

 そうして、さらに日は過ぎていった。
 エースバーンは相変わらず落し物を求めてワイルドエリアを奔走していた。当初聞いていたのとは全く関係ないものがどんどんと洞穴を狭めていくが、本人としては手応えを感じているらしい。
 狩りに関しても苦手意識はそのままで、しかし炙り加減や味付けを考えるくらいの余裕はできてきた。本人も自覚はあったようで、「順応しやすい特性だからかな」と苦笑して言った。
 襲撃を受けることもあった。私怨か、飢えて見境をなくしたか、深夜に巣穴へと侵入してきたパルスワンと目が合った。即座に戦闘態勢をとった家主と、その裏で驚いている寝ぼけ目に数的不利を悟ったのだろう、仕掛けにくることはなく、毛を逆立てながら跳ねるよう逃げていった。
 旦那について尋ねられた時には一瞬言い淀んだが、旅に出た、と言葉少なに返すと、こちらを真似るように僅かに悩んで、そっか、と答えた。それからは木の実を取りに行っても旦那の行方について言及することはなくなった。


 暮れ方。
 両手に付いた埃を払い、一歩下がってその全貌を見る。腰に手を当てて、エースバーンは満足げに頷いた。

「うん。……うん、よし! こんなもんだ!」

 「これは……」洞窟の端から身を屈めて出てきたライボルトが振り向いて見上げる。天井付近で横向きに突っかかった木の枝らしきものから、何やら白くてふわふわしたものが垂れ下がっており、我が物顔で巣穴に蓋をしていた。

「ウールーの毛を集めたんだ。本当はカーテンとか、なんか布があればよかったんだけど、まあそんなもん流石に無いからさ」
「そうか、それでこれに」
「うん。掛けといた」

 入口の脇で鈍く光を反射するそれに、意外とわからないものだな、とどこか自嘲気味に言うライボルト。思い立って飛び出した元主人付きが求めていたものは一本のスプレー缶だった。
 ゴールドスプレー   『野生の』ポケモンが嫌がる香料を、巣の入り口に塗布してやれば、余程本能を失ってない限りは近づかれることはないだろう。使い手の先頭ポケモンの強さによって効果量が変わると聞いた覚えがあったが、住処の主の事ならなおのこと問題はない。

「あーよしよし……やっと一仕事できたって感じだわァ」
「ああ」
「うん」
「……」
「……」
「……」

 申し訳程度に広げた縮毛と市販品。終わってみれば呆気ないものだった。数秒で尽きた感想が、沈黙を介して二匹の気まずさに拍車をかける。……きっと有用なはずではあるのだ。ただこう、数日かけた割には絵面が大雑把というか……。効力の方も確実性があるとは断言しづらく、あまり強気に誇れないところもあった。
 けれども、頭の中ではそれ以上にある思惑が膨れ上がっていて。ワイルドエリアの探索中に飽くほど思い描いていた感動が今湧かなかった理由を、素直に喜びきれない自分に気付いて察してしまった。

 それから間も無くして訪れた夜、エースバーンは剪定から外れた短い枝葉で焚き火を作った。昼間に獲ってきたキャタピーの胴(切り離し済み)を、すっと抵抗なく尖った枝に突き刺して焼べる。新しい入り口に映る炎の暖色を見て、燃え移ったら危ないなあ、なんてことを思った。
 隣ではライボルトが地面に腹を付けて座っている。目を瞑ったままで、静かにうたた寝でもしているようだった。眠ってはいないのだろうと思う。アンタもいるか、確認も兼ねて尋ねると、一度気怠そうに細目を向けて、すぐ戻った。油断はなかったが、横顔は普段よりどこか柔らかく見えた。
 じゅう、と水分の跳ねる音を目安に火元から引っ張り、残しておいた朝食分のザロクを絞ってやる。美味とまではいかずとも、甘苦の果汁で青臭さを中和しつつ、不都合な味を辛さで多少うやむやにできた。及第点かな……。軽く頷いて、成果を見て欲しいとばかりにもう一度ライボルトに目をやった。先と変わらずの瞑想面。ふと視線を落とすと、前足の薄青に影ができていた。
 ……妙な陰り方だった。間違って色を塗ってしまったかのような違和感に思わず凝視した。水色の被毛に   否、同じ色味でありながら薄汚れた人口素材のような何かの谷間に、楕円の影がのっぺりと張り付いている。

「……なあ。腕のそれ、なんだ……?」

 聞いてから、心の中で「あっ」と出てしまった。明らかに訳ありだ、今までのパターンなら、きっと不機嫌で快くないお返しが来るだろう。しかしライボルトはおもむろに細目を開くと、少し考えて、「……枷、だ」弾ける火の粉よりも静かに言った。

「枷」
「枷だ。それ以外になんて説明したらいいかわからん」

 緩やかに息を吐き出すと、眠たそうな紅玉に瞼を下ろす。そして隠すように前足を胸の内に折りたたんだ。とりあえず怒ってはいなさそうだった。
 安堵して再び串焼きに手を付けると、

「……訊いたら不味いと思ったか?」
「ぅブッ、」

 明らかに「寝」の体勢から、見透かすような一言が割り入ってくると誰が予測できたか。驚いて噛み締めた虫肉から青草の体液が口一杯に広がる。色々な意味で苦々しく顔を歪めつつ、「いや、まあ……うん」思いのままを正直に答えた。峰のような頭が僅かに傾く、たったそれだけでも、心外だな、と言いたいのはなんとなく伝わる。

「人のことをまるで地雷原みたいに」
「そ、そりゃァなんか、躊躇したくなる、雰囲気、出てるし」
「こんなしょうもないことに躊躇させて悪かったな」

 ンふふ……口をモゴモゴさせながら苦笑するエースバーン。『枷』の存在に気付いてから数秒、そこに逡巡があったかどうかは怪しい。
 慣れてきたんだろうな、と思う。
 狩りも、それの食事も、地べたに寝転がって、朝を迎えることも。何よりあれだけ口下手で無愛想だったライボルトが相槌を打ってくれたり、こちらについて尋ねる機会が増えたことがその証なのだろう。

    だからこそ、日常の隙間から入り込んだ余裕が、かつての仲間たちとの日々を彷彿とさせてしまった。緊張の糸が緩むにつれ、その(たわ)みが縁取る過去への憧憬は止まることなく大きくなっていった。いるべき場所はここではないと、帰巣本能のように手を伸ばした心は、あの日々に戻りたいと叫んでいたのだ。
 そして、理想はいつしか覚悟に変わっていた。

 真っ黒な枝木の上で炎は使命感に駆られたように踊り続ける。温かみのある静寂が響く洞穴に、エースバーンは一つ、喉を鳴らした。

「……やっぱり、オレ」

 二つの影が揺らぐ。

「ご主人の元に、帰りたい」

 黙していた瞳がゆっくりと開いて、呟く弟子分を向いた。

「無駄かもしんないってのはわかってるよ。みんなの元に帰れるのが一番だけど、でも、それが出来なくても、せめて何がダメだったのかくらいは聞きたい。ここにいたら多分、それを知る機会すらなくなる。   これから先、ずっと後悔することになる」

 それは望郷と同時に決別の覚悟でもあった。ライボルトの元を、ワイルドエリアを離れ、その先で残酷な真実のみを押し付けられて孤立するかもしれない、それら全てを呑んで、自身の内にある、たった小さなほつれを消すためだけに行こうとしているのだ。
 ライボルトは顔を背ける。
 馬鹿げた話だ、と咄嗟に浮かんで、しかしすぐには返せなかった。
 それは客観的に見れば代償ばかりの無価値で、あまりに理にかなっていない選択だった。当ても勝算もないだろうに、自殺行為の言い換えだと思った。
 そう、だから。
 その選択を取れた彼は、まだ、トレーナーのポケモンで在り続けられるのだろう。

「……やめておけ」
「理解してもらうつもりはねえよ。アンタとの生活は、ちょっと、惜しいけど」
「お前じゃ、守れない」

 「……まもれない?」聞き慣れない引き止め文句を反復する。

「何をするにしてもお前は抜け過ぎてる。躾もボールもない、無法者の野生ポケモンに主人が襲われたとして、お前は守りきれるのか? 例えばそう   俺のような奴を相手に」
「そっ……!?」

 それは予想だにしない唐突で、かつ鋭利さを伴った一挙だった。脈絡の曖昧に混乱を覚えつつ、だが、いきなりに重くのし掛かった人間の従えるポケモンの本分に一瞬息が止まった。そんなこと急に、なんて簡潔な言葉すら途切れてしまう。

「覚悟すら危ういというなら戻ったところで足手纏いになるだけだ。それこそ後悔では収まらなくなる」
「わ、わかってるよ。そんな大げさな」

 考えてもいなかった、二の次程度に思っていたことを鬼気迫る語調で説く口下手に、誤魔化すように表情を緩めると、敵襲の如し勢いで突き刺すような眼光を向けられた。「大げさだと」。凄む威圧には怒りすら滲んでいるようだった。
 叱られた子供のように口を噤んで、エースバーンは横顔を影に沈める。愁然の中に向き合うは己か理想か、やがて僅かに顎を上げて、静かに息を吸い込んだ。

「……たしかに、おれ、オレは、ダメな奴だよ。正直覚悟なんてできてなかったし、行ったって迷惑なだけだろうし。そう、きっと迷惑だから捨てられたんだ。わかってるよ」

 「だから、」振り向いた瞳に、煌々と炎が灯った。

「ご主人のためじゃない、オレ自身が行きたいんだ。間違ってるかもしれないけどさ、バカだから。でも、これがオレの一番納得できるやり方なんだ」
「……、……」
「アンタは怒るだろうけど、それなら上手くやれるように頑張るって約束するよ。力不足なら仲間を頼るし、それができないなら勝てなくてもせめて負けはしないようにするからさ。今までだってそうしてきたつもりだけど」
「……」
「……やっぱり怒る?」

 ライボルトは何も返さず、しばらく呆気にとられたみたいに固まっていた。見たことのない顔だった。そこからどんな反応に行き着くかを白兎は恐る恐る伺っていたが、彼は何を言うでもなく、やがて諦観するように目を伏せて、マズルを焚き火の方へ向けた。
 住処の入り口を薄白く染めていた月明かりが、今では青みを増してくっきりと境界を作っている。思い出したように手元の串焼きを齧ると、すっかり冷めてしまっていた。熱の刺激で誤魔化していた味付けに不味さばかりが残る。渋い顔をして、もう一度それを火に焚べようとすると、「明日   」低い声が遮った。

   明日に備えて、しっかり食っておけ」

 その、普段通りの、なんてことのないぶっきらぼうで取り交わした『約束』は。反対意見の裏側にあるもので、きっと門出を笑顔で見送れることはないのだろう。   居候の独り立ちを、最も望んでいた彼が。
 眠るような静穏で言ったライボルトから少しの間目を離さず、そして、向き直ると俯き加減で、うん、と漏れ出すような声で返した。再加熱も忘れて、食べかけの球形を一気に頬張る。
 岩穴から覗く紺色の空は、拠り所を失ったあの日によく似た、雲ひとつない美景だった。風の吹かない夜だった。だから、明日はきっとよく晴れた青空の下を歩くことになる。
 エースバーンは、引き返せたかもしれない、あの日の晴天下に戻れる気がした。




アマヨシ ( 2022/07/30(土) 22:18 )