雷焔一閃
06.弱肉強食(1)

 物音に気が付いたのは、日光に起こされた後のことだった。
 正直信じられなかった。いくら眠気に負けたからとはいえ、自棄同然の油断をしてしまうほどに気が緩んでいたのか。この間、常に寝首を晒し続けていたのだと思うとぞっとする。
 隣の寝床にポケモンの姿がないことを確認し、凝った身体をゆっくり持ち上げた。伸びもせずにずるずると音の主へと近づいていく。
 日当たりの良い崖で、湿った兎がガクガクと震えていた。

「…………」
「……。……お。おおお起きたか」
「……お前」
「いいいやそのななんてことのねェミスでさ、アアす、すささっき戻るときにァア足滑らせちゃってえ」

 そして、弱点の湖に墜落したと。
 泥沼の中みたいに重く淀んでいた頭が急に冴え渡った。この阿呆の前で、腑抜けた姿なぞ見せられるものか。妙にアンニュイになってたのが馬鹿らしくなった。虚ろな瞳に切れ味が戻る。
 「背を向け」奥歯をガチガチと鳴らしながら湖の方へ体育座りをするエースバーンに、ライボルトはフッと息を一つ吐いて、濡れそぼった体毛にマズルを近づけた。

「…………あ、なんだこれ。あったかい」
「動くな。牙が刺さる」

 丁寧な筆使いのようにゆっくりと鼻先を撫で下ろしてやると、なぞった跡にふんわりとした白毛が現れる。「“炎の牙”?」一度口を離し、「いや、炙っているだけだ」再び熱を加え出した。
 しばらく続けると、流石に効率が悪いと感じたのか、今度は直接“火炎放射”で煽ることにした。耳からつま先まで満遍なく熱気に当てられ、やらかした側にも関わらず広げた両腕はいやに開放的だった。
 もう大丈夫そうだ、エースバーンは申し訳なさそうに礼を言う。言われた当人は相変わらずツンとしていたが、小さく鼻を鳴らすと、どことなく遠くを見つめるような横顔で零した。

「本当は、ドライヤーとクシでもあれば良かったんだがな」




 少し遅めの朝食のため、昨日と同じく二匹はストーンズ原野を訪れていた。この日は実のなる木に『旦那』がいなかった。「珍しい」訊けば、彼は何年も前からここを住処としており、また見ての通り食料をわざわざ取りに行く必要もないため、滅多に離れることはないのだという。死んだわけではあるまい、僅かに芽生えた嫌な予感を見透かすように言った。
 小脇に挟んだ少量の木の実は一日を過ごしきるには頼りない。こんな生活が続いた先に、痩せ細り衰える未来が待っているのは素人にでも想像がつく。が、先達のライボルトの肉付きがみすぼらしいかと聞かれるとまるでそんなことはないのである。不満と不安の混じった顔を上げて、エースバーンは話題を切り出した。

「……なあ、アンタ。ホントにそれだけで足りてきたのか、今まで。実はどっかでツマんでたりするんじゃないのか」
「これで十分だ。木の実に関しては」
「木の実、『は』?」

 重箱の隅をつつくような、少し意地の悪い尋ね方をすると、フッと僅かに口元を緩ませた後、「ああ」普段のつまらない表情に戻って答えた。「だから、木の実以外の食い物を確保する方法を知る必要がある」。取り繕ったというよりかは、真剣に向き合うべき故に気を引き締めたようにも見えた。
 「と、いうと」エースバーンも小さく身構える。

「今日はお前に、『狩り』を教える」



 昨日まであれだけにこやかに晴れ渡っていたワイルドエリアの南側は、いつしか主人に叱られた時のような曇り空だった。
 きっと自分は、野生の身になったことをどこか認められていなかったのだ。チーゴ狩りのことか、なんてとぼけても、ライボルトは少しも面白くなさそうだった。生きるか死ぬかの世界と分かりきっていて、けれども、命のやり取りだけは都合の悪い現実として見ないふりをしていたのだ。
 灰色がかったキバ湖の畔を歩いて、一本木の木陰で足を止めた。ジメレオンとそのトレーナーが写真を撮っていた辺りだった。視線のずっと先、うららか草原の茂みが、不気味なくらい鬱蒼として見える。

「あそこの花の上、旋回しているバタフリーが見えるか」

 湖に沿って一、二本目の木。その隣で水景を眺めるように紫色の花が咲いていた。上空をふよふよと規則的に回るバタフリーだが、花の蜜でも目当てにしているのかと思えば、どうもそちらには無関心なのか一向に近づく様子がない。

「恐らく奴の下か、あるいはすぐそこの木にキャタピーどもが留まっている。今からソイツらを、狩る」

 半開きの口から言葉は出ない。声より先に、酸っぱいものが込み上がってきたのだ。それすらもぶち撒けるだけの勢いには届かず、ただただげんなりとした顔色のまま俯いた。
    正直なところ、最初に感じたのは命を奪うことへの抵抗ではなく、虫ポケモンを食すことに対する気持ち悪さだった。柔らかな胴体、悪臭がするらしい触覚、瞬き一つしない、まん丸の瞳。それらを噛み潰す感触を想像してしまうと、理性が一気に食欲を拒絶してしまった。

「あの……」

 か細い震え声が出る。自分が発したとは思えない、半ば無意識のような抵言だった。
 返事はない。多分、こうして悲愴な表情を浮かべて言い淀むことも予測していたのだ。断固として泣き言は聞かんと、澄ました横顔はいつもより冷たく見えた。

「……な、なあ。やっぱりいいよ、オレ。きのみとか、だけで、なんとかやってみるから……」
「昔、」遮るように水色の口が開いた。「一匹のヒドイデに暗黙の了解を教えてやったことがある。お前と同じ、捨てられた奴だ」

 ライボルトは顔を向けずに続けた。

「物覚えは悪くない、争い事からも徹底的に離れ、ルールはきちんと守っていた。だが、奴はそう長く持たずに死んだ」

 「何故だかわかるか」赤目が鋭く絞られる。わからない。わかっていたとしても、きっと答えることはなかったのだろう。だってそれは、目を背けていた現実を認めてしまうということであって。

「アイツにとっての食事は、トレーナーから貰う木の実か栄養食が全てだった。肉食のポケモンでありながら、『捕食』という概念を持っていなかった」

 だから。殺すことはおろか、他者を食らうなんて発想、思いつきもしなかったのだろう。そんな常識の世界で生まれ育った彼にはそれが当たり前の事だった。
 そして、生き抜くことは叶わなかった。

「…………やる、よ。やるしか、ねえんだろ」

 人間仕込みの道徳を捨てた苦渋の決断に対して、ライボルトはただ軽く鼻を鳴らすだけだった。「段取りを決める」、葛藤を恥じてしまいそうなほどに話はあっさりと流れてしまう。後悔と、逃れえぬ宿命に挟まれ、エースバーンは泣く寸前の子供のように目元を歪めながら相槌を打っていた。
 やがてライボルトがその場を去ると、ひとり残された白兎は草原へとトボトボ歩き出した。曇天の下、憂鬱に首を垂らして歩く人型は絵面的にも中々様になっている。
 似たような絵を、つい最近見た。モニターの奥、手錠を掛けられ連行される人間が、まさにこんなだった気がする。して、ああ、罪状は確か   
 殺人。
 人間が、人間の命を奪う。それは許されないことだった。けれどどうだろう、それと今自分がしようとしていることと一体何が違うというのか。画面の中の彼もこんな気持ちで俯きながら歩いていたのだろうか。
 草むらの中をずるずると進む。よほど怖い顔をしていたのか、昨日は尻尾を振って寄ってきたガーディたちが、今度は狩猟者と出くわしてしまったかのように慌てて逃げてゆく。
 ふと、来た道を振り返った。まだ戻れると希望を持っていた時の、あの木が、随分と小さく見えた。
 突如、黒雲が上空に集まって怪しく唸り出す。空気を伝わる振動にエースバーンは向き直って構えた。もう、ここまで来たらうかうかしていられない。
 一際大きく雷轟が咆えた。直後、瞬閃   湖の傍に容赦無い“かみなり”が叩きつけられる。破裂音にも似たボリュームに軽く耳鳴りを起こしたが、バタフリーがいた近くの木から落ちるように逃げ出すキャタピーたちを目視し、痺れを訴える本能に反して草むらを飛び出す。打ち合わせ通り、あの轟音がスタートの合図だった。
 芋虫が群れを成して急速で移動する様に一瞬気味悪さを覚えたものの、群体からはぐれた一匹をエースバーンは見逃さなかった。焦点を絞った獲物を中心に視界が狭まっていく。自慢の脚力で低空を飛び跳ね、カイロスが食らいつくように広げた両腕でキャタピーを背中から押さえ込んだ。

「よしッ、捕まえた!」
「ぴぎゃーっ!! は、離してぇーーー!!」

 チョココロネのような形状をしておいて、しかし案の定というか、胴体にはしっかりと『中身がある』感触だった。そんな手触りの生物がうねうねと暴れて悲鳴を上げるものだから反射的に力を緩めてしまった。逃げ出す尻を咄嗟に掴み直したが、相手も無抵抗ではない。ぐにんと腹を曲げ、不気味なくらい大きな両目がこちらを向いた。

「……っ、あっぶ、」
「離せはなせはなせえええっ!!」

 鼻先に隠れた口から大量の“いとをはく”連射。初撃は躱せず顔半分を粘性に包まれたが、素早く半身を仰け反らせて頭部を蹴りつけると、二発目以降は虚空に撒き散らされる。体勢を立て直してもう一度力強く押さえつけた。その間も幼虫は泣き叫ぶことをやめなかった。
 「こ、このっ! やめろって!」自然と振り上げられた拳は痛みつけられる良心の悲鳴か。何の技でもない、ただ単なる暴力を恐ろしいくらい躊躇なく叩きつけた。   どこかの繊維が潰れるような感覚がした。ふと戻った冷静が頭部に沈んだ手を引き離す。キャタピーは思い通り大人しくなったが、口元からは絶えず細長い音が壊れたラジオのように続いていた。すり潰した葉のような濃緑が地面に染み出していた。
 胸の奥から急速に血の気が引いていく。とんでもないことをしてしまった、そう思って顔を上げた瞬間、宙にふわふわと羽ばたく親個体と目が合ってしまった。倒れた子を膝元に、エースバーンは目蓋を覆う糸を呆然としつつ剥がした。逃げる気にならなかったのは、道徳の壊れた対面が危機管理の本能すらも崩してしまったからなのかもしれない。
 凍りついたかのように止まった時間は、二者に颯爽と割って入ったツートンカラーの獣によって再び動き出す。ライボルトはバタフリーを見上げて言った。「お前じゃ敵わない。諦めろ」親蝶は何も返さなかったが、それが遺伝子に刻まれた習性なのだろうか、残酷なほどにあっさりと背を向け、何事もなかったかのように草原を漂っていった。
 黄色の鬣が振り向いて下方を見遣る。視線の先でキャタピーが音を出していた。泡でも吸うような濁声に、言葉らしきものが混じっている。エースバーンはそれを聞かなかった。きっと命乞いか怨嗟の羅列なのだ、耳を傾けるなんて、そんなこと、あまりに恐ろしくてできるわけないじゃないか。

「楽にしてやれ。どのみち長くは持たん」

 当初自分が想像していたのは、躊躇うだけ躊躇って、住処探しのときのように適当な理由で誤魔化して事なきを得る結末だった。それが一番傷つかずに済む方法だった。
    だから今、真っ先に手が動いたのは。
 殺めることこそがこの場で最良の判断であり、そして、悲しくなるくらい精神的に楽だと理解していたからなのだろう。
 逃げ延びたキャタピーたちの通った場所に木の枝が散乱していた。そのうちの一番太いものを手に握った。
 両腕を、振り上げる。
 その一瞬、虚ろな暗黒を映した目が、こちらを覗いた気がした。


 垂直に突き刺さった棒から緑に濡れた手を離し、エースバーンは天を仰いだ。
 思い出す。いつしか主人と食べたバウタウンの料理は絶品だった。丁寧に焼かれた肉も、脂のよく乗った刺身も、ただ口に運ぶことだけしか考えられなくなるほど夢中になって食べた。けれどもそれは、誰かが捕らえて、誰かが息の根を止めて、首を切り落とし、血を抜き、切りさばいたもので。当たり前のことが、その工程の第一段階に立つことでようやく身に沁みてわかる。今まで自分は、自分たちは、美味しい部分だけを都合よく頂いていたのだ。
 ああ。
 灰色の空が見える。ガラルを覆い尽くさんと陰った天井のその向こう側には、地上の気象なぞ露知らずな蒼天が広がっている。エースバーンは今、そんな誰も知らない雲海の景色を見ているような気分だった。……そんな綺麗なもんじゃないけど。

「浸ったところで無意味だ。これから先、何度も同じ光景を見ることになる。……だがもし、トレーナーの元で育ったポケモンとして、まだ、割り切れない部分があるのなら   ああ、そうだ。それでいい」

 事切れた獲物を前に、白兎は静かに手を合わせて目を瞑った。野生の世界では何の益もない行動だった。ライボルトはそれを咎めようとはしなかった。
 哀悼とは、きっと、禊ぐよりも進むためにあるのだろう。




アマヨシ ( 2022/07/30(土) 21:48 )