雷焔一閃
05.夢幻泡影

 奴は暴れすぎた、後になってライボルトはそう言った。
 野生の楽園ながらもワイルドエリアには秩序があり、皆それに則りながら生きている。湖のギャラドス、砂地のドサイドン、空のアーマーガアであろうが節制に例外はない。助け合わずとも、誰もがそう互いに共通認識を持っていた。
 ビークインはそのコミュニティに染まらなかった。また、自らが女王であるという絶対的な自負の元、己の尺度で身勝手を繰り返し、掟を蔑ろにしてきたらしい。
 本人に悪意がないこと、あくまで侵略的な行為はしない点、なにより従える戦力(ミツハニー)が多く、制裁に中々踏み出せない状況が続いていたのだ。
 故に、思いがけない好機だったと。疲れ切った様子のエースバーンに涼しい顔で答えた。

「どの道あの辺りには暫く近づけんがな」
「オレ……この先生きてける気がしない……」

 女王の巣を抜け出した二匹はミロカロ湖の北を歩いていた。太陽も真上に立とう時間帯、嫌な寒気は払拭されたが、未だに耳の中を蠢く音が響いている気がする。そんな血色の悪い弟子を見て流石に思うところがあったのか「少し休憩するか」とさりげなく提案した。珍しく優しげ、なんて考えるより先に首肯で返す。
 ライボルトに付いて緩やかな丘陵を登ると、そこには先の小橋から見たよりも雄大な景色が満遍なく広がっていた。視界の半分を占める青空、こまごまと動くドット絵みたいな営み。見下ろす世界はまるで別物だった。薄っすらと生えた緑に赤い腰を下ろす。
 風に吹かれながら、二匹は暫くの間流れる雲たちを見ていた。無言の空間にサラサラと草の音色が届く。やがてエースバーンが深く息をつくと、「あっ」小さく声を漏らした。

「トレーナー……」
「お前のか」
「いや、全然知らない人」

 遠い目線の先、キバ湖とミロカロ湖に挟まれた一本道を、忙しく緑光の電子を迸らせた一台の自転車が走っている。

「……一応言っておくが、どんな理由があろうと人間に手を上げたりするのは、断固として駄目だ」
「てをあげるって……なに、ジェスチャー系はダメなのか?」
「馬鹿者」

 ずしっ。ライボルトの前足が素早くエースバーンの脇腹にめり込んだ。「おっフッッ!?」勢いのままに横倒しにされる。「こういうことだ」小突かれたところを「い」の口にして両手で抑える残念弟子にため息をつく。

「人間に害したポケモンは、恐らくあれは専門家かなんかだろうな、防護服らしいものを着た数人によって一帯から種が現れなくなるまで捕獲される。正確には駆除だが。随分前に馬鹿なズルズキンが人間の子供から食い物を奪って、ワイルドエリアから種族ごと姿を消した」
「いーっ……あえ、なんだっけな、それ」片手を着いて起き上がる。ひとつ深呼吸をして、「アレだ。なんちゃら保護法?」
「知ってるのか。意外だな」
「ああ。でも、あれ   

 古い記憶を掘り返す。確か、ワイルドエリアを初めて渡った日のことだったか。エンジンシティのポケモンセンターでホテルのチェックインまでの時間を潰していて、その時垂れ流しにされていたニュース番組の一報で野生ポケモンに関する法律を知った。聞いたことのない言葉や難しい単語の羅列ばかりでわからなかったが、主人が言うには「生態系を守るための大事なルール」の話だったらしい。

   今はもう駆除ってやらなくなったんじゃなかったか? それももう、何年も前の話だって聞いた気がする」
「……、改正、されたのか」

 ぽつり、と。誰に聞かせるわけでもないような声だった。語感に漂う寂しさを暖色の風景が打ち消して、虚しさを覚えるまでもなく、何事もなかったかのように波立たぬ空気は続く。
 ライボルトは自嘲気味に口元を緩ませた。

「ばかに広いとはいえ、所詮ワイルドエリアも井の中だ。ここ数年の世間の変化なんてまるで入ってこない」
「……アンタも元は飼われてたのか?」

 目を細めて、今度は鼻で笑った。「さあ、どうだか」。
 なんだよ、と目元に不満を浮かべて前へ向き直るエースバーン。駅と街のちょうど間くらいの位置で、青いスーツとヘルメットに身を包んだ少年がジメレオンと一緒に記念撮影か何かをしている様子が見える。スマホロトムの画面をふたりで覗き込み、お互い納得するように数度頷くと、少年はジメレオンをボールへ戻して再び自転車に跨った。

「恨んでるか、人間のこと」
「う……正直言うと、まだよくわからない」

 主人の顔を思い返すとき、昔と変わらずこちらに微笑みかけてくれたときの表情が浮かび上がる。それを見て、広大な野生に置いてけぼりを食らった自分は、今、何を思うのだろう。前向きというにはあまりに晴れない気持ちだが、かといって牙を突き立ててやるような気力も湧かない。
 渦巻いているものは、きっと灰色なのだ。

「でも、恨んでるってわけじゃないと思う。知りたいんだ。直接会って、どうしてこうなったのかってのを、ちゃんと聞きたい」

 靄に塗れた困惑の中、心が叫んだのはただの疑問で、しかし自身のほとんどを占めるほどに膨れ上がっていた。拳を振るうが能と自覚していても、まずは真意をこの身で確かめたい。ライボルトは、そうか、とどこか安心するような口ぶりで言った。

 車輪の軌跡に、幾何学模様が泡沫のように浮いては消えゆくのを、二匹は静かに見ていた。

 そろそろ行くか、おもむろに立ち上がって青足が歩き始める。ああ、と白毛もぴょんと飛び起きた。自転車の姿はもうどこにもなかった。代わりに上空をマメパトの群れが通り過ぎていった。後追いの風が、ふわりと。誘うようにエースバーンの背中を押した。




 しかし、それからのライボルトは不機嫌だった。
 ターフタウンとバウタウンを跨ぐ桁橋の先で住処探しを続行したものの、ちょうど運悪く家主と巣穴の入り口で鉢合わせたり、以前はあったらしいポイントが何故か潰れていたりと、思うように捜索は進まず、結局そのままタイムリミットであるという夕方を迎えてしまったのだ。
 「帰るぞ」撤退宣言はたったそれだけであれど、その一言には十分に苛立ちが内包されているのが伝わった。こんなつもりじゃなかったんだけどなあ……。同じ屋根の下に泊り込めそうなのは思惑通りだったものの、思惑通りにいったからこその申し訳なさというか、ずんずんと地を踏みつける早足の原因が自分なのだから罪悪感を覚えずにはいられない。
 しかも、帰ってからは追い討ちをかけるかのようにさらに不味かった。

「……クソ、またか!」

 暗がりに沈んだ濃緑色   丁寧に切り取られたそれは、侵入者が余裕たっぷりに時間をかけてきのみを食い荒らした証拠だった。忌々しげに鳴らす舌打ちが静寂に虚しく響く。あれだけ優しかった環境音が今では気まずさの象徴と化していた。
 何か言葉をかけるべきだろうか、けれども怒りの矛先に関しては他人事とは言い切れない節があって。そうもたついているうちに、ライボルトはとっくに動き出していた。

「代わりの食い物を取ってくる。お前はここにいろ」

 ふと思い出したかのような冷静は咄嗟に取り繕った仮面か、あるいは不機嫌の余韻だったかもしれない。暮の影からちらと紅緋を覗かせると、後ろ姿は夕闇へと飛び込んで消えた。
 ふうう、と沈黙を破って前歯を出す。堪らず尻餅をついた。息が詰まりそうだった。内に溜まったものを吐き出し、だが落ち着きを取り戻すより先に押し寄せてきたのは不安と後悔。無理を強い、迷惑をかけることは最初からわかっていたし、そうしてでも生き延びると覚悟を決めたのも事実だった。だけれど、同時にこのやり方が長く続かないであろうことも理解している。
 『足を引っ張っている』。
 現状を言葉一つ置き換えただけで、どうしてこんなにも重くのしかかってくるのだろう。住処を降り立ったライボルトの背姿は主人や仲間と重なって見えた。役に立てぬまま、またひとり置いてかれてしまう。
 エースバーンは立ち上がる。「オレに、できることは」


 黄昏時は絶好の狩猟環境だ。程よい暗さに身を隠し、視界に薄い輪郭を捉えられる。岩陰からヤトウモリたちがマラカッチを狙う傍ら、空のオンバーンは蜥蜴に対して目を光らせていた。人知れぬ野生の世界で、命の奪い合いは無慈悲かつ日常的に行われている。
 血肉香る箱庭を、稲光が駆ける。
 水色の顎が咥えるは、その澄まし顔には不釣り合いな、おもちゃみたいに大袈裟な太さのネギだった。咬合の隙間から熱い息が規則的に漏れる。
    失敗した、と思った。
 夜の帳に覆われ、色を失った大地から食料を見つけ出すことが容易でないことくらい分かりきっていたはず。ましてや戦場と化した時間帯にノコノコと出歩くなど、頭を冷やし足りなかったとしか言いようがない。全速力にらしくもない焦燥が浮き出ていた。
 呼吸を整えながらスピードを落とす。げきりんの湖を挟んだ斜面を見遣って、反射的に身構えた。洞窟の前には震え字のような線がいくつか立っていた。
 ……無防備な白い背中が、入り口に木の枝らしきものを立てかけている。

「ほい」
「うおおビックリした……え、なんだそれ。ネギ?」

 岩肌を蹴り上げ、一瞬のうちに同じ地面へと着いてやる。予想通りの間抜け面で迎えてきたが、ライボルトの声も中々にいい勝負をしていた。ばつの悪そうな顔をしてネギをそこらに放る。

「おい。これはなんだ」
「あ? ああうん、ちょっと柵みたいなもん作ろうかなって。なんかしょっちゅう盗られてそうだったし」
「……こんなので防げるものか。邪魔臭い」

 いくら木偶の坊でも(なり)は最終進化なのだ、それだけの戦闘を積んできたのならポケモンの力量なぞ今更測らずとも身についているだろうに。強く罵ってやりたかったが、健気な良心が痛ましくて、諸々と気力が失せてしまった。ああ、なんだか頭がごちゃごちゃする。何も言わずに巣穴に戻ろうとすると、斜めに伸びた枝木がタテガミに突っかかり、後ろ足を掠めてカタンと崩れた。
 「このネギはー!?」無遠慮な呼び声へ雑に返す。「食っとけ」。疲れに身を任せて横たわると、不思議なくらい心地よい眠気が襲ってきた。警戒心とか、腹の減りだとか、   不出来な同居人のことだとか。全てがどうでもよくなった気がした。
 外に並んだ人型にいくつかの細い影と、その向こうの、傾いた空の瞑色が、瞼の暗闇と一つに重なってゆく。

 どこか幸福じみた微睡みの中で。
 遠い人影が、ふと、懐かしく思えた。




アマヨシ ( 2022/07/30(土) 21:25 )