雷焔一閃
12.生々流転

 どうして俺も連れていってくれなかったんだ。
 白い部屋で目覚め、全身を伝わる脈動をまず恨んだ。エリアスタッフに発見されたのが運の尽きで、あるいは、と持った淡い希望も、駆けつけてきた主人の父母様が見せた、抜け殻のような横顔に砕かれた。そんなもの、一番近くにいた俺が最も理解していたはずなのに。
 喪失の日々は短かった。ある日、遺された家族の話し声を聞いた。「ポケモンが守ってくれるはずだったのに」。一瞬、自分の言葉と空耳した。主人の従者としての責務を破棄して、その身に何の存在価値が残ろうか。震えるような悔恨を他者の口から耳にして、しかし胸中はどこか安心を覚えていた。同じ痛みを、怒りに似たやり場のない不条理を共有していたという事実に、ようやく罪を背負えた気がしたのだ。


 窓から喧騒の差し込む昼下がり。
 写真立ての隣に座る白球(プレミアボール)を落とし、まるで玩具に戯れるように齧りついた。
 顎と、牙と、軋む表面、ナニカが悲鳴を上げる。
 凹みの止まった最も頑丈なところを犬歯が貫いて、炭酸水の蓋を開けたような小気味良い音と、溶けた金属の嫌な香りがした。
 煙を立て始めたそれを放る。眩む日光を、見ていた。生の苦しみから連れ出して、もう一度あの日々へと帰してくれる気がした。
 駆られるように走り出す。光の中に溶けて消えて、そして、それが戻ってくることはなかった。




 景色が目まぐるしく過ぎてゆく。橋を渡り、農地を蹴り、鉱山を抜け、工場を越え   
 やがて戻り着いた、最期の場所。大岩がいくつも鎮座したこの原野こそが、覚えうる限り主人に最も近い。
 ふらり、と横になる。ああ、上下に動く腹が生を主張してきているようで気持ちが悪い。曇り空はモノクロのグラデーションを描いていた。
 目を瞑る。せめて優しい夢を見たまま迎えにいけるように。節々の痛みから逃れるよう、身体から力が抜けてゆく。

「迷い子か。ラクライがこんなところで何を寝そべっている、おい」

 意識を手放しかけた瞬間、誰かの呼ぶ声がした。重い瞼を開くと、目線と同じくらいの高さで、茶色の何かが立っている。

「おお、おお、死んでるかと思ったぞ。声を掛けてみるもんだな。で、何をしてる」

 見かけによらず、低音で語るポケモンだったのは今でも覚えている。
 俺はここで死ぬんだ、死ぬためにここへ来た、と、そう言った。

「ハッ、小童が。ロクに生きてるわけでもねえのに死のうだぁ、千年早い。……よし決めた。このクソッタレな世界で、本気で死にたいと思うまで生かしてやる。俺のことは、そうだな、『旦那』とでも呼べばいい。ほらさっさと起きろ。死ねない身体にしてやる」

 ゆるりと起き上がってその手を取れたのは、まだ夢を見ているつもりだったのか。それは多分違う。あの時、俺は確かに死んで、そして、今生まれたのだ。
 捨て切れない記憶を、そっと足枷に残して。
 薄汚れた毛並みは、とっくに首輪付きを捨てていた。




「……最初は復讐のつもりだった。あの場所で待っていれば、いずれ仇討ちの機会は訪れると。他にも色々考えてた気はするが、一日を必死に生きることばかりで、気が付けば理由など失っていた」

 ライボルトは自嘲した。ボロボロの毛皮で横たわる、奇しくも話の中の似姿だった(今や隣人も同じようなものだが)。傍で座るエースバーンが、手足から外した錘を手にとって見る。色褪せ、黒ずみ、しかしふと傾けると、側面の夏空みたいな青が残っている部分に字らしきものがあった。誰かが手で書いた、名前のようなものだった。
 だからこそ、推測だがこうも思う。本当に生きる理由を失っていたのだろうか。庇うように残した文字列を、その意味を、誰よりも持ち続けていたのは、この世界で一匹しかいない。

「俺は別に、お前に同じような思いをしてほしくなかったから、だなんてことは思ってない。二度と帰らないお前の末路を想像して、勝手に罪悪感を抱くのが嫌だっただけだ」
「……うん」
「これだけコテンパンにされればもはや引き止める気など起きん。お前の勝ちだ、わかったらさっさと出て行け」
「ん。…………」

 気だるさが包む全身に鞭打って腰を持ち上げる。立つのがやっとだった。両腕を上げて伸びをすると、その『やっと』を残った痺れが崩した。「あっ」どさり。蒼空を仰いで倒れる。「……もうちょい休んでからでいい?」無愛想は心底嫌そうな顔をした。「勝手にしろ」対照的にすっくと起き上がって、その場を去ろうと背中を向けた。
 ふと、ライボルトが振り返った。
 一時疑問符を浮かべ、つられて振り向くと、青白の風景に映える、何か籠らしきものを吊り下げた黒鳥が見えた。

「アーマーガアタクシー……」

 空飛ぶ交通機関、それがワイルドエリア上空を過ぎることは特段珍しい光景でもなかった。   こちらへ向かってきている、という点を除けば。
 自身の三倍を超える体躯の大鴉が迫って来ても、ライボルトは身構えることはなかった。元はトレーナー付きだったのだから乗車経験すらあったのかもしれない。どころか、状況の理解に手間食ってるエースバーンの方が、巨鳥と冷静を交互に見遣って落ち着かずにいた。
 籠から人影が乗り出す。二の腕まで捲ったオレンジ色の袖、靡き荒ぶる少し伸びた髪、そして、

「ビバリーーーー! おーーーい! ビバリーーーーーー!!」

 一番見慣れた顔で、最も切望していた声が、確かに、こちらに向けて届こうとしていた。

「エバァ!(ご主人!?)」思わず鼻先を前に突き出す。

 操縦士が羽ばたきを止めるより早く、エースバーンの名を叫んだ少年は乗車席から零れ落ちていた。ぺちゃん、と全身で地面を受け止め、ジーンズの膝に付いた土汚れも払わずに、ふらつく足で駆け寄ってきた。
 「ビバリー!」従者より少し背高で、それでも年相応な細腕を、いっぱいに広げて、ぎゅうう、と強く抱き留めた。

「うわああん! ごめぇん……ごめんよぉ……! てっきりボールに入ってると思って、そのままボックスに預けちゃってぇ……。りょっ、ぐずっ、旅行から帰ってきたらいなぐっでええ……! ぅぅ見つかってよかっだあ……無事でよがっだああ……! あああ」
「バ、バァス……?」
「うえっぐ……え? ばっ……バカッ! 見捨てるような真似するわけないだろ! なんで俺がそんなことしなくちゃなんねえんだよ!」

 よりいっそう、抱き寄せる力が強まる。
 捨てられた、わけではなかった。あの日、ワイルドエリアに置いていかれた暮れの刻、それでも生きることを苦悩して選んだあの日。この手で命を奪う覚悟をしたあの空。それでも主人の元へ帰りたいと願ったあの夜。それら全てが、たった一つの勘違いで無意義になるとしたら、一体どれだけの感情が溢れ出よう。不条理への怒りに安堵の快笑、めちゃくちゃに入り混ぜてぶち撒けようと、しかし溢れたのはか細い涙だった。咽び震える肩に、ただそっと手を返すことしかできなかった。

 こんなこともあるものか、と、奇跡の再会劇を静かに見ていた。
 即ち別れの時だ、そう理解してもライボルトは特に悲しくはなかった。上手くは言えないが、これで良かったのだと思った。全く、子がアレならおやもアレだ、何故そんなことにも気付けなかったのやら   自然と笑みが浮かんだ。あんたもそうなのかい、運転手のアーマーガアが片足を上げる。ただの通りすがりさ、わざとらしく口先を尖らせて繕った。
 抱擁を横目に流して、そっと背を向ける。居合わせたところで事情が複雑になるだけだろう。しがらみは作りたくなかった。
 が、

「んふお、」
「おい待てよ、なんも言わずに行かなくたって」

 去ろうと進めた歩が、がくん、と落ちた。振り返って見れば、幼児みたいに容赦無くむんずと尻尾を掴む白い手が。

「どうしたビバリー? ……ん? その子は」
「グアウ……(……ああクソ、ややこしくなるから避けたかったのに)」

 よく似た人型が何事かと駆け付けてくる。そら見ろ、だからさっさと御暇(おいとま)しようとしてたんだ。歯ぎしりを剥き出しに不快感を目で訴えて、兎はようやく手を離した。

「あ、悪い悪い。んで、あのさ、」
「なんだ。俺から掛けてやる言葉なんか特にないぞ」
「いやそうじゃなくて、よかったらアンタも一緒に来てくれないかな、なんて」
「……は」
「オレ、あんま守るとかどうとか考えたことなかったけどさ、アンタの話聞いたらこの先もずっと覚悟背負っていかなきゃいけないと思って。だから独りで、ずっと悩み抜いてきたアンタの力が欲しい」

 ピタリと固まって視線を逸らす。して、言葉を反芻したのちに、「は?」もう一度同じ音で返した。謎に自信満々の笑みを向けられた。
 さらに追い討ちを仕掛けにきたのは、怪訝そうな顔で近づく人間。

「お、おい! よく見たら傷だらけじゃないか! 一体誰がこんな……」

 目の前のポケモンにだよ、なんて話をしようものならなお面倒になることは間違いない。野良を去る後生の隣、ライボルトは部外者でありたかった。
 前屈みで差し伸べられる、小さな白い手。

「……温情のつもりなら気持ちだけはありがたく受け取ろう。だが生憎俺は過去に一人喪っている身だ、今更誰かの元に就こうなど虫がよすぎる。俺に許されたのは、この荒野を這って生き、骨を埋めることのみだ。それが最低限の償いで、罰だから。そもそもお前たちとは生きる世界が、理由が違う。……それにお前は主人を守り抜くと誓っている。認めたわけではないが、やると言ったからには俺に泣きつこうなどと思うな。ああそうだ、全くお前は本当にそういうヤツだ。無知で、無鉄砲で、他者の話も碌に聞かず、勘違いばかりでそのくせ熱意と勢いばかりは無駄にある。理解したぞ主人もそれに似たかあるいはお前が主人に影響されたか揃いも揃って   

 コツン、と、側頭部に何かがぶつかる。
 するとツートンカラーの身体は光に包まれて、不定形となり、ぱっくりと開いた球体の中心部へみるみる吸い込まれてゆく。淡い水色の開閉部が重なり、着地した薄桃のボールは、赤い光を明滅させ二回ほど揺れてから完全に沈黙した。

「やっぱり弱ってたんだ……! ビバリー! 話は色々あるけど後にしよう。おっちゃん、ナックルシティのポケモンセンターまで!」

 捕獲が完了し、主を待つように佇むヒールボールを拾い上げる少年。「エバス!」小走りでタクシーに向かい、片手間に握った紅白球でエースバーンを回収した。

『…………』

 なんて無茶苦茶で勝手な人間なんだ、遠のくワイルドエリアをボールの中から見下ろしながら、ライボルトは思った。

 嗚呼、と高高度の空を仰ぐ。
 あるいは、主は許してくれたのだろうか。責務を果たせぬまま、新たな主人の元へ仕えることを。罪業と共に有る獣に、別の幸せを歩めるだけの権利を。
 目指した遥か彼方が離れてゆく。伸ばす前足は今、これほどにも軽いというのに。

(フッ……『欲しがってみろ』、か)

 本心の底から望んでいたものは、果たして過去への偏執だったのか。今となっては隠し通す方が難しい。

    主よ。裏切るつもりはない、ただ一度、俺の道を歩ませてほしい。過去と向き合った旅路の果てに、きっと笑って迎えられるはずだから。

 もう一度、すっかり小さくなってしまった原野に目をやる。今度こそ未練はなかった。先ほどまでいたげきりんの湖の丘陵が見える。焼かれ砕かれ、この距離からでも酷い有様だった。あれじゃ居合わせる顔がなかったな、と、ライボルトは静かに苦笑した。




アマヨシ ( 2022/07/30(土) 23:11 )