01.他力本願
雨が降り続いている。
泥に伏せ、喘ぐこともままならなかった。耳元で跳ねる雨音が、窓の外を眺めているかのように遠く感じた。
昨日や一昨日となんら変わりない一日になるはずだった。ここ最近のルーティンになりつつあるワイルドエリアの散策。四肢に
錘を着けていても、俺と主のコンビは敵なしだった。現れた野生ポケモンを倒す度に力が付いていく気がして、多分主もそれをわかっていたのだろう、通った道に瀕死のポケモンたちが積み上がっていく様が、ああ、聞こえは悪いが快感だった。何かが蓄積されていく心地よさをふたりで喜んでいた。
俺たちはどこまでも強くなれる。
どこへだって行ける。
だからこれは
あるいは天罰だったのかもしれない。
真っ白に塗られた空は、ふと見上げた時には灰色になっていて、やがて地上から光を奪い、代わりに雨を降らせた。
そいつは黒雲と共に突然やってきた。
逃げも隠れもせんと棘立つ黄色の羽毛。その体躯は、アオガラスどころかバルジーナですらちんけに映るほど。一目で、いや、見なくてもわかった。他とは比べ物にならない“プレッシャー”を放つこの怪鳥は、今までに相手してきたどんなポケモンよりも強いと。
主人が小さく頷いた。久しぶりに見る「逃げよう」のサインだった。
幸いなことにナックルシティの大門は見える位置だ。反面、街へ向かうためには怪鳥が巡回している砂塵の窪地を横切らなければならなかった。
少年は髪を濡らす露を払う。気が付くと、あれだけあったポケモンの姿は嘘みたいに消えていた。
ランニングシューズが、強く地面を踏みしめ、
砂地の中心から、光が、
一瞬だった。
金色の爆風じみた輝きが、まるで水面に広がる波紋のような速度で一人と一匹を炙った。
半開きの口に冷たい雫が落ちる。次いで、全身に焼かれるような痛みを覚えた。起き上がろうとしても、足が一切の命令を受け付けてくれない。初めての感覚だった。
後になって思い返しても、あれがポケモンの繰り出した“ほうでん”だっただなんて信じられない。
滴る水音に混じって、体温のある足音が聞こえた。何かが、おそらく、主のいた場所へと近づいている。
(やめろ)
この状況下で堂々と闊歩できる奴なぞあの怪鳥に他ならない。動け、動け、半ば念じるようにして全身に力を込める。ざり、と泥を擦って僅かに首が動いた。
一枚絵のような風景の隣には、翼を折りたたんで見慣れた鞄を啄む巨鳥と。
うつ伏せに倒れた少年。
(やめろ……!)
俺の尾の先まであるんじゃないかという鋭利な嘴が、主を向いた。
顎を震わせた。声は出なかった。なんでもいい、気を引かなくてはと思った。ひっくり返ったゼニガメや瀕死のテッカニンみたいに無様でも構わない、ただ一心不乱に動こうと躍起になる。しかし、そこに響くは雨音という静寂のみ。
俺はここだ! ここにいるぞ! やるならこっちをやれ! おい! やめろ、頼む、見逃してくれ……!
荒い呼吸が空を切る。反抗は懇願へ、だがそれでも小さき獣の祈りは届かなかった。
奴は賢い、故に知っていたのだ。少年の膝丈にも満たないポケモン一匹の血肉より、人間が多くの食料を携行していることを。
橙色が人間の子供を無慈悲に突いた。服を摘んで引っ張り上げ、もう一度叩きつける。
主はもう、何も言わなかった。
雨が降り続いている。
泥に伏せ、喘ぐこともままならなかった。耳元で跳ねる雨音が、窓の外を眺めているかのように遠く感じた。
怪鳥はいなくなっていた。
雨が止み、空に光が戻って。
そこでようやく、俺は全てが終わったのだと悟った。
「……困ったなあ」
青々と広がる晴天下。折れた長耳を掻いて、エースバーンはひとり大きくため息をついた。
数刻前を思い出す。確か、ご主人の提案でパーティーのみんなとお昼ご飯のカレーを食べて、腹いっぱいで眠くなったからどこかで昼寝しようと思って、ちょっと遠くまで歩いて、それから、……。
随分長い夢を見ていた気がする。目が覚めると、キャンプや食卓ごと仲間たちの影はなくなっていた。
(いやまあ、寝てたオレが悪いんだけど)
撫でるように手を下ろすと、ぴょこんと耳が立ち上がる。
さて、どうしたものか。ストーンズ原野の中心から辺りを見渡す。といっても、つい先ほどまでワイルドエリア中を駆け回って主人を探していたのだから、特にこれといった目ぼしい変化はない。「困ったなあ……」もう一度弱々しく呟いた。
そんな下向きな心境だったからこそ、なのだろう。ふと過ぎったある考えが、なんの抵抗もなく身に沁みこんでしまったのは。
もしかしてオレ、捨てられたのかな。
思い当たる節はある。この数日、エースバーンが出た試合の戦績は大きく負け越しだった。その勝敗の分け目も“かえんボール”を外したり、果てには格下相手に“とびひざげり”で地面に突っ込んで自滅、なんて酷いものもあった。
……本当にそうなのではないか、いやいやアイツは旅立ちから今日までずっと一緒だったんだぞそんな訳は
頭の中で黒と白がせめぎ合う。段々と思考がこんがらがってきて訳がわからなくなった。
苦悩に呻いて、慎ましめの手で顔をぐしゃぐしゃとかき回す。その場でうずくまった。焦りに任せて走った疲れが今になって追い討ちのようにどっと押し寄せる。起きてそう経たないというのに、心身はすっかりくたびれてしまっていた。
歩く気力も失いかけていたその時、地響きのような振動が足裏を通った。
「……、な、なんだ、地震
」
ボコリ。正面の土が盛り上がった。
まずい! そう思った瞬間には、踏みしめられた大地は信じられないくらい簡単に爆散した。吹き飛ぶ土の塊に堪らず尻餅をつく。
飛び出してきた円錐形は着地とともに展開し、その姿を露わにした。
ちていポケモン、ドリュウズ。でも記憶が正しければ彼(彼女?)はストーンズ原野には生息していないはず
疑問もほどほどに急いで立ち上がる。ドリュウズは興奮しているのか、脇目も振らずエースバーンに向かって突っ込んできた。どの手で往なそうか、しかし考える前に足は出ていた。
白兎が踏み込んだ、
刹那。
土竜は、落雷に呑まれた。
「はうあ!?」地面を叩き割るほどの衝撃波に蹴り出した慣性ごとぶっ飛ばされる。派手に後方へ一回転、二回転半。膝を着いてよろよろと起き上がる。
そこにあったのは驚愕の光景だった。
“かみなり”に直撃した地面タイプ。本来なら体質上ダメージにはならないはずだが、目の前のドリュウズはというと、全身から白い煙を上げて、倒れ伏した身体は時折痙攣していた。
隕石でも降ったかのように抉れた土は、恐らくドリュウズがやったものではない。もしワンテンポでも早く迎撃に移ってしまっていたとしたら
。
戦闘不能となったドリュウズに、己が狩ったとばかりに飛び乗る獣は、体格にも相性にも劣る、稲妻の象徴で。
思わず息を呑む。
獲物を射殺すような赤い眼差しが、エースバーンを睨んだ。
「…………。捨てられたか」
「……は?」
しばしの沈黙を経て、青と黄のツートーン
ライボルトが、低く、独り言のように零した。
呆然とする兎をよそにライボルトは軽やかに土竜から降り立ち、獲物や部外者に何かするわけでもなく、ただ背を向けて歩き始める。が、数歩で立ち止まると、ほんの少し横を向いて言った。
「せいぜい余生を楽しむことだ」
会話などするつもりは更々ないのだろう。一方的にそれだけ置いて、彼は再び足を進める。
意味ありげな一言を残して去ってゆく姿は英雄か、放浪者か。しかしエースバーンの中に生まれた感情は、理不尽を煮詰めた現状に対する怒りにも似た炎だった。何故、どうやってドリュウズは倒されたのか、そもそもどうしてこの場所に? 何もわからない。自分でもわからないのに、このライボルトは「捨てられた」のだと諦観するように断言した。
腹立たしいし、けれど、どこか見透かされたような気もして悔しい。なのに、今彼に抱いた印象は、なんというか、不思議と悪いものではなかった。
気になってしまった。その背中と無愛想に、何か哀愁のようなものが見えた気がして。
「おい! 待てよ!」
反射的に言葉は出ていた。
種族差を凌駕する圧倒的な力を見せられてもなお、エースバーンの動きに迷いはなかった。駆け足で小さな体躯に並ぶ。歩みを止めるどころか、チラとも視線すら寄越してくれない。それでも構わず、歩幅を合わせて話しかけた。
「なあアンタ。その、えーと……そ、そうだ! さっきのアレ、助けてくれたんだろ? ありがとな!」
無言。
「……い、いやあ〜びっくりしちまったよ! オレが“とびひざげり”で迎え撃ってやろうとしたら急にズババーン!って来るもんだからさあ〜! てか、あれ? ドリュウズって地面タイプだよな。なあなあアレどうやって通
」
「助けたつもりはない」
雷鳴のような低い声が、空回りする流暢をぴしゃりと止めた。
「一度忠告したのにも関わらず縄張りに入ってきた愚か者に灸を据えただけだ。逃げ足ばかり早い奴だった」
「あ、あー……アイツ、逃げてたのか」
半ば無理やりな形でようやく聞き出せたのは意外な事実。割と現実的なというか、本当にそのつもりはなかったんだなあと思うと、勝手に期待しつつも興ざめしてしまう部分はあった。
やや不満そうに口を結ぶ。少し考えて、今度は顔を見ずに言った。
「オレが『捨てられた』って?」
「途方に暮れているように見えた。違うのか」
「それは……」
違うに決まってる、そう咄嗟に否定できればどれだけよかったか。実際のところは真逆で、思わず口ごもってしまった。
本当はわかっていたのかもしれない。口の中で溶けつつあるアメざいくみたいに残された細い希望に縋る自分を、呪いじみた執着からバッサリと切り離して欲しかっただけなのかもしれない。図星の反応を見せても痛いとは思わなかった。
ふと、彼方を見上げた。
ナックルシティが見える。
かつてジムチャレンジに勤しんでいた頃、主人とあの街を目指してワイルドエリアを駆け抜けた思い出がある。ヒバニーのときはバッジが足りないと門前払いをくらい、ラビフットのときは調子づいてちょっかいを出したアーマーガアに打ちのめされて撤退を余儀なくされた。エースバーンになったあの日、ふたりは初めて門をくぐり抜けた。
「……そうかもしれない」先の口調が嘘のように弱々しく呟く。ライボルトは変わらない様子で「そうか」とだけ返した。
今の主人にはオレよりも強い仲間がいる。
オレがいなくたって、どこへでも行ける。
懐かしい光景を映した瞳を伏せて、エースバーンは短く苦笑した。つまりはそういうことなのだろうと、不明瞭な状況になんとなく合点がいったようだった。
「あー……うん、わかった。じゃあ、余生がどうたらってのは?」
「一言一句に聞き返さなければ気が済まないのかお前は」
「いや、なんか意味深だったから……」
ライボルトの曇った表情が、一瞬捨て兎を向いた。不機嫌というよりかは語りづらそうに見えた。逡巡するような鼻息を経て、牙の隠れたマズルが開く。
「……、トレーナーの元で育ったポケモンは、野生の世界では生きていけない。お前以外にも多くの捨てられたポケモンを見てきたが、長く持って一ヶ月程度だった」
「…………」
「だから、何かやりたいことがあるのなら、今のうちに考えておいた方がいい。なるべく悔いの少ない最期を迎えられるように」
ポケモントレーナーは、いつだってポケモンに衣食住を提供してくれた。だから、従者でなくなった今、彼の言っている意味は痛いほど理解できる。
抜き取られたかというくらい、血の気が引いた。
黄色の背中が離れていく。足が竦んで動けなかった。逃れられない、ずっと遠くの概念だと信じて疑わなかった『死』を唐突に背負い、思考も身体も、何もかもが追いつかなかった。
ライボルトが振り返る。輪郭はぼやけていた。呆然とするエースバーンを一度は見遣って、また歩き出す。
やりたいこと。
この広大な野原に放たれた温室育ちに、希望なぞあるはずもない。望みはあれど、それはもう、たぶん届かない場所へ行ってしまったのだ。
だからこそ。
「
待ってくれ!」
紺色に包まれた長脚が、大地に火花を残しながら風を切ってゆく。
「生きる意味」はなくとも、「死ねない理由」はある。死にたくない、それだけで十分だった。生物の最も原始的な本能がエースバーンを突き動かした。
五秒もかからずして隣に舞い戻ると、息も整わぬまま、しかし強い語気を含ませて言った。
「なあ、オレ、アンタに付いていく」
「断る」
「なんでだよ!」
「足手まといだ」
「ああ!?」今度は構わず逆上した。気にかけるような目線とは裏腹に、まるで最初から決めていたかのような即答ぶりだった。物を頼む側とはいえプライドはある。「なっ、オイ! 誰が足手まとい
」そこまで言った時には既に、さっきまで足並みを合わせて歩いていたのが馬鹿みたいに思える速度でライボルトは走り出していた。振り切る気か! 思わず伸ばしていた手を引っ込めて、追いつこうと構えたが、早くも影は視界から失せてしまう。
ふぅーっ、両手を腰につけて深く息をつく。その目はまだ諦めていなかった。味方っこ一人いない今、話が通じそうな相手を逃すわけにはいかない。
大自然を一匹、エースバーンは初めて己の意思で歩み始めた。