8日前(1)
それから三日後。
寝坊防止のアラームを止め、薄目に見えたのはモノクロームの空だった。陰鬱な白光とぬくぬくの布団が目覚めを遠ざけるが、勤務二年の清掃員に今更誘惑は通じない。自ら毛布を剥いで起き上がる。ただ、休日のスタートとしては出鼻を挫かれた気分だった。
数日前に職場でもらった廃棄のあんパンを頬張りながらスマホの電源ボタンを押す。真っさらな通知画面を確認してスリープモード、無色のベランダを向きながらモゴモゴと甘味を味わう。
集合場所と時間についての相談は、昨晩の日付が変わろうかという時間帯にメッセージのやり取りで行なった。計画性がないのはお互い様である。場所はすぐに工藤宅で決まったのだが、集合時間は企画した本人が起床に自信がないということで『起きしだいいくわ!!!!!!!』というアバウト過ぎる結論に終わったのであった。
「ダア」
「ん」
ちょんちょん、と肩をつつかれる。隣でポケモンフーズを食べていたガーベラが、ノズル状の手で机の方を指していた。ああテレビか、新聞横のリモコンのボタンを押す。元は人の生み出したもので出来ているからか、我が家のダストダスはどこか人間的な関心がある。白めの天気予報をチラと見、手を戻して再び朝食にかぶり付くと、またしても肩を叩かれた。なにさ、と片眉を持ち上げて振り向くと、今度は覗き込むようにして、机の上の、しっかりと一点を示した。
あんパン
の、袋。
「だァめ」
「ダアァ……」
「だってビニール食ったらまた静電気ひどくなるだろ。ナデナデしないぞ?」
ダストダスというポケモンは、その分類に恥じずゴミを食べてしまう不思議な生き物だ。利用という観点では便利だとよくメディアでも取り上げられるが、食べたゴミが身体や毒素を作るらしく、同居人としては食生活に気を配ってもらう必要がある。
「…………だす」
「ああ待って悪かったから」
のだが、パートナーが大事だとやはりトレーナーは親馬鹿になる。拗ねてそっぽを向いたガーベラに、あんパンを放ってゴミを手に取った工藤は甘かった。
そうして過ぎてゆく朝の時間。
床の冷たさに足踏みしながら洗面所で歯を磨いている時のことだった。玄関の方からだろうか、一瞬何かの物音が聞こえた気がした。シャコシャコと歯ブラシを動かしたまま、洗面所のカフェカーテンから顔を出してドアを覗く。しぃん……と不気味なくらいの沈黙が返ってきた。扉を開けて確認したい気持ちはあったが、歯磨き中なのもあってやりづらかった。
しかし玄関の近くで一人きりなのはなんだか気味が悪い。上の歯はリビングで磨こう、そう決めて、ガーベラのいるリビングへ戻ることにした。
「……ん」
机の上、スリープモードにしていたはずのスマホにロック画面が映っている。
二宮からの通知だ。メッセージアプリを開き、液晶上で指を踊らせる。
一富士二宮三茄子:
『ぽはよう』
9D:
『きも』
9D:
『何時着く?』
一富士二宮三茄子:
『まざいんご』
一富士二宮三茄子:
『いや』
一富士二宮三茄子:
『今家のまえいる』
「ふぁ、」
泡まみれの口から思わず咳き込むような声が漏れた。画面に付いてしまった唾を焦って寝巻きの袖で拭う。ガーベラはワイドショーに夢中でこちらの異変には気付いていないようだった。主婦か! 今の工藤には愉快なツッコミを口にする余裕もなく、歯ブラシを咥えたまま玄関ドアへ一直線に走り出す。
解錠と開扉が同時に行われたんじゃないか、という勢いで、サンダルも履かずに飛び出すと、
「……」
「おう」
紺色のショートコートにベージュ色のチノパン、背中には黒いスポーツリュックを背負ったふわふわ茶髪の青年が、片手に飲みかけのジュースを下げて、もう片方に持ったスマホを見ながら、確かに立っていたのだ。
「ぽはようはさあ、まだ意味わかるんだよ。おはようってこったろ? でもまざ
」
反射的にドアを引いた。そして流れるように左手でロック。素早くターン、洗面台へ直行! ほぼ唾液となった歯磨き粉を吐き出し、ギャロップもびっくりな高速移動でリビングへ突撃。口を開いてこちらを見るガーベラのことも気に留めず、乱暴に携帯を取った。
9D:
『なんで起きてすぐ連絡よこさなきんだよ』
9D:
『よこさないんだよ』
一富士二宮三茄子:
『いや』
一富士二宮三茄子:
『起こしたら悪いかなて』
9D:
『急にくるほうが悪い』
一富士二宮三茄子:
『ごめん』
怒涛のタップを終えて、工藤は天井を向きながら切らした息を整える。怒っているのか焦っているのかなんだかわからない調子になってしまったが、とにかく急いで準備せねばと思った。
一息ついてから、ふと横を見やると。
ガチャン。
「あああオイ!!」
暗がりのムウマがこちら側から錠を回した瞬間を工藤は見逃さなかった。工藤が走り出す前に、ムム太はこちらへにししと歯を見せて笑い、ドアをすり抜ける。直後、そのドアが開かれると、怪訝そうに部屋を覗く二宮の顔が見えた。
「泥棒かお前!」
「いや、場所決まってっからさ、準備まだなら先言っといた方がいいと思って」
「じゃあああこっちで伝えろよ!」左手に持ったスマホを指差す工藤。
「この距離なら言った方がはええだろ! な、ガーベラさんもそう思うっすよね」
「だぁ〜」
「ああお菓子持ってこなくていいから……!」
来客だと思ったのか、いつの間にやらポテチの袋を持ったガーベラがすぐ後ろに来ていた。彼女なりの気遣いではあると信じたいが、恐らく本命は食べ終わった袋の方だ。退けるように片手で押し出すような動作を見せると、表情を変えずにリビングへ戻っていった。
「……。……それで、どこなん」
「仮装っつったら一つしかないだろぉ〜」
「それ言うために不法侵入したんだろはよ言え通報すんぞ」
「あーあー悪かったよ! コオリポーテだコオリポーテ!」
「……なるほど」
洒落た店に行くのならそれなりに見た目は整えるべきかと考えていたのだが、今回はその必要はないらしい。遠回しな軽装推奨に「わかった」と返し、家に戻ろうとして、もう一度向き直った。
「入れよ。寒いだろ」
「んや待ってるよ。どうせすぐ終わるだろうし」
「鬼か?」
その三分後、現れた工藤はマスクに上下ジャージ姿だった。