第38話 各個殲滅! 反撃のストリーム
視点は変わり、昼下がりの『プクリンのギルド』。スカタンクのドンフリオ率いる『ドクローズ』の一味は、今日も今日とて報酬のオイシイ依頼を漁るため、地下一階の掲示板を物色していた。のだが、
「
あーあ! 今日のもシケてやがりますよアニキ! いや、てか……なんか少なくね?」
一通り飛び回って依頼内容を確認したズバット、ロスが、遊び足りない子供のように不満を垂らす。バサバサと忙しく羽ばたき続ける彼をドンフリオは細目で見やり、豊満な毛量の尻尾で軽く退けた。視聴覚的にやかましいと感じたらしい。
いや、そんな戯れはどうでもいい。
依頼が、少ない。
普段ならば掲示板の隅から隅まで、それはもう、気でも遠くなってしまいそうな量の依頼用紙が所狭しと釘やらなんやらで貼られているわけなのだが、今日はどういうわけか、何も飾られていない板の部分と紙の面積の対比がピッタリ半々で分けられるのでは、というほどに真っさらな白地が多かったのだ。
ひょっとしたら、前回の更新からかなり時間が経っているのかもしれない。遠征の日が近いこともあって、準備や呼び出し等で中々手がつけられていない状態、とも考えられる。
あるいは、そもそも依頼の受け付け自体を切り上げてしまっている可能性だってある。二日前に一番弟子のペラップが通達した内容によれば明後日が受注最終日という話だし、締切日に依頼を持ち込まれたところで処理が間に合わないと判断して予定日を早めることも十分ありうる。
……いいや、やはり少ない。
梯子を挟んで向かい側にあるお尋ね者ポスターの数は特別変動していない。交戦を避け得ない仕事である以上、元より好き好んで取られるものではないのだが、それにしたって明らかに比率がおかしい。
ドンフリオはその辺で話し合っている三匹組を一瞬睨んだあと、側近のドガース、クライに視線を送る。「ちょっと聞いてこい」の合図だった。指令を受けたクライはすかさず顔を下げて頷き、三匹の中で唯一の最終進化系
おそらく最年長であろうニョロトノに近づいた。
「おいお前ら、ここの更新やってる野郎は何してんだ。サボりやがってんのか?」
「ああ、ラウドさんのこと?」
なるほど、いい質問だ。クライに頼んで正解だったとドンフリオは心の中で部下の働きを労った。ロスも素質は悪くないが、まだまだお子様気分が抜けきっていない。悪事のなんたるかを理解しつつあるのはクライの方だろう。
ニョロトノはチームメンバーに向き直り、「なんか知ってる?」と仲間の情報を求めた。レディバは体を斜めに傾けて「わからない」のポーズを取る。トゲピーは少し悩んだのち、可愛らしい口をいっぱいに開いた。
「ラウドさんなら多分お昼休憩じゃないかな! もう少ししたら戻ってくると思うから一緒に待っていよう♪」
注文してもいないのに、天使のような笑顔でそんなことを言う。よく見れば他二匹も同じようにニコニコしていた。この笑顔こそが「幸せを運ぶ探検隊」こと『ハッピーズ』の最大のセールスポイントだったのだが、それを知らぬ『ドクローズ』の面々は、ただでさえ機嫌が悪いというのに苛立ちの上乗せをされ、しかし怖いもの知らずな態度が逆にどこか狂気を孕んでいるような気もして、一周回って大人しく引き下がることとなった。
「チッ……いっぺん更新してから休みゃあいいだろうがよ」
クライ、無念の撤退。依頼が妙に減っている原因は解明出来ず。現状のまま放置されているのは更新係が休憩中だからと判明したが、何の解決にも至っていない。
有力な情報が無いとわかった以上長居する理由もない、というか、この
頭お花畑軍団の側にいたくないというか。ドンフリオまでも「行くぞ、お前たち」と移動を決めたその時、
「あ待って、確かちょっと前に依頼をたくさん持っていったポケモンたちがいたような……」
「なに」
去り際にレディバの口から聞こえた言葉に、ドンフリオがゆっくりと振り向く。よほど恐ろしい形相をしていたのか、眼光に貫かれた三匹は思わず息を呑んだ。
威圧され、絞られるようにして言葉を並べるレディバ。
「ええと、ほら、なんて名前だったかな。最近入ってきたコたち」
「ああアレ、そう、前の作戦で王子かなんか名乗ってたズガイドスくんが入った……」
「ほう」
不自然な口調でトゲピーが供述した一つの種族名に、凶悪な笑みを浮かべるスカタンクが満足げに唸った。
『最近入ってきた』『ズガイドス』。特定、なんて単語が思いつく前に正体は割れた。言うまでもなく、昨日自分たちが見事に叩きのめした青頭、フォシル・クレテイシャスのことである。
依頼の達成状況、迫る遠征メンバー発表、これらの現状と掲示板の有様で全てが綺麗に繋がった。間違いない。ここの依頼用紙をかっさらっていったのは『ストリーム』だ。
「なんでも反抗的なキモリがいるそうな……」
「も、問題児が多いとかね! あーなんか聞いた気がするー!」
容赦無く漏れ出る個人情報。そういえば語尾の「♪」はどこにいったのだろうか。しかも意外に陰湿。ただただ沸いてる輩どもかと初めは思ったが、案外闇が深いチームなのかもしれない。
ドンフリオの顔に隠しきれない悪意が表れる。目の前のプチキャラ崩壊に対してではない。今は姿なきおもちゃを、またしても手玉に取れる理由が出来たことへの黒い喜びだった。それは本日分の仕事を奪われた不満を簡単に上回り、悪事を進める活力へと大きく昇華したのだ。
「ククク……そうかそうか。情報提供ご苦労。もういいぞ」
「ひゃい!」
それにしてもこのピュアピュア(?)集団、相手が悪の頭領なのにも関わらず中々ノリノリである。初対面時のイメージはどこへやら、もしかすると元よりこういうキャラだったのかもしれないとも思わされてしまう。実のところは威圧に屈して自身を失っていただけだった。
ニョロトノら三匹は誰に言われるわけでもなく姿勢をピンと揃え、お偉いさんを見送るような、引き締まった態度を演出する。ドンフリオもその手のボスらしく悠々と余裕のある動きでクライとロスの方に向き直り、梯子を登っていった。
突然伸してきた悪党の姿が視界から消え、文字通り嵐が去ったような静けさに包まれた地下一階。かちこちに固まった『ハッピーズ』の笑顔も、戻りかけた平穏の温かみに解凍され始め、そして。
「きょ、今日はどこに幸せを運ぼうか! なんだかワクワクするね♪」
悲しいほどに表面的でしかない陽気で、無理のありすぎる軌道修正を行なったのだった。
晴天下のギルド出入り口前。光を浴びて白みのかかった地面に踏み込む三つの紫の影は、その対比で禍々しくすらあった。
「へへっ、俺わかっちゃいましたよ兄貴ィ。ヤツら昨日失敗したぶんを取り戻すために必死なんだ。だから依頼をかっさらってったに違ェねえ!」
嬉々とした感情を体で表現するように、より一層忙しくホバリングしながらロスは語る。如何にも、と確信めいた語調だが、ドンフリオは無論のこと、クライですらわかりきっている話だった。先導するボスは足を止め、深くため息をついた。
全く、何を堂々と。ガキが、能無しが。苛立たせている自覚のない部下に対し、あわよくばテレパシーか何かで伝わってしまえば、なんて思いながら頭の中で目一杯悪態をつく。少しして熱が冷めると、今度は悟りにも近い冷徹に取り憑かれた。落ち着け、コイツは伸び代の塊だ。ダイヤの原石なんだ。当たったところで成長なんてしない。垣間から現れた貴重な良心が、事を起こす前に防いだ。
仕切り直しの咳払いを一つ。ドンフリオは首で振り返り言った。
「ああ、そうだろうな。そうとも。我が『ドクローズ』はそれだけのことをしてやったのだ。雑魚らしく跳ね回ってもらわなければむしろ困る」
「やっぱそうだよな! ヒヒヒ!」
悪意のない
いや、『悪意のない悪意』丸出しの笑いにややむかっ腹が立つが、ここで抑えなければ先ほどの葛藤も台無しになる。ドンフリオは小さく鼻で笑った。なんとか穏便に済んだ。
「で、どうします兄貴。もっかい潰しておきます?」
内容が内容なだけに密議を意識してか、クライが低空浮遊で顔を寄せる。
そう、それなのだ。本題は。
敵情視察をするだけしてはい終了、なんてのは『ドクローズ』の性に合わない。手段は問わず、理由も要らず、とにかく相手を苦しめられればそれでいい。掲示板の前で話を聞いた時の高揚感が蘇る。であれば考えずとも答えは一択、のはずなのだが、
「……いいや、とりあえず今は様子見としよう」
なんと、そうはならなかった。突然の消極に「ええッ!」とロスが声を上げる。クライも同じく腑に落ちないといった様子でドンフリオの顔色を伺った。
「あまりヘタに手を出すと、流石にあの馬鹿親方でも察しはつくだろう。それに」
流暢に語られた見解が、ピタリと動きを止めた。
一瞬のまばたき。その目蓋に映ったのは、近づく全ての生命を無機へと帰す怨炎の雌狐、そして、自らに向けられた空の青を喰らう藍色の凶爪。
あの日確かに、ドンフリオたちは死線に立たされた。脅迫や誇示などの混じり気のない殺意、つまり純粋な『粛清』の意志を目の当たりにしたのだ。よもやちょっかいにも似た度合の嫌がらせが、惨劇の一歩手前へ至るなどと誰が考えつくだろうか。
もしも振り上げられた執行人の火炎が、為すべき事を成せたとしたら。
肺を絞られたような激しい鼻息が出た。どうやら呼吸を忘れていたらしい。動揺を見られたかと焦ったが、二匹の顔は普段と変わらぬ面構えだった。深いため息か何かと思ったのだろう。
念のため、フッと余裕の嘲笑をかけてから、ドンフリオは軌道修正を図った。
「もはやここまで来ればヤツらもそう簡単には這い上がれねえ。何か企んでいるようだが、我々が手を出すまでもなく勝手に自爆するさ。ククク」
「ヒャハハハ! 違ぇねー!」
親方の目の前で、直々に失敗報告を聞かせた。その上で部外者も同然である自分たちが代わりにブツを持ち込んだ。「お近づきのしるしに」という名目で。酷い対比だ。相乗効果も併せて『ストリーム』の信頼が大きく落ちたのは間違いない。事実、事実なのだ。
だが、それでも。ドンフリオは内心穏やかではなかった。
何度でも確認しよう。計画は滞りなく進んでいる。この調子であれば『ドクローズ』の勝利は揺るぎないものであるといっても過言ではない。圧倒的優位。
しかし、その慢心は後々危ういものとなるのではないか。件のロコンについては言うまでもなく、悪臭を物ともせずクライとロスに一打浴びせたキモリ、迷いなく汚れ役を一手に引き受けようとしたカラカラ、そして、はるか悠遠の古代より復活したズガイドス。これはあまりにも普通とは呼び難いイレギュラーの集いではないのか。
冷静になればなるほど、立場が逆転していくような気がした。
ひょっとして、追い詰められているのは自分たちの方なのでは。
動悸が聞こえる。ドンフリオは仲間を見た。二匹は天を仰いでゲラゲラと笑っている。少しばかりの嫌味でしかなかったが、頭が足りていないせいかそれなりに好評だったらしい。ウケの良さに思わずククッと絞ったような笑いが出た。不覚にも下っ端に救われてしまった。
(何を馬鹿な、いつもそうだろう。今もこうして、嘲笑えているではないか)
どん底から反撃だと? ありえないどころかくだらない。決して自身に言い聞かせているわけではなく、それはただの真実だった。そうであるが故にそうなるという、たったそれだけの話だった。
全く無関係な早めの息を吐いて、ドンフリオは東の景色を見下ろした。恐らくヤツらはこの先のどこかで必死に無駄な努力で足掻こうとしている。馬鹿なヤツらめ、と歯を震わせながら口端を吊り上げた。
コツ、と小石が山肌を滑り落ちていった。
オレンの森より北へ三百メートル、プクリンのギルドから視認出来る範囲では一番の標高をもつダンジョン、『トゲトゲ山』。かつてお尋ね者のスリープ
シーブに誘拐された幼いルリリを救出するために、『ストリーム』もここを訪れたことがあった。
当時こそあまりに突発的な出動だったため環境を確認する余地もなかったが、容貌と、文字通りの名前の刺々しさとは裏腹に、意外にも気候は穏やかで、凶暴なポケモンもあまりいないのか普段は閑散とした山である。
そんな静穏を体現したかのような山に、突如慌ただしい足音が響いた。赤い二足が絶え間なく砂を蹴り上げていく。顔色こそ無数の蔦に覆われているため確認できないが、それでもその焦りようは隠しきれないほどに十分だった。
ドタバタと不定形が通り過ぎると同時に、また別の足音が徐々に近づく。
「らぁぁあああああ!! 待てぇやああああああ!!」「く、クソ! なんだアイツ!」
背中にぶつけられた怒号を受けて、逃走中のモンジャラは反射的に振り返った。通路の先に見えたのは、鋭い目つきでこちらをロックオンしながら大口で咆哮する、猛獣のような全力疾走ズガイドス。……と、その裏に、何故だか
片手で尾びれを掴まれ容赦無く引きずられているボロボロのナマズンらしきものの姿があった。
……幻覚、なのだろうか。モンジャラは走りながら考える。まずお尋ね者である自分を追っているのだから、あのズガイドスはひとまず探検家ということでいいのだろう。うん、ここまでは常識の範疇。
では、あの、非常に倫理を欠かれた扱いを受けているポケモンはなんなのだ。なんなのでしょう。少なくとも近場に釣りスポットはない。しかも同サイズを片手で引っ張り、加えて逃げる相手を追えるだけの脚力を持つズガイドスとは。
結論は出た。
逃げよう。
思考することや踏み止まることなどは重要ではない。「逃げ切る」、それだけが指名手配犯としての使命であり、宿命なのだ。
雑念を捨てた足取りは驚くほど軽く、あっという間にT字路に当たった。そこを迷わず左。曲がった先でさらに運よく十字路を引き当てた。右。大部屋に出る。手慣れたクリアリングで階段がないことを確認し、後にしようと次の通路へ向かう。カチッ。足元から小気味のいい音がした。一瞬で視界が未知の部屋へと変化し、思わず足を止めてしまった。
「は、ハアッ……ワー、プスイッチ? はは、は、は……!」
不思議のダンジョン内には時折、床に見えない『罠』が仕組まれていることがある。その大抵が有害なもので、多くの場合は踏んだ者が、あるいは周囲にも何らかの被害を齎してしまう。
だが、この男が踏んだ罠は『ワープスイッチ』。探検隊など仲間がいる状態だと合流に手間取ったり、戦力分散の危険もある厄介極まりない邪魔者だが、単独の探検であれば思いがけず階段に出会えたり、あるいは窮地の戦線離脱になり得たりと、意外にありがたい存在へと一変することもある。無論、それが逃亡犯ならなおのこと。
モンジャラは辺りを見渡す。人影はなし、聞こえるのは自分の息遣いのみ。勝った、完全に逃げ切った。何がなんだかよくわからない変質者チックな相手だっただけに安心感も大きい。一息つきながらも、階段を探すために再び歩き始めた。
細道に入り込んだその時、
「え?」
ガコン、と、どこかで何かが砕け散るような音がした。
音量と僅かに伝わった振動の具合から強い衝撃によるものであることはなんとなく推測できる。しかし、ここを住処とするポケモンたちとの戦闘にしては質が違うような。となるとやはり先ほどのズガイドスが、いやだとしてもこの音は一体
。
ゴッ。近くから鈍い打音。
嫌な予感がした。左を見る。そこにはただひたすら壁があるだけで、ああ、つまり、壁だった。それ以上でも以下でもなく、ただただ壁があった。まさか。でも、何か起きているとしたら。多分、いち早くこの場を離れなくてはならない状況なのだろう。それでも、「何かの冗談だろう」というサーカスの芸を見るようなある種の期待感もあったのか、自然とモンジャラの足はとどまることを決め込んでいた。
そして、
壁が、せり上がった。
凄まじい轟音とともに砕けた岩壁が飛び散る。壊す、なんて前提条件すら思いつかないものが風船のように面白いくらい簡単に割れてくれたが、生憎ながら舞い散る砂埃と立ち直るには少し時間の必要なショックを受けたせいで笑うどころではなかった。というか、何より彼自身の身が。
黄砂の中から灰色の手が蔦の一本を掴んだ。
「あっぶね〜。“岩砕き”覚えといててよかった……」
“岩砕き”。
格闘タイプの物理技で、元は障害となっている落石などを破壊するために生まれた移動兼開発用の便利技である。
実はダンジョン内でも一部を除いた障壁を砕けたという報告があり、少数ではあるが、ロマンを追い求める探検家が財宝探しに愛用しているのだとか。
灰色のボディに付着している砂の粒。それは、砕かれた岩どもの血潮。蔦を握る手は熱く、その先には一仕事でも終えたような清々しい笑み。
つまるところ、コイツはダンジョンの壁を一直線にぶち抜いて無理やりショートカットを為したのだった。
「ちょ……オイ! そんな無茶苦茶な
」
とツッコミを入れつつもどさくさに紛れて“メガドレイン”を纏った触手を背後から這わせる。これだけ訳のわからない現実を連続して見せつけられれば、もう手段なんかどうでもよかった。半狂乱の精神でツッコみながら不意を突こうというアイデアだけで奇跡的だった。だったのに。
「あー?
オイイッッッ!!」
一瞬だけ、ズガイドスの視線がナマズンを持つ左手へと移った。
そしてすぐさま正面を捉えると、否、目が動くと同時にモンジャラの体は宙に舞っていた。忘れていた。掴まれていたこと、コイツが片手だけで大沼の主を引きずり回せるほどの怪力を有していたこと。ズガイドスはこうして腕を振り上げ、あとはそのまま地面に叩きつければ簡単にダメージを与えられたのだ。
伸ばしかけの一手も慣性で届くことは叶わず、脱出を試みようとする知性も地面と衝突するたび飛びかけるのでまるで使い物にならない。繰り返しの乱暴によって全身に満遍なく痛みが回ったところでモンジャラはようやく解放された。
「ぢっ……ぎしょおおお、テ」
激痛に悶え、反撃の間も与えられず、蹂躙されながらも、残りカスのような悪党のプライドがせめて怨言くらいは残さねばと、ありったけの恨みを込めて睨みつけた。
だが、その瞳が最初に写したのは、憎っくき赤目ではなく、青空でもなく、自身を今まさに飲みこまんとする影だった。
それが凶器として振り下ろされたナマズンであることを理解した瞬間、プライドの残りカスから出た「テメエ覚えてろ」すらも喉に詰まって続かず。
ただ、視界が暗転する直前に交差した被害者二匹の目線で、ようやくモンジャラは気づいたのだ。
ああ、お前もコイツに捕まったのか
。
「おーし、七階は完了っと……」
地に突っ伏したお尋ね者のナマズンとモンジャラを見て、フォシルは一息ついた。
ダンジョンに入ってからおおよそ四十分。彼ほどの高レベルであれど、単独による依頼攻略はかなり濃密で多忙な行動を強制されていた。
五階では次から次へと襲い来るポケモンたちの攻撃を掻い潜って遭難していたアノプスを救助し、六階ではタイプ相性の悪いナマズンを打ち破り、そして本階層では重荷を抱えて壁掘りという苦行。これがいつもの四匹であれば『海岸の洞窟』でワルサーを討伐したときのようにさした苦労はしなかっただろうに。一匹で全てこなすということは、そういった不便さも受け入れなければならない。
ああ、と憂鬱な表情のフォシル。
(……そうか、一人あたりにかかる負担も四倍か……)
「一人体制ならば単純計算で効率四倍」。成功を前提とすれば間違ったことは言っていないはずだった。ただ、焦りや遅れを取り戻そうとする意識が、リスク管理の判断を大きく鈍らせてしまっていたのもまた事実なのかもしれない。自分の提案に目を丸くした仲間たちの姿が思い浮かぶ。もしかすると、あれは無茶振りに対する抵抗だったのではないか。
仲間の能力を過信しすぎたのではないか。あるいは「出来る」という確信を自分単位で決めてしまったのではないか。
うう、と足元からの呻きが意識を現実へと引き戻した。
「トホホ……まさか俺の『危険予知』を利用するとは」
「ん? ああ……ちょうどオメーの特性が使えるって気付いたからな。まさか探知に使えるとは思わなかったけど。まーそこんとこだけは敵ながら感謝かな」
『危険予知』とは、相手の持つ危険な技や弱点を突ける攻撃を感知して身震いする特性である。身震いするだけ、では対処にならないが、敵の危険性をある程度警戒した動きや逃亡にも役立つ生存重視の能力と言える。ただ、ナマズンを一撃で倒す術を持っていないフォシルには発動しなかった模様。
では、水・地面タイプのナマズンが特性を発動させた対象とは。それは、あろうことか、同じお尋ね者であり草タイプのモンジャラだった。
決死の逃走劇によって、確かにあの時フォシルはモンジャラを一度見失っていた。原因は本人も予想だにしていなかったワープスイッチ。どこかに飛んだ、という事実は部屋に到着してすぐ気付くことができたが、それを理解したところで「ここ以外のどこかの部屋」なんて曖昧な情報だけでは頼りなさすぎる。フロアの敵を把握できる探知の玉はおろか、そもそも道具という道具を持ち合わせていない。
……道具、の二文字に関連したわけではないが、ふと、手の内で先ほどまで振動していたナマズンが静かになっていることにフォシルは気付いた。背の動きから事切れてはいないと判断し、一時煽られた背徳感は杞憂で済む。
気を取り直してモンジャラ確保の再開を急いだが、いくらか走ったのち、またしてもナマズンが震え始めた。モラルはともかく、一応生命に危機が及んでいるわけではないはず。と、
ここで閃いた。
まず、彼の振動の正体は特性『危険予知』によるもので、モンジャラを追ったため発動していたこと。して、ワープで遠くへと離れたため急に静まったということ。
そして、今こうして振動しているのならば、おそらく近辺の部屋に敵がいる。つまりこの、ナマズンの反応を利用すれば場所を割り出せる。ならば道なりに行かず、己の力で最短距離を
。
その後はモンジャラの驚愕を見ての通りである。ちなみにモンジャラの″メガドレイン″を直前で察知したのも左手に握った草技探知機のおかげだった。
「マジ!? じゃあ捜査協力に免じて俺を
」
「おっと逃がしはしねーからな。悪りーがもうちょい付き合ってもらうぜ」
「い、嫌だー! これ以上引きずるのやめて! せめて転送して!」
手ビレをバタつかせて抗議を訴えるナマズンを「はいはい」と宥めながら踏みつけて制止させた。かつては民にも敵にも情を持って接していた純正優男だったが、チームに加入してからこれまでの短期間でそこそこ
らしくなってきているのはきっと気のせいではないのだろう。あるいは、元より潜在的な適正があったのかもしれない。
とはいえ、彼の懇願には多少思うところがあったのか、横目に意識のないモンジャラを見ながら鼻で深く息を吐いた。捕まえた本人の同行なしでギルドに送り飛ばすのは、なんとも危なっかしいというか、もしかしたら軽い騒ぎにでもなるのではと懸念があった。かと言って、こんなやり方でなくとも少し考えればマシな連れ方くらい。
うーん、と首を傾げるフォシル。
「コイツは
肩掛けでいいかなぁ……」
それでいいのか王の器。
「……ふう。バッグがあってよかった……」
首から下げた鞄に、使い切らなかった分のゴローンの石を尻尾で器用に放り込む。“あわ”で遠距離攻撃を仕掛けてくるニョロモを、こちらの位置を悟られる前に投擲で体力を削り切れたのはラッキーだった。脳裏に浮かぶ仲間たちと、そんな彼らから譲り受けたこのバッグが本当に頼もしい。
ただ、ダンジョンを突破できる確信があるかというと、正直なところ、エキュゼは自信を持てずにいた。
準備前の作戦会議の段階で、エキュゼは『静かな川』の担当を自ら立候補した。理由は過去の依頼で一度行ったことがあるから、ネイトでも攻略が容易そうなのが『海岸の洞窟』だったから、そういった彼女なりの考慮があってこのダンジョンへ臨むことになった。のだが、
以前、見張り番のネイトを置いて、アベルと依頼主のミネズミ、グレイと共に初めてここを訪れた時は、大雨の影響で通路や部屋の大部分が水没、加えて濁流まで流れているという地獄絵図だったのだ。そんな状況でポケモンやら道具やらが見つかるはずもなく、結局ダンジョンの概要は何もわからないまま、ただただ苦しいだけの探検は終わっている。
「“マッドショット”!」
「ウパー!? うわっ、危ない……!」
つまり、晴天下の、本来の『静かな川』についての前情報は全く持ちわせておらず、今回の冒険が実質的に初見だった。しかも一匹で、さらに依頼も込みである。彼女にとって、かつてなく危険な挑戦であることは明白だった。
「有効打がっ……で、“デルタショック”!」
「ぐえ!?」
胴体目掛けて発射された火の玉が着弾と同時に三角形に拡散し、ウパーの全身に燃え広がる。“デルタショック”による火傷ダメージのみが、エキュゼが持つ水タイプへの唯一の対抗策だった。
そして目論見通り、高熱に怯んだウパーは川の深いところへと逃げて火傷を回復しようとする。距離が離れればこっちのものだ。すかさずバッグからゴローンの石を取り出し、体を捻って深間へ追撃。一発目は感触がなかったが二発目で綺麗に直撃し、動かなくなった水魚ポケモンが水面にプカァと浮かんだ。難は去ったらしい。
(自分でもびっくりするほど上手くいってる。今のところは)
属性の相性は悪く、戦闘も未熟。そんなエキュゼでも低いリスクで勝つことが出来る戦法を指示したフォシルには頭が上がらない。自信のなさには自覚があるはずなのに、順調に進む様を見ていると、「行ける……」とポジティブな感想すら無意識に出てしまっていた。
それから少し歩くと、開けた場所に出た。ただだだっ広く薄い水が張っている大部屋を疑ったが、目を凝らすと奥には不自然な灰色
次フロアへ繋がる階段が見えた。
この階でやり残したことはないか、バッグから何枚かの用紙を引っ張って内容を確認する。顔を半分出した依頼は、それぞれ、「四階・モモンの実の送達」、「五階・引き寄せの玉の探索」、「六階・敵怯え玉の探索」、「八階・技マシン『どろぼう』の送達」とあった。依頼があるのは次の階層からだ。濡れた肉球でくしゃ、と乱雑に頭を押し込む。
ひとまずは大丈夫だ、確認の元の妥当な落ち着きで階段に向かう。そう、慎重にやるべきは三階からなのだ。こんなところで足を止めていても仕方ない。本当の脅威が訪れるのはまだ先
そう思っていた。
突然、虚空から何かに殴りつけられた。
エキュゼの前半身を鈍い衝撃が襲う。咄嗟に顔を伏せて一歩後退した。遅れてやってきたじんわりとした痛みが単なる自然現象や幻覚でないことをしっかりと認識させる。
おかしい。少なくとも依頼のチェックをする前までは周辺に誰もいなかったはず。恐る恐る目を開いて状況を確認する。向かい側の通路に一匹、大目玉模様が、アメモースが羽ばたいているだけだった。
……いや、待って、さっきの攻撃は。アメンボもどきにあんな攻撃をする術などあっただろうか、そんなことを一瞬でも悩んでしまったのが失敗だった。なぜならば、その直後、間髪入れず答え合わせとでも言わんばかりにアメモースが黒い気を纏ったからだ。
(“怪しい風”……!!)
技名が浮かぶも時既に遅し。二度目の衝撃、もとい、“怪しい風”がエキュゼの身体に容赦なく叩きつけられる。短い呻き声を上げてまた一歩階段から遠ざかった。踏ん張りが効かない。明らかに先ほどより威力が上昇していた。
アメモースが放った“怪しい風”は、部屋全体までに届く広い攻撃範囲を持つゴーストタイプの技。与えられるダメージこそ平凡のそれだが、敵にヒットする度に低確率で自身を強化することもある優秀な技である。過去にはモンスターハウスで大勢のポケモンに囲まれてしまったフワライドがこの技ひとつで乗り切ったという噂もあった。
風力が増しているのは決して気のせいではなく、技の追加効果だった。素早く第二波を飛ばせたのもその影響と見ていい。
強化された進化ポケモンから繰り出される、逃げ場のない広範囲技。遠投攻撃の手段はエキュゼも持ち合わせているが、馬鹿正直に石で殴り合おうものなら結果など語るまでもない。一方的に蹂躙され、完敗の未来も可能性としては十分ありうる。つまり、かなりのピンチだった。
まずい
。
階段へ逃げ込んでしまうのが安全か。一直線に駆け込むとなると、アメモースに無防備を晒しながら、背に攻撃をいくらか受けながらの逃走になってしまう。確実性のない賭けはなるべく避けたかった。
あるいは……こちらから仕掛けるか。勝機はわからない、が、もし切り抜けられる可能性が少しでもあるのなら。
しかしここで、出発前のある言葉が頭を過ぎった。『まずは戦闘を避けること』。軍師フォシルからのありがたいアドバイスだった。
ああ、きっとそうなのだ。自分の力がないことは嫌というほど周知の事実。なるべく逃げまわらねば、今日の依頼は、悲願の遠征メンバー入りは達成できなくなってしまう。ならば迷わず従うべき、
……ダメだ!!「“電光石火”!」
飛沫が上がった。弾けるように猛進するエキュゼの目の先は、階段ではなく、アメモースという脅威だった。
この判断が最良なのかどうかはわからない。ただ、たった一匹の挑戦で、自身の力だけでどこまで行けるかを試してみたかった。誰に対する不満でもなく、本当にそれだけだったのだ。
エキュゼは脇目も振らず標的に向かって全力で脚を走らせる。逃げるためにしか使わなかったようなエネルギーが攻撃に転じたことで本人も驚愕していた。集中線のようにぼやける景色がアメモースを視界の照準にロックする。もしかすると、初めて見る光景だったのかもしれない。
だが、そんな感嘆に都合よく共演してくれるほど現実は甘くない。前方では既に両羽に瘴気を纏わり付かせた白蛾が待機していた。強化された暴風が吹き荒れるまで秒読みの段階
!
川底を蹴り上げる。触覚が大きく風を仰ぐ。
前足を突き出した。瘴気が放たれた。
「……っ……!!」
三度目の“怪しい風”は阻止ならず。強風の前では手で煽られた羽虫のようにエキュゼは無力だった。自分が飛びついた距離よりもさらに大きく跳ね飛ばされ、苦渋の声を詰まらせて首から地面に叩きつけられた。
エキュゼの挑戦は無謀に終わる、というわけでもなかった。攻撃を繰り出した本人であるアメモースもまた、何かの痛みを受けて後退している。見ると、腹にはひとつの小さな刺し傷が出来ていた。
先にヒットしていたのは、“電光石火”だった。
派手に一回転して着地したエキュゼは、相手が怯んだことを知ってか知らずか、ぐるぐると回ったままの視界で再び直進を仕掛ける。ここまで来ればもうやけくそも同然だった。今彼女が本当に恐れているのは、戦果ゼロの撤退のみ。
眼前にぼんやりと、睨む鬼のようなシルエットが映し出された。
(炎技だと倒しきれるかわからない。あまりやりたくなかったけど……確実なのはこっち!)
勢いの乗った“電光石火”を当たる直前で中断し、前足で踏ん張って慣性を殺す。思い切り息を吸い込んだ。アメモース側も一歩遅れて“怪しい風”の発動準備にかかるが、この至近距離では間に合うはずもない。
そして技名の通り、エキュゼは、
「ヴォォォォォア!!」「!?」
“吠え”た。この世の怨念や理不尽を全て煮詰めたかのようなデスボイスで、『吠える』というより『吼える』だった。この可愛らしい見た目から、なんとギャップのあることか。「あまりやりたくなかった」の理由は相手の反応から十分にわかることだろう。
それはそうと、少女ロコンからド迫力を正面から受けたアメモースは、魔法のように後方へと強く吹き飛ばされた。普通に考えたら音によって物やポケモンが飛ぶなど考えづらいが、これはそういった効能の技なので、決して音量の暴力で解決しているわけではない。
して、彼の背の先には無駄に長い通路のみが続いていた。直線上に壁はない。ただひたすらに遠くへと投げ出され、やがて水面に落ちた。
これでなんとか階段に向かうだけの時間は稼げたはず。勝った、そう確信して回れ左をした瞬間、エキュゼは右耳に嫌な振動を感知してしまった。
猛速で羽音がこちらへと近づいてきている。
ハッと振り返った。暗がりに真っ直ぐ伸びた道からは敵の視覚情報を得られそうにない。だが、確実にこちらとの距離を詰めてきているのは間違いなかった。
やはり倒すほかないらしい。迷わず六尾でバッグからゴローンの石を
掬いだし、遠投の構えをとった。が、一つ不安が生じた。
あの速度を相手に、ゴローンの石で対抗できるのだろうか。
フォシル曰く、『近づかれる前に削り切る』がエキュゼに渡したゴローンの石のコンセプトらしいが、“怪しい風”によって倍速、三倍速……もしかすると四倍速にまで強化されたのかもしれない素早さが相手では、間も無く『近づかれ』、『削り切る』こともままならないのでは。
石を包んだ尾に力がこもる。そもそも当てられる自信もない。このまま接近されて闇の風に葬られる光景だって容易に想像できる。しかし、不思議と恐怖も緊張も感じなかった。それどころか、拍動には妙に心地よい高揚が乗っていて、ある種の幸せのようなものを本能的に享受していたのだった。
「…………行ける!」
体軸を捻って力強く一回転。石が
なんと頭上を舞った。敵に向けるはずの牙が、あろうことかエキュゼの真上を突き抜けたのだ。
だが、ゴローンの石が降下した先に真意はあった。白く輝く硬質化した尻尾を携え、重力に落とされる遠投武器を目で追うエキュゼ。そう、彼女の狙いは
「“アイアン、テールッ”!」
鉄扇の如き六尾が風を切り、ゴローンの石が火花と破片を散らして打ち出された。
エキュゼの″電光石火″と同等かそれ以上の速度で水上を平行に疾駆する小石。それはもはや『道具』というカテゴリを越えて、岩タイプの『技』と為り得ていた。食らえば普通のポケモンは無論のこと、飛行・虫タイプのアメモースにはひとたまりもない。扱いを得意とする炎より、確実な殺傷性を選んで正解だった。
直後、通路の奥から潰されたカエルのような声がか細く聞こえてきた。
「……まだ! 生きてるかもしれない……!」
いや完全に戦闘の継続ができるポケモンの声じゃなかっただろ今のは、とアベルならツッコミを入れていたであろうシーンだが、彼女からすれば興奮が祝杯ムードに変わるにはまだ早かったらしい。再度同じ動作で殺意を投入した。鈍い音が狭道に響く。何かに当たった感触はなし。少しの静寂をおいて「もう一度……」と白銀のままの尻尾を乱暴にバッグへ突っ込んだ。心なしか目が血走っている。
……静寂?
ふと我に返り、通路を向いた。あれだけ必死に阻止しようとした羽音はまるで聞こえない。ただ自身の息遣いのみが虚しく続くだけで、辺りは不気味なまでにダンジョン名を体現していた。
勝った。勝った、のに。どことない消化不良感が素直に喜ぶことを拒んでしまっている。加えて浮かんだ感想が「ああ、次の階から依頼だ」である。ただただつまらない徒労だけがエキュゼの中に残ってしまった。
ちゃぷ、ちゃぷと、水をゆっくり蹴りながら階段へと歩く。一歩手前で足を止め、おもむろに振り返った。やはり、そこには『静かな川』が広がっているだけだった。
エキュゼの口から、こぼれるように一言。
「何やってんだろ、私……」
「……仕事とはいえ、何やってんだか」
額についた水滴を拭い、アベルはぼそりと呟いた。
『滝壺の洞窟』の最後の依頼、穴抜けの玉の送達をちょうど完了したところだった。依頼主のナゾノクサの背中を見届けてから、ふらふらと壁に寄りかかり、崩れるようにして腰を下ろした。
こんなことしたところで無駄なのにな。
本当はもっと強く主張するべきだったのかもしれない。あんな子供のまま大きくなったような性分の親方に、努力とか成果だとかいう言葉が通用するはずがないと。今の『ストリーム』に抱いている印象なんて「好きなものを持ってこなかった役立たず」くらいでしかないと。そんな状態で差し迫った遠征に行けるはずがない、むしろ腹いせに行かせようとしないまであると。作戦会議前に、いや、クレーンから落選通知を受けた時点でわかりやすく全員に言うべきだった。どうしようもない過去に、アベルは俯いて後頭部に手をやる。
だが、それと同時に、勝利へと意気込む仲間たちの姿も浮かんでいた。
瞼の裏に、先導するフォシルが見える。計画した作戦にだいぶ欠陥があったり、それについて彼自身もかなり気を落としていたし、恐らく本心には顔に出せない不安があったのだろう。最初からマイペースで乗り気だったネイトも、作戦の説明を胃痛でもしてたかのような表情で聞いていたエキュゼも。
しかしきっと、ただ雰囲気に習って逆境に立ち向かおうとしたわけではないのだ。そこには多分、信念とか意思とか、各々が大切にしている何かが
つまらない言い方をすれば『理由』が目的と重なったのだろう。
それこそが無駄だというのに。
顔を上げた。反射した水面が天井で優しく神秘的に揺れている。綺麗なはずなのに、どん底でもがく自分たちとの対比になっているようで、何の罪もないその輝きが憎らしく映えた。
「くだらねえ……」
アベルの口から無意識に悪態が吐かれる。本当に何の感情もなかった。その言葉自体ですらどうでもいいと思えた。考えることも、座って呆けることも、この場にいることも、何もかもが無意義に感じた。
ただ一つ、帰ろう、とだけ思った。
怠そうに上半身を曲げ、立ち上がることさえ渋るようにそのままの体勢で暫し停止、そしてようやく腰を持ち上げた。無秩序な凹凸に背中を預けていたせいか体の所々が僅かに痛む。ああ、というかそれだけ長く無警戒を晒していたのか。周回遅れの危機感から冷静さが意識下へと戻る。ダンジョン内で自棄になるなど探検家にあってはならないことだった。
「……まあいい。帰るか。ああそうだ、確か、」
穴抜けの玉は、と言いかけて、アベルは再び動きを止めた。
手ぶらだった。依頼の道具は全て届けたのだから、当然だった。
……冷や水を脳天からぶちまけられたような気分だった。おかしいな、脱出用の穴抜けの玉は確かに商店で買ったはずなのだが。何となくそうなった原因は察していても、先の展開を考えると間違いであってほしいという願望が現実逃避を加速させる。言い訳のような思考は回りに回り、最後の望みが「どこかに落としてきたのかもしれない」に絞られたところで、しかしわざわざ戻る方が面倒だと真っ当な判断に至った。もう、己のミスを受け入れる他はない。
アベルは依頼に必要な穴抜けの玉一個を調達したことで、帰還するためのもう一個を購入し忘れていたのだ。
「さて」
妙に落ち着き払った調子のアベル。何が「さて」なのだろう。時折天井から滴る露音より小さく張りのない声だった。冷静が一周回って諦めに変わった様をとてもわかりやすく実行していた。
歩を止め、口を噤む。今まで全く意識していなかった環境音が透き通って頭に入ってくる。秘境でしか聞けない自然の荘厳さというか、なんというか。そういえば初めての探検でここを訪れた時は秘密の滝の調査という目的で来たのだった。懐かしい。
思えばあの日の探検はかなり無茶があった。滝に飛び込むなんて馬鹿な真似を全員で行ったり、その過程でネイトだけ滝壺に落ちたり、ネイトが中々意識を取り戻さなかったり、開幕からの落とし穴にまたしてもネイトが落ちたり、お尋ね者を自称する馬鹿と会ったり、ネイトが天井から落ちてきたり、ようやく奥にたどり着いて、そして、……。
宝石。水。外。脱出。
「…………やるか?」
アベルの目には、既に水難が見えていたのであった。
「
で、エキュゼは四つ全部依頼を達成したのか……すげーじゃん!」
「うん! 大変だったけど、バッグがあったから私でも勝てたよ」
茜色の空が青み始めた頃、ダンジョンから帰還した『ストリーム』の面子はギルドの地下一階に続々と集まりだしていた。顔を合わせてひとまず仲間の無事を確認した指揮役のフォシルは、気になるそれぞれの成果を聞いているところだった。
「よくやった!」惜しみなく賞賛を送り、もう一匹の方に振り返った。
「アベルはどう……
どうしたお前?」
今この場でフォシルの目の前にいるキモリというとアベルしかありえないのだが、数時間前の彼とは程遠く、表皮は艶やか、背筋はピンと伸び、なんというか清潔感が段違いに上がっている。「どうした」より「誰だ」の方が適切だった気もする。それほどに赤の他人の見た目をしていた。
無表情でアベルらしき生物が口を開く。
「……健康になった」
「ええ?」
「温泉で健康になってしまった」
「おんせ……い、いや待て、依頼はどーした?」
「全部終わらせたが、ゆっくりしすぎて依頼人が報酬渡す前に帰った」
「う゛ぁっ……!!」 お尋ね者でも傷一つ付けられなかった屈強な灰色の身体が、ここにきて遂に仰け反った。
一仕事終えて湯船に浸かっていたら礼品を受け取り忘れた、これがフォシルの頭に入ったアベルの結果報告だった。一時も気の抜けない状況下でなんというふざけっぷりか。こんなしょうもないミスが敗因になってしまったら泣くに泣けない。
ただ、エキュゼは『温泉』という単語からある程度事の成り行きを予想できていた。面倒くさがりのアベルのことだから帰りにわざわざ寄ったわけではない、多分あのスイッチのことだろうと。ポケモンの技では到底不可能な大迫力の激流と、全身を容赦なく飲み込んだ天然水の冷たさが蘇る。苦い記憶に思わず「ああ……」と密かに同情を送った。
「ぐ……そ、そうか、オメー
も……いや別に責めちゃねーんだ。よく頑張ったな……」
「待て。『も』ってなんだ」
「あのねアベル、実はフォシルもその、受け取れなかった、みたいで」
全てに対して無関心だったアベルの目つきが一転、大きく見開かれた。
意外すぎる新事実である。チームの頭脳であるあのフォシルが、まさか自分と同じくつまらない失態を犯していたとは。やはり作戦会議のミスを引きずっているのだろうか。何があった、とアベルは珍しく深刻そうに尋ねた。
「依頼は順調だったんだが……すまねー、九階の救助依頼だけ報酬受け取り損ねちまって」
「……まさか、忘れてたのか?」
「ああ。仕留めたお尋ね者にビビったみてーで、ギルドに転送されてすぐ逃げ帰ったらしい……」
「そっちか」
目を背けて、小さく安堵のため息をつくアベル。
話を聞くに、フォシルではなく依頼主サイドがお礼の受け渡しを忘れていたとのこと。アベルはてっきり、メンタルの疲弊から彼が再びうっかりをしてしまったのではないかと憂いていたが、そこは最高戦力、やることはしっかりこなしていたようだった。
あまり芳しくない報告の連続に、三匹はやや消沈していた。成果としては既に普段の倍以上の収穫が出ているわけだが、それでも思い描いていた完璧な理想には程遠く、どことないしこりが残っている。三匹はそんな不完全燃焼に敗北を感じずにはいられなかったのだ。
「……あ、あの、ネイトって、まだ、なのかな」
男衆に代わって話を切り出したのはエキュゼ。唯一彼女のみは綺麗に依頼を終えているため、この中では一番マシな面持ちをしていた。アベルとフォシルは、ああ、と気の乗らない声で顔を少し上げた。
「ネイトかー。ネイト……あれ、アイツって『海岸の洞窟』だよな? すぐそこの」
そういえば、このチームで最強の不安要素こと、ネイトが未だ姿を現していない。エキュゼは彼を気遣い、せめてもの対策として近場でなおかつ攻略済みのダンジョンを選ばせたのだが、どうも予定外なのは相変わらずらしい。これだけ帰りが遅いと、またしても、またしてもか。
「もう嫌な予感しかしない」
アベルが口に出さずとも、ネイトの話題が出て五秒も経たず、全員が事故を確信していた。
ある意味信頼の厚いリーダーである。
海岸に、黄金色が満ちていた。
夕陽の橙をさざなみが撫でるように揺れ、砂浜に軽く触れてはきらきらと濡らして引いてゆく。そんな自然の神秘とも言える情景が、一時たりとも休むことなく続いていた。
浜辺の端で、小さな影が海を向いている。彼は何をするわけでもなく、燃える光にただじっと目をやっていた。半身浴の黄昏にどんな思いを馳せているのだろうか。逆光によって黒く染まった背からは、どこか拭えない孤独や、あるいは底の知れない闇すらも感じられた。
ふと、影が何かに気付き、右を向く。すっと立ち上がった。
その先からは、新たに三つのシルエットが彼の方へと歩みを進めていた。
波音。
キャモメの鳴き声。
腰回りを軽く払う動作ののち、影は頭上に伸びて左右に踊る。子供が無邪気に笑うような、喜びの仕草。
三つのうち、先頭に立っていた一つが、大きな尾っぽを上下に揺らしながら。その期待に答えんばかりに、小走りで近づいてゆく。
そして、
弓を引くような構えから、
そのままの勢いで、影が正面に伸びて。
小さく宙に浮いて、少量の飛沫が散った。
曰く。
幸いなことに、ダンジョンに入って最初の、『二階のムックルに大きなリンゴを届ける』依頼は無事終わらせられたようだった。が、それ以降の道具の探索依頼に具体的な階層の表記がなかったため一時中断。記憶から解決方法を検索するも、悲しいことに綺麗さっぱりノーヒット。結局、元々ない頭をさらに空っぽにするとかいう全く無意味で理解不能な動機で、気分転換という名目のもと、海岸で座り込んでいた。らしい。
ボーッとしていたことはさておき、どの階が目的地なのかがわからなかったのは記入漏れのせいなのでは、なんてことはない。依頼はあくまで『探索』であり、探し出すことさえできれば持ち帰って依頼主に渡し、それで終了となる。最悪ダンジョンに潜らずとも指定の道具さえ所持していればギルドに直行しても良いのだとか。なんせ、この系統の依頼人の大半は「欲しい」が目的なのだから。
ともかく。やはりというか、ネイトの仕事も散々な結果で終わったのだった。
「でもさあ、わかんなくない?」
夕食を終え、部屋に戻るなりネイトが口を開く。どこか呂律が回っていないのはこめかみに受けたアベルの怒りのストレートによる影響か。食事の際にも時折さすっていたので、骨越しとはいえ相当強い衝撃が入ったのだろう。
皆の呆れたような視線を受けながら、アホは話を続ける。
「どうせギルドに出すならダンジョン名とか書かなくても、ただ『これ欲しいです!』って一言書いといてくれれば簡単に終わる気がするんだけど。どう?」
「反省しろ」
「うええ? いやでも」
「反省しろ」
「あい……すみませんでした……」
どんな意見を述べようと、今のネイトに許された言葉は『ごめんなさい』か『すみません』のいずれかでしかなかった。アベルの謝罪要求に数秒で屈したネイトを見て、順当だな、とフォシルが苦笑する。ああ、出発前の英姿はどこへやら。
しかし、ここでエキュゼのカバー、
「でも二人も失敗しちゃったわけだし……ほ、ほら! おあいこってことで……」
「「一緒にすんな」」「う……ご、ごめん……」
は圧力によって失敗に終わった。無理もない。チーム内における「ネイト」は
蔑称も同然であり、いかなる理由があろうと一括りにするのは最大限の侮辱と見なされるのだ。そんなものを安易に誰が受け入れようか。おのずとツッコミ役のエキュゼも、ネイトと同じく謝罪の言葉しか許されない立場になってしまった。
深くため息をつくフォシル。が、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「……つってもまあ、ミスったのはダンジョン外だし、ダンジョン攻略自体は別に問題なかったってことだよなー。これってすごくねーか?」
他が強烈過ぎて全く話題に上がらなかった生還報告。
そう、本当に忘れられていたが、味方の暴行によって負傷したネイトを除いて全員が無事にダンジョンから抜け出している。戦力の分散、タイプ相性の不利、色々な問題を背負っていたものの、采配や事前準備の甲斐もあったのだろう。しかし、対策さえ取れば単騎出撃でもダンジョンを突破出来るという驚きの事実が判明したのだ。
出発前に抱えていた一番の憂鬱は、なんてことのない再会によってさりげなく解決していた。
対するネイトとエキュゼの反応は。
「すません……」
「う、うん……ごめん」
「え? あいや、もう謝んなくても……オレも悪かったし」
強めの言い方が効いてしまったのか、じっと固まって自粛モードの姿勢。やれ切り替えが悪いというか、ネイトに関してはおそらくボケか何かだろう。エキュゼの方は引きずってしまいそうで、むしろフォシルが申し訳なさを感じることになった。最初は褒めるつもりが、なぜか急遽謎の謝意交換会が開催されてしまっていた。
だがこの男、アベルは、ノリや流れがどこへ向かおうと己を貫くつもりで。
「俺は謝らない」
「オメーは謝れ!」「アベルも報酬受け取り忘れたでしょ!」「僕には謝ってほしいかなあ」「すまんかった」散々な言われように二秒で陥落した。
先行きの暗雲に拍車がかかる騒がしさと、実りの悪い成果の中で、一同は夜を迎えるのだった。
遠征メンバー発表まで残り二日。方針こそ決まった『ストリーム』だが、まだ迷いを捨てきれない者が
約二名。