第35話 選ばれなくても
明くる日。
弟子入りからそう長くない駆け出し探検隊、『ストリーム』の部屋には、四匹分の屍がうつ伏せで並んでいた。
いきさつの説明として、昨日の出来事を簡潔にまとめよう。
セカイイチと呼ばれる馬鹿みたいなリンゴを収穫するために『リンゴの森』へ赴いたネイトたちだったが、奥地で『ドクローズ』(おまけにネイト)にこっ酷くやられ、ようやく帰ってこられたかと思えばルーの暴走で生と死の境目に立たされ
。
引っくるめて言えば、心身に深いダメージを負った。
頭骨を被った死屍が、むくりと起き上がった。
みんな、生きてる?
「応」。ものは態度で示せ、の根性で、生気を失ったポケモンどもが次々と上体を起こす。面白いくらいにのろまな動きが、逆にこの世ならざる者を彷彿とさせていて足も竦みそうだ。ジャンルさえ違えば名優の地位だって夢ではなかっただろう。それくらいには、生きているポケモンの動きではなかった。
しばしスタートアップの硬直で場の進展はなく、その少し後、最初に視界のモヤが取れたロコン、エキュゼが窓辺の陽光に目を細めながら呟いた。
「……もう、朝礼の時間?」
「ううん、まだ早い」
そう、とため息を含んだ小声で返すなり、睡魔か何かに押しつぶされるようにして再び崩れた。鼻先からズボリと突っ込み、藁のベッドから埃のようなくずが舞い上がる。相当疲れが溜まっていたのか、一秒でも長く意識を手放していたいようだった。
そんな彼女と入れ替わるようにして、アベルとフォシルがゆっくりと立ち上がる。いずれも倦怠な細目で、やはりこちらも疲労が抜け切っていない様子。
不機嫌そうに伸びをするアベル。
「お前が言ったのは生存確認の方か。それとも、『起きてる?』のボケか」
「両方」
「死ね」
「目には目を」の要領のつもりか、短いセリフには二字で。単調さ故に適当な返しにも思えるが、同時に的確であり、アベル自身の心象をよく表していた。多分、そこまで計算した上での発言ではない。
でこに手を当て、うう、と呻くフォシル。
「ルーの部屋行った後の記憶がねーんだけど……」
「ん、アベルに聞いてみれば?」
「聞くなやめろ」
恨めしげな低音で答えるアベルの顔を、フォシルは片目だけで覗き込む。激怒、裏切り、絶叫、戦闘
断片的に浮かんだ荒ぶるシーンの数々から糸をつなぎ合わせ、果てに見えた結論に「あああ!」と口を大きく縦に開いた。
思い出した、あの激情の大乱闘を。分厚い頭骨の内側がズキズキと痛む。「頭を下げろ」の令に対し、異論の一つも口に出さず従った馬鹿二匹の情けない直角が、色あせた怒りが、映像と共に蘇った。そしてその慣性のままに、是か非かなぞ問わず、眼前で目を丸くしていたキモリを頭突きで地に伏せさせた。
「うぉあ……まあ妥当っちゃ妥当だけど」
「オメーもだボケぇ!!」 「うわあああ」明らかな敵意に、ネイトの口から悲鳴が飛び出す。『ドクローズ』に屈したのはアベルだけではない。今まさに襲われている彼こそが、第二の馬鹿。さり気なくトボけていたが、自身が制裁対象であることまでは誤魔化せなかった模様。
一夜明けの仁義なき闘争が、再開のゴングを鳴らした。
その後、『ストリーム』を叩き起こしに来たギガが見たのは、並んで地に突っ伏したエキュゼ、アベルの背と、どういうわけか右側の壁に頭を深くめり込ませて手足をだらんと下げたフォシルの姿と、そして
両腕を上げて勝利のポーズを掲げるネイトの英姿だった。
「えー、今日の連絡はー……ん、待て」
今日も今日とて気怠い朝礼。無心でテンプレートの台詞を並べるクレーンだったが、目に映る像には僅かながら違和感、何かが欠落していると感じた。
上下の視界を絞り、右から左へゆっくりと弟子たちを横に流していく。ロス、ドンフリオ、クライの助っ人三匹に、トード、ラウド、ジングル、リッパ……なんだ、全員揃っているではないか。そう思いかけた矢先、いやに静かなカラカラの顔が目に入った。
『ストリーム』の面子がいない。
「あー……ネイト、他のメンバーはどうした?」
「えーっとね」
違和感の正体は、普段なら鬱陶しく感じる騒々しさだった。ネイトを取り巻く仲間たちは今やおらず、故に会話が発生しないのも必然。馬鹿話に慣れてしまっていたせいか、静閑とした始まりが変に思える。
クレーンの問いに、少しだけ考えたネイトは、
「エキュゼが寝坊でー」
「ふむ」
「アベルはフォシルにノックアウトされて」
「ふむ」
「フォシルは僕が倒した!」
「ふむ」
嘘偽りのない事実だが、
日常が病的なせいでいまいち信用されているかどうか。その証拠とばかりに、クレーンの反応は感慨もなく適当に頷くというものだった。
周囲がざわつく。エキュゼの「寝坊」が理解の許容範囲なのはわかる。しかし残り二つはというと、状況を想像する方が難しいだろう。同じ床で寝る者同士が、目覚めて数十秒で殴り合いに発展するなど、チンピラでもそうそうない。至って平然と話すネイトに向けられる視線は当然の因果と言える。
このぶっ飛んだ報告に対し、クレーンも少し考えてから、
「まあ、仕方ない。次から気を付けるんだよ」
何がどう仕方ないのか、弁明もなしにちゃんちゃんで済ましてしまうのはいかがなものか。それとも、『ストリーム』のパターンは慣れっこという余裕の表れか。ネイトの斜め上をゆく対応に、ドンフリオですら「ヒエッ……」と声を漏らした。
「えー……では、連絡に入ろう。遠征について」
どうやらこの件については本当にスルーの方針らしい。何事もなかったかのように本題へ軌道修正するクレーン。大丈夫か。
あれこれツッコミポイントは残ったままだが、重要な話となれば黙って聞く以外の選択肢はない。弟子たちの中で静かな盛り上がりを見せていた『ストリーム』の朝事情も、クレーンの一声で急遽打ち切りとなった。
「明日か明後日、もしくは
明々後日辺りに、遠征のメンバーを発表しようと思う」
わあっ、と再度盛況。各々の努力が発表される日が、満を辞して決定されたのだ。
対してネイトはどこか歯切れが悪かった。彼らと同じくそれなりに頑張ってきた身だが、やはり昨日のミスが大きく響いたせいか、困ったような苦笑での反応。他称・「馬鹿」の彼でも、今の自チームの立場はしっかりと理解していた。
「えーというわけで。みんな、これが最後のアピールタイムだ。メンバーに選ばれるよう、残り数日しっかりと頑張ってくれ」
「「「「「「「「おおーーーっ!!」」」」」」」」
やる気をそのままそっくり投影したような返事に、迅速な流れ解散。これはあの『ドクローズ』にも当てはまることなのだが、ここいらのポケモンたちは行動力の塊みたいなのが多い気がする。一歩一手に迷いがないというか、素晴らしく純直だ。
……迷いがない、なんて、何故思ったのだろうか。彼らは普通に行動し、普通に生活し、ただそれだけの当然の事柄に、何も新鮮に捉えることなどありもしないはず。
だがそれは、非日常的な夢物語のようにも見えてしまったのだ。
躓くことこそが世の中の常、と彼の中で定義付けられたわけでもないのに、目の前のありふれた光景に不思議と疑問を持ってしまった。
人間の頃の僕はどうだったんだろう
失われた記憶に小さく問いかける。静かに考え込み、万全の集中力で答えを待つ。
返事は、聞こえなかった。
「…………ぁ」
思わず小さな声が漏れ出て我に返る。既に弟子らの大半は広場から姿を消しており、ネイトのみがポツリとその場で立ち尽くしていた。
もう一度思考を巡らす。クレーンの話を無い頭で出来る限りまとめ、少し落ち着いたところで次の行動へ移そうと。しかし、またしても思い留まる。
みんなにはなんて言おう。
遠征メンバーの発表が近い、ただそれだけを言えば情報としては十分伝わる。ネイトにしてはまとまっていて無難だ。
だが、彼が発したい内容は、話の根幹はもっと先へ進んだ場所にあった。「助っ人」による妨害、超重要依頼の失敗
ここから精鋭と肩を並べられる可能性は限りなく低いわけであって、それがわかった上で残り間もない日々を如何にして過ごそうか。
諦めの堕落。不退の前進。答えは二つに一つ。
と、
「……あれ? 朝礼終わっちゃった……?」
「げ」
選択を迫られた矢先に、斜め後ろから聞き慣れた少女の声である。見ればエキュゼだけでなく、彼女の後にはオス二匹も牽引されるようにふらふらと登場した。
『ストリーム』、勢揃い。
「あー……色々言いてーことはあるが、ネイト。とりあえず、急に暴れ出してすまんかった。あの時のこと思い出したら頭に血がのぼっちまって」
「え? ああああうん、全然だいじょうブイ!」
「おい、謝る相手はコイツだけじゃないだろ」
きょとんと、申し訳なさそうにと、焦燥しながらと、黒い声を吐きながらと、それぞれが噛み合わない感情で顔を合わせた。状況の整理どころか、からみにからんで雁字搦め。これはややこしいことになったなと、フォシルに笑顔で対応しながらネイトは内心で嫌な汗を垂らしていた。
「……んで、こんな話の後で悪りーんだけど、なんか連絡とかはあったか? あるいは
昨日の一件について、個人的なやりとりとか」
「あ、え、ええっと、」
「俺は無視か」
「わ、私が寝てる間に一体何が……?」
怪奇的な作品を主とする画家の総集にだって、まだ癖というか、統一感の欠片は僅かにでもあるだろうに。こちらはチームという枠組みが作られていながら、呆れるほどに意思疎通が困難であった。
ただし、今回における交信は背景がやや複雑なこともあって、仲間割れや血祭りとはまた別の方向で困窮を強いられることも事実だった。
切り出しの言葉も、タイミングすら失った今、ネイトはただおろおろと「あ」とか「え」といった端々の声を出すことしかできない
と、そんな八方塞がりだった彼に、ちょうど一隻の助け舟が。
「……オホン。全く……寝坊しておいて、随分自由にやってくれてるじゃないか」
「なんだテメエ」 わざとらしい咳払いを一つ、独り言でもするような口調でクレーンは『ストリーム』に近づく。普段通りの言い回しで注意をしてくるのは彼なりの気遣いだろうか。視線がクレーンに集まる中、ネイトは一匹胸をなでおろしていた。
が、そこはアベル。信頼だとか地位だとかは知ったこっちゃない。チーム内で相手にされなかった鬱憤が毒舌にブーストをかけ、しょっぱなから最低のスタートダッシュ。ほっと吐いた安堵のため息が引っ込んだ。
「今日も掲示板の依頼を受けてくれ。たのんだよ」
ところが、当の一番弟子からのリアクションはゼロ。常人なら怒鳴り声でまくし立てたくなるような無礼ですら、彼にとってはもう慣れっこだったようで。
煩わしい小言が聞きたかったわけではないが、何も反応がないと来ればそれはそれで不気味だった。若干の不信感を背中に残しながら、ネイトら四匹はその場を後に
しようとした。
「あ、そうだ。言い忘れていたが、」
一歩踏み出し、首を回す。
「お前たちが遠征メンバーに選ばれるのは諦めておいた方がいいぞ」
短い驚愕ののち、二歩下がった。
十数時間前に犯した失態がやけに際立ってしまっているが、遠征の予定が発表されてから三日間、ミスらしいミスもなく、むしろ順調だったのだ。ほんの半日前までは。
態度が悪いとか礼儀がなってないといった理由があるのなら受け入れるしかない。しかし、彼らはこの期間内の仕事を七割がたはこなし、表には出ていないものの、『ドクローズ』への対応だってあれこれ苦悩しながら処理してきたのだ。
だから、クレーンが放った無慈悲な一言だって、きっと聞き間違いに、あるいは何らかの語弊が生じただけに過ぎないはずだ。彼らの努力をそう易々と無下にするはずなど
。
「……もう一度言って、くれ、る?」
「だから、メンバーに選ばれるのは諦めておけ、と」
刺々しい一字一句が耳の中をリフレインする。バッドエンド直行の問いかけで大いに自爆したエキュゼは、“へびにらみ”を急所に受けてしまったかのように凍りついてしまった。
瞬間、フォシルですら固まり絶句した。が、即座に言葉の意味を飲み込み、仇は取る、とでも言わんばかりにいきり立った。
「おい、待てよ! んな思い当たる節も……け、
結構あるけどよー」
抗弁、失敗。本当の敵は己の正直さにあり。
ミスらしいミスはなかった、と前述したが、それらはあくまで総合的な評価であり、随所にはマイナスポイントが存在した。思いの外多く。
例を挙げると、朝礼の連絡時に全く話を聞いていなかったり(28話)とか、ギガの起床呼びかけに対して反抗したり(29話)とか、クレーンが見ている中でリーダーを集団リンチしたり(30話)とか。エトセトラ、エトセトラ。
しかし、不合格通知の真意は態度うんぬんではなく、もっと単純で、呆れてしまうような理由だった。
「いや、思い当たる節も何も、昨日の失敗が大き過ぎたんだよ」
「そうなの?」
うむ、と頷くクレーン。
「親方様は普段からあの調子だから一見何を考えているかわからないが……セカイイチのこととなれば、
腸が煮えくり返っていてもおかしくはないだろう」
つまり、最終的に自分たちを精鋭の圏外へ追いやった犯人は、たった一個のリンゴということか。たかが一個、されど一個
なんて表現で誤魔化そうにも、あまりに情けない敗因だ。
アベルは思う。そもそもあんなものは贅沢品ではないか。報奨金は散々ケチっているくせに、無駄にコストのかかる「おやつ」なんぞ要求しやがって。ましてや、そんな無茶苦茶な物恨みで候補から落とすなど。考えれば考えるほどに理不尽な要素ばかりが浮き彫りにされる。
度重なる不条理を受けてか、気が付けばエキュゼの目尻には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。斜め下四十五度に俯き、小刻みに震える歯を食いしばる。
そんな彼女の痛ましい様子を、一本の刺すような視線が捉えた気がした。
「だから、まあ……発表の日はあまり期待しないでおくれよ」
それは、指導役としての不器用な気遣いだったのかもしれない。悪意も深い意味もない、ありのままの一言でしかなかったのかもしれない。
だが、逆境を強いられ続ける聞き手としては、そんなことを冷静に分析できる余裕なんてなかった。
「黙れ。知るか、もうどうでもいい」
「アベル……」
ぼそりと名前を呟いたネイトを除いては、誰も次の言葉を紡げない。現状が心を砕いて、思考をかき乱して、意思ある生命体としての形が壊されてしまっているようだった。
数秒の沈黙を経て、クレーンは「そうか」とだけ返し、上階への梯子の方へと去っていった。彼もどこか、心苦しさがあったように思えた。
残されたのは今後の方針についての課題と、重苦しい雰囲気。リーダーとしてネイトは何をするべきか思案したが、そうそう上手く切り出し口は浮かばないもの。とりあえず、口だけでも開いてみよう。すうっ、と短く息を吸い、適当なことを発してみようとした。
と、それとほぼ同時に、
「おーい、ちょっと〜……」「……ん? 誰だ?」
どこからか、ヒソヒソとした聞きづらい声が聞こえた。いち早く気付いたフォシルが先に食堂側を見て、釣られるようにしてネイトたちも同じ方向を向いた。
三匹のポケモンが、こちらに視線を注いでいた。
「こっちでゲスよ〜」 その数に嫌な予感がよぎるも、ゲス、なんて語尾につけるヤツなど、知りうる限りでは一匹しかいない。キマワリのフラ、チリーンのジングルを率いたビッパのアレスが、何を警戒しているのか、しきりに辺りを気にしながら小声で『ストリーム』に呼びかけているようだった。
はてさて、またしても厄介ごとだろうか。あるいは『ドクローズ』のような
いや、彼らに限ってそんなことはありえない。様々な疑念が傾げた頭の角度に表れてしまっているが、ひとまずネイトはアレスに一声投げかけてみた。
「……どしたの? そんなところで」
「しっ! もっと小さい声で話すでゲス」「え? なんて?」
聞き取りにくいのはよくわかるし、そういった反応も致し方ない。だが、日常的に空気を読まない馬鹿野郎がこうすると、何故だろうか、
研ぎ澄まされたボケとも捉えられてしまうような。
と、そんな馬鹿に当てられた冷たい視線はともかく。弟子三匹は再度右を左を確認し、忍び足かつ早歩きでネイトたちの元へと近づいた。
「ちょっとこっちに来るでゲス」
つまり、人目のつかない場所へ呼び出し
なんて、わざわざネガティブ思考を張り巡らせる必要なぞなかろうに。それでも「何か裏があるのでは」と妙に勘ぐってしまうのは、立て続けの不幸に大きく心を折られてしまっている証拠か。
フラとジングルが先導し、向かう先は『ストリーム』の部屋。疑心暗鬼の心境では正常な判断もままならない状態だったが、
殿で未だ周囲を注視するアレスの真剣味溢れる表情からは、これといったやましい気持ちは感じない。緊急を要するような情緒に若干気圧される形で、そそくさと着いていった。
借り物とはいえ、現在この部屋を使用しているのは『ストリーム』であり、寝床という括りに止まらず、彼らのプライベートルームとしての機能を果たしていることは間違いない。
故に、モーニングコールや直々の呼び出しを除いて、基本的には他者に立ち入られることのない領域なのだ。事実、この場に来客が来るのはお初である。
して、彼らは初めて気付いた。
狭い。 もっとも、大人数を小分けに収容するための部屋なのだから、一部屋あたりに住まえる、想定された頭数は少なくて当然だ。当然なのだが、キマワリとチリーンを加えた自室はいかんせん窮屈すぎた。
プラスもう一匹。
「……ふう。トード以外には見られてないようでゲスね……」
最後尾で警護役を担っていたアレスが、小部屋に到着するなり安堵の息をつく。
おいおい、その言い草だとオレたち犯罪集団みたいじゃねーか。思わず喉まで出かかった声を、フォシルはなんとか押さえ込んだ。万一図星だった場合、収拾が面倒なことになってしまう。
ネイトたちをここへ集めるという目的は彼らの思惑通りに進んだと見える。……が、この恐ろしいまでの
人口密度は考慮されていたのだろうか。二者の間にはピカチュウ一匹通行出来そうな隙間こそ空いているものの、あまりに狭い。夜が明けてから大した時間も経っていないはずなのに、真昼間同然の熱気が辺りを包んでいた。
エキュゼが小さく鼻をすする。重く閉ざしていた口をようやく開いた。
「……それで、何の用、なの……?」
そう、それ。
居住上限を超えた圧迫感だとか、「元より狭苦しいからどうにかしろ」みたいな改善案だとかの話ではない。本題は彼らが何をしに来たか、である。流石はエキュゼ。ツッコミ役らしい真面目な観点のおかげで、なんとか道を見失わずに済んだ。
「はい。これ」
そう言って、フラが肩掛けのトレジャーバッグから差し出したモノは、なんと
「え? リンゴ?」
一瞬セカイイチかと目を疑ったが、出されたのは健康的な赤色の、平凡で食べやすいサイズの、それでいて普通の『リンゴ』だった。
ポカンとするネイトを尻目に、あらかじめ用意されていたのか、人数分のリンゴが次々と置かれていく。確か、前にも同じような行動を起こした野郎がいたような。もっとも、あんな
ド失策と一緒にするべきではないだろうが。
「お腹、空いてますでしょ?」
「あ……」
ジングルの一言で、エキュゼはようやっと、彼らの目的が『ストリーム』への懇親であることを把握したらしい。短く発された声は、ありもしない疑いの眼差しを向けていたことに対する自責からか。もう一度鼻をすすると、後悔でもするように俯いてしまった。
「みんなで夕飯を少しずつ残しておいたんでゲスよ」
「ささっ、遠慮しないで食べてー!」
「お、オメーら……!」
続くアレス、フラの言葉で、思わず感涙の声を上げるフォシル。
昨夜、飯の時間。話や行動は表に出なかったものの、ネイトたちが夕食にありつけなかったところを彼らは見ていたのだ。事情はともかくとして、空腹に困っているであろう仲間を助けたい。ただその一心で、自身の食事量を減らしてまで、こうして後輩にリンゴを振る舞おうとした。
なんて美しい思いやりなのだろう。これでは好意を受け取らない方が却って無礼だ。もっとも、元より礼儀の「れ」の字もない彼らなら、まず遠慮なぞしないはず。
が。
「え、えっと……ごめん、あの、あ……いや、後で食べるね。ありがとう」
何故だろうか、歯切れが悪い。エキュゼの歯切れの悪さはこの時に限った話ではないが、普段のそれとは訳が違うというか。
しかも彼女だけでなく、ネイトも同様に反応がおかしかった。いつものように「うひょひょ〜♪」と喜べばいいものを、今回はどうしてか、頭骨を掻きながら目を泳がせていた。愉快な口も、エキュゼより物静かを保っている。
未だ不機嫌が治らず、露骨に視線を逸らし続けるアベルは平常運行。「ありがとなー!」と見てる方が腹一杯になりそうな満面の笑顔を浮かべるフォシルは、チーム内で唯一まともな対応……に思えたが、僅かに頬が引きつっており、隠しきれない動揺が垣間見られた。端から誤魔化すためだけの笑みだったのかは不明、しかしその誤魔化しですら引きつってしまっているとなると、その懸命な努力も
ネイト並みのボケにしかならなかった。
妙な気まずさには、記述すべき明確な理由があった。
一つ目は、同席しているアレスたちとの距離。一部屋に密集しているだけあって、近い。そんな中で食事をおっ始めれば、果汁や食べかすやらなんやらが
これ以上は言わないでおこう。ともかく、衛生面の配慮やモラルに欠けると考え、そう簡単にお言葉に甘えることは出来なかったのだ。
二つ目、
そもそも腹は減っていない。
というのも、昨晩、ネイトたちには秘密で外出したフォシルが、抜かれた分の夜食を、閉店間際の『カクレオン商店』でリンゴを買ってきてしまっていたから。腹を膨らし、さらにお釣りがくるくらいには満たされていた。
つまり『ストリーム』は。晩飯は抜かれたが、食べてはいたのだ。
「い、いやー! マジで助かったぜ! さんきゅーな!」
「よかった!」
「困ったときはお互い様ですわ!」
「頑張ってみんなで遠征メンバーに選ばれるでゲスよ!」
なので、食物は本来不要だったわけなのだが、気持ちだけはありがたく受け取りたいところ。フォシルは精一杯のスマイルで感謝を伝える。きっと本心。
とりあえず、飯うんぬんについては事なきを得たと見ていいだろう。が、しかし。アレスが最後に放った激励の言葉
『遠征』の二文字を耳にして、エキュゼは再び憂鬱な顔色になってしまった。
虚無を映していた黄色の瞳が、ギロリと。弟子らに眼光を向けた。
「お互い様、か。よくもまあ、そんな綺麗事を吐けるな」
「おいアベル、」
ああ、またしてもアベルだ。なんのためらいもなく和を腐食する毒を飛ばせるヤツなど、彼しか存在しない。
このまま看過すれば、事が悪化するのは火を見るよりも明らかだ。フォシルが横槍を入れて止めようとするも、思うがままに任せて口走るアベルは止まらない。
「あのな、俺らは一番弟子様からお先に落第通知を受け取ってんだよ。頑張ろうが関係ねえ、後はお前らの背中を見送るだけだ」
「おまっ……いい加減にしろよ!」
そんな彼に激情させられてしまうフォシルも、またしても、またしてもといった感じだが。非があるのは間違いなくアベルの方だ。彼ら三匹の純粋な気遣いを吐き捨てるように毒づいたりすれば、フォシルでなくとも嫌な気分になる。現にエキュゼは横目でアベルを睨みつけていた。
しかし彼らは、自分たちの予想を遥かに超えた聖人だったのだ。
「落ちるかどうかなんて……そんなの、まだわかんないでゲス!!」
「そうよ! まだメンバーは決まっていませんわ!」
それは、どこまでも
直向きで、どこまでも前向きな。鬼の形相で迫っていたフォシルも、不機嫌に顔を歪ませていたアベルも、これには流石に冷めるしかなかった。
『ストリーム』は、既に通告を受けている。例えるならば、崖っぷちのその先
風を受けて落下中、そんなところか。助かる見込みはほぼほぼないわけだが、それでも何か、手を伸ばせば掴めるものがあるかもしれない。そして、這い上がれるかもしれない。アレスの言う「まだわからない」とは、そういう無茶振りを指していることになる。
対して、ネイト側はあい分かったと易々頷ける余裕なんかは当然あるはずがない。なのに、彼らがあまりに真摯だからだろうか、不思議とポジティブな思考がインプットされていく気がした。
絶望に彩られた消沈の倦怠感と、まだ届くはずだ、と背中を押すような期待が複雑にせめぎ合う。エキュゼはゆっくりと頭を上げると、心情をそのままそっくり映したような浮かない顔持ちだった。
栗色の半目が、正面を向いた。
「でも、あなたたちは」
小さな口から弱々しく、けれども語気ははっきりと。
「仮に私たちが受かっちゃったら、代わりにあなたたちが落とされるかもしれないんだよ」
遠征は選抜式。故に、定員上限が設けられていてもおかしくはない。弟子たち全員が能力を認められてめでたし、とはいかないはず。
つまり、彼らは仲間であると同時に、精鋭の座を狙うライバル同士でもあるのだ。蹴落とすべき対象に塩を送るような真似をして、本当に良かったのか。エキュゼにとっては不思議でならなかった。
首を振るフラ。
「もちろん、それはよくないですわ」
流石に探検家の端くれ、後生相手であろうと譲れぬ道はある。
「確かに、誰かが選ばれれば、別の誰かが落ちることになるんですけど……」
世知辛いが、ジングルの言う通りだ。精鋭を選び抜く以上、弟子らは、仕事が出来る者、出来ない者の二通りに分別されなければならない。手に取られるのは当然前者。
そんな環境だからこそ、他者を気遣う余裕なんかあるはずが。
「でも、そのときはそのとき!」
「もしそうなっても、今度は選ばれた方を応援すればいいと思いますわ!」
ああ、なんて。なんていいポケモンたちなのだろうか。
どんな状況に置かれようと最善を尽くそうとする姿勢にエキュゼは感銘を受け、胸奥の濃霧に、脳裏の暗雲に、燃えてしまうほどの強い光が差し込んだ。あまりに衝撃的だったもので、口を開いて言葉を紡ごうにも、声を出すまでには至らなかった。
「みんなも『ストリーム』と一緒に遠征に行きたいんでゲスよ」
特別意識せずとも惜しみなく前向きなセリフを口に出来てしまうのは、やはり彼らが純粋だからなのだろう。到底真似できそうにない、とエキュゼは思った。
一方で
如何にもこういうヤツらを嫌いそうな典型のアベルは、案の定、苦虫を噛み潰したような顔でこめかみを軽く痙攣させていた。もはやアレルギーの域。
「……そうだ」
ポツリと、真面目な一言。誰かと思って見れば、珍しく静観していたネイトの口から出たものだった。
「うん、きっとそうだよ。選ばれなかった人にだって、やれることはあるはずだから」
「…………チッ」
ボケ役の彼が、何を思ってこんなことを言い出したのかはわからない。突拍子もなく勘の鋭さを発揮するヤツだから、何かネイトなりに考えた上でのことかもしれない。なんにせよ、アベルからすれば不愉快以外の何物でもなかったが。
「だから、」
意を決するように一息。
「みんなで頑張って、遠征メンバーを応援しよう!」
「違うでしょ!」 この期に及んでのとんでもねえボケっぷりに、元の調子を取り戻したエキュゼがキレッキレのツッコミで馬鹿骨を殴りつけた。当人は「へ?」と頓狂な声で、自分何か間違ってましたか、とでも言いたげな様子。
「おい待て待て待て、
選ばれねー前提かよ」
「お前だけ
リタイア独走してたのか」
「ネイト……そこはちゃんと締めてよ……」
遠征行きの弟子たちを応援するのは、あくまで『自分たちが落ちた場合』の話であって、少なくとも今の彼らが目標とするべき壁ではない。だがそこはネイト、恐らく最後の方の話しか頭に入っていないせいで主旨ごとズレていたらしい。堂々と誠実な物言いをしただけにアレスたちもリアクションに困り、とりあえず割り切れてない感じの苦笑で茶を濁した。
と、これらの反応には流石のネイトもやや恥ずかしかったのか、あたふたと身振り手振りをしながら、
「と、とにかく最後までアレコレするっ!」
最高に締まらない訂正で今後の方針を決めたのだった。