第34話 侵撃のドクローズ (4)
本当は、手ぶらで帰るなんて真似は到底できたものではない。しかし、目的地に辿り着き、その上で目標物がないと来れば、もはや自分たちの手ではどうすることもできない。仕方なく帰路へ折り返し、沈鬱な心持ちと、フレンドリーファイアの傷跡を残した肉体でギルドへと帰ってきたのだった。
そして、案の定。
「ええ〜〜〜っ!? 失敗したってぇ〜〜〜!?」 これでもか、というほどに目と嘴をカッと開き、小丁寧に唾まで飛ばしてクレーンは驚動した。よほどこちらを信頼していたが故の反応なのか、あるいは、「何失敗してくれてんだこの野郎」の方の意味合いか。案ぜずとも、後者であることは明瞭だ。
いかにも不服そうに、エキュゼは眉をひそめた。
「だって、『ドクローズ』が……」
「ええい、黙らっしゃい! 言い訳なんて聞きたくないよ! ああああ、親方様になんて報告すればああああ」
決して言い訳ではなく、どちらかといえば『都合』だったのだが。釈明を図ろうにも、目を渦巻きにグルグル回して錯乱しているクレーンに、言ったところで取り扱ってもらえるかどうか。彼の心中を察せられなくもないが、それでもアベルとフォシルは露骨に顔を歪ませた。
叩きのめしたい衝動を、自制し続けた者がいる。勇気ある制裁を、冷静に止めた者がいる。仲間のために、拳を振るおうとした者がいる。そして
他の誰よりも、悪行を許さなかった者がいる。
その結果が、これだ。こんな収拾に、一体誰が納得するのというのだろう。
「お前たちっ、とりあえず今日は、晩飯抜き!」
「ええっ!?」「あ!?」「俳句!?」「季語がないだろ」
ちゃっかりボケているネイトと、何気に乗ってるアベルはさておき。『ストリーム』に下された罰は、仕事内容に反して非常に理不尽で、心身ともにダメージの大きいチョイスだった。
ああ、だから体は資本だって。
エキュゼの頭に、昨日の晩御飯の時間の回想が浮かぶ。弟子たちがあれだけがっついていた大量の食料。一日の栄養分の大半を賄うアレを抜かれるというのは、ほぼ力仕事しかしない我々に「死ね」と言っているようなものだ。ああ、空腹も相まって、実に腹立たしい。
「ちょっ……そりゃねーだろ! なんだって飯抜きなんか
」
「お黙り! いいかい。晩飯が終わったら、お前たちも親方様の部屋へ来るんだ。親方様の……あの、『たああああ』を受けるのがワタシだけなのは不公平だからな!」
前半はともかく、残りは私怨か何かが混じってはいなかったか。動機はさておき、やはり失敗の報告はしなければならないようだ。それもルーと対面した上で。もう、嫌な予感、というか、『予感』を通り越して、『予定』がある。最高に嫌な予定が。
流石のネイトも周囲の不平を感じ取ってか、普段ののほほんとした空気はどこへやら、打って変わってキリッとした顔つきでクレーンの前へ歩み出た。すると、突然屈み込むや、お腰に付けたトレジャーバッグを開き、ガサゴソと何かを探す。不意の行動に全員がきょとんとしていたが、次には、「もしかするとセカイイチが?」と期待が高まりつつあった。
そうして床に置かれたのは
何の変哲も無い、至って普通のリンゴ。やっぱりか、と各々の表情に落胆の色が見られた。が、当のネイトは人目も気にせず、再びバッグに目を向けた。そして、もう一個のリンゴを並べる。
黙々とリンゴを置いていくネイトの様子に、意図の読めない行動に、周りはただ困惑するだけだった。誰かに指示されたわけでもなく、それが自発的に始まったとなれば、よからぬ話に直結しても驚くことはない。なんて、アベルが考えているうちに、三個、四個と赤い隊列が作られていく。
鞄に残った最後の一個を端に置き、綺麗な四掛ける二の横列が完成した。それに伴い、ネイトの手も動きを止める。さて、これでやりたいことは終わったのだろう。問題は、次に何を言い出すか、だ。
瞳にクレーンを映し、若干の不安も交えた上目遣いで見やった。
「……八個集めたら、セカイイチに進化したりしない?」
「スライムじゃねえんだよ」 七個で願いを叶えられる方だっけ、とずれにずれた予測を立てていたが、これ以上は
世界観の維持に支障が出るため、矢継ぎに出る言葉をアベルが暴力で塞いだ。念のために説明しておくが、これはあくまで『ポケモン』の世界である。
つまるところ、難を逃れられる術はないらしい。
食事を告げるベルが鳴る前に、彼らの腹時計が呼び鈴を振った。
これが普段通りであれば、これから鳴るであろう清涼な心地の鈴の音を待ちどうしく思うところだが、誘われるがままに食堂に向かったとして、そこに楽園などない。見えないが、確かにある首輪に繋がれ、『仕事をこなした』者たちが食料にかじりつく様をただただ黙って見ていなくてはならないのだ。
そしてそこには恐らく
『ドクローズ』の面々もいる。こうなれば、苦痛なんてレベルではない。屈辱だ。さらに、こうなることを『仕事をこなした』彼らは予測してやったというなら。それはもう、暴力だとか、雑言なんかの類では済まされないような
ああ、つまりこう、憤怒や憎悪等の表現では、なんだろう、まだ足りないというか。それらとは似て非なる黒の感情が芽吹きつつあると言おうか。とにかく、『ストリーム』は、腹と背が引っ付きそうであると同時に立腹していた。
「……ひどいよ、こんなの」
「うぐぅ、こうなるならリンゴなんて出さなければよかった……」
「マジで何してくれてんだボケカスゴミクソ野郎」
クレーンとの交渉も失敗に終わり、自室への撤退を余儀なくされたネイトたち。交渉材料であったリンゴも、「念のため預かっておく」とかいう曖昧な理由で一方的に搾取されてしまった。もしやすると、この馬鹿の唱えた一説を本気で信じ込んでいるのかもしれないのでは、と、
意外にファンシーな一面を想像してみたものの、所詮は希望的観測だろう。エキュゼはため息をついた。
アベルは細目で地面を睨みながら壁にもたれかかって腕組み、エキュゼは虚ろな表情で体を丸めて寝る態勢、ネイトは座って下を向いていた。いずれもチーム史上類を見ないほど落ち込み、自由の場であるにも関わらず、それ以上の言葉は一向に出てくる気配がなかった。
部屋が暗くなりつつあるのは、沈んでいくのが太陽だけではないからだろう。下り坂の空気に、気を配ってか、ネイトは顔を少し上げ、一石を投じた。
「……そういえば、フォシルってどこ行ったんだろ。部屋入る時には既にいなかったような」
「知るか」
会話が続かない。それは多分、相手がアベルだからではない。そもそも誰も会話など求めていなかったのだ。この静寂は、同じ空気を吸いながらも「放っておいてほしい」の意味合いを含んでいたのだ。
しかし、それがわかったところでムードはより落ち込むばかり。気まずさから、ネイトは再び俯いた。嵐が吹こうが能天気な彼でも、流石に現状には耐えかねなかったようで。
「……探しに行ってくる」
反動を付けて壁から背を離し、特別感情もなくアベルは言った。対する二匹からは身振りも声も一つとない。だが、アベルはこれまた不思議に思わず、そのまま部屋を後にした。
沈黙はさらに続く。
のちに響いた夕飯のベルは、彼らにとって救いの手であり、地獄への呼び出しでもあった。
出入り口の隙間から入り込む松明の灯が、悪趣味な造形の天井を仄かに照らす。侵入を防ぐ役割を果たしているとは到底思えない軽い門をそっと上にスライドさせ、抜けた先には、藍に染まりつつある群青の空。夕陽からバトンを受けた半月が、東の暗がりからレースを開始していた。
薄い黒に覆われ、昼間ではなんてこともなかった階段を注意深く降り、交差点の中心でアベルは左右を確認した。用のない旅路は、この時間帯だとすっかり視覚が効かない。が、右側
タウン内にはまだ一定の賑わいが残っているようだった。
夜灯につられた羽虫のように、何も考えずに通りを進む。しかし、明らかに見える情景が日中とは違い、無意識に生まれた不安の種を感じざるを得なくなっていた。見かけない顔のポケモンが歩く表道、潜めた声、近くでもあまり匂いのしない炬火に、橙に照された営業時間の終えた店々。そして、その裏手にある影
普段のそれとは大きくかけ離れた光景に、まるで別世界にでも転送されてしまったような気分になった。
丁度、店番のいなくなった『エレキブル連結店』の前を通ったところだろうか。小川に跨る橋の向こう側から、片腕にトレジャーバッグを下げたフォシルがこちらへ歩いてくるのが見えた。
「おお、商店ならもう閉まっちまうぞ」
アベルが声をかけるより先に、見知ったキモリの姿に気付いたフォシルが、すぐさま会釈したかと思えば
何のことだか、よくわからない話をぶつけてきた。商店と自分に一体何の関係が、と思ったところで、開きかけの鞄から顔を覗かせる赤色の球体が目に入った。
ああ、なるほど。つまり、フォシルが勝手に外出した理由は夜食の調達であり、不明瞭な言動の正体は、「お前もリンゴを買うつもりなんだろうけど、店仕舞いが始まってるから急いだ方がいいぜ」という意味を孕んでいた、とのことだろうか。
そうか、晩飯抜き
ここにきてハッと思い出したアベルは、一つ舌打ちをしてからフォシルの来た道へと駆け出そうとした。が、肝心なことに気付き、勢いよく踏み込んだ足は三歩ほどで衰えてしまった。
金を持ってない。
そもそも買い物目的で歩きに出たわけではないから当然といえば当然なのだが、あまりにタイミングが悪すぎた。もう少し早ければ、夜食を買いに行くというアイデアを思いつくことができれば。空腹で回らない頭を悔しさで無理やりかき回され、アベルは地団駄でもしてやりたい気分になった。
腹いせに、というわけではないが、アベルは
とりあえず目だけを向けてフォシルを睨みつけた。
「ほい、キャッチ」
「おっ……?」
目が合った矢先、突然フォシルから質量のある何かを投げ渡された。振り返って手に取り、その正体を視認する。リンゴだった。意図が読めず、アベルはもう一度睨んだ。彼はどこかいたずらな表情を浮かべて、こちらに微笑みかけた。
「ハハハ、冗談だって。ちゃんと全員分買ってきたぜ、ほら」
「……本当にムカつくヤツだな、お前は」
あんな自然にポケモンを騙せるものか、とアベルはますます不機嫌になった。
茶目っ気で雰囲気は柔和されたものの、二匹の間には凄まじい温度差が。そんな背景も伴いながら、彼らは並んでギルド方面へ足を運ぶ。
周囲は見慣れぬ喧騒、隣には気に食わないズガイドスの横顔。それなのに、先ほどよりも安心して夜道を歩けるのは、やはりこの腹立たしいヤツが変に陽気なせいなのだろうか。あるいはカリスマとか、指揮役故か
ああ、腹が減って考えがまとまらない。アベルは本能的に手元のリンゴに噛り付いた。
夜らしく、正面から肌寒い風がゆっくりと流れる。一方向に伸びた歩道なのだから、風通しが良いのは当然。しかし、変に意識したせいで余計に寒気に対して敏感になってしまう。目を細め、ぶるりとフォシルの体が短く震える。
そして、続けざまに、だが、不意に彼の口から出た「なあ、」の声は、この寒さが予兆であったかのように、アベルの背筋も凍るほど冷たく感じた。
「これは、オメーとオレの仲だから聞けることなんだけどよ
」
続く言葉も、今までの明るさが何処に行ったのかと問いたくなるほど、冷たい。まず、導入がおかしい。なんだか恐ろしくなって、フォシルの顔色を伺うことすらままならない。その上で、歩調は変わらない。
アベルとフォシルの仲
これを肯定的に捉えるのは流石に無理がある。彼らはいつだって険悪だった。皮肉った話題でも振るつもりかと予測を立てたが、正々堂々が売りの王子に限ってここまで本気で陰湿なやり口はとらないだろう。
つまり、この『前振り』もとい、『予防線』は。まさか、そのままの意味を持って。
「
エキュゼのヤツ、ありゃ一体何者なんだ?」
やはり、コイツだけはいけ好かない。
仕事終わりの飯は美味い。経験の有無にもよるかもしれないが、飯というものは基本的に美味いものだ。
探検隊らの仕事は、だいたい力仕事だ。故に、体内に蓄えた栄養も急速に消費され、肉体の疲労も半端ではない。一日中も働けば、それはそれは搾り取られたように空っぽになってしまうだろう。
無論、そんな欠陥だらけの状態で翌日も同じことを繰り返す、なんて真似はできない。当然ながら、エネルギーの切れたポケモンには自ずとあることが必須となる。
それが、食事だ。
……と、至極当たり前の話を回りくどく説明してしまったが、肉体労働者にとって、否、この世界の発展に尽くす全ての者にとって、食事というのはとても素晴らしい時間なのだ。
バスケットに盛り付けられた色とりどりの果実は、見るポケモンに芸術品のような印象を与え、己の手で崩すには抵抗が生まれてしまうほど。たまらない愛おしさに、震え混じりのため息も出てしまう。
若干の申し訳なさを含みながら、口に放り込む。弾力のある表皮が僅かばかりに潰されんと拒むが、食べる側に声は届かない。そして、プツンと弾け、徐々に美しい球体のフォルムを見えず知らず失っていく。
そしてそして、萎れかけの風船から溢れるは
甘美。舌で傷口を舐めようと、それは本当に容赦無く、とめどなく口内に広がり、労働者を幸福の夢へと誘っていく。
包容感のある優しい柔らかさの果肉。ひたすらに甘ったるく、徹底的に疲れた肉体へと染み込んでいく果汁。飲み込む瞬間、「さようなら」とか別れ文句を言って惜しみたくなる。だが、空きっ腹に着陸したことを自覚すると、彼らが我らの血肉を作り、明日を生きるための活力へと転換することを悟る。そうして、かける言葉が「さようなら」ではなく、「よろしく」であることを哲学的に解釈する
かもしれない。
その時彼らは、決まって心に、あるいは喉から、「美味い」と呟くのだ。
食堂には多くの幸せが点在する。食すること、味を楽しむこと。会話を嗜むこと。一日の終わりを感じること。満たされ、夢見心地に浸ること。ごく当たり前の習慣だが、誰もがハッピーな気分に酔いしれる機会なのだ。
ある二匹を除いては。
エキュゼは黙っていた。自らの内面にある感情を口にしたところで、結局自分たちは救われないとわかったいたから。そもそも、周囲の反応や、声、目線を受け取りたくないがために、真っ直ぐに俯き、外界からの情報をシャットアウトしていた。
ネイトもまた、同じく黙っていた。周りがどうこうというよりかは、エキュゼに送る言葉が見当たらなかったから。そもそも、この状況で口を開いたりでもすれば、昨日のように血祭りに上げられるのがオチ。シリアスシーンをズッコケに変えてしまうのはよろしくない、と彼なりに思考を巡らせてみたらしい。が、
その考え自体がシリアスぶち壊しであることまでには至らなかったのだろうか。
とはいえ、ネイト自身も何か話したいとは思っていなかった。なぜなら、眼前には、『ストリーム』を辛気に晒し、活動原料さえも奪ったチームの主将
ドンフリオの背があったから。干渉するきっかけは、極力作りたくないと。
今この時こそ、二匹が本日一の恥辱を受ける時間。『ドクローズ』の面子から発せられる悪態の一言二言はある程度予測できるが、皆の手前である以上か、目線の一つも寄越さなかった。
無論、何もないに越したことはない。だが、気のせいだろうか。興味を持たないのなら未だしも、意識的に自分たちとは反対方向に顔を向けたり、妙にソワソワしていたりと、まるで彼らがこちらに目をやることを避けているように見えたのだ。ネイトにはそれが却って不審に思えた。
(……なんだろう。一気に壁ができちゃった、みたいな)
圧倒的に優位な立場に在るはずなのに、どうして彼らから後ろめたさを感じてしまうのだろうか。何か裏事情でもあるんじゃないか、と考えると、なんだかいたたまれなくなって、ネイトは骨頭に手を突っ込み、誤魔化すように頭皮を掻いた。
すると、手元に何やら覚えのない感触が。表面はざらつき、やや長めで硬質。恐る恐る耳元の隙間から引っ張り出し、鼻先で両手に持って確認した。
何の変哲も無い、枝木だった。当時は特に異物感もなかったのだが、『リンゴの森』での大乱闘の際に侵入したのか。それらしい利点もないのに、ネイトはじぃーっと寄り目で木片に集中した。
一点に釘付けされたピントの呪縛が解け、ぼやける背景が明瞭に映し出される。濃い紫とクリーム色のツートンカラーが、ずっしりとした多毛を携えて呼気に合わせて小さく上下していた。
(……いや)
事の発端は、元凶はそもそもコイツではないか。憐れみなどまず不要だし、仮に事情があったとしても擁護する理由はない。何故なら嫌なヤツだから。
そうやって考えていると、急に昼間の屈辱が脳裏に蘇り、なんだか向かっ腹が空いてくる。それはもう、こちらから何かを仕掛けなければ気が済まないほどに。目の前で食事を続ける不埒な輩に、相応の罪を、制裁を
とまではいかなかったが、ネイトはドンフリオを困らせてやりたいと心に決めていた。
小刻みに揺れる尻、手には木の枝、自分の立ち位置は標的の死角。見える情報がこれだけあれば、残念ヘッドでも実行可能な悪戯は思い浮かぶ。
利き手の左手には小枝をしっかり握りしめ、暗みのかかった眼窩から翡翠色が覗く。そして、遠慮なく図体を主張するお尻に、お返しとばかりに武器を突き立てた。
「えい」
「オウっ!?」 背後からの予想だにしなかった衝撃に、ドンフリオの口から情けない奇声が周囲に響き渡った。クライやロスは勿論、弟子たち全員の視線が集まる。
尻が弱点とか少し敏感だとかは割愛しておき、目算よりずっと大きなリアクションが見られたのは中々の収穫だろう。ネイトの暗雲が少し晴れた。
だが、本人はもはやそれどころではない。痛々しい目線がグサグサと刺さり、キャラでもない醜態を晒すこととなってしまった。やられてから初めてわかる、屈辱の感情。
長机の先端、向かい側のクレーンが怪訝な顔つきで尋ねる。
「え、エート……どうかしましたか?」
「え、え? あっいや、こ、コイツがっ……!?」
あれこれ考えずとも、尻に電流を走らせた犯人が誰かは察しがつく。ドンフリオは、背後でこんな仕打ちをしたであろう二匹へ勢いよく振り向く
が、いずれも揃って項垂れ
反省の姿態。ちょっかいなどとんでもございません、と代弁するように、元より動きのなかったエキュゼはともかく、ネイトまでもがしょげかえった風体を見せていた。
無論、実際に自身の行いを悔い改めているわけではなく、これらは全て弟子たちの目を欺くための演技であり、ドンフリオを陥れるための作戦である。不審に思ったクレーンがネイトらの顔を遠目に覗くが、それはもう、到底嫌がらせなどできる表情ではなくて。
「はあ……? あの、食事中は静かにお願いします」
「なっ…………!!」
必死の釈明も意味を為さず。哀れなスカタンクに残されたのは、
「突然叫んだのちに、背後をしきりに警戒する変人」という大変不名誉なレッテルと、リカバリーの効かない赤っ恥の二重苦だった。
チィッ、と火花のような舌打ちをし、再びネイトへ向き直った。当人は自戒を継続中。
「おい、調子乗んじゃねえ、後悔させてやるからな」
「めっそうもございませ〜ん。しくしく」
白々しい物言いに、ドンフリオは思わず歯ぎしりをした。その激情っぷりは、顔面は羞恥で赤く染まり、額には体毛越しでも青筋がくっきりと見えるほど。普段から悪意ゼロでポケモンを苛立たせているネイトがこうして本気を出したわけだから、えげつない効果が発揮されたらしい。
やってられるか、とばかりに、煽ってくる野郎に背き、長机に顔を戻す。無理もない。まっとうに相手しようならば、感情の荒波で頭がおかしくなってしまう。そういう意味ではドンフリオのこの判断は間違っていなかった
はずだった。
そのタイミングを見計らってか否か、すかさずネイトは骨ヘルメットに隠していた棒を抜き取り、もう一度急所を「えい」と突いた。
「
アォウ!? ……この野郎! ふざけ
」
が、振り返ったところで、そこには一瞬で反省モードに切り替えたネイトが
何食わぬ顔で佇んでいるのであって。彼らの様子を伺うクレーンもやはり、はてな、と首を傾げ、ドンフリオを細目で一瞥するのであった。
考えてみれば酷い話だ。悪意を持って手を出しているのはネイトなのに、現状ではドンフリオが一方的に奇人扱いされる始末。あまりに理不尽な仕打ちと言えよう。そうともなれば、行き着く解決策が感情的な手段となっても何らおかしくはない。
偶然か、運良く標的との距離は目と鼻の先。一発痛いのを食らわせてやろうか、とリーゼント風の尻尾を向け、しかし思い止まった。
本人も忘れてかけていたようだが、彼は遠征を成功へと導くための助っ人なのだ。その助っ人が不祥事を
ましてや、矛先が弟子達に向けられていたと判明したならば。いかなる事情があろうと、協力者としての立場は損なわれて然るべきである。ドンフリオは慌てて砲口を下ろし、思いがけない冷や汗が背筋を伝った。
さらに今現在、ネイトのミニ報復のせいで、彼は『ちゅうもくのまと』状態にある。つまり、どれだけ上手く隠そうとこちらの動きは全て周囲に筒抜け、仕返しなんて真似は間違ってもしてはいけない。
いや待て。コイツ、まさか。嫌な仮説が脳裏をよぎる。
「……お前、俺様が手ェ出せねえのをわかってやってるな?」
二度もガスを受けて悶絶したネイトが、なぜこの至近距離で悪ふざけを、それも挑発気味に行うことができたのか。恐れることなく嬉々として臨めたのは、ここが反撃のリスクを放棄できる領域であることを理解していたからに他ならないだろう。
しかし、当人は問いに答えようとはせず、下を向いたまま口を固く結んでいた。あくまで沈黙に徹するらしい。仮面の内ではニヤついているのかもしれないが。
「……ふふっ」
陰鬱に閉ざされたエキュゼの心も、明るい暖気に解凍されたようで。
「……エキュゼは、どこにでもいる普通のロコンだ」
どこか彼方を向いたままのアベルが、活気を失いつつある喧騒の中で静かに呟いた。
フォシルから目眩を起こしそうな質問を受け、アベルの歩みは停滞の一色を発していた。気が付いたフォシルも足を止めて振り返る。身構える間も脈絡もなく、突如舞い込んできた不意の言葉は、デリカシーもへったくれもない致命打だった。
アベルは一言前のセリフを思い出す。「これはオメーとオレの仲だから聞けることなんだけどよ」
険悪な関係故に、踏み込んだところで失うものはないという意味、だったのだろうか。
感情らしい感情も見せず、フォシルも目を逸らして言った。
「あの焦げ跡は『普通』じゃできねーよ、多分」
完膚無きまでに白黒を付けられた『ドクローズ』との戦闘(立場の都合上負け戦であることは明確だったが)で、フォシルには唯一理解できていないことがあった。彼が意識を取り戻して最初に見た光景
黒に染まった大地に横たわるエキュゼの姿は、異様そのものだった。
「ただ地面が焼けてるってだけなら大したこたねー。けどあの焼け方は、技でどうこうっつーレベルじゃねーだろ」
無論、一般的なロコンの力量で焦土を作り出した可能性も捨てきれない。実際にその場で視認していないため、事実は不明瞭だ。
だからこそ、こうして。彼女をよく知るであろうポケモンに真意を確かめようとしたのだ。
なのに。
コイツは。
「……さあな」
白を切るつもりなのか、あるいは本当に覚えがないのか。チームに加入して間もないフォシルでさえ、前者であろうことは察していた。それは恐らく本人も自覚しているはず。
何かを隠している。明るみに出すことを拒んでいる。事情がどうこうというよりかは、口にすることを敬遠しているようだった。
その口を無理やり開かせることは、正しいことなのだろうか。追い詰め、苦しめ、白状させることが。果たして本当に正しいやり方に値するのだろうか。
「……わかった。百歩譲って焼け跡についてはいいってことにしてやるぜ。だがな
」
否、多分間違っている。
誰にだってプライバシーや秘め事の類は持ち合わせているものだ。詮索したい意思があっても、最低限のモラルで踏みとどまる。交友関係においては、こうした何気ない気配りの繰り返しでポケモンたちは調和を保ってきた。
だからフォシルは
その先へ進もうとした。
「どうしてあの時、誰もエキュゼに言及しなかったんだ?」
ギロリと、アベルの鋭い眼光がフォシルを刺す。見えている地雷を躊躇なく踏みつけるような発言に、流石に知らん顔も崩れた。
灯火の消えた店の戸締り、未だ盛り上がりを見せる一部の通行人。目移りしてしまいそうな背景が数あれど、アベルのピントは一点に集中していた。
もう、引き返せない。
「しかも周りだけじゃねー。アイツ本人も気味悪りーほどに平静だった」
「お前だって、何も言わなかったじゃないか」
「ああ、そん時からなんとなくヤベー空気は察してたからな」
苦し紛れの反論も、秀才王子の前では時間稼ぎにすら至らない。最強の仲間は、敵に回してもやはり最強だった。
敵
ああ、アベルは今、目の前のズガイドスと敵対しているのだ。仲間であるかどうかなど些細なことで、互いの我意同士が対立し合っている。それだけで十分な事実だった。自認した瞬間、アベルは頭が熱くなった。
「……何が、言いたい」
「ん? あー……そうだな」
と、ここまで来て何故か歯切れが悪くなってしまうフォシル。先ほどまでは容赦なくアベルを潰しにかかってきたというのに、と、今度はこちらから問いたくなる。
エキュゼが何者であるかなんて、ちょっとした好奇心から聞こうとしたのではないのだろうか。であれば、そのまま遠慮なく傷つけてきてもおかしくないものを、今更になってブレーキをかけた理由がわからない。
伏し目で石頭を掻きながら、フォシルは一つ息を吐いた。
「上手くは言えねーけどよ、こう……要は、オメーに一人で抱え込んで欲しくないんだよな」
「……は?」
全く予想外れな答えが返ってきたため、思わず声が出た。
アベルの処理が追いつかないまま、話は続く。
「ほら、お前らは居合わせなかったから知らねーだろうけど、オレもこの前の作戦でだいぶ考え込んじまってさ。似たような心境なら、力になりてーと思って」
「仲間だし」とまで付け足され、アベルは呆然とした。これから壮絶な冷戦が起こることまで覚悟していたというのに、とんだ拍子抜けだった。
ハナからやり合う気はなかったのか。
つまり、フォシルの目的とは。エキュゼへの詮索ではなく、心中に籠もった悩みを打ち明けさせることでアベルの精神負担を減らしたいというもの。多少強引なやり口ではあったが、素の情報量が多い方が話は進めやすい。一つ一つ不審な点を挙げたのも、それらの信用を得るための布石のつもりだったのだろう。却って不信感を煽っていたが。
平たく言えば、フォシルはアベルの相談役になりたかったのだ。
「……馬鹿が。元から抱え込んでなんかねえ」
「そうか? いや、どことなくエキュゼがオメーに依存してる感じがしたからよー」
「知るか」
「オメーもエキュゼに対しては毒吐かねーし」
「……知るか」
二度目の「知るか」がやや震えていたのはさておき。
ここまで自身のことを見透かされているとなれば、アベルに『隠す』選択肢など無いも同然だった。首を傾け両腕を広げ、「やれやれ」と降参のポーズを見せる。そして、観念したように、凍りついた足を再び進めた。
ふと、緊張が解けたせいか、アベルの視界に映る周囲の景色に鮮明さが戻り始める。といっても、トレジャータウンには既に夕暮れ時の面影は残っておらず、人影の消えた歩道は黒一色に染まりつつあったが。
並進する二匹。
「アレな、正直俺にもよくわからん」
「……マジ?」
「ああ。ああいうのは初めて見た」
フォシルはアベルの顔色を覗く。暗がりで凹凸さえも視えづらい状況だが、それでも、どことなく不安の色が醸し出されているような気がした。
「さらに言えば、アイツのこと自体がイマイチよくわかってない」
「え゛……待て、意外と付き合いは浅いのか?」
「いや。九年……もう十年にはなるか。それでも、過去のことは全く知らない。下手に干渉したら不味い気がしてな」
長い時間をかけても、腹の内が一切知れない相手。想像以上に深刻な事情に、流石のフォシルも目を丸くした。
エキュゼの弱々しい笑顔に対比するように、『リンゴの森』での光景が浮かぶ。ドス黒く塗られた茶土に、それをさも同然に道端の小石であるかのように無視したロコン。
何故、彼女は平然を装ったのか。
何故、彼女の中に深淵が生まれてしまったのか。
一体、少女の過去に何があったのだろうか。
交差点の岐路で立ち止まる。ギルドに帰る前に、幾分か頭を整理しておきたかった。フォシルもまた、思考を巡らせていたようで、大階段を二段ほど踏んでから振り向き、静止したアベルに気が付いた。
言葉は交わさず、軽く視線で会釈。ふっ、と短い息を吐いて、アベルは仲間の待つ場所へ足を向ける。二匹の歩調が再び重なった。
やや見上げる形で急な段差を一歩一歩進んでいく。不気味に残る夕日の残り香が、暗い赤紫色の夜空の背景を描いていた。一日が終わる。
中腹辺りに差し掛かり、アベルは無言の空間に「なあ」と投げかけた。その声は、フォシル同様に不思議なほど冷たくなった。込み入った話題を提供することの気の重さを実感した。
「エキュゼは、何か隠していて、それで、多分、『強さ』に対してなんらかの執着を持っている」
フォシルの横目がアベルの顔を捉える。どこか決心したような表情に、普段の毒撒きとしての面影はほとんど見られない。初めて目にした真剣な面持ちに、緊張感が高まる。
「……だが、俺は弱い。だから、頼む」
ちぐはぐな物言いだったが、何を伝えたいかはわかる。そして、この申し出が重要な内容であることも、今自分にしか頼めない話であることも。
昏みを携えた黄色の瞳が、月光を帯びて輝いた。
「もし、その時が来てしまったら、どうか、アイツを止めてほしい」
この告白をするのに、どれだけの覚悟が必要だったのだろう。短時間での決断を強いてしまうような問い詰め方を、フォシルは深く後悔した。
それゆえ、フォシルが考える間もなく頷けたのは必然だった。彼の覚悟を汲まずに否定するなんてもってのほか。力に、支えになれるのなら、他に理由なんているものか、と。
出会って数日の彼らは、『仲間』なのだから。
各々で事が済んだ後。いわゆる『廊下に立ってろ刑』を食堂で受けたネイト・エキュゼ組は、外出していたために罰を免れた買い物組二匹とギルド地下二階で鉢合わせになった。
「わーい! フォシルだあ」
「お、おお? なんだそのテンション」
「うわっ……フォシルだ……」
「なんで引き気味に言うんだよ! フツーでいいんだフツーで!」
怒りと憂鬱の気まずい別れ、しかし再会は雨上がりのように晴れやかで。お互いなんとなくスッキリした様子で顔を合わせる。変わりないボケと真面目の茶番に、エキュゼは口元を綻ばせた。
そんな和やかな空気の中、やれやれ、とでも言いたげにアベルがため息を一つ吐いた。
「……で、親方の説教かなんかはどうだったんだ? その様子だと、あまり大したことなかったようだが」
「ううん、今から行くところだけど……」
「「え゛」」
外出していたオス二匹、唖然。エキュゼはありのままの事実を伝えただけで、特に貶めるような発言ではなかったのだが、心なしか、「夕飯抜き」宣言よりも強くショックを受けている気がした。
そう、先ほどの会話からは全く想像も付かない裏事情
実のところ、フォシルとアベルがギルドから出た動機の大部分は、「懲罰の時間を外でやり過ごし、何食わぬ顔で戻る」という、なんともしょーもない企てだったのだ。
本来の目的は失敗に終われど、得たものは多かった。と、同時にこれから失うものも多く、
差分で合計マイナスであることも明白だったが。
「……んん? もしかして逃げるつもりだった?」
「え、あ、ああ!? いやいや違げーから! ほ、ほら、腹減ると思ってな? コイツを買ってきたんだよっ」
馬鹿に指摘され、大慌ての秀才。腕にかけたトレジャーバッグから物証まで見せて必死の釈明を図るも、エキュゼは既に「むぅー」と疑りの姿勢。アベルも加わって、不慣れな苦笑で誤魔化そうとした。
「まあいいや」
そこいらの問題をテキトーに投げるのは、流石はリーダーと言ったところか。収拾も付けやすく、話が進めやすい。ある意味、処理能力に優れていると評価しても良いだろう。が、その問題の大半は基本的にコイツが起こしているという事実も、我々は決して忘れてはいけない。
自己完結野郎、ネイトの働きもあってチームの和はなんとか保たれたものの、状況は依然として最悪を突き通していた。というのも、彼らは現在、ルーの部屋に集まっており、今まさにセカイイチ回収失敗の旨を報告するところだったから。
横一列に並んだ『ストリーム』に、さらにその横で不安げな面を見せるクレーン。そして正面には
一向に動かぬ背を見せつける親方の姿が。
「やあっ!!」
急に回れ右をして威勢の良い挨拶をする。初見のフォシルは勿論のこと、既に洗礼を受けた三匹でさえ不意のにこやかスマイルには体を跳ねつかせてしまう。俗に言う『予測可能回避不可能』とかいうやつだろうか。
見る者に幸せを与えるような、天使の笑顔でルーは言う。
「君たち、セカイイチを持ってきてくれたんだね! ありがとう!」
ああ、駄目だ。ファーストコンタクト時の光景が思い浮かぶ。あの時だって、ああしてこうして、結局来客をぶっ飛ばしたではないか。しかも今回は勝手が違う。なにせ
命綱であるセカイイチは持っていないのだから。この先に待つ地獄を想像すると、彼らは本能的に目を逸らさざるを得なかった。
両翼を祈るように擦り合わせながら、クレーンが申し訳なさそうに言った。
「それがですね……その、大変申し上げにくいのですが……」
「ん〜? どうしたの?」
困惑の表情でさえ、やはりにっこり笑顔で。彼の中では『セカイイチがもらえる』という前提条件が確定しているようで、気味が悪いくらいに上機嫌だった。
して、報告するのは、そんな親方のことをよく理解しているであろうクレーンなのだから、「申し上げにくい」なんて後ろめたさのレベルにはとどまらない。もっとこう、懺悔とかに近しいような。「ああ……」と、フォシルにはなんとなく、この罰ゲームに自分たちまで呼んだ理由がわかった気がした。
「実はその〜……この者たちが、セカイイチの収穫に失敗しまして〜……。つ、つまりその
」
「ああいいよ、大丈夫だよ!」
えっ、と思わずクレーンの嘴が前を向いた。ネイトらも、てっきり暴虐の限りを尽くすものかと踏んでいたもので、意外すぎる反応に疑問符すら浮かべていた。
「失敗は誰にだってあるからね。くじけない、くじけない♪」
彼らは忘れていた。この理不尽な暴力家のプクリンが、弟子たちを束ねるギルドの親方であることを。当然ながら、相応の器が存在していてもおかしくないことを。
多少常識のレールを外れていても、腐っても親方なのだ。部下の責任を取れるだけの能力はあるし、失敗を許せる寛容さだって持ち合わせている。そんな当たり前の一般常識を、彼らは勝手に誤解していただけに過ぎなかった。
一同は胸をなでおろした。命の危機に直面したかとまで思われていたが、どうやら杞憂だったらしい。部屋内は深いため息で溢れかえった。
「で」
で? まだ話すことなどあっただろうか。遠征関係の通達か何かかな、とエキュゼが想像を膨らませる中、ネイトのみは空気の変化を敏感に感じ取ったそうで、「げ」とヘルメット越しに口元を歪ませた。
「セカイイチは、どこなの?」
ルーの笑顔から出た言葉の意味を理解した瞬間、安堵の表情が一気に凍りついた。
その顔は、笑みは。張り付いた笑みは、狂気の産物であると、この場にいたポケモンは全員察した。
ドラッグ常習犯となんら変わりないな。
目の前のプクリンがあまりにもおかしくて、アベルはつい、乾いた笑いが出てしまった。「セカイイチはありませんでした、許してください」、そういった趣旨の話をしているはずなのに、狙ったのかと問いたくなるような的外れっぷり。ネイトだってもう少しマシだろうから、やはり狙って言ったのかもしれない。
ただ、そうともなると、現状一番悲惨なのはクレーンだ。捉えようによっては「チャンスをやるから正しい答えを言え」とも取れる質問に対し、もう一度全く同じ説明をしなければならないのだから。
「ですから……その、取ってくるのを失敗したわけですから……エート、つまり」
胎児のごとく背を丸め、縮こまるクレーン。説明する側の立場であって、ましてや彼自身には非はないというのに、何故かこちらから火に油を注いでいるように見えるのは気のせいか。それはともかく、ここまで釈明をしておいて、なおニコニコしているルーは悪意の権化か何かだろうか。一体何が楽しくてそんな表情ができるのだろう。フォシルは心の内に小さな軽蔑を覚えた。
「セカイイチの収穫は、ゼロ……ということに」
「…………。……え? ……」
仮面が、破れた。ざまあみろ、アベルは声なく呟いた。
だがそれは、同時に均衡が崩れた瞬間でもあった。誰も悪鬼の姿など見たこともないが、下り坂の流れで果てには待ち受けているのかもしれない。エキュゼの赤毛が、ぞっと逆立つ。
目を合わせぬよう、必死に眉間にしわを寄せながらクレーンは声を絞り出した。
「つ、つまりはっ、親方様にも、当分の間はセカイイチを我慢して頂かなければならない……ということなんですね」
そういうことなんです、と『ストリーム』の面々は同意するように心中で頷く。実際に首を上下させた方が早く伝わるだろうが、さすれば
こちらに残された時間が早まるのも必定だった。
さて、ようやく「親方様の大好物」が切れてしまったことを知ったルー。早速フルスロットルでブチ切れるのかと思えば、辺りを包んだのは気まずい静寂だった。
見れば、ルーの風貌はスイッチをオフにされた玩具も同然で、沈黙のみを残し、まるで意識だけが別世界へ旅立ってしまったかのよう。相応のショックはあったらしい。
しかし、無音の空間はそれはそれで妙な不安があった。嵐の前の静けさとでも言おうか、不吉というか、不気味さがムードを支配するような、そんな感じが。
「あは、あはははは……♪」
親方様の機嫌取りのつもりか、単に誤魔化しのつもりか。クレーンは無理やり、弟子たちですら見たことのないような満面の笑みで愉快な声を上げた。
固まったままのルー。便乗して笑顔を取り繕うネイト。口が開いたままのエキュゼ。周囲を伺うアベル。諦めたように虚ろな視線のフォシル。秩序はもう、破滅の一途を辿っていた。
「あはははははははは、ははははは♪」
「う、うひょひょひょひょ!」
少しでも事が良い方向に、とネイトも
合笑に参加する。動機がどうだとか、意味の有無など、もはや考える方がナンセンスだ。
「あはははははははははははははははははははは♪」「ぬひょひょひょひょひょひょひょひょひょひょ!」 いよいよたがが外れ、盛大にぶっ壊れる二匹。本来なら哀れな光景も、目尻に涙を浮かばせるほど馬鹿笑いしていると本当に面白いのでは、と錯覚させられてしまう。
実際面白いが。 しかし、泣き疲れた赤ん坊然り、大声を出し続ければ誰だって疲弊するのは目に見えて明らかだ。当然ながら彼らも例外ではない。語末は息切れでかすれ、一時流れた正気の風で狂騒の熱は徐々に冷めてゆく。やがて、再び寒々しい空気が鎮座した。
が、一向にノーリアクションの元凶。本当に電池が切れてしまったのでは、と心配も兼ねてクレーンが声をかけた。
「…………親方様。……親方様?」
グスッ、と。鼻をすする音がした。
気が付けば、ルーのまんまるお目目は溢れんばかりの涙で潤み、口元は「〜」のように固く結ばれていた。ふくよかな体に蓄えられた感情が爆発するまで、もう、間もない。
「ううううう……」
「まずいっ……!」
あたふたと周囲を見渡すクレーン。必死に善後策を模索し、最終的に彼の眼中に留まったのは、壁際に横たえられた大袋だった。やや『千鳥足』になりながらも、一筋の希望の元へ翼を伸ばした。
「……あっ、親方様! この者たちから徴収したリンゴが、や、八つも! 噂では
八個集めると合体するとかなんとか……」
「マジで信じてたのかよオイ」「ううううう
」
「い……いかん! オマエたちっ、耳を塞げ!」
「わーーー! 役立たずぅーーー!」
苦し紛れと呼ぶにはあまりに滑稽な交渉に、あのフォシルでさえ真顔で抑揚のないツッコミを入れ、実らぬ結果にネイトも罵声を浴びせる。はて、その噂の発端はどこの誰だったか。
咄嗟に弟子を気遣える度胸を持ち合わせている部分は賞賛に値するが、残念ながらそんな命がけの催促も彼らの耳には届かず。どうしようもない現状に打ち拉がれ、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。
ハッ、と気が付いたように、ネイトが一言。
「あり? もうエンディング入った?」
「そういうストーリーじゃないよっっ!!」 珍しくエキュゼのメタ発言が響いたところで
同時に悪魔の産声が風を切った。
「ウアアアアアアアア!!」 さあさあ皆さんお待ちかね、悪夢のソロステージが始まった。
手始めに“ハイパーボイス”の衝撃波が部屋中を駆け回り、あちこちの壁には亀裂の入る音、天井からはパラパラと土や小石が小雨のように降り注ぐ。
地走る音撃は傍らに立つネイトたちも痺れさせ、上から下から天変地異のような被害を受けていた。今の彼らには音量がどうとか関係なく、純粋な破壊力が凄まじいという一つの答えを身を以て知ることとなった。
乾いた笑いを一つ。そのままのテンションで、フォシルはかつてなくやる気のない声で言った。
「これどうにかなんねーかな。なんねーよな。流石に無理か。ハハハ」
「キャラ違くない!?」「あ。確か、手に『大』って書くと落ち着くって聞いたような」
「ネイトが落ち着いても意味ないでしょ!?」「馬鹿が。素数を数えるんだろうが」
「そういう問題でもないよ!」 正気を失いつつある仲間に、エキュゼがキレのあるツッコミを次々にかます。終末が近づくと人は壊れるなんて話は聞くが、今エキュゼが見ている光景がまさにそれではなかろうか。ネイトやアベルは未だしも、フォシルなんかは同情を送りたくなるほど惨めだった。このチームに入ってからというもの、彼は本当にロクな目に遭わない。
そんな可哀想な彼らの様相とは裏腹に、ルーの喚き声はヒートアップ。
「ビエエエエェェエエエエ!!」「ひえーっ!!」
遂に謎の出火や、部屋全体を大きく震わす揺れ、原因不明の爆発まで発生し、理屈を超えたハイノートのエネルギー収束音が段々と大きくなっていく。こんな愛らしいフォルムで、どういった原理で、これほどの馬鹿みたいな災害レベルの力が出せるのだろうか。ポケモンというより、『バケモン』か『兵器』と呼称した方が説明がつきそうではある。
タイトルクレジットの幻視を網膜に映しながら、悟った雰囲気でエンディングトークへ突入するアベル。
「フッ……短い間世話になったな。お前らのことは、まあ……嫌いだったが」
「嫌いだったの!?」 続いてフォシル。
「ああ、親父……死んだ親父が見えるぜ……。ハハッ、チーズみてーだな、親父」
「何があったの!?」 ネイトも例に漏れず。
「ああ……ひいおじいちゃんが見える」
「いたの!?」「え? わかんないけど」
「誰が見えたの!?」 かつてない規模のボケの波がエキュゼを襲うが、それでも狂気に飲まれんと的確に打ち返す。やはりツッコミ隊長は格が違った。が、もっとも、こんな状況で普段通りのやりとりしている時点で既に正気じゃない。やはりツッコミ隊長でも駄目だった。
ああ、あのリンゴが。元はと言えばあのリンゴが悪かったのだ。何故あんな馬鹿デカい、店頭にも置かれないような食物を要求してきたのだろうか。貴重云々よりも、そもそも消費者がいなかったから棚に並ぶこともなかったのでは、と疑問に思ってしまう。
遠征とか、ドクローズだとか、今やどうでもいい。彼らは確信したのだ。討ち果たすべき真なる敵は、目の前のこの野郎であると。
どうか、どうかこの惨劇を。そして、願わくばこの親方を。誰でもいい、誰か、この悪夢を食い止めてくれる者は
。
「
ごめんください! セカイイチを届けに参りました!」
バン、と勢いよく背後のドアが開かれ、我らが救世主とばかりに颯爽と現れた三匹組は、嫌というほど見知った顔
というより、まんまの意味で嫌な顔だった。
「……! テメーらは!」
フォシルが振り向いた先に見たのは、例の「テメーら」、『ドクローズ』の面子だった。わざわざこのタイミングでツラを出しにくる理由はいまいち察しがつかないが、またしても何かの企ての一環か。
リーダー・ドンフリオの陰からクライとロスが飛び出し、進路上に立っていたエキュゼとアベルを強引に横へ押しやる。ルーへの一直線が出来上がるのを確認すると、フン、と鼻を鳴らして部下の働きを不器用に労った。
海割れならぬ、ポケ割れの道を悠々と歩き、親方の直前で足を止めるなり、ドンフリオは懐から真っ赤な果実を差し出した。
「ほら、本物のセカイイチです。お近づきの印にどうぞ」
言い方こそ、どこか胡散臭さが隠しきれていない感じだったが、地面に置かれた巨大なリンゴはまさしくネイトたちが探し求めていたもの。そして
奪われたもの。何が「お近づきの印に」だろうか。本当は妨害メインで、誠意なぞ欠片もないくせに。あからさまな恭しさに、エキュゼの喉元も怒りの色に赤熱した。
しかし、現実はそんな彼女の訴えを易々と受け入れてくれるほど甘くはなかった。リンゴの森で起きたことなど知る由もないルーは、願ってもいなかった助っ人の活躍を心から喜び、満たされた笑顔でセカイイチを受け取ったのだ。
「わあ……! ボクのためにわざわざ取ってきてくれたの!?」
わざわざ、という言葉に胃が痛む。ドンフリオたちは『ストリーム』を邪魔するために「わざわざ」出向いた。明らかに不純な動機で。だが、こちらだって入念に準備して、絶対に成功させるつもりで「わざわざ」行ってやったのだ。
同じことを、真面目な目的でしようとしたというのに。
理不尽を叫びたいのに、それすら叶わないこの状況下で、エキュゼの目からは悔し涙が流れそうになる。鼻の奥をツンと刺激する心の痛みを、歯噛みして堪えた。
「わーいありがとう!」、「ともだちともだち〜♪」汚れのない純心が、フォシルに不快感をもたらした。ふと彼の視線がルーの瞳を捉えるが、そこにはやはりドンフリオの姿しか写っておらず、一人さらに嫌な気分へと陥った。
「あ、ありがとうございました! あなた様のおかげでワタシどもも助かりました!」
へこへこと音符型のトサカを下げ感謝の意を表明するクレーン。お前ら様のせいで私たちは散々な目に遭いました、の間違いでは。が、有権者二匹が『ドクローズ』サイドに着いていることから、そんな反抗も、この場では少数派の一意見にしかならない現状だった。
さらに腹立たしかったのが、クレーンが心なしに出した指示。
「ほらっ、オマエたちも突っ立ってないで頭を下げるんだ!」
ぶちっ。
「……っっっざけんなぁ!!」
いよいよ平静を保てなくなったフォシルが、溜めに溜めた怒りをぶち撒けた。安堵の空気が一変、騒然とする。ギルド側の二匹なんかは、目をぱちくりとさせて言葉も出なかった。
普通のポケモンなら黙って時が過ぎるのを待つのが安牌だが、フォシルが、あの真面目なフォシルでさえ
否、燃え盛るほどの正義を胸に持つ彼だからこそ、その卑劣なやり口に本気で異を唱えたのだ。
「だいたい何もかも間違ってんだよボケ! 誰が頭なんか
」
「あーよかったあ、『ドクローズ』大好きっ」
「いやマジで助かった。この恩は忘れない」
「プライドねーのかオメーらあああああ」 コンマ四秒ほどでスッと頭を下げ、ここぞとばかりにボケに徹する二匹と、マジモードでキレるフォシルと、どう収拾をつけたらいいかわからず上の空へ現実逃避するエキュゼ。計四匹で構成されたチームが織り成すゴミみたいな場面は、団体というより、無作為に選ばれた顔触れを一箇所に集めただけのようだった。あまりの奔放さに、ドンフリオも引け気味。
「い、いえいえ。助け合いは当然ですから……」
何故か、なんだろう、そこに心などあるはずもないのに、見比べると幾分かこちらの方がマシにも思えてしまう。揃ってボケるネイトとアベルに、遂にフォシルが暴力のコマンドに手を伸ばす。六秒の我慢が限界だったらしい。殴打、悲鳴、ボケ、また殴打。醜い争いが起きない点では、この悪党スカタンクに軍配が上がる。
「ああああなんて素晴らしいポケモンなんでしょうかアナタ方はああああ」
何やらブレス混じりの声でクレーンが感激しているが、嬉々とした横顔の背景に映る非行の存在にはこのまま触れぬつもりだろうか。ゴッ、ドスッ、うへぇ、ガッ、ガッ、ぐえっ、ズドッ
。エキュゼの視界の端で揉みくちゃになっているオスどもは、軽いストレスを感じた視点主の判断でフェードアウトした。しかし、音響は未だやかましいままだった。
「ククク。困った時はお互い様ですよ。ではこの辺で。我々はそろそろ寝ます」
「ありがとー! おやすみ〜、ともだちともだち〜♪」
なんだこの、善良が毛皮を被ったような生物は。文面だけ見れば、やや謙遜気味の「いいやつ」としか思えない。
いや待て、そもの事は『ドクローズ』が『ストリーム』を陥れようとしたのが発端ではないか。それがどうして、反吐が出るような善良を装い、生と死の瀬戸際に介入してまで悲劇を止めにかかろうとしたのだろうか。アホ二匹につられて懐柔されかけていたエキュゼだったが、やはり何か裏があるのだろうと踏んで、口元をへの字に曲げた。
腰巾着のドガースが扉を開き、ボスを先に送り出す。彼に忠実な部下が後に続き、ご丁寧にもドアを元に戻してから完全に退室。
暴動は一件落着、温和な雰囲気が息を吹き返した。
「オメーなあああ! あんにゃろどもに何されたか忘れたわけじゃねーだろおおおお
ぁ゛あ゛!?」
「んー、いざ考えてみると具体的なアレは思い出せない」
「忘れた」
「だ あ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛! !」 第二ラウンド、開始。
「しっかし兄貴、なんでアイツらを助けたんだい?」
ルーに手配された根城へ帰投して早々、これでは消化不良だろう、とばかりにロスが鬱陶しくドンフリオの側面で羽ばたく。一息分の間を置いて、「あのままにしておいた方が面白かったと思うけどなあ」と付け足した。
確かに面白かったと思う。クライも便乗して頷いた。
対する大将は苛立ちもせず、むしろ得意げに口の端を上げる。
「ククク……お前たちも頭が回らないヤツだな。そもそも俺たちがここに来た目的はなんだ?」
悪意の孕んだ言い草に、親玉相手であれどカチンとくるロス。そういうところだろ、ツッコミ上手がこの場にいればそうぶつけられていたかもしれない。ロスはほんの一瞬悩んだ後、強めの口調で「遠征だろ」と言い返した。
そう、遠征。嫌がらせばかりが突出しているせいで勘違いしてしまうのは無理もないが、本来の目的はもっと欲にまみれたものだった。
「今必要なのはアイツらを邪魔することじゃねえ、親方から信頼を得ることだ」
「おお、なるほど! さすがは兄貴!」
たとえ顔だけのやりとりであっても、相手に印象を植え付けるのには十分。表面さえよければ待遇だって悪くないものとなるだろう。残酷だが、実に計画性のある賢いやり口だった。ろくでなしの集まりも、一人切れ者が手を挙げるだけで悪事の成功率は大幅に上がる。彼らはその典型を体現しているようだった。
「フッ、だがしかし、拍子抜けだったな。あの『プクリンのギルド』の親方が、ただのガキとは」
実年齢はわからない。が、常識が通用しない無秩序なポケモンという意味では「ガキ」呼ばわりも納得の域ではある。決して「ただ」者ではないだろうが。
お世辞にも広いとは言えない部屋に、下品な嘲笑がこだまする。窓のない暗闇の空間は堀も同然。しかし、光なき中でも、彼らの口に浮かぶ黒い笑みだけはいやに目立っていた。
「まあなんにせよ、遠征先で宝を見つけたら
」
「ギルドの連中をぶっ倒し、」
「お宝を奪ってトンズラする!」
事前に打ち合わせでもしていたのでは、と疑いたくなるような決め台詞の連携。計画こそ最低だが、統率においては目を見張るものがある。どこぞの探検隊も見習うべきでは。
今回も楽勝っぽいな。
再び下卑た笑いが響く。遠征への参加、邪魔者の妨害、信頼作りの工作。何から何まで『ドクローズ』の計画は予定調和の如く上手く進んでいた。
彼らの企てを知るは宵闇のみ。誰一人として、その侵撃は止められない。