第33話 侵撃のドクローズ (3)
「…………嫌だ」
しばしの沈黙を経て、エキュゼは固く結んだ口を開いた。下顎の震えは畏怖から来るものか、憤慨から来るものか。だが、それでもなお、彼女の答えは最初から定まっていたのか、その声に迷いはなかった。
木々がざわめく。先ほどのように、誰かが人為的に揺らしたわけではない。小さな風が、一匹のロコンの拒絶を、勇気を後押しするようにして吹いたのだ。
と、エキュゼの率直な言葉がトリガーとなったのか、恐い顔を続けていたフォシルも思わずにんまりと口角を上げ、「ったりめーだ!」と呼応した。
追い風が走るムードで、アベルは表情の一つも変えずに言う。
「『取れよ』、だと? あのな、俺らがそんな単純な罠にかかる馬鹿だと思うか。生憎だがこのチームにそんな馬鹿は
「
うっひょひょー!」
いない、と断言してやろうと思ったのに、決めてやろうとしたのに。残念ながらソイツはいたのだ。
言うまでもなく、というか、言う方が馬鹿らしいが。その正体は。我らがリーダー、ネイトだった。生まれたての赤ん坊のように、何の躊躇もなくセカイイチへスキップ一直線。差し伸ばした手が果実にありつこうとした瞬間
重く、そして素早い強打に襲われ、「ぶべー!」とよくわからない声を上げながら、あえなく元の位置へ飛ばされてしまった。
「……。そんな馬鹿は……まあ、世の中広いし、もしかしたらいるのかもしれない」
後付けの訂正が、虚しく静寂に吸い込まれていった。エキュゼとフォシルから痛々しい視線が浴びせられる。
ああ、情けない。アベルがネイト関連の話をすると、大抵その彼によって痴態を晒すことになってしまうのは何故だろうか。人が真面目にやっている時に限って、あまりに理不尽だ。見方によっては、
ネイトが意図的にアベルを陥れようとしているようにも見えなくもないのだが、真意ははたして。
一方で、“不意打ち”を仕掛けた本人であるドンフリオも、唖然としたような、どこか釈然としない様子で言葉を紡いだ。
「……これは驚いたな。いや、騙されなかったお前らもそうだが、まさかあの流れで引っかか」
「そ、それ以上は言わないで! わかってるからっ」
悲鳴混じりの声でエキュゼは懇願した。ネイトを、チームのプライドを、とっさに守ろうとしたのだ。勢いに気圧されたのか、ドンフリオの口から追求の言葉は出なかった。気付かれぬよう、ホッと胸をなでおろす。
はてさて。張り詰めた空気は、いつのまにやら、なんだか微妙な雰囲気へと変わってしまった。あれもこれも他ならぬ馬鹿リーダーのせいなのだが、当の本人は「騙されたー!」などとわーわーほざいている始末。もう、彼を、どう擁護すれば良いのだろうか。
「……へっ。まあ何にせよ、テメーらに協力する気がねーってことはわかった」
(ツッコまないの!?)
至って真面目に状況の進行をするフォシル。『慣れ』、というのは恐ろしいものだ。これだけ奇怪な動きを見せても、目に焼き付いてしまえば道端の石ころ同然の扱いである。色々と噛みついたところで得るものがあるわけではないが。結果としてネイトはスルーの方針。
『正義』の話を肯定するように、ドンフリオは、にやりと歯を見せた。
「だとしたら、なんだ? この場でやると言うのなら、こちらも相応に本気を出してやろうじゃないか」
こちらが一方的に不利となる条件を押し付けられている以上、荒事を仕掛けるつもりなど毛頭なかったのだが
どうにもフォシルの言葉は宣戦布告と捉えられてしまったらしい。相手はやる気だ。
次の瞬間、ドンフリオがほんの僅かにクライへ目配せをしたのを、フォシルは見逃さなかった。
「何か仕掛けてくるぞ! 距離を置けっ!」
咆哮混じりの注意喚起に、一同は焦りながらも一歩退く。対して、相変わらずの張り付いたようなニヤケ顔を振り撒きながら、毒タイプ二匹は一歩前に詰め寄る。
毒タイプ二匹
そう、前線にいるのはクライとドンフリオのみで、何故かロスは彼らから離れた木の下で、まるで何かから逃れるように、事の成り行きを食い入った表情で注視していたのだ。
(……広範囲の技か? っつっても、自爆なんかの類じゃねーよな。まさか)
そうなると、と、フォシルが考えかけたところで、正解発表とでも言わんばかりに、むざむざと当人の口からその答えは飛び出した。
「さて、お前たちにこの攻撃が耐えられるかな? 俺様と、クライの
」
息を呑む音が、聞こえた。
「“毒ガススペシャルコンボ”を!」「ええっ!? だっさ!」 色々な意味で驚愕なネイトの罵倒は、直後、一瞬で『リンゴの森』の最奥部全体を地獄に変えた悪臭ガスによって
都合よくかき消された。
それはもう、襲われた側ですら言葉を失ってしまうほどの毒ガスだった。
音量もさることながら、湖畔の霧ばりの凄まじい量。砂漠のど真ん中で砂嵐に遭ったような視界不良。そして、常々変わらぬ化学兵器並みの悪臭。これなら確かに『スペシャルなコンボ』と呼ばれてもおかしくはない。そう正当化させてしまうほどに、すごかった。とにかくすごかった。
猛毒の散布からワンテンポ遅れ、『ストリーム』の軍師から「伏せろ、口元塞げ!」とくぐもった声で迅速な指示が出される。流石は最高戦力、冷静かつ確実な対応を何の迷いもなくこなせるとは。心の中で彼を褒め称えながら、エキュゼは両前脚で鼻先を隠す。
このガスは前述の恐るべき性質を兼ね備えながら、二匹分の力ということもあってか、全く晴れる兆しが見えないほどの濃度を誇っていた。ギルド内で放たれたものなど、文字通りの『屁』でしかなかったように。身動きもロクに出来ず、反撃の機会もあらず。全滅するのは、もはや時間の問題だった。
だがしかし
毒や鋼タイプのいないこのチームにも、唯一悪臭に耐性のある男がいる。そしてその男は、我こそはとばかりに直立不動、凛とした佇まいで腕を組み、見通しの悪い汚煙をひたすらに睨んでいた。
「うう……そ、そっか。アベルなら……アベルなら、この中でも」
「アベっ、ゲホッ……アベル! 頼んだ、うぇっ、このガスを、なんとか出来んのは、オメーしかっ、っぐえ」
「いや、無理だ」
が、即答。鼻炎持ちのアベルでも無理なものは無理か、では何故堂々と毒霧を受けているのだろうか。様々な疑問が、地に伏した者たちの脳を掠める。
無表情のままで、アベルは言った。
「いいか、そもそも鼻炎というのは、要は鼻づまりなんだ。俺が無力化できるのは匂いだけだ。つまり、
毒ガスの毒素自体はどうにもならない、ということだ。では、後は任せ、た」
バタリ。それは綺麗真っ直ぐに、生物であることなど忘れてしまいそうなほど無抵抗に倒れた。
なるほど。つまり、異臭騒動時のガスは単なる『屁』であったから動じなかったわけで、れっきとした『技』である“毒ガス”相手ではどうにもならないと。
「…………あれ? これやばくね?」
希望が、潰えた。勝手に期待したとはいえ、せめてもう少し、ほんのもう少しでいいから何かしてくれなかったのだろうか。あれだけ自信満々に腕を組んでいたというのに、なんて無様なオチか。そんな苦言も、当の本人が意識を失ってしまった後では意味を為さない。
ともあれ、これで本格的に打つ手を失ってしまったのは事実。流石のフォシルも、やべーな、と再び弱音を漏らした。
毒が効き始めたせいか、単に空気が混濁しているだけか。淀む視界の中で、フォシルは辺りを見渡す。前脚の中に顔ごと埋めたロコンに、地に突っ伏したまま動かないカラカラ
依然として、状況は最悪なままだった。強いて良くなった点を挙げるとすれば、そんな彼らの姿が見えるくらいには霧が薄まってきたことか。
どこかに、どこかに打開策は。視線を走らせ、ふと、ある一点に留まった。ネイトの腰元に寝転がる、ぱんぱんに膨らんだ茶色の鞄。確か、あれの中身は
。
「くっ……ネイトっ、オレンを、いくつか渡せっ!」
毒のダメージを、大量のオレンの実で無理やり緩和し、ガスが弱まるまでなんとかやり過ごす。苦し紛れの策でしかなかったが、現状できることなど、フォシルでも思いつく限りはこれぐらいしかない。力んで掠れかかった声で、バッグの持ち主であるリーダーに乞うた。
ネイトは倒れ伏したままの体勢で、顔だけをこちらに向けた。
「あのね、そもそも僕は鼻炎でも毒が効かないタイプでもないから、普通にヤヴァいんだ。匂いもさっきからもう、アレだよ。つまり……えーっと、
死にそう。というわけで、お先に失礼しちゃいまじゅ
ぶべっ」
どこかで聞いたようなフレーズを残して、骨頭の双眸から光が消えた。微かに開いた口から、魂的な何かが抜けていったような気がした。
なるほど。つまり、毒への免疫どころか、鼻炎すら持たないネイトにとっては、意識を保つだけで精一杯の状態で、トレジャーバッグを弄るだけの余裕はなかったと。して、その、最後まで守り抜いていた意識も、遂に悪臭に負けたと。
「……って、こんな状況になってまでデジャブ芸してんじゃねーよ馬鹿あああああッ!!」 フォシルは叫んだ。どこまでも歪みなく、ひたすらボケ役を貫く姿勢に対するツッコミを。そして案の定、ひどくむせ返った。こうなるとわかっていても、ツッコミ役としての血が理性を呑み込んでしまったのだ。
さあ、いよいよ本格的に不味くなってきた『ストリーム』。時間ごとに身体が蝕まれ、感覚も鈍くなってきているせいか、対処法の考察など出来たもんじゃない。頼みの綱である青果も、持ち主が気絶してしまえば手渡しなど不可能。と、なれば
そこからのフォシルの行動は速かった。
「…………! フォシ、ルっ」
「えほっ、コンニャロー……迷惑、かけ、やがって」
霞む視界の中、エキュゼが目にしたのは、ほふく前進でネイトに迫るフォシルの姿だった。受け渡しが出来ないのならば、己が手で取りに行けばいい。話自体は簡単そうに聞こえるが、いざ実行となればそう易々とやれることではない。それも消耗しきっている彼ならなおのこと。
スカーフの巻かれた左腕を地に押し付け、灰色の胴をずりずりと引き摺る。そうしてもう一歩、右腕を前方に伸ばし、短く、だが確実にバッグとの距離を縮めつつあった。
そして、努力は実り。
朱色の肩掛けを、掴んだ。
「エキュゼ! 顔上げろ!」
肩紐を手繰り寄せ、開いた鞄からオレンの実をこぼし、無造作に二つ取ってエキュゼの手元に転がした。自分より先に、まずは味方から、というスタンスが実にフォシルらしい。無論、感嘆する暇などなかったが。
木の実はエキュゼの手に届く範囲にあった。あったのだが、思うように前足が動かない。悪臭から鼻を守る唯一の手段を放棄することへの惜しさも捨てられず、彼女もまた、毒が回ってきているようだった。不快な気怠さが、「命綱を取れ」の脳内命令を拒否してしまっていたのだ。
なんとか進展はしたものの、未だに問題は山積み。ひとまず、フォシルは目の前のオレンを食すことに専念し、多少掴み損ねながらも、なんとか口中に放り込んだ。
ああ、思えば長い道のりだった。鼻炎の想定違いに始まり、ノリでボケやがった馬鹿に続き。それでもこうして、どうにか一命は取り留めた。
そう、最終的にはネイトの調達してきたオレンの実が活路を開いたのだ。この時ばかりは、そんな馬鹿に対して感謝するほかなかった。
良かった、これでなんとか凌げる。束の間の安心感を胸に、早々にフォシルは青色の木の実を噛み砕く。溢れ出した果汁が喉元を通り、全身の治癒効果を急速に上げる
。
はずだった。
「う゛ッ……!?」 短い悲鳴と共に目を大きく開き、何かと思えば、そのまま倒れてしまった。
倒れた、と言っても、立っていたわけではない。既に伏してはいたのだが、それでもなお、「倒れた」ことがハッキリとわかるくらいにはリアクションがあった。
「グ、ぁ、あ…………ぁ、んだ、こりゃ、あ……!!」
(え? え、何? どうして)
目の先のズガイドスは『オレンの実』を食べたはず。否、食べたのだ。その始終をエキュゼは間違いなく見ていた。なのに、何故彼は苦しみ喘いでいるのか。意味がわからないまま、傍観している彼女が一番混乱していた。
オレンの実は
あまり詳しいことはエキュゼもわからないが、少なくともアレルギーか何かで痛い目に会った、なんて話は聞いたことがない。主食としてはそこそこだが、大衆が食べて問題を起こした事例も
。
いや、まさか、あれは。
「えっ、ウソ……それ、『オレ
ソの実』、なの?」
この世界には、『そっくり道具』と呼ばれる風変わりな物がある。そっくり、なんてのは見た目だけの話で、中身については、ほんの一部にしか需要がなかったり、効果が丸ごとアベコベだったり、あるいは全く別の効能が得られたりと、なんとも迷惑なアイテムなのだ。
そして、エキュゼが口に出した『オレソの実』という名も、この区分に入る道具の一つ。こちらは中でも一、二を争うほどに最悪に秀でた効果を持ち合わせているもので、擬態元のオレンの実とは真逆の効能
即ち、
食べたポケモンに、ダメージを与える。 確か、アベルの実家で『ポケモンニュース』を読んだ時に、『集団食中毒 原因はオレソか』なんて記事が一面を飾っていたような。一時期話題になったっけ。古い記憶にぼんやりと残ったそれらの文字を思い浮かべ、エキュゼは確信した。
「が……あッ……! ぢっぐじょおおお……ぐふっ」
悔恨と無念の断末魔を残して、ようやくフォシルは苦しみから解放された。というか、ぶっ倒れた。半開きの苦痛に歪んだ口の端から、彼にとどめを刺した藍色の液体が垂れて地面に黒い染みを作る。
一人残されたエキュゼは、眼前に転がる二つの木の実に視線を注いだ。憎らしいほど可愛い丸型で、汚染された空気の中でも際立つ上品な深い青色。けど、はらわたはドス黒くてぐっちゃぐちゃだ。とんでもないやつを連れてきたな、とエキュゼは心の内で思った。
(でもこれって……あれ?)
カチリ。今の一連の事故で、彼女の脳内で何かが繋がる音がした。
ふと脳裏に映ったのは、出発前のあるポケモンの姿。
『へいお待ち〜。ほら見て、大量大量!』
『ん? 買ってないよ。あっちの畑にいるマッスグマからもらったんだじぇ〜。あ、これ使わなかったお金ね』
『いや! なんか廃棄するとかどったらこうたらで、『欲しいならくれてやる!』って』
『ぬっふっふ……新鮮な方がうんたらかんたら! ほら、『山紫水明』って言うでしょ?』
ああ、やはりコイツだった。
ネイトは「買い間違えてオレンもらっちゃったー」で済むほどのヘマはしない。もっと甚大か、明後日の方向に走り出すような馬鹿をやらかすポケモンだ。そもそも、おつかいなんて
上等な仕事をこなせるはずがない。そういった意味での信頼は厚い。
なのに、彼らは。今回ばかりは都合が良いとでも思ったのか、ネイトの活躍を信用し、入念なチェック、毒味だとか、そういった下調べを一切行わなかったのだ。
先導するリーダーを、信じたが故に負けた。導かれた先には、悪意ゼロの地獄が待っていた。
ここまでの道のりを振り返れば、粗探し等の真似事をせずとも敗因はいくらでも出てくるだろう。
全ての原因がネイトにあるわけではないにしても。
彼を信じきったメンバーにも非はあるにしても。
それでも、エキュゼは叫ばずには居られなかった。
「ね……ネイトのバカぁあああああ…………!!」 孤立した小狐は、遠慮なく仲間を罵倒した。
“毒ガススペシャルコンボ”が放出されてから数分が経過。黄一色だった奥地に、ちらほらと元の色彩が戻ってきた。ガスが、晴れ始めたのだ。
そこに映し出された光景は、幾ばくか前には臨戦態勢を見せていた者たちの無残に敗れ去った体貌だった。いずれも倒れ、光の灯した双眸など見る影もない。
思い通りの結果に、彼らを見下ろすスカタンクとドガースが笑う。
「ケッ。意気込んでた割にはあっけなくやられちまったな、兄貴」
「ククク……ヤツら、ここに来た時点で随分とヘトヘトだったからな。大方雑魚にやられたんだろう。まあ、弱小らしい終わり方ではあるが」
手加減しておくべきだったな、とドンフリオが付け足すと、クライは腹の底から嘲笑い声を上げた。非常に不愉快な絵面だが、今この場に無法者を咎めてくれるような存在はいない。この場を支配するは『悪』。彼らに刃向かった『正義』は既に制されてしまった。
「さて、」悪の権化はクライを横目をやる。
「撤収だ。セカイイチを全て回収するぞ。一個も残すな」
「兄貴、ロスはどうします? コイツらと一緒にへばっちまってるんですけど」
クライの視線を追うと、そこには木陰に倒れたズバットが。彼も毒ガスに巻き込まれてしまったのか、ピクリとも動かぬところを見ると、やはり意識も飛んでいるよう。同じ毒タイプでありながら云々言おうかと悩むそぶりを見せたが、構うのも面倒に思い、軽く一瞥だけして視線を戻した。
「フン、ほっとけ。それよりヤツらに気付かれる方が不味い」
非情だ。曲がりなりにも悪事を共謀する仲間なのだから、少しは哀れみを持って接するべきだろう。しかし、そんなリーダーに対し、クライから何かを言われることはなかった。
と、ドンフリオはどこからか大幅の麻袋を取り出し、手早くセカイイチを放り込み始める。さながら怪しい集団の手際だが、事実やってることはそれらしいもの。死屍累々の広場で麻袋……。
ドンフリオが四個目のリンゴに手を付けた、その時。
「う、うう」
全滅したはずの集団から、一匹の呻き声が、か細く、小さく発せられた。二匹は素早く、声のする方向へ首を回した。
彼らの想定していた「不味い」事態が、今まさに起こり得ようとしていた。
「……ケッ、なんだ。誰かと思えば、一人じゃ何も出来ない弱虫くんじゃないか」
「ほう、まさか俺様たちの攻撃を受けても意識があるとは。見直したぞ」
『ドクローズ』の物言いには答えず
というより答えられず、エキュゼは歯を食いしばりながら立ち上がるので精一杯だった。四肢の痺れが、震えが、身体中に嫌というほど伝ってくる。
必死に抗おうとする彼女の姿に、ドンフリオらは気味の悪い笑みを浮かべる。泣きながら訴える子供を真剣に取り合わないような、そんな表情だった。
ようやく胴を浮かせ、呼吸も絶え絶えで一言呟いた。
「ゆる、さない」
うるささすら感じる薄笑いに、それは反抗するようにチクリと彼らの耳に食い込んだ。たったの一瞬のみ冷めた静寂が訪れ、直後、
大爆笑。
喉の奥から出る、本気の嘲笑だった。漫才でも見たのか、と聞きたくなるほどに、大笑いだった。
真剣で、なんというか、シリアスなオーラを纏うエキュゼの周囲が、一気に別の色の風で塗りたくられるような。自身の中でも、ぎこちなく、噛み合うことのない気持ちが無理やり混ざって。そして、相互理解など不可能なのだと解し、彼女の何かを縛っていた鎖が、音を立てて割れた。
憎い。憎い、にくい、にくいにくいにくいにくい
少し驚かせるくらいなら、別にいいよね。
ううん、やっぱりそれはダメ。
ちゃんと、殺さなきゃ。
笑いどころのサビが終了したのか、あるいは疲れてしまったのか。それでもまだ、破顔は携えたままのドンフリオが、上ずり気味の声でエキュゼに問うた。
「そうかそうか。『許さない』か。ククク、だからどうした。お前みたいな『弱虫くん』に何がで
」
直後、エキュゼは燃えた。
燃えた、なんてのも随分と曖昧な表現だが、現状それが一番適切とでも言わんばかりに、突如体の内側から青白く発火したのだ。
「ひっ
」
「な
」
背中からは逆立った毛の如く鬼火が吹き出し、肩骨から、尾っぽからもガスバーナーのように
。まるで、四方八方から敵が近づいても、あらゆる暴虐の炎で焼き尽くさんとする怪物の風貌だった。
俯き気味だった頭が持ち上げられ、無表情とも取れなくもない顔を彼らに向けた。焦げ茶色だった瞳は、すっかり警告色の赤色に染まっており、これ以上にないくらい明確に殺意を表現していた。
「許さない。お前たちだって、同じ敵だ」
何か、おかしい。あの大人しかったロコンが、本当に同一ポケモンなのか疑わしいくらいに荒ぶっている。明らかに口調が以前話していた時よりも強くなっている。理解が追いつかないまま、二匹はただただその光景を呆然と眺めることしか出来なかった。
そしてやはり、燃え盛る炎は幻ではなかった。肢体を中心に、黄土色の大地が黒く焼けていく。白地に垂らした一滴の染色液のように、じわりと焦土が広がっていく。
「罪を
」
可愛らしい左前足が一瞬震えたかと思えば、一刹那後には、青い炎が、鋭く伸びる二本の爪を形成していた。巨爪に沿って、真っ直ぐに地面が焦がされていく。負の感情が、アートのように色付き色付き、見る者の心を、恐怖心を大きく揺らした。爪
それは、爪と呼ぶにはあまりにも長く、あまりに直線的で、あまりに、歪んでいた。
「償え」
ごく自然な動作で、狂気の宿った左手を振り上げる。標的は間違いなく、自分たちを散々貶めてきた毒タイプの三匹組。実体のない刃で引き裂かれてしまえば、想像もつかない。が、少なくとも彼らは、この得体の知れない化け物を相手に、死をも覚悟していた。
そして。これまた突飛に、『その時』は来た。
あれだけ獲物を喰らいたがろうと天に伸びていた凶爪は、そのままの格好で動かなくなった宿主の熱気と共に、ふ、と消え去ったのだ。続いて真っ赤な眼光も、ほんの僅かに火花のような光を散らして跡形もなく消え。地面を焼き焦がしていた足元も、エキュゼの意識も
糸の切れたマリオネットのように、ぐらりと崩れた。
足元に転がっていた二つの木の実は、いつの間にか灰燼と化していた。さようなら。別れを告げるように、風がどこか遠くの空へと連れてゆく。
この短時間で何が起きたのか。当事者だけでなく、本人でさえも説明が付かなかった。
「
ばッッッッきゃろーーー! なんつーモンもらってきたんだオメーはぁああ!」
すっかり元の景色を取り戻した森の最奥部で、フォシルの怒声がこだました。
「だってタダだったし……」
「こっちはタダじゃ済まねーんだよ!」
「『山紫水明』っていうし……」
「『産地直売』だろーがあぁぁああ!!」 大戦犯、反省の色なし。
ああ、古の軍隊との決戦で輝いた姿はどこへやら。今では真面目さの欠いた連中どもに翻弄されっぱなしである。この落差を、不運を、なんと表現すればよいことか。
「うげー……後味悪りーぜ……」
「例のオレソとやらか」
「毒ガスうんたらかんたらのこと?」
「んや、全般的に、だな……」
“毒ガスうんたらかんたら”を食らってからどれほどの時間が経過したのだろうか。壊滅したチームでいち早く覚醒したフォシルが、汚染ガスにやられた仲間たちを一人一人介抱し、無事を確認してから状況の整理。して、現在に至る。
まず、人的被害について。これは前述での通り、『無事』という結論が出ている。各々が頭痛や気分の悪さを訴えてきたが、幸いにもそれ以上とはいかなかったようで。当然ながら被害ゼロというわけではないが、「仲間割れに比べたら大したことない」ということで、四捨五入して『無事』とアベルが勝手に判断した。
次に、肝心なセカイイチの方だが
。
「セカイイチ……全部取られちゃったね」
「ああ……強いて順位を付けるなら、アレが一番やべーもんな……」
深刻そうに語るフォシルに、エキュゼは小さく頷いた。
彼らが気が付いた時には、既に食料は、セカイイチはどこにもなかったのだ。十中八九、『ドクローズ』の連中の仕業と見ていいだろう。
ただ、それがわかったところで何になるか。セカイイチはない。土産はない。成果もない。よって
命はない。事前に絶対失敗するなと、あれだけクレーンに念を入れられていたのに。親方関連の仕事であれば、あの焦りようは口ぶりだけではないことなど明白だ。
そして、もう一つ。
「ねえねえ、あそこのズバットは? 土食ってるの?」
「普通に『倒れてる』って言えよ」
セカイイチの生る木の根元に、ロスと思わしきポケモンがうつ伏せで……恐らく土を食すまでの限界状態にはなっていないだろう。一糸の動きも見せず、倒れていた。
「ふーん」と妙に納得していない様子のネイト。向き直り、這いつくばったコウモリの元へ歩くなり、彼の背を手の先でツンツンと突いた。
「もしもーし。ねえそれ美味しい?」
「…………ハッ!」
腹を押されて出たような短い呼吸をするやいなや、急に起き上がり、「逃げ遅れたあッ!」とロスはハエ並みに翼を羽ばたかせて、そのまま森の出口に向かって一直線に飛んでいった。コイツに限っては、なんだかこういうところが憎めない。
ネイトがアベルに振り返る。
「不味かった、って」
「捏造するな」
悪党に敗北、任務失敗、重ね重ね最悪な状況でありながらも、リーダーの頭は相変わらず平和だった。
(しっかし……何が起きたんだ、これ……?)
そんな影で、フォシルは焦熱に焼かれた地面に頭を悩ませていた。