第29話 掲示板情報更新係代役・アベル
チュンチュン、と鳥ポケモンのさえずりが、トレジャータウンに新しい朝の到来を告げる。
ガラスの窓から差し込む朝陽が、穏やかな表情で眠るポケモンの寝顔を優しく照らす。どうやらまだ夢の世界が恋しいらしく、ううんと軽く唸ってから太陽に背を向けた。
煙のような薄らとした雲の散らばる、心地の良い晴れやかな空模様。
突如近づいてきた足音に、無意識に彼らの表情が歪む。
「起きろおおおおおおお!! 朝だ……うぉわっ!?」
「うっせーぞテメー! 少しは加減しやがれこのヤロー!!」
いつも通り『ストリーム』の面々を起こしに来たギガは、今日に限って「起きろおおおお」の時点で一秒とかからず起き上がったフォシルに、容赦ない頭突きを食らわされたのだった。
どことなくやつれた感じで、フォシルは「起きろー、起床だー」と低音、棒読みで横たわる三匹に呼びかける。直後、ゆらりふらりとゾンビのように起き上がり、ネイトとアベルは脱力した両腕を垂らしながら、エキュゼは全身を痺らせたように震えながら、三匹同時にギガの方へと向いた。
「…………ウヒヒ……」
「……………………」
「……ああ?」
薄気味悪い笑みで肩を震わせるネイト。無言、無表情で圧力をかけるエキュゼ。安定と信頼の反応を見せるアベル。少しばかり前までは憎らしくも可愛げのある後輩だったというのに、たった数日で彼らの身に何があったのだろうか。ギガは後ずさりしながら問いかけた。
「お、落ち着けお前ら! どうしたんだ! いきなりそんな、」
「あー悪りー、
今話しかけないでくんねーかな」
反抗期の息子がグレてしまった時の母親というのは、これほど重苦しい感情を背負わなくてはならないのか
。遠い故郷にいる母の顔を思い出してしまったギガは、目尻に浮かんだ涙を隠すためにも早急にこの場から立ち去らざるを得なかった。
さて、確かにギガの思う通り、なんだか普段よりも粗暴というか、だいぶ機嫌の悪い『ストリーム』。無論、ただ意味もなくキレているわけではない。
原因はお察し、昨日の『ドクローズ』の件である。クライ、ロスによる雑言の数々。極め付きに、スカタンクのブピビッピブボボバブリュ(ネイト命名)による放屁事件。アベルを除いた三匹がその強烈な悪臭に為す術もなくやられ、彼らの中にはぶつけようのない鬱憤が溜まりに溜まっていたのだ。
そして、一晩明けた今でもその熱はおさまることはなく、むしろ大声で起こされた影響で再び燃え上がってしまったのだった。その結果、憎悪の炎は彼らが目を覚ました先にいたギガが、完全なとばっちりの形で被ることとなってしまった。哀れなりギガ。
ふて腐れた様子で広場に向かうネイトたちだったが、公私混同をする気まではなかったのか、朝礼が始まる直前には憑き物を祓われたように日常会話を繰り広げていたのだった。
「えー……昨日の朝礼が終わったあと、地下一階で異臭騒ぎがあったそうだが……検査の結果、有毒なガスではなく、その……オナラだったそうだ」
クレーンの話によれば、なんでも
『鼻炎』と呼ばれる特殊能力を持った者を除いては意識を保つだけでも精一杯だったそうな。あまりの刺激臭に、保安官のジバコイルたちが立ち入り検査を行う事態になるほどの騒ぎだったようで、例の特殊能力を持ったポケモン、アベルは目を丸くした。
「まあ……なんだ。ワタシもあまりこういうことはしたくないけど、心当たりのあるポケモンは手を上げてほしい。……アレス、ワタシは怒らないから」
「あっしがしたんじゃないでゲスよ〜!!」 公にされてしまうほど彼は放屁に定評があるのだろうか。屁についてはともかく、いかにも純粋そうで頼りない風体の先輩が、あんなならず者と同等の扱いをされていることにエキュゼは人知れず腹を立てていた。
そんな心情のエキュゼを見かねたのか、ネイトが擁護するように二匹の間に入った。
「あー違うよクレーン。ガス撒いたのはブピビッピブボボバブリュってヤツ」
「通じねえよ」
「ぶぴ……なんだって?」
このチーム内でしかわからない通称、しかも文字列が名前の形を成していないことから、そもそもポケモンの名称なのか物体の名称なのか、そこから既にわかっていない様子。
「略してピッピ」
「おい、全国のフェアリータイプに謝れ」 略せばわかるというわけではないのだが、省略自体は成功していたため、馬鹿なネイトにしては珍しく褒めても良いポイントだろう。フォシルがそれを良しとしなかったが。
悪臭ガスを散布するピッピ。ある意味斬新ではある。
「おぉーーーーーい! お前たち!!」
朝礼はルーの「たあああああ」もなく、連日ぶりにスッキリとしたスタートが決まった。と、油断したところに響くギガの声。本日の仕事内容をクレーンから聞くためにぽつりと残った『ストリーム』だったが、先手必勝と言わんばかりにお呼びがかかったようだ。
「その涙袋はどうした」
「うっ……うっ……かあちゃん……」
「んん? もしやホーム寝具ってやつ?」
「それを言うならホームシックだよ……」
「な、なあ……これオレらのせいか? ごめんよ……」
必死に隠した漢の涙は遠慮のないアベルの指摘により、努力の甲斐も虚しく、外気に晒されることとなった。フォシルは身に覚えがあるようで、申し訳なさそうに朝の対応を詫びた。
「ぐずっ……
そんなことはいい! それより、お前らには今日一日見張り番の仕事をやってもらう!」
あふれた涙を拭くのもまた漢。苦難を乗り越えたギガは、流した涙の数だけ強くなれたことだろう。
……とまあ、茶番はさておき。本題は『ストリーム』に見張り番の仕事をやってほしいとのことだった。基本的にはモルドの役割であるはずだが、前回と同じく、何か見張り番を空けなくてはならない用事があるのだろうか。気になって、ネイトは尋ねてみた。
「ん、それって前みたいに用事がある感じ?」
「ああ……なんでもラウドさんが腰を痛めたとかでな。付きっ切りで面倒を見るらしい」
((((腰!?))))
ラウドとモルドは親子で働くギルドの弟子
というよりかは、専門の仕事をこなすスタッフ的な立ち位置の強い印象だが、故に片割れが一人勤務出来なくなるだけで、ギルドの機能が大幅に低下してしまうのだとか。そして、現在はその両名が欠勤しており、どうしても代役が必要になって『ストリーム』を呼んだのだった。
しかし、彼らが着目したのは「腰」という点。ディグダ族に頭以外の部位があるのだろうか。あってしまって良いのだろうか。ネイトたちは生命の黙示録に触れたくなるような、背徳感の内の好奇心をなんとか押さえつけ、敢えて言及せずに沈黙を貫いた。
「まあつまり……早い話がラウドさんの掲示板更新の仕事も手伝ってほしいわけなんだが」
「え、それって二組に分かれて……ってこと?」
不安そうに聞くエキュゼの問いに、ギガは「うむ」と肯定した。
見張り番だけならまだしも、ネイトですら未経験の情報更新の仕事をぶっつけ本番でやれというのは厳しい話である。事態は彼らが想定していた以上に複雑だった。
「ひとまず、見張り番をやるヤツを決めてくれ。掲示板については後でワシが教える」
「みはりば〜ん? むぅ、ドゥーしよう」
見張り番に関してはネイトが唯一経験済みだが、成績は芳しくなかった。残る三匹は経験無し。はっきり言って、全員がほぼ未経験なのだ。頼れる相手はいない。
だが、逆を言えば誰がやっても変わりないということでもある。そんな中でフォシルが思いついた方法は
。
「……うし、わーった! ここは伝家の宝刀、『じゃんけん』で決めちまおーぜ!」
「えらくショボい宝刀だな」
適当な決め方ではあるが、適任が存在しない以上間違った決め方も何もないだろう。フォシルの意見に反対の声は出ず、全員が手を突き出した。
「……あれ? この手でどうやってチョキ出すんだろ」
「えーっとね、出す手はなんでもいいの。口で言えば伝わるから」
「おお! ポケモン式じゃんけん!」
思いも寄らぬ場所でポケモン独特の文化を知ることとなり、ネイトは声に出して喜びを表した。この手法なら彼の得意分野だろう。
満を持して
本日一番の大勝負が始まる。
「いくぜー! 勝ったヤツが見張り番な!」
「じゃんけん……」
「「「チョキ!!」」」「
グー! ……うひょひょ〜! 僕の一人勝ち〜」
なんと、一手目でネイトが戦いを制してしまった。いわゆるビギナーズラックとかいうやつだろうか。勝ったままの手を頭上高くまで上げ、ネイトは勝利のポーズを構えた。
が、そんなネイトの手を見たフォシルが一言。
「別に勝ったのはいいけどよー、なんだってオメー
手はパーなんだ?」
「んえ? 口で伝わればいいって言ってなかった?」
「言ったけどよー……」
握り拳が出来なかったわけではない。カラカラの手であれば「グー」と「パー」の表現は容易。……のはずだが、彼の出した手は何故か開きっぱなしの「パー」だったのだ。
場合によってはズルの可能性も十分考慮できるのだが、「ネイトのことだし多分ボケ」とエキュゼが庇護するように結論を出した。
「さて、決まったな。俺たちは掲示板」
「ん、それじゃ……ってちょいちょいちょい! 見張り番は僕一人でおじゃりますか!?」
「あばよ」
「オーウ! アイムベリベリアローン!」
アベルが清々しいほどの村八分っぷりを披露するも、流石にネイト一人では可哀想(心配)なので、付き人として自らフォシルが立候補し、見張り番を共に行うこととなった。
情報更新の仕事は、地下一階の掲示板の裏にあるスペースを使って依頼の貼り替えを行うのだが、そのスペースとやらは見張り番と同じ穴を通じて到達することが出来るらしい。地下道の分かれ道で軽く会釈し、『ストリーム』はそれぞれの持ち場へ進んでいった。
しばらく上がり下がりを繰り返し、エキュゼとアベルは再び分岐点にぶつかった。裏方の仕事だというのに、その複雑さ故にまるでダンジョンを攻略しているような気分になった。
「うーんと……? どっちに進めばいいんだろ……」
「……指示を待つか?」
そんな二匹の疑問に答えるように、「着いたかーーー!?」と、地下二階から叫んでいるであろうギガの声が耳に届いた。そんな遠回しに確認せずとも、普通に地下一階から聞けばいいのではないだろうか。どうせこのギルドのことだし、何かしらの事情はありそうだが。アベルはそんなことを考えていた。
「道が二つに分かれてるのーーー! どっちに行けばいいーーー?」
「あーーー……左に進めーーー!」
付き合いの長いアベルですら年に数回としか聞けなかったエキュゼの大声。今思えばこのギルドに弟子入りしてから叫びっぱなしだ。慣れない環境の荒波に揉まれながらも、こうして考えると彼女は成長したんだな、なんてことをアベルはしみじみ感じていた。
「左……というとお尋ね者ポスターの方か」
「あ、そっか。私たち裏側にいるんだよね」
裏舞台の活動ではよくある間違い。そういったことが起こらぬように『上手』や『下手』といった言葉が存在するのだが、経験皆無の二匹は当然ながら専門用語など知り得なかった。
言われた通り、左側の道を足元に注意しながら進んでいく。少し歩いたところで行き止まりに差し掛かり、そこにあったのは横向きに張られた三枚の木の板
掲示板の裏側だった。
「着いたよーーー! なにすればいいーーー?」
「二時間おきに裏返してーーー、リストにチェック付いてるヤツは外せーーー! 外した分はテキトーに新しいの貼れーーー!」
「リストってどれーーー?」
「今渡すから戻ってこーーーい!」
「ええー?」とエキュゼが大きめの声で不服を漏らす。ギガに届くような声量で話していたため加減が効かなかったのだろう。幸いにも聞かれてはいなかったようだが。
二度手間になるなら最初から渡してくれ、という話だが、なんにせよこのままでは仕事にならない。一つため息をつき、アベルは渋々元来た道を引き返していった。
ただ一匹、残された妖狐は呟く。
「
お尋ね者、か」
暗がりとは違う、別の闇がエキュゼの顔を薄ら染めた。
誰にも聞こえず、誰にも届かず。細々とした声は、埋められたように木霊すらしなかった。
「ポケモンはっけーーーん! 誰の足型? 教えて〜、おじいーさん〜♪」
「ん? ……おお、アブソルじゃん! 懐かしーなー」
ネイトとフォシルが向かった先、見張り番では既に仕事が始まっていた。
フォシルは横になってボーっとしていたが、横目でチラリと格子を見てすぐさま答える。言われた通り、ネイトは「足型はアブソルーーー!」と叫ぶように報告する。時間をかけず、門が開く。前回嫌というほど聞いた叱咤は飛んでこない。どうやら正解だったらしい。
「すごーい! なんでわかるの!?」
「んー……別に足型だけ見る必要はねーんだよ。ほら、周りに生えてる毛とか爪とかあんじゃん?」
「なるほど!」
アベルと違う彼のいい点は、過失や疑問に対してしっかりと精細な説明を行ってくれるところにある。世話を放棄して疎外するよりも、来るべき時に備えて対策をさせる方が正しいと判断したからだろう。彼は賢い。
しかし、誤解しないでほしい。アベルは『賢くなかった』わけではない。探検でも持ち前の知識を生かせる場面は多々あったし、フォシルでなくてもこれぐらいの考えはそう難いことではない。彼がネイトに対する説明を諦めた原因は、もっと根幹にあったのだ。
「ポケモン発見! 足型はエーフィ!」
「…………うぉおい! バッカもーーーん!! 足型はトリトドンだぁーーー!!」
「あり?」
確かにピンク色であるという点は共通しているが、せめて『陸上』と『不定形』の違いくらいは見分けられるべきだろう。おいおい、と寝転がっていたフォシルが起き上がる。
「さっき言っただろ? 毛とか爪で見分けろって。ありゃいいとこで
繊毛だぜ」
「繊毛?
毛じゃん」
「…………あ?」
教えればわかる、なんて思っていた数十秒前の自分を蹴り飛ばしてやりたい気分になり、ここに来てフォシルは、アベルのネイトに対する辛辣な態度の理由になんとなく察しがついた。
的を向いただけの曲解と、暴走列車のブレーキの如く効かない応用。むしろこの域まで来れば、逆に彼を褒め称えても良いのではないかと目眩を起こすほど。
簡潔に言えば、ネイトは『どうしようもないタイプの馬鹿』だったのだ。
「あ、ポケモン発見! 誰の足型? 教えてぷりーず!」
「あ? ああ……ハスブレロじゃね?」
「足型はハスブレローーー!」
散々馬鹿だ馬鹿だと騒がれていたものの、こうして仕事にも取り組もうとする姿勢も見せているし、決して悪いポケモンではないのだ。ないはずなのだ。
だが、今現在に限ってはアベルに同情の念を送りたい。『百聞は一見に如かず』なんて上手い言葉があったものだ。自嘲にも近い憂いを胸に秘め、フォシルは再び横になった。
「おお当たったー! なんでわかるの?」
「あー…………
才能じゃね?」
どうしようもない質問に、フォシルは投げっぱなしのフォアボールで返す。
人当たりの良い王子は、アベルが歩んだものと同じ道へ踏み込むことを決意した。
「ん゛ん゛っ、
あー情報を更新します。危ないので下がってください」
アベルは一つ咳払いの後、表でポスターを眺めているであろうポケモンに警鐘を鳴らし、掲示板を力一杯押した。横回転した際に看板の裏
つまり表側の景色が垣間見られたが、ポケモンらしき影は見当たらなかった。誰もいない空間への警告にアベルは虚無感を感じた。
「うわー……ヒドい棒読みっぷり」
「多分仕事自体向いてねえよ、俺」
「それもそうかも」とエキュゼが小さく笑う。
ギガから手渡された『逮捕・解決済』リストのチェックを見ながら、二匹は多くの探検隊に品定めされていた顔写真付きのポスターを剥がしていく。あらかた掲示板が片付いたところで、籠に入った次なる手配犯のポスターに手をつける。
「……ここのお尋ね者ってまだ捕まってないんだよね」
「まあ、そういうことになるな。なんかムカつく顔のヤツでもいたのか?」
「ううん、そうじゃないけど……」
一瞬だけエキュゼの眼光が鋭く光ったように見えたが、直後には少しだけ物憂げな少女の形相に戻っていた。
エキュゼには、幼少期の頃から時々こうして彼女が彼女でなくなるような、強い負の面があることをアベルは知っていた。十年近く共に生活してきた彼も、未だ心の中に潜む闇の正体を知らない。
「なんでもないよ。ただ、色々やってる人がいるんだなあって」
「……そうか」
外套の隙間から見え隠れするような暗がりも、彼女が笑って誤魔化してしまえば、それはたちまち蜃気楼のように影もなく消えてしまう。毎度これの繰り返しだった。
しかしアベルもまた、エキュゼの深部を詮索することに躊躇していたのだ。今でこそ幼馴染というそれなりに円満な関係を築けているが、もしも彼女の禁忌に触れてしまえば
。
怖い。関係の崩壊以上に、もっと恐ろしい何かが。
気まずい空気が流れ、沈黙が辺りを包む。時間ですら呼吸を忘れてしまいそうな静寂を嫌って、アベルは黙々と作業を再開した。続くように、エキュゼもチェック付きの用紙を手に持つ。
と、丁度その時。掲示板の向かい側から複数のポケモンの話し声と
忘れられないあの悪臭がエキュゼの鼻を掠めた。
「
うっ……! こ、このにおいは……」
鼻づまりのアベルには異臭を感じ取ることは出来なかったが、エキュゼの表情から察しがついた様子。掲示板に耳を当て、アベルは外の会話を聴取する。
『ケッ、相変わらずロクな依頼がねえ。お尋ね者の方はどうだ? ロス』
『ヒヒヒ……クライ! 兄貴! なんかこっちおもしれーっすよ!』
『……あ? なんも貼ってねえじゃねえか』
名前や話から察するに、アベルは彼らが『ドクローズ』であると断定した。もっとも、エキュゼの反応を見れば一目瞭然だったが。
さらに厄介なことに、彼らは更新中の掲示板に目をつけたらしい。出来るだけ関わりたくなかったが、こうもなってしまえば避け得ぬ事態だ。このまま何事もなく去ってもらえることを祈るが
現実はそう上手くいかなかった。
『そン中にいるんだろーーー? さっさとしやがれーーー!』
『もしも〜し? 聞こえてんのかー?』
案の定、彼らの矛先は掲示板の裏にいるポケモンに向いてしまった。昨日と同じ、下卑た声で話すところを見るに、彼らは『ストリーム』に限らず、見ず知らずのポケモンが相手だろうと平等に罵詈雑言を浴びせられることがわかる。もはや無法者のレベル。
そして遂に、クライと思わしきポケモンが体当たりで掲示板をノックし始めたのだ。突然の衝撃にアベルは咄嗟に耳を離した。
借金の取り立て屋の如く軽いノックの連打に、裏の通路にまで鈍い音が響く。エキュゼは「ひっ」と小さく嗚咽を漏らした。
今のアベルに残された選択肢は二つ。
一つ。仕事と割り切り、大人しく情報を更新するか。
もう一つは
感情に任せてヤツらをぶっ叩くか。
いずれにしてもリスクはあり。責任の発生する仕事である以上、黙って看過してやり過ごすなんてのはもってのほか。そんなことをすれば、本日不在のラウドにまで被害が及んでしまう。
(……どうしても、邂逅は避けられないか)
時間が経つにつれて、木版を叩く音も段々と大きくなっていく。悪臭と脅迫に震えながら、エキュゼは地に伏せて身を縮み込ませた。
立場か。制裁か。
決断の時。
俺の答えは
両方だ。
「
おらっ!」
アベルは掲示板を思い切り蹴りつけ、表で嫌がらせを続けていた無法者に看板越しの蹴撃を食らわす。回転する掲示板にはね飛ばされ、クライは引き寄せられるように土壁に背中を打った。あまりに不意の強襲故か、ドガースの特性『ふゆう』も発動せず、そのまま重力に従って地面に落ちた。
半開きとなった掲示板の奥、仄暗い空間から黄色の双眸が姿を現す。
「なっ……! なななな、なんなんだお前はぁ!」
「掲示板情報更新係代役だ」 間違ったことは言ってない。言ってないが、ロスの質問の趣旨は「何しやがんだてめえ」という意味であり、決してアベルの役職を尋ねたわけではない。
顔半分は見切れていたものの、アベルの視界の右端にはどっしり構えたスカタンクが自分の表情を睨みつけていた。その面構えは、どこか狼狽えた顔色を残しつつも、なぜか余裕のある不敵な笑みを浮かべていた。
「この野郎! ふざけやがって!」
視線を正面に戻すと、もの凄まじい剣幕のロスが文字通り牙を剥いて、掲示板の縁から顔を覗かせるアベルに食ってかかろうとしていた。
お前も感情に任せて行動するのか、と思わぬところで共感を覚えてしまう。しかし彼とは違って、アベルは『仕事』も忘れなかった。
「
おっと、貼り忘れがあった」
衝突まであと数十センチのところでアベルは再び掲示板を蹴り、寸前でロスの“かみつく”は意識外から向かってきた木版に突き刺さってしまった。
そして、勢いのまま一回転。
「あごぁっ、がっ……ふ、ふへへー!(ぬ、抜けねえ!)」
コルクボードに刺す画鋲のようにいとも簡単に牙が掲示板に刺さってしまい、ロスは翼で忌々しい木の板を押さえながら引き抜こうとする。が、牙の侵食の方向が悪かったのか、ビクとも動かない。
ロスは背後にいるであろうスカタンクに助けを求めようとしたが、どうも空気がおかしい。視力は退化しているものの、自然光の感知くらいは容易に出来るはず。辺りは薄暗く、何故だかじめっとした気持ちの悪い湿気が一帯を包んでいた。
ここから導き出せる答えは
。
「さて、情報の『更新』といくか。エキュゼ、手伝ってくれ」
「う、うん」
「!!」 自分は今、無防備な背中を敵に見せているということ。
つまり、ここは掲示板の裏側のスペース。一回転したと思われた掲示板の回転は、実は半回転だったのだ。
『ぎいぃいいやあああああ……!!』 無抵抗のまま振り下ろされた『更新』は、壁越しでも聞こえるほどの悲鳴を生み出した。
しばし暴力的な打音と叫び声が続き、スカタンクでさえも苦い表情を見せたが、やがて泣き疲れた赤ん坊のように静かになってしまった。
少し間を空け、何事もなかったかのようにアナウンスが流れ始める。
『…………情報を更新します。下がれ』
先人たちの無謀な特攻を見れば、情報の更新が如何に危険かということぐらい言われるまでもなく理解出来る。スカタンクは既に掲示板の範囲外から一歩下がったところで待機していた。
今度は打って変わり、掲示板はゆっくりとした動きで更新済の情報を開示しようとしていた。
見せつけるようにして姿を現した掲示板、その中心には、
綺麗に並べられたポスターと共に磔となったズバットが変わり果てた後ろ姿でリーダーにお披露目されることとなった。
ガタリ、とはめ込まれたパズルのように気味の良い音を立て、掲示板は動きを止める。その衝撃で、ロスは事切れた蝉のように音も立てずに落ちた。
「……フン、やってくれたな」
独り言のように呟き、スカタンクは倒れた仲間に目もくれず、そのまま背を向けた。心配は無用という信頼からか、はたまた捨て駒のような扱いか。非情とも取れる行動は、誰にも見られることはなく。
「ククク……楽しみにしておけ」
去り際にスカタンクが放った意味深な一言は、掲示板裏の二匹の耳に届いたのだろうか。そしてその真意は伝わったのか。壁越しの宣戦布告は、探り探りの状態から始まった。
「結果は…………お? なかなかに上々じゃないか。どうしたんだい」
地下二階、広場。一日の勤務を終えた『ストリーム』はクレーンから仕事ぶりの評価をされていた。前回のボロクソっぷりからは想像のつかない結果に、ネイトが「うっひょひょー♪」と奇声じみた声で喜ぶ。それとは対照的に、同行していたフォシルはどことなくやつれた表情で、隣でうるさく騒ぐ存在に目を向けた。
「あったり前田のクラッカーよ! 僕だってやればうんたらかんたら!」
「ああ……(ほぼ、ほぼオレがやったんだけど)」
なんとしても手柄を自分の物にしたいらしいネイトに対し、フォシルの反応は素っ気ないものだった。素直に喜べない彼の様子を見て、クレーンも何か察しがついた模様。報酬の
Pと謎の液体の入った琥珀色のビンを渡しながら、付け足すように言った。
「あー……よく頑張ったなフォシル。オマエの苦労は痛いほどわかるよ。ほら、ご褒美だよ」
「悪りーな……すまねえ……!」
同じ気苦労を重ねた者どうしにしか理解し得ない、奇妙な友情が二匹の間に初めて生まれた。フォシルの瞳から一粒の涙がこぼれ落ち、彼らは熱い抱擁を交わす。
一方で当の元凶ネイトは「ウホッ」などとふざけたことをほざいていたので、苦悩の断片を知るアベルが元凶に飛び蹴りによる制裁をかました。
色々な事情が背景で飛び交う中、エキュゼは申し訳なさそうに自分たちの仕事の評価を聞いた。
「あ……その、ごめん。えっと、私たちの……掲示板の仕事、は?」
「……ん? ああ、大丈夫だよ。……と言ってもほとんど作業みたいなモンだから、評価しようにも、ねえ。駄賃くらいなら出せるが……」
確かに、見張り番のように仕事の良し悪しが出やすいならまだしも、ただの張り替え作業となれば努力や工夫のしようがそもそもない。未経験の彼らでも成し遂げることが出来たくらいなのだから。
そんな単純作業の裏に、ちょっとした戦闘があったことはさておき。
「しかし、最近の皆の働きっぷりは素晴らしいね♪ これも遠征の効果かな?」
「いや……
むしろ士気は落ちてると思うぜ」
「そうか?」
あくまで笑顔のまま首を傾げるクレーンに、隣で話を聞いていたギガが苦笑混じりのため息を吐く。昨日の『みんなで遠征行く詐欺』は弟子たちに笑えないレベルのダメージを与えたものの、当の本人は軽い冗談のつもりだったのか、悪びれる様子さえ見せなかった。
食堂での団欒を終え、自室に戻った『ストリーム』。普段なら、決まって幾らかの小言なんかを呟いてから就寝に入るのだが、横になる前にエキュゼが正午の出来事
『ドクローズ』とのいざこざがあったことを話したため、就床前の話題のテーマは一つに絞られた。
「……ってことがあって。相変わらず嫌なヤツだったよ……」
「まあ、多少痛い目に合わせてやったがな」
年頃の女の子らしく愚痴るエキュゼ。武勇伝でも語るかのように澄ました表情のアベル。放屁事件の時とは異なり、今回はアベルの活躍でこちらから一矢報いているため、見張り番二匹組の反応には大いに期待できた。
だが、彼らの返答は至って冷静だった。
「んー……でもそれって絶対仕返しに来るよね」
「オレもそう思うなー。多分アイツら懲りねータイプだし」
探検隊による嫌がらせ、逆恨み。本来ならありえない、あってはならないことだが、彼らほどオープンな『悪』であればその可能性も十分考慮できる。納得のいく正論をぶつけられ、アベルの昂りは徐々に冷めていった。
ただ意外だったのは、真っ先に今後の展開を予測したのがフォシルではなく、馬鹿に定評のあるネイトであるという点だった。常識的な面ではいくらか欠陥が見られる彼でも、心理面の推測には長けている部分があるのだろうか。
自信を確信に変えるように、ネイトは胸を張って言った。
「だってさー、『掲示板に負けた男』なんてタグ付けられたくないでしょ?」
「時々
俺より酷いこと言うよな、お前」
遂に自覚症状のある毒舌使いからも賞賛の言葉が送られてしまった。主人公・ネイトの明日は、今日も今日とて不安になっていく。
ふと、アベルは何かを思い出したようで、考える間も無くそれを口にしようとした。
「そういえば…………」
「え? どしたの?」
寸のところでアベルの喉から出かかった言葉に、自制心がストップを呼びかける。続きが気になるようで、ネイトがうざったく絡みついてきた。
アベルが口にしようとしたこと
それは、去り際にスカタンクが放ったあの一言。
ククク……楽しみにしておけ。
自分たちにとって本当に楽しいことがある、なんてことはまずないだろう。全く逆の、何か悪いことが起ころうとしている。アベルはそう考えた。
『仕返し』と『楽しみ』
。
もはや答えなど見えたも同然だったが、寝る前に不安の痛み分けをしても何も解決しない。悪寒の走った背筋を温めるように、アベルは藁のベットに仰向けになった。
「……なんでもない。俺はもう寝る」
語り部がお開きを宣言したことで、必然的に会話は終了される。もう一匹の語り口、エキュゼも「おやすみ」と一言かけ、続くようにネイトとフォシルも横になった。
訪れた静寂の中で、各々が胸騒ぎを感じていた。
何かが
来る、と。