第28話 放屁妖怪・ブピビッピブボボバブリュ
『デンタル・バッテリー作戦』終了から早二日。あれだけの大事があったにも関わらず、トレジャータウンは平和な早朝を迎えていた。防衛戦に使われていた砂袋の壁は、いまや見る影も無い。その実、『プクリンのギルド』の弟子が総動員で撤収作業を進めた背景があったのだが、当の本人たちも一日経てば何事もなかったかのように仕事を進めている姿が見受けられた。
そんな中でも、唯一変わったことがある。『ストリーム』の部屋の隅には、作戦前にはいなかったズガイドスが壁を向いてごろりと寝転がっていた。
彼の名はフォシル。数千万年前の時代から復活した王子で、二日前に行われた防衛作戦における最重要人物でもある。戦闘を終えて、彼は『ストリーム』へと正式に加入したのだった。
そして、本日は記念すべき活動初日。フォシルの探検隊としての第一歩が始まる、記念すべき日だ。
「起きろぉおおおおおおお!! 朝だぞォオオオオオオオ!!」「痛ってえー……あー
最悪だぜ、コンチクショー」
そんなフォシルの広場に着いてからの第一声は、記念もクソもない、文字通りの「最悪」だった。気持ちよく寝ていたところを起こされれば誰だって不機嫌にはなるものだが。未だにギンギンと耳鳴りの響く頭を押さえながら、フォシルは足元に生えた若草色の雑草を睨みつける。
唸るフォシルを見て、ネイトが背中をさすりにいく。
「よしよーし、辛かったら吐いてもいいんだよ?」
「ん。や、別に酒飲んだわけじゃねーんだ、オレ」
「自分に酔いやがって」
「アベル……フォシルに対して当たり強くない?」
見方によっては何やら深刻な内部事情を抱えているようにも見えるが、ネイトはボケ、フォシルは真面目に回答、アベルは毒、エキュゼはツッコミと、彼らにとっては至って平常運転である。
ネイトのさする手が気持ち悪く感じたからか、フォシルは面倒な様子でネイトの手を払う。と、丁度そのタイミングで親方の部屋のドアが開き、おめめパッチリのルーが現れた。
弟子たちの集合も確認したところで、クレーンが話を始める。
「さて……突然だが、『幸せ岬』のギルド支部から連絡が入ってな。幻の湖の探索を目的に遠征へ向かったらしいが、努力の甲斐も虚しく、手ぶらで帰ってきたそうだ」
幸せ岬。この大陸の最北東にあるダンジョンの名前で、あまりにも
辺鄙な場所にあるためにそこそこ有名である。その名が使われているということは、恐らく付近に拠点のあるギルドなのだろう。エキュゼは彼らの遠征の成果よりも、大陸の先端にもギルドがあることと、これだけの距離を有していながら連絡手段が存在することに驚いているようだった。
話は続く。
「えー、というワケで、ここからはるか東にあると言われる湖には、未知の部分が未だ残されており……」
ここまで来て早くもアベルは話に飽いたらしく、上の空でため息を吐くといった、全く聞く気のない毅然とした態度をなんの抵抗もなくこなしてみせた。まるで褒めるところがない。
それとは対照的に、ネイトは意外にも真剣な眼差しでクレーンの目を一心に見続けていた。……が、『集中することに集中』し過ぎたせいで、話の内容自体は全くと言っていいほど頭に入ってなかった。アベルのような悪意こそないが、肝心なポイントで抜けているのは共に残念である。
「それらを解明すべく、えー……我々のギルドも、しばらくぶりに遠征を企画しようと思っているワケだ♪」
「えー」の滑り込ませ方がなんとなくカンペでも見ているような雰囲気を醸し出しているが、そこの真意はともかくとして。
要約すると、「集団で東の湖行こうぜ」ということである。実にわかりやすい。湖の説明の時点でリタイアしたポケモンが約二匹いたが。
「エキュゼ、翻訳を頼む」
「ええっ? えーっとつまり……遠征がある、ってこと?」
「前に言ってたヤツか」
最初から最後までエキュゼはクレーンの話を聞いていたが、得手不得手があるのか、あまり自身のない答え方で要約した。仮に間違っていたとしても、エキュゼから聞くことを前提にしているアベルに責任はあるのだが。
「湖の調査! 楽しみでゲス〜!」
「だいぶ久しぶりですわね! 遠征するのは!」
彼らにとっては余程嬉しいことなのか、アレスとフラが声に出して喜びの意を表明する。久しぶり、という言葉から、そうそう頻繁に行われるイベントではないことが推測できる。
しかし、ネイトたちが聞いた話では、誰しもが遠征メンバーに参加できるわけではなかったはず。努力、熱意、実力、どのステータスを基準として選抜の可否を決定しているのかは不明だが、なんの条件も無しに同行出来ることはないと思われる。
だが、今回に限ってはそのような考えも杞憂であると言い切れる。なぜなら
。
『うーん……それは困ったなぁ。もしみんなで手伝ってくれるって言うなら
次の遠征は全員で行こうかなぁ、って思ってたんだけど』
『『『『『『『!!』』』』』』』
そう、彼らは忘れていなかった。忘れるはずがなかった。『デンタル・バッテリー作戦』の撤収(前話参照)において、ルーが放ったトンデモなアメとムチ。その『アメ』に該当する事項が、「全員が撤収作業に参加した場合、次に行われる遠征の全員参加を許可する」というもの。無論、文句の一つも出るはずがなく、彼らは死に物狂いで撤収を終わらせたのだ。
選抜に向けての試練は、既に終了していた。
「よーし! そうと決まればワシも準備
」
はずだった。
「……ン? 何言ってるんだい? まだメンバーに入れると決まったワケじゃないだろう?」
まだ物心のついていない子供を躾けるように、ギガの行く手をクレーンの翼が阻む。この行動にはギガのみならず、弟子たち全員が疑問符を浮かべた。よって、逆に止めたクレーンが困惑する事態となった。
この様子を静観していたフォシルには、ここからのオチになんとなく予想がついてしまったらしく、「やっちまったなー」という心象を表すように眉をひそめ、頭を抱えた。
「で、でも! 昨日頑張ったら遠征に行かせてくれるって……あっしはそう聞いたでゲスゥ!!」
アレスの抗議に相乗りして、他の弟子たちも「そうだそうだ」と野次を飛ばす。如何にも純粋そうなアレスゆえの反論だったのだろうが、この一言のせいでどれだけ悪いマスへ駒が進んだのだろうか。次にクレーンが放つセリフが嫌でも頭に浮かんだようで、フォシルは見ていられなくなって俯いた。
そのセリフとは。
「はあ? あんなの嘘に決まってるよ! まさか本当にタダで遠征に行けると思ったのかい!?」
そのまさかだったからこそこうして問題が生じているわけなのだが、裏切られた期待と疲労は絶望的に大きかったらしく、一周回って、彼らの口から異論が出ることはなかった。
そう、嘘。所詮はルーの甘い誘惑に過ぎず、最初から本気で好条件を提示するはずがなかったのだ。それこそが『プクリンのギルド』なのだから。
して、当の元凶はというと。ポーカーフェイスばりの笑顔は保ったまま。が、しかし、身体中には毛皮越しにも見えるほどの
汗! 汗! 汗! 滝のように流れるそれは、もはや失禁と同等のレベル。
それでもなお、スマイルを絶やさないのは表情筋が固まったせいなのか。はたまた、焦燥の様がまだバレていないとでも思っているのか。ただ唯一確証が持てることは、この悪夢のような光景に、恐らく今から何をやっても収拾がつくことはないということ。
流れる気まずさ。秩序を失った沈黙。
先制攻撃を仕掛けたのは、なんと戦犯のルーだった。
「……み、みんなー! 今日も仕事にかかるよーーー!」
「「「「「「「…………」」」」」」」「たあああああああああ!!」 慈悲、正当性、共にゼロ。これ以上になく素晴らしい解決手段と言えよう。
先制攻撃は理不尽なまでの一撃必殺だった。
その後はなんやかんや(では済まされない気がするが)で、「遠征に行くまでの数日間に精鋭部隊を選抜する」とクレーンが正式に宣言したため、彼らはやむなく現実を受け入れ、ルーチンの組み込まれた機械のように淡々と作業を開始したのだった。
一方で『ストリーム』も普段通りに依頼をこなしてこい、とクレーンから命を受けたため、フラつく足を押さえながら地下一階に繋がる梯子を登っていった。
最後尾のフォシルが梯子を上り、部屋の中心に四匹は固まる。
「……えっと、どうしようか」
「え? 依頼を受ければいいんじゃないの?」
「そういう常識的な質問はしてない」
「いや……敢えて不問にしとこーぜ」
各々の意見はバラけるも、ネイトの言う通り、今は依頼を受けることが一番正しい選択だろう。エキュゼとアベルはどうも朝礼について語りたい様子だったが。
なんとなく噛み合わない感じのこそばゆい心情を残しながら、ネイトたちは左側の看板
救助や道具関連の依頼が貼られている掲示板の方へ歩いてゆく。
と、ここでエキュゼが掲示板前の先客に気付き、歩を止めた。
「……あれ? あそこにいるのって、もしかして……」
「んん〜? どれどれ……」
指されたのは紫色の隕石を彷彿とさせるようなポケモン、ドガース。もう一匹は、全身が青色を基調にしたコウモリ型のポケモン、ズバットだった。
四匹の集団の気配を察してか、二匹ともほぼ同時に『ストリーム』へ顔を向けた。
「「お、お前らは!」」
「
あーーーーーっ!! お前らはーーー!! ……だれだっけ?」
ネイトが勢いよく指を指すも、結局思い出せないようで首を傾げた。先ほどの妙な自信はどこから来たのか。
しかし、そんなネイトとは対照的にエキュゼとアベルは彼らの姿をしっかりと記憶していたらしく、それ相応の敵意を向ける姿勢を取った。
「なんだ、まだ生きていたのか」
「殺す気だったの!?」
「ん? コイツらは知り合いか?」
初見のフォシルはともかく、敵意を向けてもなお日常会話へ戻ってしまうのは彼らの性なのだろうか。ある意味平和なチームである。
あまり面白くない対応をされて機嫌を悪くしたのか、ドガースは若干早口でフォシルの問いに答える。
「ケッ、そうだよ。海岸ではお世話になったなあ、弱虫くんども」
「異議あり! 全部思い出したよ! 正確には『海岸』ではなく……『海岸の洞窟で』だあッ!!」
と、何やら熱意を込めてネイトが解説しているが、異議を申し立てるポイントが違う上、正確には『海岸の洞窟でも』である。残念ヘッドにエキュゼが肩を落とした。
何がともあれ。彼らの正体は、エキュゼが入門する前に彼女の宝物である『遺跡の欠片』を奪い取り、『海岸の洞窟』最奥部にてバトルを仕掛けてきたドガースとズバット
クライとロスだったのだ。
「……でも、どうして貴方たちがここにいるの?」
「どうして、だあ? 決まってんだろ」
「ヒヒヒ……俺たちゃ探検隊なんだよぉ」
クライに続くようにロスが衝撃の事実を言い渡し、フォシルを除く三匹は驚き桃の木山椒の木、大層驚いた様子で目を丸くした。その驚きというのは、「この人探検隊なんだ〜! すごーい」と言った賞賛の意味合いではなく、「こんな奴らが探検隊なの!? きもーい」みたいな、探検隊の面汚しとばかりに罵倒するような趣旨である。
「で? そういうお前らは何しに来たんだよ」
「わっ、私たちは、その、た、探検隊に……」
「へ? 今こいつ探検隊っつったのか?」
勇気を振り絞って探検隊として修行していることを告白するも、今一歩自信が足りず。エキュゼの消え入るような声を聞いたクライとロスは、ネタにするように下卑た嘲笑でエキュゼを見下した。
「ケッ! お前みたいな臆病者が探検隊だと? とんだ傑作だな!」
「ヒヒヒヒヒッ! 臆病者の弱虫くんは黙っ
んぐ!?」
矢継ぎに出る雑言が途切れる。見ると、間合いを一瞬で詰めたフォシルがロスの顎下を掴んでおり、しかも的確に気道を捉えていた。この事態にクライも表情が凍りついた。
翼をバサバサと動かして抵抗するロスを右手一本で押さえながら、フォシルは怒りを孕んだ口調で、しっかりとロスの顔を睨みながら言った。
「さっきから黙ってりゃーブツブツブツブツと……なんなんだ、テメーら」
「フォシルっ! 降ろしてっ!」
過剰な手出しに制止がかかる。確かに止められるだけの理由はあるが、その声の主は、なんと好き放題言われていたエキュゼ自身だった。
フォシルは掴んだままの態勢は崩さず、そのまま腕の力をゆっくりと抜いてロスを解放した。自由を取り戻したロスは、後方へホバリングしながら咳き込む。
場の様子が落ち着いてきたところを見計らって、エキュゼは己の本心を口にした。
「……貴方たちの言う通り、私は弱いし、臆病者だし、探検隊にも向いていないかもしれない。……けど! そんな自分を強く……私は強くなりたくて、このギルドで修行を始めたのっ!」
「そーだ! よく言った!」
その目に迷いはなく、実直で純粋な願いが込められていた。エキュゼの強気な想いを見たフォシルは、一つ拍手をしてから歓呼した。
しかし、ただ一人アベルだけはこの言葉に違和感を感じていた。エキュゼは「強くなりたいから」と入門以前にも同じ動機を話していた。理由自体は不純でもなんでもないのだが、どうも彼女の求める「強さ」は彼らが想像しているものと違う気がするのだ。
エキュゼが欲しているのは「強さ」であって、「強さ」でない。
お前は一体、何と戦っているんだ。
「……まあ、エキュゼはお前らみたいなド底辺よりずっとマシだけどな」
今考えるべきことではないと判断したのか、アベルは疑念を振り払うように適当な事を口に出した。本人は無意識に話したつもりだったようだが、それは自然と
言の刃の形を成していた。彼は挑発の天才と呼ばれても過言ではないだろう。
「ぬふふ〜、遠征に向けて気合いバッチリじゃな〜、諸君」
「どーゆー目線だよ」
「お前ほんとキャラ安定しないよな」 と、ボケの天才と呼ばれても過言ではないネイトが、やはりというか、畳み掛けるように余計な事を口走った。
しかし、これが本当に『余計な事』であったことを、この時の彼らは知る由もなかった。
エキュゼたちの言葉に何の反応も示さなかった毒タイプ二匹(アベルはギリ該当しない)が、ネイトが吐いた「遠征」という言葉に食いつきを見せた。
「ほう、遠征があるのか」
「ヘッ、けど実力がなければ遠征に行けないんだろ? お前らの実力じゃあ到底無理だぜ!」
実力がなければ行けない、というのは事実。遠征までの数日間は、手の内を見せるパフォーマンスタイムと言っても差し支えないだろう。それほどに重要視される部分ではある。
ただ、クライとロスは『ストリーム』が戦っているところを実際に見たことはない。『遺跡の欠片』の奪還作戦では、天井を落として一発KOで終了、『デンタル・バッテリー作戦』はそもそも参加しなかったため、幸か不幸か、彼らの戦績を知る機会がなかったのだ。
ネイト、エキュゼ、アベルの三匹はひとまず置いておき、フォシルは一匹で百を超える相手に勝利してきた超実力者である。『ストリーム』の実力は彼らの想像をはるかに上回っていた。
「黙れ。もう一度岩盤の下敷きになりたいか」
「今ならお得! アイス棒も付いてくるよ!」
蘇るトラウマに二匹が「うっ」と思わず声を漏らす。下手すれば普通に倒されるよりも酷い仕打ちのはずだが、その上で彼らは今日に至っても喧嘩を売るような真似をなぜしようとしたのだろうか。学習能力がないというか、エラく強い執念を持っているというか。
正解は後者、と言わんばかりに、クライは大胆不敵な笑みで抗弁した。
「ケケケ……あの時は兄貴がいなかったからな」
「ヘッ、そうだ!」
「半分認めてるようなもんじゃん」
フォシルから無慈悲なまでの正論が出るも、どこ吹く風といった様子でクライは語り続ける。直視してはいけない現実が、そこにはある。
「我が探検隊、『ドクローズ』は全部で三人」
「そのリーダー、即ち、兄者こそがもの凄まじい実力の持ち主」
突然の口調の変化に、『ストリーム』のツッコミ隊長であるエキュゼと、ツッコミ新兵のフォシルが、「これボケ?」「ボケなのか?」と何やら使命感に駆られたように密やかな審議を始めていた。
が、そこはボケ魔王のネイトが何の気にも留めず、雰囲気を蹂躙するように尋ねにいった。
「そんなに強いの? 『もの凄まじい』なんて表現初めて聞いたけど」
「ヘヘッ……練習したのさ」
そういうことは普通口に出すものではないはずなのだが。あまりに照れ臭そうに、誇らしげにロスが言うものなので、ツッコミ組も手を出せなかった。
ふと、クライとロスは静電気でも受けたかのように、ピクリと身体を伸ばした。どうやら何かに気付いたようで、彼らの視線は梯子へと移る。
「お、噂をすればこの匂い」
「ヒヒヒ! 兄貴のお出ましだぜ!」
「におい?」エキュゼは首を傾げる。
二匹の宣言通り、梯子から大柄なポケモンがのしのしと現れる。全身に多量の紫色と黄ばみのかかった白い体毛をこしらえたポケモン
スカタンクは、『ストリーム』の目の前まで歩くやいなや、
「どけ!」
尾骨から反るようにして頭部の上に乗った尻尾から、耳を塞ぎたくなるような汚い擬音と共に、容赦なくガスを吹き付けたのだ。
あまりにも唐突な不意打ちに、彼らは対応はおろか、ばら撒かれたものがガスであることですら気が付くのに一秒ほどの時間を有したほど。
しかし、なぜ彼らは逆にたった一秒でスカタンクが浴びせたものがガスであることに気付くことが出来たのだろうか。不意とはいえ、あまりにも早い反応だろう。
理由は簡単、とてもつもなく
臭かったから。
「んんんんんんん!? んむぐうううおおおお、くっさぁ!!」「ぅっぷ……!!」「っつあああーーーっ!! げほっ、うぇほっ」 超至近距離から化学兵器ばりの悪臭を受け、ネイト、エキュゼ、フォシルの順に悲鳴が上がる。あまりの腐臭に苦しみ悶える三匹だが、このガスの正体は、本来なら健康面に対しては無害であるはずのオナラだったのだ。そうとうな悪食家なのか、スカタンクという種族ゆえの宿命からか。
だが、現在進行形で被害を受けている彼らからすれば、そんな情報はクソ程どうでもいいことだった。今はただ、この魔界のような状況をどう切り抜けるべきか。その一策に尽きていた。
「うがあああ……なんだこりゃ、
屁か!? 屁なのか!?」
「う、わ、わがっだあ……えほっ、これを、
ラベンダーの香りだと思えばあ゛あ゛あ゛あ゛」
ただでさえ思考がままならない状態だというのに、ネイトの考えた打開策は一周回ってさらに駄目な方向へと進んでいた。悪臭に対して正々堂々と真っ向から勝負する、という意味ではある意味間違ってもいないのだが、麻痺した頭ではこの方法がいかに自殺行為であるかなど考える余地もなかった。
何の戸惑いもなく、ネイトは鼻から外気を思い切り吸い込んだ。
「んんんんんん
んんんん、ん
んんん…………
ぶへっ」
「ね、ネイトォーーーーー!! 何やってん……
ぶほおっほ!」
まあ、案の定というか。ネイトは無論のこと、彼の身を案じたフォシルまでもがモロにガスを吸ってしまい、二匹は仲良く地に伏せた。
一方で、最初のリアクションから動きのなかったエキュゼは既にダウンしており、人知れず
静かに力尽きていた。 さて、放屁一つで壊滅寸前まで追いやられた『ストリーム』だが、まだ一人、動揺の欠片も見せずに立ち続けている者がいた。それは
。
「ふん、品も礼儀もないゴミみたいな連中だな」
「……ああ? なんだお前は」
なんと、草タイプのアベルだった。ガス自体は毒でないものの、キモリは植物と同様に光合成も可能な種族。空気に干渉する能力を持つ以上、本来なら三匹のように倒れてもおかしくはない。否、倒れていない方が不自然なくらいだ。
すると、スカタンクは予告もなしに真正面からもう一度ガスを吹き付ける。アベルの挑発もあってか、その勢いは先よりも強く、匂いも強烈。な、はずだった。
「な……バカな! 兄貴のオナラが効かないだと!」
クライの言葉の通り、まるで東風でも浴びたかのようにアベルは澄ました顔つきでいた。不動の姿勢に、『ドクローズ』の三匹はたじろぎ後ずさる。
アベルは目を閉じて鼻を鳴らし、追い詰めるように言い寄った。
「ああ。その手は効かない。俺は
」
目が見開かれ、未知の威圧感が弾ける。
「
鼻炎だからな」
「び、びえん……」
何か特殊な能力でも秘めているのかと思いきや、蓋を開けてみればただの鼻炎だった。能力というか、よくある症状である。決してキメ顔で言うセリフではないのだが。
……が、タネも仕掛けもないことが、逆に手の打ちようを失わせたようで、遂に彼らはアベルを倒すことを諦めたのだった。
「チッ……そんなことよりお前ら。金になりそうな仕事はあったか?」
「掲示板にはセコい依頼しかなかったんですが……」
「ヒヒヒ。それより兄貴、ちょいと耳寄りな話が……」
やらしい笑みを浮かべたロスが、スカタンクを呼び出し、外部には聞こえないように耳元でヒソヒソと話す。聞かれては不味い会話なのだろうか。どうにも嫌な予感がして、アベルは目を細めた。
「……何? このギルドで遠征を? ククク、それは美味しそうな話だな」
「でしょう?」
いや口に出したら意味ないだろ、とアベルが心の内でツッコミを入れる。隣で相槌を打つクライもおかしいとは思わなかったのか、大層喜ぶ様子を満遍なく醸し出していた。
「では、早速帰って悪巧みだ。お前たち、行くぞ!」
「「へい!」」
ここまで来るともはや見世物かと疑いたくなるレベルだが、そんなアベルの心情にピンポイントで答えるように、「見世物じゃねーぞ!」と去り際にクライが念を押した。
スカタンクを先頭に梯子を上っていく『ドクローズ』。最後尾のロスの姿が見えなくなったところで、アベルは倒れたエキュゼたちを起こそうと身体をさすった。
「……ん?」
この時まで鼻炎のアベルは気付かなかったのだが、スカタンクの二度に渡る放屁の影響で、地下一階全体でバイオテロに匹敵する惨禍が巻き起こっており、お尋ね者の掲示板前にいた探検隊や広場で雑談していたギルドの弟子たちは、例外なく地に伏していたのだ。
こんな地獄で目を覚ましたところで、結局二度寝してしまうのがオチだろう。そう考えたアベルは、「めんどくさい」とため息をつきながらも、しっかりと仲間を一人一人地上へ運び出したのだった。
「ああ……災難だった……」
『湿った岩場』で救助依頼を終えたエキュゼが、帰路で一日を振り返り、小さくため息をついた。ダンジョンの依頼に支障があったわけではなく、言わずもがな、『ドクローズ』のことである。
よく見ると暗い顔をしているのはエキュゼのみならず、他三匹もまちまちだが大体同じ心象であることが見受けられた。
ネイトにしては珍しく、若干トーンの下がった声でアベルに話しかける。
「ねえアベル、あのスカタンクの名前聞いた? あー鼻が痛い」
「いや、聞きそびれた」
「ふーん」と落胆とも苛立ちとも取れない、微妙な調子で返す。普段はまともな会話など大して出来ないこの二匹が、今では共通の敵に対する強い憎悪を通じて意思疎通に成功しているようだった。
少し考えてから、ネイトは納得がいったように頷いた。
「ん。じゃあいいや、アイツの名前はブピビッピブボボバブリュで」
「人を屁の音で呼ぶのはやめろ」 相変わらずの酷いセンス。ネイトはこの命名が気に入ったのか、「やーいブピビッピブボボバブリューーー」と虚空に向かって叫ぶ。擬音を字起こしした上で、それを
一字一句間違えずに言えてしまうのは何かの才能だろうか。
嗚呼、この声は一体どれほどの不特定多数のポケモンに聞かれてしまうのだろう。もし、この名前のせいでスカタンクが外を歩けない状況になってしまったら、俺たちはどんな顔をすれば良いのだろう
。あらゆる今後の可能性を憂慮したアベルは、なんとなくスカタンクに同情したくなる気分になった。
一方、エキュゼは『ドクローズ』との因縁を知らないフォシルに、海岸の出来事から話そうとしていた。
「……あのね、あいつらは、」
「ああ、要は敵だろ?」
掲示板前での一連の流れだけで、彼らに貼るレッテルを決めるのには十分過ぎたらしい。元より頭の良いフォシルには、そもそも説明などまるで不要だったのだ。エキュゼは一瞬答えに迷うそぶりを見せたが、誤った認識ではないため、首を縦に振って肯定した。
地平線に飲まれ始めた夕日を睨みながら、ネイトたちは『ドクローズ』の面々を思い浮かべる。そうして生まれた感情は、怨嗟や憤怒といった復讐を暗示するようなものばかりだった。
「あんにゃろー、マジで許せねー」
「ね! 私も嫌い! 覚えてなさいよー……!」
「ブピビッピブボボバブリュ!」「その名前は汚ねえからやめろ」
史上に見ないほどの最低な愛称(蔑称?)を武器に、彼らの復讐は既に始まっていたのかもしれない。