第25話 遺跡への招待状(1)
命の灯火を奪い消すような、鋭利な寒さが纏わり付いていた。
上下左右のどんよりとした灰色。その灰色の靄の中で、足の置き場もないまま、ネイトは丸まって宙を漂っている。
彩度の失われた世界に、翡翠の眼差しが花開く。
『気が付いたか』
少年の、強気を含んだ声がした。
眠たげな目蓋を持ち上げて辺りを見渡してみる。頭の中に直接響いたような声の主は、やはり、見える範疇には存在しないのだろうか。せっかくそれらしい異質な空間に放り込まれたのに、この広さが勿体無いように思えた。
否、意味を求めるのは道理ではない。これはきっと夢なのだ。
『……随分な目に遭ったな。犯人だのなんだの、後ろ指さされるようなハメになっちまって』
「……まあ、うん」
『その上道中じゃ……ったく、なんだったんだろうなァありゃ。振り向いてやったら気配は消えたが、訳分かんなくて気味悪ィ』
『声』はイメージしていたよりもずっと饒舌で、関わりの薄さ故ではあるが、ここの会話だけで今までの会話の総量を上回ったのではないかと思う。棘の乗った調子こそ変わらずも、こちらに対してだいぶ懇意な印象だった。
けれども、今重要なのはそこじゃない。明確に意志を持つ何者かが自分の中にいて、それは現在『ストリーム』の三匹に最も嫌疑をかけられている対象である。まさしくこの少年の声こそが、ネイトに罪を被せた真犯人だという可能性だって考えられた。
真相を知るべく虚空へと尋ねる。目を合わせようにも見据える先のない相手で、きょろきょろと不安そうに目を動かした。
「あえーっと、あの、さ」
『……あ? なんだ』
「昨日のこと、って言えばいいのかな。あの事件の犯人、まさかお前がやったとかじゃないよね……? なんかこう、寝てる間とかに僕の身体使ってアレコレしたりとか……」
『やるわけねえだろ。何の理由があってンなことしなきゃなんねェ』
「あ、あー……そっか、そうだよね」
深刻そうなトーンのネイトに対して、呆れるような口調が返ってきた。表情は解らぬままだが、先日の保安官のように後ろめたさや隠そうという意識があるようには思えない。事実関係はともかく、それなりには信用してもいいらしい。
そうして会話が一旦途切れると、少し置いて安堵のため息が聞こえてくる。次いで、小さく微笑むような息遣いが空間に広がった。耳元に吹きかけられてるようなこそばゆさを感じた。
『……話せて、よかった』
その言葉の残滓に、一抹の懐かしさを覚えたのは。
『情けねェ。ちょいと喋れなくなったくらいで、長ェこと顔も見れてねえ気がしちまった。実際はそうでもねえはずなんだけどな』
「……?」
『ま、わかんねえか……その辺は相変わらずっつうか、いや別に悪ィとかじゃねンだ。昔っからそうだったのはわかってる』
口ぶりから察するに、向こうは知られざる自分を知っているようで、ともすればこちらも無関係とはいかないのだろう。恐らくネイトは『声』の存在を「知っている」。違和感程度に脳裏を掠った何かを、たかが気のせいと切り捨てられなかった。
「ねえ」
だが、仮に全ての記憶を取り返せたとして、人間の身を失った自分に時計の針をどこまで巻き戻すことができるというのか。その果てに待つものが望んだ幸福であると、どう断言できる?
喪失が意味のあるものだったとすれば、あるいは
。
「誰なの、お前は」
純然から生まれた、ごくごくただの疑問。
冷気がさらに研ぎ澄まされるような静寂が訪れる。
『…………は?』
頓狂な声は、頭の中ではなく、確かに空を切っていた。
暖色の光が視界へ溶け込む。凍てつくような温度は、もう、纏わり付いてはいなかった。すぐ隣くらいの距離にいた存在感が、おもちゃでも取り上げられるみたいに、ぐいい、と遠くへ離れて消えていく。
いったい僕は、どれだけの大切なことを忘れてきたのだろうか。
軽快な鼻歌が、上機嫌な足取りと共に廊下を弾む。
ドゴーム
ギガの朝イチの仕事は横暴にして確実だ。朝礼へ出遅れた寝坊助を叩き起こして参加させる。その手法とやら、精巧な職人芸でもあるかと思いきや、実態は百六十超デシベルの大声量を浴びせるだけの、なんとまあ、荒療治である。
そんな悪夢の体現者の一面とは裏腹に、ギガは黄色い唇を満足げに結び、目元なんかは子エネコみたいに細めながら歩いていた。なにも不思議なことではない、鬼や魔物だって四六時中猛り狂い続けようものなら命より先に精根尽き果ててしまおう。誰にだって束の間の休息はある。
突き当たりの部屋を、穏やかな表情が覗く。
不安そうな二匹と目が合った。
交差する視線。
……が、視界の隅に横たわった背中を認めると、紫色は仁王顔へと早変わりした。
「いつまで寝てンだーーーーー!! 起きろォオオオオオア!!」
「うぎいいなんでえええ」
「一人でも寝てたら寝坊判定かクソが」
大股で広場へと戻るギガの背を恨めしげに睨みつつ、エキュゼとアベルは耳から手を離した。ここへ就いてからというもの、不意の大音量にやられる機会が多くなって、身構えることだけは妙に習慣付いてしまっている。
それもこれも、とばかりに、今日の戦犯へとやつれ顔が二つ振り向く。ネイトの茶色い後ろ姿は未だ熟睡ぶりを表すようにゆっくりと規則的に上下していた。謎の適応力もついにここまできたか、と呆れる反面、清々しさ余って羨ましいとすらアベルは思った。が、その代償がゴミみたいな知性なんだろうか、なんて考えが過ぎると、やはり悩み苦しめるありのままの方でいい気がした。
「……ネイト、起きて。もう朝礼、始まっちゃうよ」
「またいつぞやのように気絶してるとかじゃないだろうな」
気怠げに腰を上げたアベルがネイトの肩を引っ張って、ごろんと仰向けに倒す。安々とした糸目に子供のするような静かな寝息は疑いようもないだろう。……その腰元に携えた謎のダブルサムズアップを除いて。どこかで見たような流れだなあ、と思いつつ、エキュゼが幼馴染の顔を見遣ると、案の定「なんだコイツ」とでも言いたげに引き目の顔をしていた。
「……、」金眼が一度少女を向いて前に戻る。「……やっとくか?」もう一度、エキュゼの方を見た。
「やっぱりそうなる……?」
「なんなら試し撃ちでもいいだろ、丁度いい」
「いや……ええ……? こ、ここで撃ったらネイトじゃないところも大変なことになりそうだけど……」
「じゃあ“火の粉”でやれ」
そもそも暴行に訴え出ない、という選択肢がなくなっている辺り、良くも悪くもボケ魔人への信用が窺い知れる。妥協のラインは上がっていくばかり。
若干の申し訳なさを表情に出して、エキュゼは熟睡中のカラカラの元に立った。短く息を吸い込んで、しかし何か喉元に突っかかるような挙動を見せると、ふわあ、と、火種の代わりに間の抜けた欠伸が出る。「お前もかよ」「ご、ゴメン」流石に恥ずかしくなって思わず照れ笑いが溢れた。
改めて向き直り、今度は遅れを取り戻すかの如く深い呼吸をすると
ロコンの可愛らしいマズルから到底“火の粉”とは呼べない過剰な爆炎が、ネイトの上半身を
塗すようにして噴き上がったのだった。
「あ゛っごめ……!?」「あっぶね」
「…………あぃ、……
ぃア?」ゆっくりと開いた薄眼が跳ね上がった。
焚き木と化したネイト、異変に気付く。「ほ……ほわあああああ!」運悪く足にまで延焼して火だるまとなったその身を消火するべく叫び転げ回った! 晴天の覗く早朝に見合わない煙たさが部屋に立ち込めてきて、そこでようやく「あ」とエキュゼが声を漏らした。
「これ、消す……水とかってどうするの?」
「俺も今考えてた」
「そ、そうなんだ」
「ああ」
「……」
「……」
「え?」
「窓開けとくか」
起床、という一点のみに目を向ければ、モーニングコールとしては成功の扱いになるのだろうか。肌身を焼くような熱は窓辺の暖かな日差しではないしなんなら比喩でなく焼いている。
やがて火だるまは身悶え以外のありとあらゆるができなくなると、鎮火も道半ばでうつ伏せのまま動かなくなった。前言撤回、どちらかといえば限りなく寝ている寄りの状態だった。
「あ、わ、わ、どど、どうしよう……!? みみ水探さないと!」
「『二度寝してて来れません』、とでも伝えておけば」
「いいわけないでしょ! 誰か助け呼んでくる!」
強めの叱咤を飛ばすと、エキュゼは言い切るよりも先に振り返って弟子たちの待つ広場へと駆け出していった。少し前までは世間話すらロクにできなかったはずなんだがな、とアベルはしみじみ思った。咳払いを一つして、窓枠に手を掛ける。手応えの悪さに顔を顰めてよく見ると、開かないタイプの窓だった。
「……エー、というわけで、昨日の騒動に関しては全くの誤解だったと。色々と思うところはあるだろうが、データ保安官も直々に頭を下げて謝罪を申し出てくれた。オマエたちなら心配ないだろうけど、その辺は気にせず普段通り業務を進めるように」
あれだけ悪目立ちしてしまえばだんまりというわけにはいかなかったのだろう。朝礼の話題は昨日の連行事件とその釈明についてだった。クレーンとしては体裁的な部分もあったのだろうが、説明の約束を保安官がきっちり取り付けてくれたのがだいぶ大きかったようにも思える。
「一方で他の探検隊には余計な混乱が生まれることを防ぐため特に通達はなく、そのせいでどうしても噂話が立ったりはするかもしれないが……。……ただまあ、責任の一端はワタシたちにもあるから。もしそういう話を聞いたら、それとなく、やんわりと否定してもらえると助かるかな。本人もそれで、……ほん、ンン……。まあ、いいや……オマエの事情は後で聞くとして……」
口ぶりとは正反対に怪訝そうな横目の先、仲間二匹から明らかに距離を置かれているネイトは、焦げ跡と汚泥に塗れて涙ぐんでいた。
例の炎上の直後のこと。助けを求めて部屋を飛び出したエキュゼが最初に会った相手は
偶然曲がり角の弟子部屋に用があったらしい
グレッグルのトードだった。消火に当たっては水タイプのヘイガニに頼めるのならそれが理想的ではあったものの、いずれも会話どころか目を合わせたことすらないポケモン、彼女のコミュニケーション能力を鑑みれば四の五の言ってられなかったわけで。とにかく手を貸してほしい、という旨だけなんとか伝えると、現場へ直接出向くやいなやヘドロ液を吐き出してあっさり鎮火させたのだった。
そうしてカリッカリのベッタベタになったまま半ば強引に朝礼へと連行されたネイトなのだが、よりにもよって無実潔白を大々的に表明しようというタイミングでのこの有様である。どころか、絵面は完全に事後なのだから、昨日の疑惑よりも「何かあった感」は強いまであった。嗚呼、なんという間の悪さか。
毒液を被った少年に不信の視線が注がれる。保護を確約した手前、村八分のような扱いはなんとか避けたいのだが、中間管理職としての性か、クレーンに求心力やらカリスマの類は持ち合わせておらず。
「と、ともかく連絡事項はこれで以上、かな。……あっコラ! そこ、そんな顔しない! 大丈夫だから本当に心配ないから! ハイ、じゃあ今日も一日頑張るよ解散!」
強引に言いくるめるような形で朝礼は強制終了。ただこれでも精一杯のフォローではあったのだろう。……その必死さ故に却って信心が損なわれるという悲しい空回りが発生しているわけだが。締め方が締め方なだけに疎らな足取りでそれぞれ持ち場へ向かう弟子たち。当事者の一人であるトードのみがグヘヘ、と嘲笑とも励ましともつかないニヤケ顔を送った。
例によって場に残った『ストリーム』は指示待ち
とはいかない。「なんだっていつもこうなるんだか……」酷く深いため息をついた一番弟子からの事情聴取である。無理もない、渦中のカラカラはしきりに鼻を啜っているのだから。
「色々と言いたいことはあるけどねえ、なんだ、せめて朝礼くらいは普通に受けてくれないかな。その後だったら別にいくらでも……」語末を縮こまらせて、もう一度落胆するようにため息をついた。「……一応聞くが、なんだいコレは」
「生ゴミ」即答するアベル。
「ちょ……違うでしょ! あわ、これはなんというかその事故というか……」
誤魔化し切れてないへにゃへにゃに曲がった口でエキュゼが弁明に入った。懸命に庇おうとする姿勢は哀れなリーダーへの救いに見えるが、その実、裏側は加害の大半を自身が占めているという焦りから来ているものである。普段の弱気が一周回って怪演となっている様をアベルは内心恐ろしく思った。情景だけなら美しい友情。
ただそれでも要領を得ない回答に、クレーンはますます呆れた風に首を傾げた。ちょいちょい、と羽先が手招くようにネイトの前で揺れる。当人に直接尋ねた方が早いと判断したらしい。
「全くオマエはオマエで……ああいやいい近付くな汚いから! ハア……というか二日だか三日だかくらい前にも同じような目に遭ったばかりだろう。懲りずに何やってんだい」
「なんか火がついたり毒でべちゃべちゃになったり……しくしく」
「燃えるゴミ」
「
黙ってアベル! いやえっとこれは私たちのミスというか誰が悪いとかそういうのじゃないというかえーと……」
ネイトがよろよろと両手を前に差し出す。「うおわだから寄るな縋り付くな!」究明、失敗。そもそもほとんどは無意識の内に受けた被害なのだから本人だって知る由もないのだ。逆に言えば適当な言い訳だとしてもその場凌ぎになってしまう。美しい友情……。
「もういい……」被害者を押しのけ、クレーンは疲れの滲んだ声で観念した。どうせしょうもないことで揉めてたんだろ、ぼやくように付け足した結論は世話役らしからぬ投げっぱなしだが大方その通りで大正解である。エキュゼは苦笑を浮かべてやり過ごした。
こほん、と一つ咳払いが鳴って。
「あー……今日はちょっと、最近発掘されたという東の遺跡に行ってもらいたい」
「遺跡?」「ダンジョンか」リーダーを除いた返答。
「いやー、まー…………観光地ってトコかな? あんまり気を張らなくても大丈夫だから」
ぎこちなくにへらと表情を崩すクレーン。エキュゼとアベルは訝しげに視線を交わした。遍歴を並べてみると、日は浅くとも中々の密度だと思う。失せ物探しからお尋ね者確保、初探検から一騒動明けて、ここで観光ときた。噂にも印象にもない業務である。
「なんだ観光地って。遊びに行くわけじゃねえだろう、何すんだ」
「えー、え? あ、ああー、や、いやいや、本当にただの観光だから! ほら昨日のこともあったし、最近よく頑張ってるから、な? まあ休暇みたいなもんだと思って……」
「……、……え? 何、そんな、なんか、危ないところなの……?」
「いやいやいや、遺跡に関しては普通に観光地だよ」
「……遺跡に関して、は?」アベルが睨みを強めた。
「ハハハ……」弱々しい笑いが絞り出される。閉じようとした嘴の先端はズレて噛み合わず、ざり、と異音を鳴らした。これでも本人はまだ茶化せているつもりらしい。
頑張っているかどうかはさておき。昨日の犯人疑惑には一応クレーンにも思うところがあったのだろうか、しかし詫びのつもりと言い張る以上に歯切れの悪さが隠しきれておらず、裏があるのは明白だった。そも、ネイトの出自については何一つわからないままなのだから責め寄ったクレーンの側に落ち度はない。
「マ、ともかく入場するだけでも……一日見学しててもいいし、サッと行ってサッと帰ってきても大丈夫だから。今日は羽を伸ばしてきなさい」
「断ると言ったら?」
「……ん゛」音符頭が後ろへ引く。
「観光だかなんだか知らんが別に興味ない。休暇の取り方くらいは自分で決めさせろ」
「う、うん。今はちょっと、ネイトもこんな状態なので……」
「い、いや待ッ……! んぐぐ……くっ、わ、わかったわかった! 全部話すからッ……な、部屋行こう部屋! オマエたちの!」
思惑通りにはいかん、とばかりに上階へ向かおうとしたアベルの肩をクレーンの青羽が引き止めた。見据えた反応ではあったが、余程困ることとは思わなかった。仕事なら多少無茶でも普段通りに言い付けてくるだろうに、アベルは必死さを嘲笑したい気分より不審が勝った。
「というかオマエに関してはどうせ大丈夫だろ……」半ば掴みかかるような体勢のままクレーンが横目をやると、「まあね〜」と何事もなかったかのように鼻をほじって呑気に返すネイトがいた。が、「んゴぁくさっ!!」当然の帰結で指先からモロにヘドロを吸引したらしい。卒倒する馬鹿への反応もほどほどに、気になる『業務』の続きとやらは人目を避けてからの再開となった。
不満たらたらの一行を起床ぶりの自室に押し戻すやいなや、クレーンは焦りも落ち着かないままで、ちょっと待ってろ、と何かを取りに広場の方へと慌ただしくUターンしていった。去り際に足を止めてネイトを一瞥、「オマエは軽くでいいから、それ、どこかで流してきな」どうやら待ち時間で洗浄してこいとのこと。表皮の粘毒は生乾きになりつつあったものの、触れがたい容貌なのは無論、動くたびに焦げ跡がパリパリと剥がれて地面に黒い粉末状が落ちるのは鬱陶しい。一匹で行かせるのは流石に色々と不安が残るので、エキュゼがお付きで交差点の水場へと案内することになった(アベルは嫌がった)。
そうしてクレーンが戻り、遅れてエキュゼとさっぱり茶肌になったネイトも帰って全員集合。先ほどよりかは幾分か落ち着いた調子で一番弟子は話を切り出した。
「さて。話す……というより、こっちを見てもらった方が早いかな」
もぞもぞ、と尾羽辺りから取り出されたのは、背を折られてページが剥き出しになった冊子と、既に開封済みの便箋が一つ。
なんだこれ、アベルが冊子をふんだくると、催促するようにクレーンの羽先が一部分を示した。
「……、『新発掘の遺跡、ついに一般公開! 古代文明の生活跡が色濃く残る王城 地下には当時の姿のまま発見された奇跡の秘泉 徒歩五分で行ける売店にはリンゴの森直産のリンゴを使用した極上スイーツも!(飲食スペース有) 団体四名様まで入場できるチケットを抽選で合計十組様にプレゼント! 応募方法はコチラ』」
顔を上げてからもう一度「なんだこれ」の目線を送るアベル。だが当人はそれに答えず、代わりに残った便箋の方をネイトに手渡した。ほえ、と疑問符を浮かべた少年にクレーンはただ静かに頷き返すのみ。なんだかよくわからないまま中身を取り出そうとすると、はらりと長方形の薄い紙が零れ落ちた。
隣にいたエキュゼが拾おうと目で追って、「あ……!」しかし前足が届く前にそれが何かを理解したらしい。
「すごい。当たったんだ」
肉球の隙間に『それ』
チケットを挟んでつまみ上げ、エキュゼはきらびやかな文字列をまじまじと見つめる。小さく喜色を浮かべた顔を落とし主に向けると、折り目の付いた用紙を両手で広げているネイトと目が合った。「読めないや」。便箋にもう一枚入っていたのだろうか、読み聞かせをねだる子供のように横へ並んでくる。当選しましたって書いてあるよ、要約した内容を簡単に伝えると、はえー、と遅れてなんだか微妙な反応を返した。価値は伝わってなさそうだった。
「と、まあ……」黙していた嘴が開く。「なんとなく応募してみたら当たってしまってな。このまま紙屑にしてしまうのも勿体無いし、それよりかはオマエたちに行ってもらえれば……」
「尻拭いの都合がいいってか」
「勘繰るな、って言う方が無理なのはわかってるよ。ただオマエたちが最近頑張ってるのは事実だから。昨日は色々と苦労も掛けたしな。……ともかく今日一日くらいは何も考えずに行ってきなさい。あんまり気を遣ったりするなよ。まだ若いんだから」
「クレーン……」
語られた真実の、その不器用な意図に、エキュゼは込み上げてきた感嘆を漏らした。
それはきっとごく当たり前のことではあったのだろう、ただ、瞬くような速さで流れゆく忙しない日々の中では意識することがなかっただけで。たとえ守銭奴であろうが、小間使いを押し付けてこようが、弟子たちからの信頼が怪しかろうが、なんかちょっと声が甲高くて癪に障ろうが、それでも彼は一匹の大人であり、人の上に立つ者としての責務を背負っているのだ。
だからこそ。陥れようだなんて程遠い、クレーンは何よりも自分たちの身を案じてくれていたのだ。
もう一度ツアー券を強く握りしめる。不満げに毒を飛ばしていたアベルでさえも異論は出さなかった。そう、そうだ。悪意だのなんだの気にかけずにただ最初から好意のみを享受していれば……
「え? それならクレーンが行けばいいんじゃないの?」
…………。
異議、まさかの一件。
明らかに落着の流れでいらん水を差したのはネイトだった。そもそも朝礼後から話を汲み取れているかは怪しかっただろうに。何故かしゃしゃり出てきたアホをクレーンは呆れつつも諭す。
「……、いや、あの、ねえ。正直あんまし何度も言わせないでほしいんだけど、まあ、要するにちょっとしたお詫びみたいなモンなんだよこれは。だから行ってもらわないと逆にこっちが困る。わかったかい? というか第一ワタシはギルドの仕事が忙しくて行ってる暇なんかないんだよ」
「んん、お休みもらったりってできないの? なんならルーも一緒に誘ってあげたら喜ぶと思うけど」都合よく前半の言い分だけ無視。
「いやだからオマエたちが行けと……」
「あ、誘いづらいなら僕から言ってくるよ! だいじょびだいじょび〜、ジカバンバン? ってヤツだっけ。やー任せんしゃい! なんかいい感じに頭下げてみるから! もうバンバンって感じで!! そいじゃ行ってきま〜」
「待て待て待て!」揚々と無邪気に歩き出した少年の前へ、両翼を広げた極彩色がブラーを伴った横スライドで割り込んだ。今日イチの反応速度だった。へ、と勝手に話を進めた張本人は片足を上げたままでわざとらしく首を傾げる。
「あ、あの、だな。……そう、ワタシたちのことは別に気にしなくていいんだからな! ウン! オマエたちで楽しんできてくれればそれでいいから! なんならオマエたちのために応募したみたいなところもあるからサ……!」
「ええ〜? だったら、んー、お礼くらいは言わせてよ。もしかしたらおみやげ欲しいかもしれないじゃん。行ってくるね〜、って言うのもダメなの? ねえ、ほら、ちょっとそこ通らせて」
「あっコラ余計なことするなッ……! い……言っておく! ちゃんと伝えておくから!」
ずいずい、と脇を抜けようとするネイトを執拗なくらいにきっちりガードするクレーン。突飛な展開ではあったものの、偶然にも表出したクレーンの焦りようは確かに妙というか、明らかに秘め事が抱えられているのを隠しきれていなかった。……あの真摯の告白に、まだ裏が? エキュゼの晴れ晴れとしていた感動が曇り出す。
「余計なことって?」思わず吐いたボロにネイトが食い付く。一瞬、わかりやすく抵抗の手を止めた後、やれそれは色々とややこしくなるからだの、やれ親方様も忙しいだのと、あれこれ理由を寄せ集めてきた。が、「一声かけてやるのが礼儀だろ」と、ここぞとばかりにアベルが追い打ちをかけにくると嘴も止まった。流れを汲んでネイト側に加担することを決めたのであろう、礼節なぞ欠片もないヤツが弱り目に限っては随分と立派である。
親方部屋への進軍の顔は二つに増えて迫った。別段強引にでも頭を下げに行きたいだなんて過度な信心があるはずもなく、あくまで建前でしかないということは(ネイトのみ定かではないが)恐らく互いに理解している。やがて左右からの重圧に鳥足がおぼつかず一歩下がると、策士はとうとう崩れるように音を上げた。
「わ……わかった…………話すから…………ぜんぶ……。だ、だから……頼むから他言はするな……」
「それは聞いてから決めることだ」アベル、無情。
「審議! 却下!」
「おぉおおァおあ押すな押すな!」謎に怪力な茶色の手が部屋から押し出さんとゆっくり毛皮へ食い込む。「ハ……は、ちょ……頼むから…………ホントに話すから手ぇどけて……はヒ……。い……いったん下がろう……下がってから……な、な……?」
「それは聞いてから決めることだ」アベル、非情。
「審議! 却下!」
「おどどドどあああトサカを持つなあああああ」
廊下伝いに震えた悲鳴が反響する。秘匿したい事情をあの手この手で誤魔化し、あるいは万一のことも兼ねて場所も選んだのだろうに、ノリノリで執行者を演じるネイトによって外部へ筒抜けとわかっていてもクレーンは叫ぶほかなかった。ある種の拷問かもしれない。
理不尽な問答を見かねてか、流石にエキュゼも正論で助け舟を出す。「二人が下がらないと話せないでしょ……」アベルが腕を組んで首だけで振り返ると、「それは聞いてから……」同じ文句を言いかけて、「チッ、そうか」今度は回れ左して大人しく下がった。愉快ではあったが進展がないことに気付いたらしい。ネイトも上半身を回して無い頭を傾ける。撤収、とアベルが目を瞑って手招きしてみせると、素直に戻「オオオ離せ離せ引き摺るなああお」掴んでいた音符型を手放してから素直に戻った。
集合時点の定位置に帰って、説明
もとい懺悔の再開。翼を地に付けて肩で息をしていたクレーンだったが、見下ろす不信の視線を感じ取って早々に立ち上がった。いくらか呼吸を整え、パサパサと軽く身に付いた砂埃を払ってから喉を鳴らす。
「……、先達として言っておくけど、交渉事っていうのはこう、力任せに説き伏せるもんじゃなくてだな……」
「いいからさっさと話せ。何のために猶予やったと思ってる」
「審議〜」揉みしだくような動きでネイト。
「だああわかったから寄るな! ……あー、さっき渡したヤツの、さっきのページ。もっかい開いてくれ。そこの……そう、そのページ。右下の、応募方法がどうたらってところなんだが」
アベルは丸めて持っていた薄冊子を開き直してはらはらと頁を捲る。見覚えのある石造風景画と
足形が少し過ぎると、そこ、とエキュゼが呟くのとほぼ同時に一枚ずつ巻き戻していった。そうしてクレーンの指し示した文字列に在り付いて、まばたき二回分くらいの沈黙を挟んでからアベルは記述を読み上げる。
「……『☆ツノ山脈B遺跡 団体ツアーチケット☆ 応募方法…… 本誌付属のハガキに郵便番号・住所・氏名・種族・年齢・性別を記入し、六十ポケ切手を貼付の上、下記の応募先までお送りください。 “MF1E 7AD 神秘の森イズミ郵便局私書箱22号 ツノ山脈B遺跡団体ツアーチケットプレゼント係” ※応募期間は四月末までとなります』」
口触りの悪さを訴えるようにもごもごと反芻して、「……これがなんだよ」キモリがこもり気味に言って睨んだ。隣のロコンもちょこんと不安を顔に浮かべてクレーンへ視線を伸ばす。くてん、くてんと左右に首を倒して疑問符を表現するカラカラはやはり頭からからだった。
告白すると宣言した手前ではあったものの、よほど後ろめたい内容なのだろうか、クレーンは次の句を紡ぐのにだいぶ難渋しているようだった。「…………そ……」なにせ嘴を開いて絞り出せどほぼ空気で言語の形を成していない。
「そスィー…………」
「そ?」「な、なに……?」「はっきり言え」
「そス……そ、の、」一度喉が震えると、つかえが取れたように、しかしよろよろと流れ出した。「……その、なんだ、貼れっていう切手……いやまあそんな大したコトじゃないんだが、ちょっと、そこらに置いてあったヤツを使ってしまって……」
「「「……?」」」
「い、いやその……わ、悪気があったわけじゃないんだよ。ただちょっと明け方で頭が回ってなかったというか、郵便屋さんが連盟宛ての書類を回収しにきてくれたからついでにと思って、ちょっと、まあ、事務用の切手を拝借したというか……」
……………………。
「ほえ?」「うわあ……」「は?」一同、唖然。
「だあッ、でっ、でもちゃァーーーんとワタシのポケットマネーで補填しといたから、な、な? なんなら来週辺りには倍なんてもんじゃないくらい返ってくるから! マママまあまあもうほとんど解決したみたいなモンってことで……」
これだけ引っ張ってまで隠し通そうとしていたのだから相応に不味いであろうことは予想が付いていたが、その正体はまさかのガッツリ汚職。苦しい言い訳の連続で空回る様はおかしくて仕方のないはずなのに、いざ直面すると不思議と笑いより引きが勝ってしまった。
言葉を失って立ち尽くすネイトたち。報奨金を徴収される側の身で、その差っ引かれた九割の行き先がこんなしょうもない私用に食われていたなんて。虚無感に凍りついていたが、思考が回り出すと俄然腹立たしくなってきた。たかが切手一枚、されど六十ポケ。庶民的な金銭感覚のエキュゼとアベルからすれば嗜虐的な炎が立つのに十分過ぎる理由だった。
「そう……そうなんだ。ご褒美とか、お詫びのつもりで渡しておいて、本当は私たちに処分させようって。そういうことなんだ」
「だったらなおのことタダで行ってやるわけにはいかないな。相応の対価を払ってもらうか、あるいは……」
「いやッ……! わ、ァアわわ悪かった! 悪かったからッ……なにがっ、わかった何が欲しい! かっかか可能な範囲でなら何でもやってやる! だから頼むどうかぁ……!」
下手に出ざるを得なくなった一番弟子に対して、それはもう、横暴極まりなかった。
上がった口角を隠そうともせずアベルは矢継ぎ早に無理難題を飛ばした。金銭の要求に始まり、依頼報奨金の取り分の昇給交渉、有休日数の増加、いややはり金だと、底なしの欲望が歯止めの欠片もなく溢れ続けた。ポケモンって権威を持つとここまでめちゃくちゃ言うようになるんだなあ、とネイトは思った。途中でエキュゼまでもが「お金そのままはアレだから何か買ってもらえば……」なんて挟み込んできたのがまあまあ闇だった。
我らが馬鹿リーダーですらなんとなく罪悪感を覚えるレベルの脅しの果てに、新米探検隊が掴み取ったのは五百ポケ。
「これだけかよ」
「お、お黙り! 口止め料には充分だろう! というかこうでも区切り付けなきゃどこまでも吊り上げるつもりだったろうに……」
「……審議?」珍しく困り目に尋ねるネイト。
「い、いや、うぅん……流石にいいかな。ちょっと、納得いかない気もするけど……」
「うぐぐ……と、ともかくワタシにも立場ってものがある! これ以上の搾取には応じないからな! そもそも五百ポケでもだいぶ手痛い出費なんだよッ……! はあっ、全くッ、オマエたちはッ」
クレーンは焦りや憤慨がごっちゃに混ざった満身創痍で、恐らく自身でも何を言っているのかよくわかっていないのだろう、咎めるつもりが何故か逆に釘を刺されてしまった。確かに弱みに付け込んで好き放題
集ったきらいはあるが、それにしたって立場の危うさあまり死に物狂いで交渉に出たのはどちらだ、なんて問われたら返す言葉もない気がする。「その立場を守るために賄賂渡してんだろ」早速アベルが全部言った。「オマエはもっと立場を弁えろ!」ごもっともな反論である。これが通ってしまう辺りこちらの足元もボロボロなのかもしれない。
その後もああだこうだとすっかりお叱りモードに戻ったクレーンから逆恨みじみた小言が続いたが、ともあれ、結論としては切手の件を口外しない取引のもと、表向きは「日帰り研修旅行」という形で、『ストリーム』は遺跡へ赴くことに決まったのだった。
勢いに誤魔化された感が否めず、釈然としないまま上階へ向かうネイトたち。事の全容も、それに対する言い分やツッコミも、粗方吐き出し切ってしまったからか、梯子を登る最中は却って言葉少なだった。
最後尾のエキュゼが格子穴から顔を出し、玄関口にて全員会合。が、無言の顔合わせが少し続くと、「いやなんで足止めたんだ」黄緑からの呆れた口調に、ひょ、と先導が頓狂な声を上げた。訳あってネイトが留まったのだと思ったらしい。私のこと待っててくれたんだよね、保護者のようなフォローが入り、だがまたしても、みょ、と間抜けが露呈するだけで、エキュゼは苦笑するしかなかった。一連のあまりの無意味さにアベルはつい手を上げかけて、やはりやめた。一瞬でもクレーンの言葉を信じかけてしまった自分たちを引き戻したのは紛れもなくコイツなのだ、この場に限ってはとやかく言えた立場ではない。消化不良のやり場を探すように、代わりに深く鼻息をついた。
「……こんなのでも、どこで役に立つかわからんもんだな」
「んん?」
「さっきの、クレーンの嘘を見破ったときのことだと思うよ」すっかり注釈役のエキュゼ。
「え? あ〜、うん。なんか急にマジメな感じになってたから、あっ、これ嘘ついてるなあ……って」
ホントかよ、アベルが小馬鹿にするように呟いたが、本当になったのだから仕方がない。普段の理解力は壊滅的なくせに、例の目眩といい、妙なカンばかりは発揮する、そういうヤツなのだろう。理屈の通用しない相手なのだから理屈で考えるのは無理だと悟った。
と、途切れた会話の中、階下から誰かが近付いてきた音は鮮明に聞こえて。ふと、自分たちがギルドの出入り口を塞いでしまっていることに気付く。何かを言い出すまでもなく、ネイトたちは避けるよう疎らに歩き出した。
しかし以外や以外、「ああまだ行ってなかったか……」慌ただしくやってきた足音、もとい羽音の主はクレーンだった。
「わあ、どったの」
「い、いや。大したことじゃないんだがな、その……」
ネイトに次いで振り向いた二匹は厄介ごとの匂いを感じ取ってか露骨に嫌な顔を浮かべて、「……なんだよ」警戒色強めでアベルが口を開く。つい先ほど全く同じ文言から発覚した事実は『大したことじゃない』で済む話だったとでも言いたいのだろうか。今から尻拭いツアーへ行かなくてはならないこの状況が全ての答えである。
が、そんな予防線もいよいよ無理と見てか、流石にそれとなく申し訳なさを醸しつつ、遠慮がちに視線を泳がせ、
「可能だったらでいいから、あの……ついでにパンフレットとか買ってきてくれない……?」
「「誰がっっ!!」」