第12話 小さな勇者
詰めようと思えば簡単に成せてしまう距離。しかし両手にサイコパワーを纏ったシーブからの手痛い反撃も予想できる。互いに同じことを考えていたのか、最初の一手は中々出せずにいた。
というのは、常識的な観点の話で。
「ええーい! ″炎のパンチ″!」
「うおあなんだお前!? ″念力″!」
そんな戦場の駆け引きなぞ考えたことすらないネイトが真っ向から殴りかかり、そして案の定吹っ飛ばされて戻ってきた。不意打ちのつもりだったのかもしれないが、見込みは薄いなとアベルは呆れ顔を浮かべる。なんたって「ええーい!」。
あいてて、と起き上がるネイトから視線を戻して、アベルは納得するように鼻を鳴らした。
「遠距離攻撃で様子を見た方がいいな。なるべく回避に徹する」
「わ、わかった! ″火の粉″でいいんだよね?」
「ああ」
指示を受けたエキュゼの行動は早かった。雫が布地に染みを作るように一瞬で赤熱化した口内から火の玉が飛び出す。シーブはこれを軽く身体を捻って躱した。応酬は″サイコショック″による反撃。先ほどよりも小ぶりだが数の増えた念弾がエキュゼを襲う。わ、と短く声を上げつつも外周を全力で駆け、尻尾の先で炸裂する脅威から逃げ切ることができた。再び、口元に熱が蓄えられる。
ダンジョン内のポケモンとは違う、正気のある相手との戦闘は実はこれが初。展開されたターン制のバトルは意外と様になっていて、緊張しつつも参戦しようとしたアベルは、ふと横でこちらに視線を注ぐ馬鹿の存在に気付く。
「僕は? 遠くから攻撃できる技がないんだけど」
「殴り込め」
…………。
「でも、それってまた飛ばされるくない?」ネイトの貴重な学習能力。
「殴り込め」無茶振りで貫こうとするアベル。
「あーイタタ、さっきの結構痛かったなあ。近づくのこわいなー」同情を誘う。
「いいから殴れ」だが無慈悲である。
「うわーーーん!!」
少年は走った。理不尽に対して返す言葉を知らず、見え見えの結果に飛び込むほかなかった。
しかし、状況が異なれば同じ轍を踏むとは限らない。エキュゼと交戦中のシーブは丁度こちらに背中を見せていて、理不尽を込めた一撃は届くものと思われた。が、すんでのところで振り向かれ、突き出した片手から放たれた″念力″で燃え盛る拳ごとネイトは追い返される。やはりそう都合よくはいかなかった。
「んな単調な攻撃で俺を捉えられると思うな
よッ!」
「っ、俺か!」
エキュゼの炎を避けたシーブの反撃は棒立ちで油断していたアベルの元へ。横へ跳ねて集弾は免れたが、移動先を狙ったいくらかの″サイコショック″は細身に撃ち込まれた。
「アベル!」
「よそ見してる場合か!」
地に膝をついた仲間見た途端、足が走ることを忘れてしまっていて。瞬時に生成された白色はエキュゼを逃してはくれなかった。中くらいの塊を頭に叩きつけられ、視界が一転する。
「おりゃあ!」
「気付いてねェとでも思ったかバカが!」
諦めまいと死角から撃つ″炎のパンチ″。またしてもサイコパワーによって止められ、ネイトは苦々しく目元を歪めた。増幅した″念力″が、ウゥンと低く唸る。だがネイトは飛ばされず、小さく後退るのみだった。思わずシーブは目を丸くした。よく見れば腕が、いや全身が小刻みに震えている。まさか、と思った。
ネイトの怪力が、無理やり超能力を突破しようと抵抗しているのだ。
絶えず拳から吹き出る炎は、強風に煽られているかのように自身の腕から肩先まで流れている。あまりに予想外だったが、驚くよりもまず癪に感じた。
「ちぃっ、無駄だ!」
拮抗しているように見える力は、シーブ側からすればまだ全力ではない。少し念を強めてやれば、ネイトは軽々と壁へ打ち付けられた。
技の悉くは往なされ、次々に仲間の体力が消耗されていく。未だに一発も攻撃を食らわせられていないのだ。勝機が、まるで見えない。自分たちの実力で挑んでしまったのが間違いだったか
為す術を持たない相手たちはそう思っているだろうと、シーブは確信していた。
光刃が、その背に迫る。
ダウンしたと思われていたアベルは、伏せながらも隙を窺っていた。卑怯だとか騙し討ちだとかは言ってられない。音もなく立ち上がり、″電光石火″の韋駄天が右腕に″リーフブレード″を発現させて突撃する。
振り向いてからは無論、一歩踏み出してからでは気付いて対処するのは不可能な距離だった。当然だ、それを狙ったのだから。いくら反射神経が優れていても、確実にダメージを与えられるのはこれしかないと考えたのだ。
だが、それすらも失策だったと理解したのは。
ブレードを生成する前からシーブが動いていたから。
「!」
「おっと、結構ギリギリだったな」
新緑の刃は脇腹を掠めることすら叶わなかった。勢い余って転び、その拍子で粒子へと昇華してしまう。シーブは″念力″でアベルを浮かすと、放り投げて地面に叩きつけた。
口に広がる血の味を噛み締めながら、アベルは思考を巡らせる。絶対に決まると踏んでいた不意打ちが躱された。これが強者の力なのか? 反応速度、なんて概念を超えた、そう、アレはいわば
予知能力。
「……『見た』のか」
「フン、気付いたか。そうさ、俺の特性『予知夢』でお前らの攻撃は全部お見通しなんだよ」
「そ、そっか……! だからさっきから当たらなかったんだ……」
だから、アベルの急襲も『知っていた』のだ。
ここにきてタネを明かしたのは、圧倒的優位の状況で勝利を確たるものにしたと思ったからか。元々のニヤケ目に増して表情は愉悦に満ち満ちていた。
フラつきながら立ち上がったエキュゼが、シーブを挟んで向こうのキモリに視線を送る。「何か打つ手は?」、そう指示を仰いでいるようだった。
「さあ、降参するなら今のうちだぞ。俺にはポケモン殺しの趣味はないからな。もし手を引くってんなら見逃してやる」
「嫌だね!」
敵にかけられた情けを真っ先に否定したのはネイト。いくらボケ役でも肝心なところで失望させるほど歪んではいなかった。だいたい、小さな子供が救助を待つ前で、どこの探検隊が逃げ出すというのか。
そして、本当に勝てると思っているのなら、「見逃してやる」だなんて言葉が出るはずはない。アベルは確信した。自身の能力を見抜かれて焦っているのだ。
「クソが、諦めろっつってんだよ! お前らの敗北の未来は決まってるんだぞ!」
今度の怒号は、威圧の意を失ったただの遠吠えであるとエキュゼも理解する。シーブの勝利宣言はまだ決まっていない。
未来、とネイトが小さく復唱したのは、代わりに前へ出たアベルの声に上書きされて誰の耳にも届かなかった。
「お前こそ、来るとわかっていながら避けられない理不尽を味わうくらいなら投降した方がマシだと思うが?」
「!!」
「どういうこと!?」エキュゼも明らかな動揺に気付いた。
青ざめた顔に、やはりか、と頭脳役は呟く。
「恐らくヤツが見れるのは『攻撃が来る』未来のみだ。躱す能力までは備わってない。片手で一人対処できても、腕は足りない」
「え、えーっと……」「どゆこと?」
「とにかく攻撃を浴びせ続けろ!」
漠然とした作戦は理解してくれたようなそうでないような。ひとまず呑み込んでくれたエキュゼは手慣れたもので、躊躇なく″火の粉″のヒットアンドアウェイを開始した。遅れてネイトも果敢にぶつかりにいく。
戦闘の猛者と呼ばれる者たちの中では、ポケモン同士の勝負をこう表現されることがある。
『詰将棋』。
互いに手札を切り合って、最終的に打つ手を失くした方が負ける。無論、反射神経や思考の違いなどもあるため、全てに於いてこの法則が適用されるわけではない。同じ実力を持った者同士の戦闘を突き詰めた結果、この言葉が使われるようになった。
だが、アベルが行おうとしているのは、前述のそれとは似ても似つかぬ、一方的に
王将を追い詰める、いわば本来の意味での詰将棋戦法だった。
シーブ側の回避手段は、片手で使える″念力″が二本と単純な体幹による躱し、計三種。『ストリーム』の頭数と同じだが、絶え間なく攻撃が行われれば反撃する暇は与えられないのだ。優勢を取り続ければ消耗するのは相手のみ。
未来を見つつ、避ける方向を瞬時に判断しながら″念力″で二方向からの手を受け止めて
「ぱーんち!」
「くっ! この……熱ッづ!?」
「や、やった! 当たった!」
「まだだ! 畳み掛けろ!」
なんて無理を続ければ、このようにいつかは被弾する。これがアベルの狙いだった。″はたく″と″電光石火″をいなして″炎のパンチ″が掠る。草の剣をあしらって拳を止めれば、高速で体当たりを仕掛ける狐を相手するところにまで頭は回らない。先ほどまでの無双が嘘のように、一発、二発と傷が作られていく。効き目を実感するにつれて、ネイトとエキュゼもアベルの戦略がわかってきた。
「″電光石火″! ……うわっ!」
「く、クソが! まずはテメエからガァッ!?」
「させないずぇ!」
だから、シーブも対策に踏み込んだのだろう。エキュゼの攻撃を躱して、無防備になった背中に″サイコショック″を決めようと両手を振り上げる。しかし時すでに遅し。徐々に研ぎ澄まされていく連携はそんな隙を与えてくれるほど優しくなかった。逆に背面から二匹の渾身が突き刺さる。
そしてついに、
「……ッッックソどもがァァァッ!!」
決着、はまだつかなかった。怒りと屈辱に濡れた顔を震わせた咆哮に、技を仕掛けようとしたアベルの足が、一瞬だけ戸惑いを見せる。そこを突こうとしたのは偶然か否か、防御に徹していたスリープの太足は急に地面を蹴ってアベルへ接近したのだ。投げつけるような動作で右手が振られ、見えない力で強く殴られる。鈍い音を立てて倒されたアベルだったが、直前に当たっていた″すいとる″が強打に耐えられるだけの体力を確保していたらしく、なんとか意識は手放さずに済んだ。
しかし、不意の暴走によって受けた一番の被害は、三匹体制の陣形が崩されたところにあった。半ば作業じみてきた″火の粉″を、シーブはもはや避けもしなかった。ゆっくりと振り返ったその目からはエスパーのエネルギーと思われる青白い光が淡く揺らめいていて、怒りかどうかすらも読めない表情と化していた。それでも、次のターゲットに選ばれたのがエキュゼであるとわかったのは、本能的に肺から漏れた怯えるような短い吐息が嫌でも示している。
両腕を掲げて手先から迸る白光が、今までのとは比にならない巨大な塊を創り上げていく。止めなくてはならない、だけど下手に動けば食らいかねない。衝撃に備えることがこの時エキュゼが唯一できることだった。
「エキュゼ」
「……え?」
終わりさえ押し付けてくるような恐怖の中で、一際頼もしく聞こえた声は、紛れもなくネイトのもの。膨れ上がる球体から目を逸らさずに、ただ強く、拳を握りしめていた。
そんなリーダーが放ったのは、耳を疑う宣言だった。
「あれ、止めてみるから。お願い!」
「おね……って、ええ!?」
それはあまりに具体性のない指示で、詳細を聞こうとした時には既にネイトは走り出していて。
「死ねェッ!」
振り下ろされた狂気に慈悲はない。中くらいでも視界が回るくらいには威力があったのだ、あんなカビゴンの背丈も超えてしまいそうなサイズを受け止めて、生きて帰る気はあるのか。とにかくエキュゼは謎の自信に考えがあることを祈って、ただ構えるほかなかった。
真っ白に照らされたネイトが、利き手の左拳に炎を灯す。橙色までもが白く輝いているように見えた。そして、負けじと若草の瞳からは眼光が尾を引いて、流星の如し煌めきを帯びる。身体の後ろに下げたストレートを思い切り正面へ伸ばす。
「
ぶっとばせ!」
溜めに溜めた″サイコショック″と腕一本のぶつかり合い。どれほど重いもの同士が激突したのか、生じた爆風が音ごとかき消してしまい、わからない。術者も堪らず顔を塞いだ。
属性の残滓と土煙のカーテンが二間を隔てる。息を切らせながらシーブは汗を拭い、
「……っ!」
瞬間、幕を貫いて飛び出したロコン
は、空いた手の″念力″で軽々と捕まえられてしまう。
油断した『フリ』だった。ふわふわとおぼつかない足に、首根っこを締め上げられ、完全に自由を奪われた。ネイト決死の陽動作戦は失敗に終わる。
否。暗幕から斬り込む弾丸は一つではなかった。
砂埃に明滅した光が、シーブには警鐘の赤色灯に映えた。まだその存在が残っていると認知した直後、脇に″炎のパンチ″を携えたカラカラが素早く攻撃圏内へ駆け入ったのだ。『予知夢』に現れなかったイレギュラーにも関わらず、冷静に手をかざして念を張り巡らせる。
つまり、シーブは忘れていた。
「ふぅん!」
半分の出力でしかない″念力″が、ネイトの怪力を前に壁としての役割を果たせないことを。
「ぶっ……がァア……!?」
灼熱のグーパンチが見事に頬へと突き刺さった。宙を舞う飛沫と上体。最後まで脅威だったお尋ね者の背が、ついに地に落ちる。
ドシャア、と崩れ、場に残ったのは風の音と断続的な呼吸。
「か……勝ったの?」
「どうやら勝負あった、らしいな、ッぐ……」
半身だけ持ち上げて戦闘の行く末を見ていたアベルが、立ち上がろうとして、臀部辺りに走った激痛に顔をしかめた。すぐにでも立て直したいと思っていたはずだ、その姿勢がやっとなのだろう。腰に手を当てる幼馴染の痛々しい姿にエキュゼが駆けつけるが、「大丈夫だ」と静かに言って助けを断った。孤高のキモリは、強がりな態度とは反対に、石を積み上げるような慎重さでゆっくりと腰を浮かせ、やがてプライド一つで直立した。
その一方、ネイトは仰向けで倒れるシーブの元へ歩み寄っていた。顔を赤く腫らせ、口元と鼻先からは微量の血が垂れている。敵ながら同情を覚えたのか、未だ熱がこもる拳を見やって、神妙な面持ちで戻った。
すると、てっきり気絶したと思っていた口が急に開いたもので、ぎょっとして再び握り拳を作ってしまう。が、そこから出たのは反撃の一手ではなく、単なる恨み言だった。
「ち、チクショウ……こんな、こんな、骨もねえカラカラに……バカどもに……」
初対面で散々罵倒した相手に負かされるのは相当堪えるものがあるだろう。エキュゼは振り向いて、まだ足りないか、とばかりに睨みつけた。『ふといホネ』を持たず、なおかつ馬鹿なカラカラがいるのは間違っていないのだが。ほぼ指名された本人はもはや肯定するように首を傾げた。
「言われてるぞ」
「僕? 骨はあると思うんだけどなあ」手首ぐにぐにと握る馬鹿。
「教えてやれよ。″ホネ棍棒″とか″ホネブーメラン″とかなくても、代わりになるヤツ」
「うーん」
もう一度、シーブに目を向ける。悔しさの滲んだ「へ」の字の口と、憎しみを乗せた眼光をこちらに当て続けている。先と同じように己の手を見た。そういえば、拳を作ったままだった。それからまたシーブにピントを合わせると、一変して「勘弁してくれ」と許しを乞う表情に様変わりしていた。
ネイトはガッツポーズのように左手を伸ばして。
「″腕棍棒″」
技もへったくれもない、ただの叩きつけで、初にして長期戦の決着を飾ったのだった。
「そうだ……ルリリちゃんは!?」
一件落着の雰囲気に胸を撫で下ろしたネイトたちだったが、肝心な目的が果たせていないことにエキュゼが気付く。まさか、と静けさから嫌な予感が頭を過ぎるも、並んだ岩の側に見つけた時と変わらない様子でちょこんと立っているその姿を見つけて再び安堵する。
「大丈夫? 怪我はない?」
「は、はい。だいじょぶ、です」
誘拐に遭い、いつ流れ弾が飛んでくるかもわからない激しい戦いまで見せられ、それでも、とても一桁の年齢とは思えないしっかりとした返事だった。驚きと感心でエキュゼは目を丸くする。だけど、やはり足は震えていて。背丈の変わらないルリリの頭を前足で抱き寄せ、「よく頑張ったね」と小さく言った。
「ネイト、オレン寄越せ。青いやつ」
「あ、えーと……これ?」
「くたばれ」
そんな心温まる救出劇の傍らで、倒れたお尋ね者を見張るアベルは不思議玉を取り出したリーダーに対して無情だった。首を捻ってガサゴソ、ようやく捕まえた回復実を片手に、暴言キモリは黙って差し出した手で「パス」の意を伝える。が、ボケ役はブレずに近づいて手渡した。「投げろよ」舌打ち混じりに奪い取って齧ると、切れた口に果汁が沁みたのか、思わず口元を手で覆った。
なんとか無事に終わったんだ、とネイトは実感する。同時に、思い返せばどうしてここまで必死になっていたのかわからなかった。もちろん子供が危険な目にあっているのなら、それは助けるのが当然なのだけれども。妙な強迫観念に走らされていたというか。
ふと、空がまばたきした。
白黒、白。点滅。
しかし、アベルもエキュゼもルリリも、それに眉の一つも動かさない。
(…………え?)
違う。
これは目眩だ、そう理解する前には、既に視界が黒雲に覆われ始めていた。あの映像が脳裏にチラつく。ただでさえ気持ちのいいものではないのに、誰かの悪意を予感させられて、無意味とわかっていながらも瞼を閉じたくなった。
そして、無慈悲に閃く。
『……ト! アベル! ルリリちゃん無事みたい!』
前にも見た場所だった。つまりはここ。違うのは、ルリリの隣にいるのがシーブではなくエキュゼだということ。
『だったらさっさと回収して帰るぞ。おい馬鹿、バッジ出せ』
そこから少し離れたところで、うつ伏せのシーブの元に立つアベルが鋭い視線を投げかける。視線の先は
ネイトだ。ネイトが、バッグに腕を突っ込んで探検隊バッジを探している。
あまり馬鹿馬鹿言われてもピンと来なかったけど、俯瞰して見る自分はなんだか不思議で、確かに動きがちょっとまぬけだなあと思った。そもそもバッジはヘルメットの中でしょ? 心の中で冷静なツッコミだってできてしまう。すると映像の中のネイトは、言われて気付いたかのように骨の隙間に手を入れて漁り始めるもので。
ちょっと面白いなあ、なんて思えたのはここまでだった。
視界の端で何かが動いた。
それは本来、動くはずもなく、また、動いてはならないものだった。スリープの手がおもむろに土を掻いて、徐々に足にも力が込もっていくのがわかる。
そうして、秩序はあっけなく決壊した。
『フン!』
『なっ……!?』
半身を素早く上げて放たれる″念力″。死角からの強襲にアベルは抵抗の手段を持たない。なすがままに身体が大きく飛ばされる。
欠けたオレンの実が転がった。
『そんな……!? まだ動けて……』
『クソッ……こ、こんなところで捕まってたまるかよ!』
おぼつかない足取りでシーブは立ち上がる。十分ではなくとも、確かに余力はあった。遅れて反応したネイトが再び叩き伏せんと拳に炎を纏うが、消耗してもそこはエスパー、手をかざして軽々と追い払ってしまう。
不測の事態にエキュゼは
動けなかった。攻撃が届く距離で、ネイトよりも早くその準備に入ることまで考えて、背後の子供の存在が過ぎったのだ。もし標的に選ばれたとして、ルリリを守り抜きながら勝てる保障はあるのか。ここまでやって逃がしてしまうという焦りの中で、エキュゼは何も出来ずにいた。
だが、逃げ出すシーブの直線上には、態勢を立て直そうとするアベルがいて。作戦の立役者である手前、プライドも許さなかったのだろう、満身創痍の身で無謀と知りながらも眼光は捕縛を諦めてはいなかった。
『邪魔だ! どけッ!!』
しかし現実は残酷だ。除けるように手が横に払われると、アベルは物みたいに転がされ、
へ?
一瞬、何かの冗談なんじゃないか、と。
慣性のまま飛ばされたアベルは、丁度そうなるよう、仕組まれたかのように、崖を、落ちた。
風を感じる。網膜が陰りのない映像を取り戻す。
エキュゼは心底安心した穏やかな表情をしていて。
アベルは面倒臭そうに木の実を咀嚼していて。
シーブも変わらず動き出す気配はなくて。
このような未来を誰が想像できたのだろうか。ネイト自身だって信じられなかった。だけど、もし本当に起こりうる悲劇だとしたら
。
「ネイト! アベル! ルリリちゃん無事みたい!」
どきん、と胸が跳ねた。目眩の中で聞いた台詞と一致している。
アベルが危ない。
「だったらさっさと回収して帰るぞ。おい馬鹿、バッジ出せ」
だが、食い止める手段を模索するにはあまりに時間が残されていなかった。まさか、こんなすぐ先の話だなんて。浅い呼吸を繰り返しながら、とりあえず辺りを見渡してみる。ばか、さっきから何一つ変わってないじゃないか! 振り払うように首を振った。
「……あ? 何してんだ」
思案を放棄して、ネイトは走り出す。
会話が成り立ってないとか、不審だとか、もはや気にしてられなかった。ただ、止めることだけを考えて、倒れたふりをしているシーブへ一直線に向かう。
お前らの敗北の未来は決まってるんだぞ!
それはきっと、なんてことのないハッタリだったのだろう。目眩に未来を見てからだと真実味があって、今になって説得力を増して心を殴りつけてくる。未来を変えられないのはこちらも同じなのだ。ルリリが誘拐されてから助けを求めるまで、わかっていても何一つ防ぐことが出来なかった。
「フン!」
アベルが、ネイトに目を向けたまま吹き飛ばされて、視界の外へ流れ出ていく。シーブが、立ち上がろうと腰を上げた。
それが。
それがわかっていて、諦められるほど。
(
馬鹿で、たまるか!)
伸ばした手が黄色の手首を捕まえる。ぐわん、と足と胴が、遠心力で振り回されたみたいに宙に浮く。腕に思い切り力を込めて手繰り寄せる。シーブは驚いて一際強い″念力″で離そうとするが、握られた腕が引き千切られるような痛みに悲鳴を上げるばかりで、反射的にエスパーの力を止めてしまった。
「っぐ、あああッ……!? く、は、離せ! 離しやがれええええええ!!」
「んぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ」
掴まれた腕を払うべく、声を裏返して叫びながら全力で抵抗するシーブ。自身でも境界が曖昧になるほどの負けの演技までして、完璧に不意まで突いての最後の足掻きだったのだ。それをたった一匹で食い止めた少年カラカラを前に、逃れられないと理解していても発狂するしかなかった。
「アアアァァアア! クソ! クソがァッ!! なぜだ!? なぜお前だけ
」
「い……今のうちに! みんな!」
ネイトは力んで細めた目をパッと開き、対面から頭を横に逸らせてエキュゼに視線を送る。巻き込んでも構わない、そう言ってるように見えた。エキュゼも迷わずアベルへアイコンタクトを出す。よろめきながらも素早く立ち上がって、組み合う二匹へ向かっていく。
迫る攻撃を前に本能が恐怖したのか、抵抗は一層荒らぶるも、握る手の怪力は動じず食らい付いて離さない。
「″電光石火″!」
「ごめんっ! ″火の粉″!」
地を短く鳴らす俊足の音。シーブが苦し紛れに″念力″を展開するが、その全てをネイトが受けきってしまう。背を狙う炎弾に至ってはもはや振り向いて確認することすらできない。
そして、いよいよ逃走は叶わなくなった。ネイトはシーブの目を見上げる。「お前の負けだ」、そんな言葉を含んだような強い眼光の先で、しかし戦慄に満ちた瞳孔は自身へ向けられた攻撃にではなく、それはネイトを映していて。
集中砲火を受ける直前で、震え声が、正面のただ一匹を貫いた。
「
なぜお前だけ、未来が
ないんだッ!?」
「え……」
切り取られたみたいに固まった一瞬が、即座にブレて、向こう側のエキュゼがぼやけて見えた。
未来が、ない?
呼吸も忘れるほどに遠退いた現実の中で、意味も知らないその言葉だけが確かな感触を持っていた。
彼方に滲んだ種のような白茶の西日が、夕刻の知らせを気早に告げる。
探検隊バッジの機能で、ネイトたちはルリリと気絶したシーブを連れてトゲトゲ山の麓へ転送された。弟の帰りを待っていたマリルは光と共に一瞬で現れたネイトたちに驚いた様子だったが、ネイトたちもまた、マリルの後ろに並んだ数匹の無機質なポケモンたちの存在に一驚した。どうやら救助へ向かっている間に直接保安官事務所に事情を話しに行ったらしく、その保安官
ジバコイルを待機させていたそうなのだ。つくづく出来過ぎた少年だとエキュゼは感嘆する。
「通報ヲ受ケテ参リマシタ。貴方タチガ探検隊サンデスネ? ゴ協力感謝致シマス」
見た目に違わず機械的な電子音で話すジバコイル。前に傾いて、中央の赤目玉を下げた。どうも礼のつもりらしい。その後ろで、シーブをU字の磁石で捕縛している二匹のコイルも、器用に中心の頭部のみでお辞儀をする。ネイトも控えめにペコペコと頭を下げた。
「賞金ハぷくりんノぎるど二送ッテオキマス。ヨロシイデスカ?」
「はい、いいえ」
「ややこしくなるから選択肢出さないでっ! ……あっ、はい! それで大丈夫です!」
初対面の公務員の前にも関わらずネイトとエキュゼが漫才をしている傍、ジバコイルは「ワカリマシタ」とだけ事務的に返し、もう一度頭を下げ、恐らく部下であろうコイルと共に無気力に呆けたお尋ね者を連行していった。
『ストリーム』にとっては初のお尋ね者確保だっただけに、淡々と進められた事後処理と、去っていくジバコイルたちの背中がいやに冷たく感じた。あれだけの死闘を繰り広げたんだ、少しくらい褒めてくれてもよかったのになあ。エキュゼはそう思う。
「……賞金、ここで受け取っとけば差っ引かれずに済んだんじゃないか」
「あ……」「たしかに!」
たしかにじゃねえ、アベルは八つ当たりにネイトの尻尾を踏みつける。「あだぁーっ!?」飛び上がって叫ぶリーダー。答えたのはエキュゼなのにとんだとばっちりだった。
だが、そんな年上たちの仲間割れが唐突に始まろうとも、「変なお姉ちゃん」の後ろで縮こまるルリリは一点のみを向いていた。また、保安官が消えて一匹残されたマリルも、無事に戻ってきた弟を前に、瞳のうるうるを隠せない。
兄が一歩踏み出して、それを合図にルリリも飛び出す。二匹は駆け寄って、わあぁっ、と強く抱き合った。
「っ、う、びえええええええん!! お゛に゛い゛ぢゃああああああん!!」
「うああああ……! ごめんリンんん、ごめええええん……!!」
それまでに張っていた落ち着きぶりが、遠慮ない涙声とともにボロボロと崩壊していく。
年端もいかない子供たちが、泣きたいのをずっと我慢していたのだ。健気でしっかり者の図を見てきたからこそ、その反動がこちらにも響いて涙を誘ってくる。
守れたんだ、とネイトは思った。
結んだ口を震わせて今にも一緒に泣き出しそうなエキュゼ。アベルは照れ隠しのつもりか兄弟に背を向けて顔を掻いていた。けれども、皆一心に同じ安堵を考えたであろうことは確認するまでもなかった。
マリルが涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、ルリリにも「ほら」と催促してネイトたちへ向かせる。商店でお使いをしていた、あの頼もしい子供の面影が戻った気がした。
「弟を助けてくれて、本当にありがとうございました」
「ありがとう、ございました」
「どーいたしましてー!」
「うん、ウン、よかったね……!」
ちょこんとした精一杯の礼に、ネイトとエキュゼも一杯の笑みを作る。安否を第一に考えていたものだから、改まって感謝を述べられるとなんだか噛み合ってない感じがして不思議な気分だった。
「お前ら、家はどこだ」その横から、アベルがぶっきらぼうに尋ねる。
「ええと、トレジャータウンです」
「なら徒歩より転送の方が速いな。ネイト、バッジ使え。帰りに怪我されたら面倒だ」
「あ、確かに! うひょひょ〜♪ アベル優しブベッ」
「あっ、ちょ……小さい子の前でやんないで!」
暴行を振るう青少年と被害者の構図をエキュゼが食い止めに入る。……こう、ネイトが余計なことを言わなければ平和に終わったものを。脇目に見えた二匹が笑ってくれていたのは幸いか。とにかく、幼き兄弟を襲った事件は円満に終わったのであった。
「ありがとうございましたーーー!」
「ありがとー! 変なお姉ちゃん!」
「うん、じゃあねーーー!」
「あはは…………へ、変なお姉ちゃんかあ、結局……」
ギルドの正門を抜けて帰路につく二匹の子供を、『ストリーム』は遊び別れる友人のように和やかに見送った。夕陽に照らされた影がぴょんぴょんと跳ねて階段を下りていく。
「うむ、大体の事情は保安官から聞いた。誘拐事件を未然に防いだんだってな? お手柄だったぞ♪」
少し遅れてやってきたクレーンの翼には無地の巾着が握られていた。ずっしりと重量感のありそうな膨らみ具合なのだから、多分報奨金の全額が入っているのだろう。解決後に現実を見せられるのもなんだか後味が悪かったので、ネイトたちはなるべく一番弟子から視線を逸らすことにした。
「未然も何も、ばっちり連れてかれてたが」
「いやいや、謙遜しなくたっていいんだよ? オマエたちは本当にいい働きをしたんだから。これはお世辞でもなんでもないからね」
トン、トン、と。手羽が温かみのある重量でアベルの肩を叩く。声色にも胸に染み込むような優しさがあって、ネイトたちを僅かに残った後悔から救ってくれたような気がした。けれどもそれは同時に、恒例と化した搾取の時間に露骨に嫌な顔をするという些細な仕返しが出来なくなるわけで。一人気付いたアベルはかけられた言葉に反して嫌悪の表情でクレーンを向く。新入りを褒め称える微笑みが、しめしめと言っているように見えた。
ふと、エキュゼは満足そうな顔を崩して伏し目がちに言う。
「でも、もしネイトがあそこで気付いてくれなかったら……うん、まずかったかもしれない」
「そうかなあ」活躍した張本人はイマイチしっくりきてない様子。
「どの道手配書見て行ってただろ」
「それは……わかんないでしょ。あの子ともすれ違ってたかもしれないし」
むしろ路上で目眩の内容を説明していた分遅れたのでは、なんて残酷な真実も薄っすらと浮かんできたが、綺麗な話で終わらせたいので三匹は黙っておくことにした。
「……あの時、ルリリが『助けて』って言ったから、今、僕たちが見送ってるんだよね」
それでも、事件の始まりは恐らく、ネイトが聞いた助けを求める声だったのだろうと思う。ボルトロスが飛来する前の湿った匂いのような、いわば前兆に過ぎずとも、看過出来ないきっかけであったことは確かだ。
風の音に支配された山頂、誰の助けも望めない状況下でルリリは叫んだ。犯人をただ刺激するだけの無謀であることは、大人の機嫌に敏感な幼児だからこそわかっていたはず。そうするしかなかったからだとしても、実行へ移すには一瞬の決心が必要だった。
ネイトは思う。絶体絶命でありながら、ルリリは最後まで諦めなかったのだと。
「だから、一番がんばったのって実はあの子たちなんじゃないかなあって」
眼下で遠くなってゆく兄弟を、アベルとエキュゼは何も言わずに見ていた。青々とした背中はすっかりえんじ色に染まっていて、まるで夕日のマントを棚引かせた勇者様のようだ。
ネイトたちだけが知る小さな勇者は、「凱旋」の言葉も知らないような軽やかな足取りで家路を跳ねていった。