第10話 初めての幻視
「カクレオンさーん!」
「お! レイちゃんにリンちゃん!」
振り返ると、目線の少し下に小さな青い球状が二つ並んでいる。マリルとルリリだった。声質や仕草からして多分子供なのだろう。店主のカクレオンも、営業とはまた違う柔らかい笑みで彼らを歓迎する。
二匹のうちの小さい方、ルリリは、テーブル越しに覗くカクレオンを見上げて、子供特有のハキハキとした声で言った。
「すみません、リンゴ、ください」
「リンゴだね。はい!」
兄らしきマリルが肩がけの可愛らしい巾着から銭を渡すと、一個、二個と、慣れた手付きでリンゴが台に運ばれてゆく。
よく出来た子だなあ、エキュゼはずっと年下の存在を感心しながら見ていた。あれぐらいの頃の自分に同じことができただろうか、と考えつつも、自然と目はネイトへと向かってしまう。あの子たちを見習ってくれないかな、なんて。見習ってほしいと言えば、もう一方の反抗期もそうである。チラとアベルを見遣ると、偶然にもネイトの方からずらしてきた目とぴったり合った。思わず顔を逸らす。同じ経緯でお互いに焦点を当てたのではと考えると、なんだか気まずかった。
「ありがとうカクレオンさん!」
「毎度! 気を付けて帰るんだよー!」
そうこう余計な思惑を巡らせているうちに、小さなお客は別れを済ませて、あどけない足取りで帰路を走ってゆく。
ネイトは、その背を無言で見ていた。そこに何か意味や発見を見出したわけではない。ただ、金縛りにでもあったかのように視線を動かすことが出来なかった。
そういえば、昨日見た夢の中にも同じような感覚があった。一点に吸い寄せられるような、あの感覚。いや、あれはまるで
。
『兄弟』
記憶に訴えかけてくるようで。
何者かの声が不意に頭を反響する。驚きと痛みが同時に襲い来て、ぐらりと体軸が揺れる。先行した衝撃に意識を奪われかけながらも、声には聞き覚えがあった。記憶を失って最初に見た夢の末尾で、ネイトは『彼』と邂逅している。
へばりついた何かを落とすように、あるいは否定するように首を振る。瞼を持ち上げれば、案の定アベルが引き気味に口を半開きにしていた。
これは違うんだと、釈明というより、ネイトは助けを求めたい気分だった。しかしどこから話せばいいのやら。迷いもほどほどに口を開きかけたところで、背後から割って入ってきた声はカクレオンのものだった。
「いや〜。あの子たちね、兄弟なんですけれども。最近はお母さんの具合が悪いそうで、ああやって代わりに買い物に来てるんですよ」
「!」
耳へ飛び込んできた偶然に、思わず勢いよく振り返った。
「あ、あれ? てっきり女の子かと……エヘヘ」
だが、そこにあるのはなんてことのない会話だった。口元に笑みをたくわえながらカクレオン、「あんな幼いのに偉いですよね〜♪」。「そ、そうですよね〜、ホント」エキュゼは言い繕うように返した。
兄弟。
そういえば、どうしてマリルを一目見て『兄』と判別できたのだろう。種族は言語の如くパッと浮かぶのに、性別と聞かれたら首を捻ってしまう。仮にエキュゼがオスと言われれば納得してしまう気がするし、アベルだってメス……は、少しわからないが、ともかく、不思議に思った。
直感。本能。
ネイトの知らない自分は、確かに存在していたのだろうか。
「おい……」
「へ、」
「へ、じゃねえよ。何ボーッとしてんだ」
コツ、と肩に拳を当ててきたアベルが、些か不安そうに眉をひそめて顔を覗いていた。そんなに深刻な表情をしていたつもりはなかったのだけれども。
ただ、わからなかった。立ち尽くしていただけで不気味に思われるような反応をされているのだから、これ以上があると思うと、なんだか怖い。口に出していいことなのか。咄嗟の判断だったが、ネイトはひとまず誤魔化すことにした。
「あえっとねえ」
「……なんだよ」
「アベルって実はメスだったりする?」
「は?」
ネイト、大失敗。いつもみたいな呆れを期待した先に浮かび上がったのは、想像していたよりもずっと悪い、この世の終わりみたいなアベルの絶望だった。「なんでもない……」情けない一言だけを残して、恐れを知らぬ馬鹿ですらまともに顔を合わせる術を失った。
折角これから初捕縛に臨むというのに、スタートラインに立つ前から一気に叩きのめされたような気分である。最悪。と、そんな二者の間にひゅうと風が流れる。見れば、先のまんまる兄弟が体を隠すほどのリンゴを抱えて商店へとUターンしてきているではないか。
息も切らすことなく、ルリリとマリル。
「すみません、リンゴ、ひとつ多いです」
「僕たち、四個しか買ってないです!」
大切な要件を忘れてきたのかと思えば、余分に受け取ってしまったリンゴを返しにわざわざ戻ったという。ああ、そのなんと謙虚なことか。欲がないのとはまた違う、ただひたすらに純粋過ぎるが故に躊躇いなく実行に及ぶ善意。
「ああゴメンね、それはワタシからのおまけだよ。二人で仲良く分けてね」
「え! 本当ですか? ありがとうございます!」
「わーい! ありがとうですカクレオンさん!」
そしてその返しも、決して粋な商人を演じたものではなく、個人の温かみをふんわりと乗せた優しい声色で。なんてことのないやり取りに優しい世界が凝縮されているようで、エキュゼは傍観者でありながら自然と微笑みを浮かべていた。
「ああ私……もう死んでもいいかも……」
「あーうん、僕もそんな感じ」
「俺は今世界の終わりに立ち会っているのか」
目の前の光景に対するは慈愛、しかし後半はそれとは全く関係ない諦念と軽薄。一列に並んだ破顔は、セリフを経て反転してゆく喜怒哀楽のコントラストだった。
そんな前衛芸術みたいな視線の束も、既に背を向けた少年らにはたった一コマのモブでしかない。家路を急ぐ理由はなくとも、幼さ故の衝動で足は軽かった。″力持ち″のマリルが体躯の二倍程に積まれたリンゴを楽々と抱え、その後ろからは両耳で器用に一個だけ挟んだルリリが置いてかれまいと兄の尾を追いかける。
「……あっ……!」
小さな足が躓くのとほぼ同時に、エキュゼが声を上げた。
「いてっ!」
コロコロとした身体がコロンと倒れこみ、コロリとリンゴが跳ね落ちる。トドグラーの球遊びみたいな可愛らしい見かけに反して痛ましい事故だった。
一部始終を見ていた各々が驚きの表情を作る前に、ネイトの足は無意識に動いていた。横たわるリンゴを拾って、ルリリの側で屈み込む。
「大丈夫? 立てる?」
「う……あ、大丈夫、です」
空いた手を貸さずとも、幼子はすっくと立ち直る。涙も予感させない堂々とした真っ直ぐな目が頼もしい。
過ぎた心配もいらないだろう、と、早々に脇に抱えたリンゴを頭に乗せてやる。ああそっか、手がないから。奇抜なスタイルか何かと勘違いしていたようで、ネイトは苦笑ついでに微笑みを作った。
ふと、目が眩んだ。
あまりに不意だった。ルリリの耳に手が触れて、離した時ぐらいから、何故か急に視界が白み始めたのだ。段々とノイズに上書きされてゆく赤と青。
(……あ、れ?)
目眩、という二文字を認めた頃には、既に身体の自由は利かない。「ありがとうございます」遠く霞んでゆく感謝の声を聞きながら、薄らぐ意識を流れに落とした。
暗転。
瞬間、閃光が弾け。
『たっ……助けてっ!!』
「っ、あああごめん!?」
予想だにしなかった突然の拒絶に、訳もわからないままネイトは飛び退いた。何か不味いことをしてしまったか、耳か、耳に触ったのが悪かったか、いやそもそも僕が近づいてしまったことが
到底正答へとたどり着くことはないであろう仮説を並べ立てながら目を開くと。
色と形の戻った世界で、ルリリは困惑の表情を浮かべていた。
「え?」「あり?」疑問符でお見合いする両者。
ネイトは目眩の中で叫ぶ声を耳にした。確かに、ルリリが助けを求める声を聞いたはずだ。なのに、周りを見れば、雑踏を進むポケモンたちの注目を集めることもなく、カクレオン兄弟や二人の仲間もネイトの挙動不審を訝しげに覗くだけだった。
「あの、ありがとうございました」
「あ、うん……?」
連続する不可解と乖離するかのような現実にはかけるべき言葉までどれも懐疑的に見えて、結局ネイトは何も言えなかった。ルリリは軽くお辞儀をして、向こうで待つ兄の元へ早足で歩いて行く。
離れたところでも、彼らは依然変わりない様子で話していた。断片的な情報からも二匹が年相応に仲の良い兄弟なのは、恐らく、間違っていない。
だから、あんな声が聞こえるはずなんて。
思考に気を取られて、二つ並んだ小さな目線に気付くのが遅れる。積まれたリンゴの横からマリルが会釈を投げかけていた。少しギョッとしながらも手を振って返す。変な勘ぐりを見抜かれたわけではないらしい。礼も程々に水玉兄弟が去っていくと、満足げな鼻息が後ろで鳴った。
「ああ、なんだか……あんな小さな子でも強く生きてるんだなあって……」
「片方でいいからコイツと交換したい」
幸せそうに口を開けたままのエキュゼの隣でさらっととんでもない言動が自然と通り抜けていったが、脳内キャパシティをそちらに割くだけの余裕など今の当人にあるはずもない。
「あの、さっきさ。『タスケテー!』って、ルリリが言ってたじゃん」
「…………え」
「タスケテー! って、ルリリが」
「……」「……」
満ち足りた表情から一転、生気がどんどん失われていくようなドン引きを見せる二匹。道化じみた物真似もその反応の一因なのだろう。あれ、とネイトは可愛らしく首を傾げた。
「お前……」
「……えーっと、ゴメン。さっきっていつぐらい?」
やっぱり。疑問もいくらかあったが、同時に周囲の無関心にも納得がいった。
あの時、あの声を聞いたのはネイトだけだ。
「気のせいなのかなあ」
「気のせいで済ますのかよ」
「じゃあ、気のせいじゃない!」
「幻聴に決まってんだろ馬鹿」
「り、理不尽!」不信感や諸々を吹っ飛ばしてエキュゼがツッコむ。アベルのネイトに対する整合性を欠いた当てつけはもはや暴力のそれに等しかった。一度同調するように見せかけてから落とすのがミソである。
それからネイトとアベルのやり取りが数ループほど続くと、一時浮上した疑念は有耶無耶となったまま霧散。とりあえず『ストリーム』は当初の目的通りギルドへ戻ることにしたのだった。
「あれ、さっきの子」
連結店の前を過ぎようとしたところで、エキュゼが道の端を前足で指す。通りから外れたちょっとした空間で、先のマリル兄弟と、黄と茶の単調なツートンカラーと伸びた鼻が特徴的なポケモン
スリープが、向かい合って何かを話しているようだった。
「怪しい」
「どの辺が?」
「見た目が」
「見た目が? ……じゃあ、聞いてきてよ」
「面倒事はごめんだ」
「…………」
頑然とした態度で拒むアベルにムッと口を結ぶ。エキュゼだって、根拠のない理由で見知らぬ相手に話しかけにいける勇気など微塵もない。ところが、向こうと地面を交互に見返しながらいくらか迷った後、内気な少女は意を決してスタスタと二者へと近づいていったのだ。当然のようにそれに着いていくネイト。予想外の置いてけぼりにアベルは目を大きく見開いて信じられないといった表情を見せたが、心配三割、仕方なさ六割、興味一割で彼らの背を追った。
エキュゼの決断から行動は早かったが、やはりというか、肝心の接触は仕掛けられずにいた。しかしここまで進んで引き返す選択の方が難しい。それに、幸いにもこういった状況で自身の存在をチラつかせる術には長けている。こう、視線はぶつけながらさり気なく横切るように
「あ! さっきのニコニコお姉さん!」すると、話すきっかけが上手く掴める。
「あっ……ええ、と、ど、どうしたの?」
どうしたんですか、私。
切り口としては無茶苦茶な一言目だった。言葉は不自然にどもり、口の端は不器用に吊り上がり。だが初対面のエキュゼへの印象は『優しいお兄ちゃんのお友達』だったのだろう、こんな怪しさ満点のポケモンでも、幼き兄弟はにこやかに受け入れてくれた。というか、『ニコニコお姉さん』と呼ばれるほど自分は晴れ晴れとした表情をしていたのか。炎タイプの顔が恥ずかしさでさらに熱くなる。「それと、変なお兄ちゃん!」……ひょっとして、ただの笑い者?
固まるエキュゼは顧みず、マリルは嬉しそうに話す。
「実は僕たち、この前大事なものを落としてしまって……中々見つからなくて困っていたんですが、でも!」
ばっ、と少年の嘱望の瞳がスリープへ向く。
「このスリープさんがそれっぽいものを見かけたみたいで、それで、一緒に探してくれるって!」
どことなく無愛想を醸し出していたスリープの表情が、マリルの語調と一緒に綻んだ。相当大切な落し物だったのだろう、ルリリも期待と安堵の喜々を満遍なく振りまいている。
エキュゼもまた、心の中で一息ついていた。ここにあるのはただの優しい世界だ。変に警戒なぞする方が無粋というものではないか。
「そ、そっかあ! それはよかった……。……あ、あの、ありがとうございます。その、親切な方でよかったです」
「いえいえ! 親切だなんてとんでもない。幼い子が困っているんですから手を貸すのは当然のことですよ!」
黄色い顔が一瞬無表情を挟んだように見えたが、返しの仁徳は犯罪の蔓延る世の中ではそうそう耳にしない貴重な良心だった。そもそも店の前で善意の集合を見たばかりなのだから、この流れで疑ぐる方がおかしいのだ。冷静になって後ろの元凶をチラ見するエキュゼ。話の内容から白と察したのか、アベルは道の脇で無関係な待ち人を演じていた。なんで! 叫びたい気持ちを抑えて、ヒクつき気味の笑顔を戻す。
だが、その一方でネイトはというと、スリープを見ながら小難しそうに首を傾げていた。
(どうして、あんなに嬉しそうなんだろう)
探し物が見つからず困った少年たちに差し伸ばされた救いの手。喜ぶ兄弟と、まるで自身のことのように喜びを共に分かち合う大人。
完璧で、疑問の余地もない構図のはずだった。
それでも、どこか不自然に映えてしまったのはネイト独自の感性の悪戯か。きっかけはほとんど直感みたいなものなのに、右を左と呼ぶような、確かな間違いが突っかかる。
こういうときって、もっとそっけなく
。
「さて! 話が長引いてもしょうがないですし早速行きましょう!」
「わかりました!」
「わーい! またねー変なお姉ちゃんとお兄ちゃん!」
一人でそう考えを巡らせているうちに、彼らは出発を切り出してしまう。「へんなおねえちゃん……」かすれ声で小さくショックを受けながらエキュゼは子供の背中を見送る。
スリープも二匹に続こうとした時、距離感を見誤ったのか、太ましい二の腕がネイトの鼻先にぶつかった。
「んが」
「おっと。これは失礼」
わざわざ足を止めて振り返ってから詫びを入れる善人に、ネイトは骨ヘルメットの先端を抑えながらコクコクと頷いた。そうして遅れを取るまいと足早に去っていくスリープ。
ぐわんと、景色に黒い砂嵐が走った。
「…………あああ、緊張したあ……。でも、優しそうな人でよかった」
「ポケモンは外見で判断するものじゃないぞ」
頭を強くぶつけたからか、と思ったが、この感覚には覚えがある。ルリリのリンゴを返した時だ。次第に失われてゆく視界に、ネイトは多分、ゆっくりと俯いた。
「最初に怪しいって言ったのアベルでしょ……」
「それはまあ……おいネイト、何ボーッとしてんだ。どうした?」
エキュゼが深くため息をついたのが聞こえる。アベルが近づいてくるのがわかる。段々と町の賑わいが消えていく。ただ、前ほど怖くはなかった。抗いようのない闇に身を任せて、
瞬閃。
何かの映像が見える。ぼやけているが、岩場だろうか。その中央で、記憶に新しい黄色と水色が対面している。
風の低いうなり声。地面を擦る音。
怯えた様子の子供に、迫真の怒声を浴びせる悪党の姿は
。
『言うことを聞かないと……痛い目に合わせるぞッ!』
『たっ……助けてっ!!』
「野郎ッ!!」
碧玉の眼光から見たこともない赤が尾を引く。
衝動的に燃え上がった感情が一体何だったのか、視界もままならない状態で交差点へ勢いよく振り向いたネイトに自覚するだけの理性はなかった。
「おい馬鹿! 何してんだ!」
「わっ……!? ちょ、何!?」
「……はへ?」
刺すような仲間の声に意識を現実へと引き戻され、はっと我に返る。いくらか瞬きして、彼らの困惑に恐怖が微量に混じった視線を受けて、裂傷のような痛みを手に感じて、そしてようやく拳から炎が吹き上がっていることに気が付いた。
雑踏からそう離れていないタウンの中心部。衆人の一部はこちらに目をくれては通り過ぎてゆく。目眩に見た姿たちは既に地平線へ溶け込んでしまっていた。当たり前の時だけが、ただただ平凡に流れている。
それでも、手の甲から立ち上る灰色の残滓は確かなもので。
「……ねえ、どうしたの? さっきから何だか変だよ……『野郎』、って?」
寒気がする。
不審を覚えるのは当然だが、本人が一番恐ろしさを痛感している。いくら能天気でも流石に黙り続ける意気地は残っていない。
重々しく言い淀んだ口から出たのは、ネイトらしくもない細くて弱い主張だった。
「……見えたんだ」
舌足らずでありながらも、ネイトは事の顛末を一句一句必死に伝えようとした。不安を吐き出していくうちに込み上げてくるものがあって、後半は軽いパニックすら起こしていたようにも思える。その間、エキュゼとアベルは怪訝そうに、時折首を捻りながら内容を聞いていた。
しかし、反応は案の定、
「でも普通、あんな堂々と嘘なんてつけるのかな」
「……やっぱり?」
うん、と若干申し訳なさそうにエキュゼ。
「悪党ヅラしてるのはわかるがな」
「さっき見た目じゃないって言ったばかりじゃない」
「うるせえ結局ポケモンなんて顔が全てなんだよ」
「そういうこと言っちゃダメ!」
意見を聞きたかったはずが、アベルが無茶苦茶なことを言い出したせいで、何故かよくわからない口論が始まってしまった。
だがその反面、喋るだけ喋ったネイトは先ほどよりもだいぶ落ち着きを取り戻したようだった。聞き入れてもらうことより、自分の身に起こった謎の現象を共有したかったのかもしれない。
「ともかく、こんなところで駄弁ってる場合じゃねえ。これから本物の悪党の鑑賞会に行くんだからな」
「いや言い出しっぺは……もう。ネイト、行けそう?」
「ん! 行こうず!」
結局のところ答えはわからずじまいだったが、今は見える範囲でやれることをするしかないのだろう。今度こそ、ネイトたちはアレスの待つギルドへと向かっていく。
受付の開店時間を見越してか、一部の貪欲な探検隊たちには、手垢の付いていない依頼を狙って、ああでもないこうでもないと、早くから掲示板の前で悩んでいる様子が見られる。
違う空気が流れ出したギルドで、見知った顔が会釈を交わした。
「お、準備ができたみたいでゲスね」
掲示板に群がる探検隊たちとは少し離れたところ、受付のジングルと会話でもしていたのだろうか、部屋の端でアレスは朝よりも上機嫌に声をかけてきた。
しかしまあ、こちらにはそんな接しやすい先輩に対して敵意を向ける悪者がいるわけで。
「準備も何も行き先がわからないんじゃしようがないが。何を準備させるつもりだったんだ?」
「え? ……あ! 確かにそうでゲス……」
しょげるアレスにアベルはわかりやすく嫌そうな顔をした。とは言っても、準備云々に関してはさほど気にしていなかったように見えたので、恐らくは語尾のことだろう。たとえ他意がなくとも彼は繊細なのだ。
「見通しが甘くて本当にごめんでゲス。お詫び……というのもちょっと違うでゲスが、お尋ね者はあっしが責任持って選ぶでゲス」
「と、とんでもないです真に受けないでください! どこでも行けるようにちゃんと準備したので……そ、そうだよねネイト?」
「任せんしゃい!」
それでも仲間の尻拭いは迅速だった。エキュゼの過剰な勢いのフォローに、とりあえず同意を求めれば快く乗ってくれるネイトのコンボ。効果の程は調査中だが、「そ、それなら安心でゲスが……」と、薄っぺらい信頼は獲得できたように見える。
アレスは掲示板を見上げた。倣ってエキュゼも平行に並ぶ。ポスターにはテンプレートがあるのか、全ての内容が同じ形式で簡潔にまとまっていて見やすくできていた。
ただ、条件や備考欄、難易度と報酬が一部釣り合っていなかったりと、やはり人的要因が関わっているからか、必ずしも決まったパターンが存在しているというわけではないらしい。確かに、初心者が選ぶには難渋してしまうだろう。しばらく文字列に目を通していたエキュゼも例外ではなく、ここは先輩に任せ切ってしまおうかと思い始めていた。
突如、くぐもった低音が正面に響いた。
『えー情報を更新します! 危ないですので掲示板から離れて下さい!』
「えな、なに、危ないって!?」
「お、そういえば今日はまだだったでゲスね」
じっと多くの視線を受け続けた掲示板が耐えかねてついに喋り始めたか、なんてことはない。不意の声による不意の忠告に錯乱する少女の隣で、アレスは特に動じることなく掲示板に顔を向けている。見渡せば、他の探検隊にも驚いたりしている様子はなく、それどころか何かを待ちわびているようにすら見えた。目を合わせて首を傾げるネイト。アベルは警戒の表情を浮かべて後ろに下がった。
一体何が、と聞く前に、アレスのまん丸な目がエキュゼの困り眉を捉えた。
「ああ、掲示板は一日に何回か更新されるんでゲスよ。解決した依頼とかを新しいものに貼り替えたり
」
バタン! 解説を遮って、叩きつけられるような勢いで木の板が横回転を決める。煽られた湿気が塊となって顔にぶつかって、思わず目を細めた。
「あ、ほら。今一瞬見えたでゲスかね。あのダグトリオはラウドといって、掲示板の更新を初めとした裏方の仕事をやってるポケモンなんでゲス」
「そ、そうなんですか……」「はえ〜」
付着した土埃も相まって一層無骨に映るボードの裏側を見ながら、エキュゼとネイトはなんとも言えない反応で返す。それっぽいスペースはあったような気はするが、暴力的なくらいに素早くひっくり返った掲示板のその奥の、コンマ数秒の情報量でダグトリオの姿など確認出来ているわけがなかった。
『更新完了! 危ないですので下がってください!』
二度目の回転は、警告を言い切る前に鈍い音を打ち鳴らして終わった。職人芸じみた手際の良さには驚かされるというか危なっかしいというか。しかし周囲で待っていた探検隊たちは驚く『ストリーム』をよそに何事もなかったかのように再び掲示板へ群がる。一見非日常でも、慣れてしまえば彼らみたいに動じなくなるのだろう。その中にはちゃっかりアベルも紛れていて、腕を組んで上級者感を無意味に醸し出していた。
「何してるの……」
「さあ、これで最新の状態になったでゲス。君たちは何か、『こういうのをやってみたい』、みたいな希望とかはあったりするでゲスか?」
「やりたいのをやりたい!」
「何一つ伝わらないよそれ……ええっと、今はちょっと」
わからない、と暫定回答を出そうとして、エキュゼはふとアベルのいたところに目をやる。さっきまで偉そうにしていたその姿がない、かと思いきやすぐ隣に移動していた。
位置が変わっただけで変わらず腕を組んだままのアベルは、じっと一点に集中していた。奔放さに対して「ねえ」不機嫌を乗せた声をかける。ちらとエキュゼを見るだけで視線は掲示板の方へと戻ってしまった。口先を尖らせて前へ直ると、今度は肩を叩かれた。
「なんなの、さっきから……」
「アレなんか、今の俺たちには都合がいいと思うが」左上辺りを指差すアベル。
「どれ?」
「一番上、左から二番目」
それは。
悪党の見本市のようなラインナップの中では控えめな存在感で、流し見程度では通り過ぎてしまうのも仕方なかった。
「これって……!!」
だから、事の重大さを一挙に理解したエキュゼは、行動より先に硬直のプロセスを経なくてはならなかった。
ネイトが走り出す。
アベルが制止をかける。
どこかの路上パフォーマンスのように、耳から耳へと抜けていって。
ハッとして、エキュゼはまず、置いてけぼりのアレスを向いた。だが、遂に言葉は出なかった。既に部屋を脱したアベルに続いて格子を駆けていく。
残された先輩は、驚きより困惑が勝っているようだった。
「あ、あれ〜? また何かやらかしちゃったでゲスかね……」
『お尋ね者・シーブ』。
スリープの似顔絵が貼られたポスターは、去り際の微風で小さく揺れていた。
鮮やかに広がっているはずだった青空は、薄曇りのベールを着せられて彩度を失いかけている。
じめついた空気を裂いて、ネイトはプクリン型の入り口から飛び出す。先に見下ろすは大階段。その勢いは止まることなく
派手に転げ落ちた。
「うどぅえ」
「うわっ! ……あ、さっきの! 大丈夫ですか?」
全身を打ち付けた痛みと土の匂いに顔をしかめながらも、今まさに探していた声がそこにあることに気付き、ぐっと身体を起き上がらせる。
マリルが一匹、心配と不安の入り混じった表情でこちらを見ていた。
「弟は!?」
立ち上がったネイトは、ゆらりと体を傾けたかと思うと、縋り付くようにマリルの両肩を掴みかかった。靄がかった幼子の顔色が確たる恐怖に染まる。『変なお兄ちゃん』と親しまれたカラカラの、突然の狂気すら孕んでいるような切迫に、口も、足も、まともに動かすことが出来なかった。
「ルリリは? スリープはどこに?」
「あ、り、リン、は……!」
「ネイト!」
矢継ぎに繰り出される質問にまごついていると、高台の上から雌性の呼び声が飛び込んできた。昼間の『ニコニコお姉さん』、エキュゼだった。おまけのアベルには薄っすらと記憶に残る程度の印象しかなかったが、それでも頼れる相手が増えるのならなんでもよかった。マリルに一時の安堵が訪れる。が、彼らが階段を降りてくる間もネイトは一切目を逸らさなかった。
駆けつけたエキュゼが、幾分か冷静に事情を聞く。
「何があったの?」
「その、あの後三人で落し物を探しに行ったのですが、気が付いたらリンとスリープさんがいなくなってて、それでもう、わかんなくなっちゃって……」
必死に説明をしているうちに込み上げてきたのだろう、兄らしいしっかり者で張り続けていた少年の瞳にうるうると涙が溜まり始める。
きっと見知らぬ場所に一人きりにされて、不安で仕方なくなってトレジャータウンへ戻ってきたのだ。この様子を見てか、興奮気味だったネイトも肩を離し、優しい手つきで頭を撫でた。
「……それで、どの辺でいなくなったかは覚えてる?」
エキュゼが問うと、マリルは大きく頷いた。そして、鼻をすすってから「こっちです!」と芯のある涙声を飛ばして走り出す。ネイトたちも一度見合ってから、何も言わずに後を追いかけた。
ギルドより北東、滝と森林の間を通り抜けて、そびえ立つのは剣山の如き岩山。草木の付け入る隙すら許さないむき出しの岩肌はまさに城壁のよう。天突く巨槍の真下にある切れ込み型のダンジョンの入り口のみが、唯一の侵入経路であることを堂々と示していた。
「ここです。この奥で落し物を探していたのですが、少し目を離したら二人ともいなくなってて」
マリルの先導のもと到着した『ストリーム』は、見上げてもなお頂上が霞む外観に表情を険しくした。このダンジョンを登った先に、ルリリを誘拐した犯人がいる。初のお尋ね者退治であると同時に誰かの命を背負っているかもしれないという状況はあまりに荷が重かった。
そして、ネイトが目眩の中で見た光景。ルリリとスリープ、風の吹く岩場と、ほとんどが合致している。何故この事案を前もって知ることが出来たのか。ただ、一刻を争う状況にして、それを問う選択肢は既に排除されていた。
「ん、だいじょぶ! 必ず助け出すから!」
「はい、お願いします。もし二人に何かあったらと思うと怖くて……どうかお願いします!」
二人。
そうだ。この子は知らない。スリープがお尋ね者であることも、そのお尋ね者が弟をさらったであろうことも。
交差点で見せた涙の内には、恐らく自分がはぐれてしまったことだけではなく、二匹の身を案じた不安もあったはずだ。純粋であるが故に、心から本気で心配していて。
だからこそ、ネイトは喉から出かけた真実を噤んだ。無事を祈る者に『確かな危機』を知らせるのは、たとえ真実だとしても間違っている。
「わかった。行こう!」
「急にリーダーぶるな」
「……うん、そうだね。ちゃんと二人とも連れて帰るから!」
事が起こる前に、ルリリを無事に救出する。
それは、探検隊としての責務であり、彼らに本来与えられた職務でもある。
『ストリーム』は岩壁を目の前にして、この仕事が成す意味を、役割を、誰に言われるまでもなく初めて自覚したのだった。