第16話 滝の謎を明かせ!(1)
ギルドの朝は騒音から始まる。「起ォォォきろおおおおぉぉーーーーーーーッ!!」近所迷惑とか睡眠障害だとか、そういう指摘が来るものじゃないかとエキュゼは思ったが、最近はそうでもないのかもと諦め気味だった。厳しいという評判は以前から常々広まっていた話だし、現に生きた心地のしない朝へ抱く感想も日に日に減りつつある。こういうものなのだと、自然に身体が納得してしまうのだ。
「ちょうれ……朝礼、そろそろかな。行かなきゃ……。……なに蹴ってるの、アベル」
「コイツ、何も処置されてないクセに傷一つ残ってねえ。俺のこのザマはなんなんだよ、腹立つ」
朝に弱いアベルは包帯まみれの足で、未だ夢うつつのネイトをがすがすと踏みつけていた。低血圧な性格は昔からだ、きっと今後も変わらないのだろう。……怒りの根本たる火傷の原因が自分にあることを考えると、理不尽な暴行を受ける彼に対して少し申し訳ない気持ちになる。
一際強く蹴り上げると、森トカゲは乱暴な手付きで自らに纏わり付いた白線を剥がしてゆく。手が止まった。「治ってたわ」。昨晩、ジングルが優しく微笑みながら“癒しの波動”を掛け続けてくれていたのだ、普通のポケモンならささくれすら残らない。
ふと、視界の隅の茶色が、ころんと仰向けに転がった。目にはグルグル渦巻きの『戦闘不能』サイン。寝ていたのではなく、蹴りやらなんやら、アベルの一方的な暴力で気絶していたのだった。嗚呼、一連の流れのなんと無意味なことか。オチすらも「ネイト、朝礼始まっちゃうよ」の一言で何事もなかったかのようにスッと起き上がるのだから、一時の心配すら無下になる。
本人曰く、
「なんかうじゃうじゃ〜、って虫がいるところに放り込まれて、食べられちゃう夢見ちゃって」
「それで目回してたの……?」
「いつだかの朝も寝ぼけたこと言ってたな」
夢と現実の区別くらいはつけろよ、廊下を歩きながらアベルが付け足す。区別ついてて蹴ったりする人が言うことではないだろうと幼馴染は眉をひそめる。しかしそこへ馬鹿、「でも夢と現実が入れ替わったら面白そうじゃない?」なんて続け様にほざくのだから、「そんな夢見た後に言うもんじゃないよ……」流石に耐えきれず口で言った。
もしかして
「まだ寝ぼけてんのか」、そう思ったタイミングで性悪が放った皮肉には、深く頷いて同意するほかなかった。
ふわあ、とネイトがあくびする。弟子ら全員が集まった広場、朝礼の時間になってもクレーンとルーは部屋から中々出て来なかった。寝坊かな、エキュゼが小さく呟くと、隣の花形が近づく。「さっきまでクレーンが部屋を出たり入ったりしてたから、多分起きてはいるんだと思いますわ」「わ、そうなんですか……」フラの顔の大きさに圧を感じながらも、いない間の情報はありがたい。
それから少しして、真正面の戸は開いた。
「や、すまん、皆待たせたね。急な知らせが入った」
昨日同様に丸まった用紙を持ったクレーン、その後ろから、やはり何事かあったのか、ニコリともしていないルーが静かに出てくる。
「ヘイヘイ! もしかしてまた誰かやられたのかよ!」
「いや、今日は別件だ。……場合によってはもっと悪いかもしれないが」
「べ、別件だって?」尋ねたリッパのみならず、多方から疑問の声が上がった。ポケモンが死ぬより悪いことなんてあるのか。ネイトは首を回した。昨日とはなんとなく違うどよめきが、やはり自分と似たような感想を孕んでいるように見えた。
「えー……」紙を伸ばす。「ここから北東、山脈に挟まれたところにキザキの森という……行ったことのある者はわかるかもしれないが。そこの、時が、止まってしまったらしい」
…………。
止まったのは見知らぬ遠方の地だけではなかった。一泊置いて、再びざわつき出す弟子たち。通達を聞いても、なんだかしっくり来ていない様子だった。
斜め後ろ、モルドが隣の父に何かを言うと、ラウドは納得するように頷き、「クレーン。具体的には、何が起こっているのだ」。すると周りもそれが聞きたかったと言わんばかりに首を縦に振った。
「風が止み、雲は動かず、草花についた雫でさえ落ちずにとどまる……文字通り、時間そのものが止まっているかのような状態だ。現時点でわかっているのはこんなところだが、調査が進めばまた何か出てくるだろうね」
「なんか詩人みたい」
「黙れ」
アベルが馬鹿にエルボー。おうふ、脇腹を抑えるネイト。またお前かい、とでも言いたげなクレーンの視線が刺さった。
あの、とフラが手を上げる。先ほどエキュゼに親切を見せた、頼もしい年上の女性像も、未曾有の事象を前に焦燥を感じているようだった。
「時が止まった、その原因って、もしかしてですけれども……」
「ああ。……今日の早朝、地元の探検隊有志が調査に入って、それで、呆気ないくらい簡単に判明したよ」
クレーンの目が、俯き気味で険しく歪む。
「
時の歯車が、消えた」
「なっ」「えっ」「き、消えたでゲスって〜!?」
ときの、はぐるま。
ネイトもその存在については聞いている。時にまつわるもので、よくわかっていないもの。それでも周囲の反応を見るに、なんとなく畏怖らしきものは持たれているのだろうと思った。
それが、忽然と消えたという。
「現在も周辺の捜索は続いているが……まあ、よくわからないものでも雨風に吹かれて急に無くなるなんてことはないだろう。警察や保安官が、既に盗難事件として捜査を始めている」
「でも警察ってここぞって時に役に立たないし……」
「それな」
「ちょ、ネイっ……そ、そういうこと言っちゃダメ! アベルも同意しないで!」
国家権力へ愚痴る二匹を、ひそひそ声ではあったが必死で食い止めにいくエキュゼ。「そこ、お黙り!」案の定一番弟子からお叱りを頂いた。ああ、と弱々しくため息をついて少女は思った。年頃の男の子というのは、なんというか、目上の者に対して、どうしてこう……こうなのだろう?
「えー、報告は以上かな。……ともかく、不審なヤツなんかを見つけたらすぐに報告すること。後は、ないだろうけど。時の歯車を見かけたら触らずにこれも報告すること。いいね? それじゃあ、今日も仕事を始めるよ」
「おおーーーーーっ!!」
号令は普段通りに。殺傷事件と違って事の大きさがわかりにくいというのもある。現にネイトたちもどのテンションでいけば良いのか、リアクションを取りあぐねていた。
解散した広場に、ぽつりと残って向き合う。
「つまり、今世界がすごくやばい状況?」
「え? うーん……でも被害が広がっていったら、まずい、かな」
「現状クソデカ目覚ましの方が問題あるレベル」
たしかに、と悩ましげにネイト。
「……ほんっっとマイペースだねえ、オマエたち」
『ストリーム』の無駄話を小耳に、先の件も相まってか、クレーンは酷く呆れて嘆息した。「すみません……」「今日は何すればいい」「ゴーインマイウェイ!」対照的な三匹の反応にさらに頭を抱える。
「いや、最近真面目に頑張ってるから探検に行かせてやろうと思ってたんだが……まだ早いかな……」
「えっ! 行きます、行きたいです……!」
「どういう風の吹き回しだ」
「強引にでもマイウェイ!」
行きたいのか行きたくないのかどっちなんだい、多数決算にしてもなんとも言えない微妙な反応にすっかり困った様子で言った。すると、声量こそ控えめながらもエキュゼが前のめりで主張をし、男二匹はあっさりと「行く」の意思表示を見せた。
「オマエたち……まあいいや……。えー、……リーダーの子、地図を開きなさい」
一瞬間を開けて「あい!」ニコニコ笑顔のカラカラが手を上げる。そういやオマエだったね、と地図を取り出すまで待つ上司。ヘルメットの中からしわしわの紙を引っ張り出した途端、クレーンは『ストリーム』が入門しに来たあの日を小さく後悔した。ついでに仲間二匹も渋い表情をした。
「それ、普通はバッグに入れておくものだから。二人もなにかなかったのかい、主に衛生面で」
「コイツ、あたかも当然みたいな顔でバンバン物入れやがるからな」
「わ、悪気はなさそうだったので……」
連帯責任とばかりに問われる哀れな仲間の傍ら、ネイトはもぞもぞと頭骨を物色し、探検隊バッジまで取り出すと「マイウェイ!」と掲げた。首元にアベルの手刀。後ろを向いて咳き込むリーダーを放って二匹は地図を覗き込む。
「……うん、じゃあ」青い羽が中心辺りを丸で囲む。「今日オマエたちに行ってもらうのはここ。滝が書いてあるのがわかるか?」
「うん。……あっ、すごい! これ色も付くんだ……!」
トレジャータウンから右に進んですぐ、階段状に膨れた岩山から水色のラインが縦に塗られており、その先には川が海に向かって伸びている。「海は清々しいくらいに無色だけどな」アベルの毒に苦笑いを浮かべるクレーン。「まあインク代とか……」が、嘴を噤んで、「いやなんでもない」目を細めて訂正した。アベルとエキュゼは怪訝そうに顔を見合わせた。
「……マ、さておき。一見なんの変哲もなさそうな滝だが、ここには何か秘密があるのではないかという噂があってね。あくまで噂でしかないからか調査に出たって話も入ってこない、そこでオマエたちにその秘密とやらの真偽を確かめてもらおうというわけだ」
想像よりもちゃんとしていた調査内容に、ギルドでの生活に憧れていた頃のような目の輝きが戻る。流石は公式だ、昨日のゴミみたいな探検紛いと違って理由もまともなものである。
「秘密って?」いつの間にか二匹の真ん中に割り込んでいたネイトが尋ねる。
「実を言うと具体的な情報は一つもないのだ。どこからぽっと出た噂かは知らんが、ただ、あそこには何かがあるとだけな」
「マジでただの噂なのかよ」
「じゃ……じゃあ本当に何もない可能性も……?」
「強引アウェイ」
不満たらたらの新人。原来探検とはそういうものだろうに。若干ムッときたクレーンが切り返した。
「……じゃ、行かない?」
「「「行く〜〜〜!!」」」
満場一致。
僅かにチクリと刺すような、春終わりの日光の下を少年少女は歩く。平坦な一本道を進み、その横を向けば果てなき地平線。大海を前にして、踏み出す一歩はあまりにもちっぽけだ。本人すら作曲者を知らない鼻歌をネイトは響かせて、足並みは軽やかに弾みゆく。彼の後ろを、難しそうな顔で地図を睨むアベルと、置いていかれないようにと早足で駆けるエキュゼが続いていく。ずっと遠くに思えた目的地が、少しだけ近くに見えた気がした。
やがて、時が狂ったかのようなあっという間でたどり着いた。
蒼穹の下、飛沫は強く。
青白く輪廻を繰り返す不定は大自然の荘厳を知らしめ。
叩きつけるような大滝が、重力に従って、絶え間無く轟音を奏でていた。
「「…………」」
「……いや。デジャブ、ではない、ね……」
「どこからどう見ても想像通りの滝じゃねえかクソつい身構えちまった」
「んん? なんで静かになってたの?」
大滝の迫力にエキュゼとアベルが警戒してしまうのも無理はない。なにせちょうど昨日、『静かな川』での濁流の川下りで水死体になりかけた身である。つまり、『滝』の調査に来て『滝』がある当たり前には十分安堵したのだった。「知らない方が幸せなこともある」。アベルが諭すように言うと「無知のムチムチ!」ネイトは意味不明に納得したらしい。
「……。それで、着いたはいいけど……」
「ああ。秘密とやらの調査か」
「僕的には滝の上が気になる」
源流、と小さく呟くエキュゼ。「おい馬鹿、地図よこせ」ヘルメットから筒状を抜いて渡した。
現在『ストリーム』がいる地点は切り立った高所の崖で、滝は手を伸ばせば届くほどの正面にある。これ以上になく接近できる絶好の観察ポイントだが、しかし情報量としてはそこが限界だった。
「……回り道してどうこう、という訳にもいかなさそうだな。下流を調べるなら『静かな川』らへんか」
「えっ? あそこ……あっ、本当だ。繋がってるんだ」
「ねえねえ、滝の上はどうなの」
全員でアベルの持つ地図に密集する。「上はちょっと、行けなさそうかな……」「お前一人で行ってこい」ネイトの案は現実的ではない様子。
しかし馬鹿、何を思ったのか向き直って二匹に敬礼すると、助走をつけ、激しく唸る水流を壁に見立てて足を掛けようとしたのだ。大きく滑る短足。流るるがままに勢いで滑って前方宙返り! バッシャア!「おブブ!」滝にめり込んだ前身は弾き返されてメートル単位で吹き飛んだ。
「何やってんだか」
「こ……小顔になるところだった」
「骨被ってるんだからならないでしょ……」
半身を持ち上げてえへへと笑うネイト。「でも、それくらいすごかった」当人はそう言ったが、わざと誇張したように思えなくも
いや、「わざと」であれだけのリアクションをとれるものか。アベルは反対を向いた。威圧するような濁音は、呑まれればただでは済まないことを酷く強調している。
限られた足場、限られた視覚情報、ここで得られるものが今以上にあるようには思えない。「下行くぞ」調査対象に背を向けて、アベルは元来た道を戻ろうとする。未だ尻餅のリーダーにエキュゼが起きるよう催促し、だが、立ち上がった途端にもう一度姿勢を崩した。
「う、うわーまたあの時のめまいーーー」
「な、なんで棒読み……?」
「おいさっさと……何してる」
晴天が、瞬く。
茶化しはしたものの、この先に見える光景に良い思い出など一つもなかった。泣き叫んで助けを乞う赤子同然の子供に、仲間の死の瞬間を目の当たりにしたことすらある。『怖い』。率直に覚えた感情は、悲劇と向き合わなければならない予感を避けられないところにあった。
暗転しきった視界を、光が切り裂く。
滝の前、崖の上に、一匹のポケモンが立っている。
自分たちが今まさにいる場所だ。誰も立ち寄らないとクレーンが言っていたのだから、物好きなポケモンなのかなあ、と思った。
(けどなんか、見覚えのある影だ……)
セピアとノイズに染まった風景、そこに唯一いる何者かは古ぼけた絵画のように黒ずんでいて、曖昧に形状と動作だけを映している。
謎の人(ポケ)影は数歩後退った。そして迷いなく
偶然にもネイトの奇行と同じよう、真っ直ぐ激流へと走っていった。
ただ、ネイトと違ったのは、
(うわあ)
大滝にぶつかる寸前、その身が宙に浮いた。突っ込んだ、のだ。下手に触れただけでもネイトを弾き飛ばすだけの威力の、その大流に、身を投げた。
断崖に瀑布の落音が残る。……よもや、飛び込んだのは自分たちではなかろうか。この先であんなことをする必要を迫られるのか。不安に駆られ、だがしかし、映像は終わらずに再び暗転する。
場所は変わって洞窟の中。水溜まりがいくつか見え、いつだかの『湿った岩場』を思い起こさせる。そこに、先ほど激流に消えた影が、最後に突っ込んだ姿勢のまま洞窟内に転がり込んできたのだ。
入り口を薄白く照らす雨模様。
耳に馴染みつつある、忙しない雑音。
キョロキョロと付近を数度見渡した後、ポケモンは洞穴の闇に溶け込んでいった。
心配の滲んだ表情が二つ、現実へと戻ったネイトを出迎える。彩度の帰ってきた世界で、けれども耳に残る音は、『今』とどこかに繋がる延長線上で。そりゃああれだけザアザアと自己主張をし続けているのだから、ちょっとやそっとじゃ変わりようがないのだろうけども。
「いやん、そんなに見られちゃ恥ずかC」
「笑いごっちゃないよ……大丈夫?」
「……今度は何を見た?」
シリアスな対応も仕方がない。いずれの目眩にも立ち会って、その結末を不気味なくらいになぞっている。結局のところネイトと同じでどうしようもなく怖かったのだ。
しかし、語らねばならない、と、肩に力を入れるような内容でもない。悲惨どころか、むしろ現在の調査に希望を見出せそうですらある。「……えーと」腹を括ったような二匹に若干困りながら、見たまんまを、それに自己解釈も付け加えて話した。
「……えっと。つまり、この滝の裏っ側に洞窟があって……?」
「俺らに『飛び込んで死ね』と」
「い、いや……そういうつもりで言ったんじゃないけど……。でも繋がってると思うんだよなあ、見た感じ」
おもむろに三匹は振り返る。とめどない瀑布の壁は厚く、荒れ狂う水は壁面を隠すように白く弾けていた。
突拍子もないアイデアで、かつ発信元はネイト。それに命を賭けるだけの価値があるかと聞かれれば、答えはお察しである。しかし、目眩の前例を知るアベルたちは、一度は訝しんだものの、話を汲むことにした。「どうにかして確かめられりゃいいが」腕を組んで辺りを見渡す。横から滝の裏を覗ける場所を探しているようだった。
「何か投げてみればわかるかな……?」
「たしかに!」
ネイトは尻餅のままバッグを開いて中身を物色する。手応えアリ、そう言いたげにパッと持ち上がった顔は「そういえば道具預けてきたんだった!」自信とはまったく正反対の成果を言い渡した。へなん、と狐耳が垂れる。そういえばそうだった、探検を前提としないことを閣議した上での結論なのだから、無駄に明るい笑顔込みでもツッコミはお門違いである。
少し悩んで、「ちょっと待ってて」エキュゼは思案する幼馴染みの元へ駆け付けた。
「どう? 何かわかった?」
「いいや。そっちはどうした、またなんかやらかしたのかアイツ」
「ううん、何か持ってくればよかったなって」
「用意するにしても食料くらいだろ。どうせ変わらない」
そっか、と小さく返した声は轟音にかき消される。アベルは組んだ腕を解いて腰に当てた。「半減ならあるいは……」ふと呟いた語末も水流に呑まれていった。両手を広げ、皮肉っぽく笑ってお手上げを表した。
しばらく無言で立ち尽くす二匹。
「
ん! ふたりともちょっとどいてーーー!」
すっかり蚊帳の外だったリーダーが、握りこぶしを後方に持ち上げて近付いてくる。あまりに急だったので、特に何も考えず、疑問ひとつすらなくその場を退いた。二匹の間を通り、その手が振りかぶる寸前になって、ようやく拳の中に何か物が握り締められていることに気付く。
ブゥン、と空を切る音がはっきりと聞こえた。剛肩のサウスポーから放たれた球体らしき何かは、壁の如く立ちはだかる大滝を真っ直ぐに貫いた
……の、だろうか。滝の中に消えて、その後の所在など、確かめる術がない。
「あり?」
「何してんのお前」
「……ぶつかるような音、は、しなかっ……た?」
投球フォームのまま固まるネイト、呆気にとられたアベル、立案者とはとても言い出せそうにないエキュゼ。投げた先に反応があるなら未だしも、全てが滝の質量にうやむやにされて、もう何がなんやら。
「というか手ぶらじゃなかったのか」
「あっ、もしかして私たちが喋ってる間に何か探してきてくれた……?」
「さがす? んぃや、最初っからこの中に入れてたから」骨ヘルメットをつつく。
「…………ちょっと待て、お前、今、何投げた?」
「えーとね、なんて言ったっけねアレ……」名称を思い出そうとしている時点で嫌な予感は既に確信めいており、アベルとエキュゼの顔色はみるみる青ざめていった。ネイトの被骨に入った収納物はクレーンとともに今朝から確認済みである。
そして馬鹿は、手のひらに落とした合点の拳と同時に現実を叩きつけた。
「わかったアレだ! 探検隊のすごいバッジ!」
「…………」
「…………」
わかりきってはいたのだろう、用意されていたかのような唖然っぷり。
数秒間、環境音が場を支配して、
「ざけんなボケ! ゴミとかついで感覚で投げていいもんなわけねえだろカス!」「ちょちょちょちょっと、どどどどうするのこれ!? わわ、私たちクビってこと!?」「あはん! うふん!」
荘厳な大自然の手前、醜いリンチを受けるリーダー。ぼっこぼこに殴られ、口端から出血してもなお謎に笑顔だった。そうしてしばらくアベルがネイトの頭を何度も地面に叩きつけていると、やがて声も出さなくなった。「クソッ!」果てに蹴り転がされる戦犯。
「この野郎……仮に死のうが絶対取りに行かせてやるッ。おい飛び込め大馬鹿!」
「あわ、ちょ、おちおお落ち着いてアベルいくらなんでも命の方が」目を回したエキュゼが制止に入る。
「黙れ! 等価交換だ!」 しかし死体は物言わず。
「何寝てやがんだ!!」 無茶苦茶な注文である。起こせないようにした張本人が、しかし、物事の順序もわからなくなるほどの激昂だったのだ。
「エキュゼ、あの馬鹿燃やして叩き起こせ」
「ええ、えええ……? も、もやすって……」
怒涛の展開に半ばパニックで、少女の目にはいよいよ涙が浮かび出す。ロマンを夢想して探検隊を志したあの頃には想像もつかなかったであろう、結成数日で悪党のような理不尽のフレンドリーファイア。狂気のアベルに躊躇で抵抗しつつ、ふと、ネイトの姿が視界に入った。仰向けに瞼を閉じ、仏の如く丁寧に両手を合わせている。
鼻を啜る。憐れむように口をへの字に曲げた。少なくとも倫理に迷うことはやめたようだった。
「…………ふっ」
「……、…………んあ?」
ちり、と吐息が茶色の肩を掠める。火の粉は酸素と有機を食らい瞬く間に肥大化した。異常に気付いたネイトが飛び上がる。「ぢゃーーーーー!?」この場に火消しといえば一つしかない。轟々と落ちる滝へ逃げるように駆け込んだ。白煙を吹き上げて弾き返される馬鹿!
「エキュゼ! もう一度やれ!」
「ええーっ!?」
「オギャーーー!!」燃え上がって再び滝へ。
「エキュゼもっかい!」
「うううえええ!?」
「お、お、おわあああああ」またしても炎上。
「エキュゼ!」
「なななななちょっ……」
「んほおおおおおおおおおお!!」
焼かれては吹き飛びを幾度となく繰り返し、やがてアベルの気が済むと、エキュゼは黒焦げの横で伏せて首を振った。こんなつもりじゃなかっただとか、自分でもよくわからない、など、懺悔を並べ立てていた。そんな彼女を尻目に、黄緑色は倒れたネイトを見下ろした。
「おい燃えカス」
「まだお腹の方は火ぃ通ってないよ」
「……気味悪いくらいピンピンしてやがる」
「ごめん」
「それで、……。信じていいんだろうな、滝の向こうになんかあるって話」
控えめに尋ねられると、ネイトはサッと起き上がって首肯した。「大丈夫!」無駄に自信満々の様子に呆れ返るアベル。本当かよ、目を瞑ってそう吐くと、頭を傾け、しかし足は滝の方へと向かっていく。顔を上げたエキュゼが諦めたような苦笑で言った。「やっぱり、それしかないよね……?」四肢を持ち上げて後を追う。
「まあ、こんなところでうだうだ時間を潰していてもしょうがないからな。バッジも向こうにある以上、やることは決まってる」
「うん……」
長い間余計なことしてたのは二人が原因なんじゃないかな……。エキュゼはそう思いかけたが、自身も暴行に加担していた一匹だったことを認めた瞬間、不思議とアベルの言う通り、考えても仕方がないように思えてしまった。そちらの方が都合がよかった。
「僕が先に見てこようか?」小走りで寄ってくるネイト。
「……いや……」目を閉じて悩むアベル。「……俺が行く。草タイプなら多少耐性もある」
深く息をついて、滝から十分に距離を取る。先発を意気込んだものの、内心は戦々恐々としていた。未知とは、昂るだけのものではない。今だからこそわかる、対面して初めて感じるものは恐怖だ。探検隊に抱いていた甘い理想の裏側、その一端を、一世一代の挑戦に見出した。
「気を付けて」少女の声を背に、アベルは口角を上げて強がってみせた。覚悟もままならず、プライド一本で走り出す。瞼を食いしばり、両腕を顔の前で交差させ
跳んだ。
「「…………」」
鮮明な黄緑色は、先のネイトのように跳ね返されることなく、泡立つ白流に呑まれて消え、しかしそれきり水音が響くのみだった。
「……音、ざーざー言っててわかんないね」
「えっ……嘘でしょアベル、こんな……えっ、えっ……?」
惨劇の予感が、背筋を凍りつかせる。
エキュゼが泣き出しそうになっても反応は返ってこなかった。突き動かされるようにそう遠くない崖の下を覗く。飛沫が霧散してよく見えない。歯噛みして、こちらの心情なぞ露知らずに鳴り続ける滝へと向き合う。アベルの名を、負けじと叫んだ。ネイトもそれに続いた。
もう一度声を張って、しかし望んだ成果は得られず。「ちょっと探してくる!」ネイトが助走をつけようとした、その時だった。
「おーい!」
「っ! アベル……!」
「うーい! だいじょぶーーー?」
「バッジ、あったぞーーー」
朗報と共に漕ぎ着けた無事の報告にホッと胸を撫で下ろす二匹。探す暇があるならまずは何か一声かけてほしかった、というのが本音だが、最悪の展開は免れたという事実の大きさにとやかく言う気は失せた。
そしてそれは同時に、ネイトの幻視が正しかった事実でもある。調査の進展に、悲壮の抜けた声でエキュゼが尋ねた。
「ねえ! そっちはどうなってるのーーー!」
「幅の広い洞窟だーーー、恐らく奥の方にも続いてるーーー! 多分お前らでも飛び越せる距離だぞー。少し冷たいがー」
「ははは……いまさら水なんて……」
「エキュゼ、みかんのおかわりみたいな顔してる」
「うん……『一巻の終わり』ね……」
げんなりとしつつも流水を見据えて後ろに下がるエキュゼ。昨日は春の水に数時間漬かっていたロコンなのだ、一瞬通り抜けるくらい訳ない。
「……いくよ!」素早く決心して駆け込む。炎タイプの鼻先から尾までが超質量の水壁に包まれる様は見ていてぞっとしたが、間もなくして返ってきた声に事なきを得たと知る。
「ひいぃ……びしょびしょ……」
「これでアイツが最後、だが。……お前も来るのかーーー?」
「えーーー? なんでーーー?」
「いやまあ……なんでもない! やるならさっさとしろ!」
相も変わらず能天気なネイトに、対岸の二匹は一難を越えて正反対の不安げだった。エキュゼ同様に水に弱い種族だから、というのは建前で、やはり一番はあの根っからのボケ体質である。思い出すのは入門前に乗った見張り番の記憶。偶然にも「飛び乗る」というシチュエーションは合致していて、どうしてもあの光景が浮かび上がってしまう。
最もこれに関しては命がけなのだから、と振り払うような思考に、向こうから元気よく掛け声が響いてくる。「ネイト発進! ウィーンガシャン!」……やっぱり駄目かもしれないな、と思った。記憶もないのに無駄に立派な想像力である。
そして、「ぽぅ!」轟音の隙間から短く地を蹴る音がした。
激流をかき分け馬鹿の白骨がご挨拶。
そのまま、足場よりやや下目へ突っ込んだ。
「ぉギエ」
ピン!と伸びた尻尾を最後にフェードアウト。直後、遠くで水の弾ける音がした。顔を見合わせてから、特に焦ることもなく崖下を覗きにいくアベルとエキュゼ。おかしな光景が想像通り過ぎておかしくなかった。
「頭からいったら……そりゃあ落ちるよ」
「アイツ、馬鹿というか、多分防衛本能とか諸々無いんだろうな」
「でもどうしよう、大丈夫かな……? 流石に助けに行った方が……あっ、浮いてきた」
「助けたところでまたやらかすだろどうせ。バッジも回収したし、あとは俺らでやりゃいい」
滝の裏と岩壁の隙間、脱力しきった茶色の背中が水面から生えてきている。確証はないが、なんとなく大丈夫そうな気がした。そういうキャラだ、勝手にボケ倒して、憐れむほどの怪我をして、しかし気が付けば何事もなかったかのように横に並んでいる、ネイトというポケモンはそういうキャラなのだ。
けれども、水は? エキュゼはふと疑問に思った。水弱点を共にする身であるが故に、いや、そもそも現実的に考えて呼吸が出来なくなれば例外などないのでは。ギャグにふやけた頭が一気に冴え渡る。放っておくのは、違う。
「……あの、さ、アベル。草タイプなら、飛び込んでいけない?」
「普通に嫌だが」
「……」
……。
「……、昨日、火を消すために川に飛び込んだあと気絶してたでしょ。あれ、一人で引き上げたんだよ。……私一人で」
「あれは……。……、そもそもお前が燃やしたから……」
「ふぅん……」
都合の悪さを隠すようにアベルは背を向けた。「さっさと行くぞ」足早に洞窟の奥へと進んでゆく。物理的に引き止めることもできたが、それでは『静かな川』での惨事の二の舞になる。
数年来の幼馴染みは伊達ではない。エキュゼは動揺一つせず、たった一言、零すように口を開いた。
「じゃあいいよ、私が行くから」
力関係が一気に翻った。踵を返して走り、アベルは怒りとも悔しさともつかない無茶苦茶に歪ませた顔で少女を一瞥すると、何も言わずに崖下へと落ちていった。濁音と飛沫が上がる。「クソがッ全部お前のせいだぞッ」……次いで道徳心を欠いた打音が水上に響き出した。助け舟というより刺客だ、送り出さない方がマシだったかもしれないと、エキュゼはひっそり反省するのであった。