第15話 静かな川?
【静かな川】
『静かな川は、カピン地方に位置する大滝(標高三百メートル)を源流とし、カピン湾を河口とする普通河川です。
流域は年間を通して冷涼な気候で、主に水棲のポケモンたちが多く暮らしています。陸上では一部の虫ポケモンが立ち寄ることがありますが、彼らのほとんどは水の中で一生を終えます。水や風の環境音のみが響き渡るその周辺の様子から「静かな川」と名付けられました。
そのため、川沿いを散策に訪れる地元の人たちには長らく親しまれた川であり、また大陸でも有数の環境であるため遠方から研究者たちが調査に来ることもあります。
近年ではダンジョン化の兆候を見せており、現在河口部と上流を除いた一部流域の立ち入りが禁止されています。』
『草の大陸』ガイドブックより
春のスタートラインを越え、徐々に蒸し暑くなってくるであろう今の季節。この清涼な響きの地名は、若者の心に一時の安らぎを与えてくれるはずだった。
晴天下。西風は強く。
湿った香りは夏を予感させ。
ひたすらに濁流が、飛沫を上げ、全力で川を下っていた。
「「…………」」
アベルとエキュゼは口を開いたまま固まり、目の前の惨状にしばらく声も出せなかった。
二匹とも昨夜の嵐の存在が頭になかったわけではない。ギルドを出てすぐのところにあった水たまりにだって、しっかり不安を覚えたのだ。けれども、こうして依頼が貼り出されていたのだから、成り行きでもまあなんとかなるだろうと。
「……。ここが、『静かな川』、で、間違いない、みたい」
「ギャグかよ」
しかしどうだろう、そこにあるのは甘い想像どころか、周到な準備を済ませた探検家でさえもやむなく辞退するような現実だった。これを見て新しいダンジョンだの探検だのと誰が言えよう。氾濫だ。災害だ。今本当に必要なのは新米の探検隊ではなんかではなく、歴戦の救助隊員なのは明白だった。
しばしの間黙り込む二匹。やがてアベルが横を見た。エキュゼも少し遅れてアベルを見る。苦笑すら沸かなかった。そして示し合わせたかのように、水が叩きつけられる音を背にしようと、ほぼ同時に振り返った。
「あー! 来てくれてたんですね探検隊さん!」
「「……」」
この場には不似合いなくらいよく手入れされた艶めく茶色の毛並み、肩掛けの黒いポーチには高級感溢れる金の装飾、的のような模様の赤目、対称に整った前歯の口は、無邪気にはにかんでいて。
依頼主のミネズミが、そこに立っていた。
「人違いです」二秒で返すアベル。
「えっ」「あれ?」
「えじゃねえだろ、俺たち旅人だから。な」
「た、旅人!? ……あ、ハイ、わたし、たびびと、デス」エキュゼは旅人になった。
「たびびと〜?」
「旅人」「は、はい」
じろり、赤の中の黒点がアベルたちを覗き込む。外周から赤、黄、赤と層になった目は見ているだけでも催眠術にかけられそうな力があった。ただでさえ嘘をついていることもあり、二匹は視線をその辺へ逸らす。あれ、こんな真似しなくても普通に断ればよかったんじゃ。エキュゼも揃って困惑と疑心の睨みを詐欺師キモリへ向けた。
心が折れるが先か、しかし先に沈黙を破ったのは依頼主の笑い声だった。
「あっはっはー! 冗談が上手いんですねえ。でも、お首に付けたバッジが見え見えですよ〜?」
「なっ……あ! クソッ!」咄嗟にスカーフを隠す。
「あっ……あーあー! そ、そうなんです! この人よく冗談言ったりしてアハハ……ああ……」
エキュゼ必死のフォロー。無理に上げた口角は引き吊っていて、思ってもいない笑いはただ背を震わせていただけだった。人見知りである彼女の、なんと涙ぐましい努力であるか。今にも舌打ちしそうなアベルが何か言おうとしたのを見て、さらに彼女は腹から声を出した。
「あの!」
「はい?」
「え、えっと、その、今日はその、ほら……こんな、川がこんな状態なので」
「はい」
「……。え、今日は、やめにしません……?」
「しません!」
「……」
ニコニコ、そんな効果音がついたような、何一つ疑問のない晴れ顔だった。エキュゼは口を噤んだ。ずぅん、と表情が元の落ち込みに戻った。無茶苦茶に荒れ狂う濁り水の音が『常識』の理解にやすりをかけてくる。
「いや、お前、」アベルの言葉に制止はない。
「これ見て何するつもりだったんだよ。千歩譲ってそこらの茂みにでもダンジョンがあるならわかるが。まさか昨晩の嵐も考えずにノコノコやってきた馬鹿じゃねえだろうな」
(それはお互い様じゃないかなあ……)目を棒みたいに細めながらエキュゼは思った。
「アハハ〜! 流石にそれくらいはわかってますよ〜。でもねえ、今日じゃなきゃダメなんです」
「なぜ」「なんで」
一般ポケモンを睨む探検隊。『今日に限ってはダメ』の間違いだろ、とでもアベルは言いたげだった。それでもまだ、依頼人と受注者の距離で抑えている方だった。
むしろ語末にはこれまでの浮ついた口調にない真剣味すら感じさせられて、もしかすると一刻を争う事情があるのではと。
ミネズミが息を吸い込む。「だって
」
「
今朝の運勢占いで、ボク一位だったんですもん!」
「え?」
一瞬、時が止まったのかと思った。それはきっと気のせいなのだろうけれど、この湿り気のある時期に空気が凍ったのは確かだった。運勢が……何? その幸運を使うためだけにわざわざ身投げしようだなんて、熱心な信者でも笑って願い下げだろう。ネイトだって一度は首を傾げてから、……快く返事する姿が思い浮かんだ。
言葉を失った二匹に代わって、ミネズミは迷いのない笑顔で続ける。
「もう探検に行くなら今日しかないなって、朝イチでこっそりギルドに貼り出してきたんですよー! いやあでも、まさかこんな日に来てくれる探検隊がいるなんて! これも占いの効果ですかね〜」
「うぐっ」アベルが歯ぎしりした。
「あ。占いというのはご存知の通り、朝六時半からラジオでやってる『おはようカピン!』のコーナー、『教えて! ヘザーちゃん』の星座占いのことです。ボク、ドラピオン座なので」
「「……」」
どこまでも自分本位でものを言う小奇麗な齧歯類だった。尋ねてもなければ存じてもない。そして、これ以上儘に付き合うつもりもなかった。「帰るぞ」アベルが手の甲でエキュゼの肩を軽く叩いて促す。立場を守ろうと中立を演じた彼女も異論はなかった。
「あー、ちょっと〜。さっき『千歩譲る』って言ってたじゃないですかあ〜」
「言ってねえよ。一歩も譲ってやるか」
「え〜〜〜? じゃあいいです、ギルドに苦情出しますんで」
「は?」
踏み出した足が、反射的に止まる。
「『おたくの探検隊さんに依頼をドタキャンされました』って。あそこの親方は相当怖い人だと聞きますからね〜、ボクもこんなことはしたくないんですが」
「え……!」
「ならこっちだって不法侵入の件を伝えるが? こっそり貼り出すだなんて、言わなきゃバレなかったもんを、間抜けが」
「そのくらいなら
なんとかできるんで〜。それよりもあのギルド、依頼料すごく取るじゃないですか。達成率が担保なのにこれっていうのは、ちょっと評判とか不味いんじゃないですか〜?」
わざとらしく困った顔で首を傾げるミネズミに不在リーダーの仕草が重なって見えたが、言動はこちらの方が数倍凶悪だった。毒舌担当ですら反撃の刃がまるで通用しない。“鉄壁”を相手にしているような感覚だった。それに「なんとかできる」というのも、自信の根拠はどこから。ハッタリにしてはあまりに揺らぎがない。
厄介なのを相手にしてしまった、この事実を知るには、あまりに遅かった。
「まあまあ、そんな怖い顔しないでくださいよ〜。ちゃんとお礼はあるので!」
ぱん、とポーチに手をやるミネズミ。むぅ、と二匹は顔をしかめた。哀しきかな、金品の存在を仄めかさせれると、どうしても悩ましげに唸ってしまう。何より、この依頼を達成した暁には『新ダンジョンの初踏破者』の肩書きが手に入るのだ。新米チームの箔としては実にお高い。
不安そうにアベルを見上げるエキュゼ。腕組みキモリはちらと一瞥だけ返すと、仕方ないとでも言うようにため息をついた。どの道断れないのだ、ならば懐の希望は多いに越したことはない。エキュゼも察したらしく、諦め半分で呟いた。
「……やるしか、ない、かな……?」
「やるっつったって、具体的に何をするんだ」
「そうですねえ〜……。じゃ、アレ乗って川下りましょ〜!」
あれ、と復唱しながらミネズミが指差した方向を見る。人手の付けられていない河畔林が鬱蒼と伸びているだけだった。「どれだよ」、不機嫌そうに振り返ると、エキュゼがぽかんと口を開いていた。その視線の先を探してもう一度向こうを見やると、地面から生え放題の草どもの根元に、苔生した木が一本横たわっていた。
……いや、まさかあれがアレな訳ないよな。アベルはため息混じりに、ふうと一息ついて、後ろへ向き直る。
「あそこに倒れてるボロボロの木です〜!」
「あああクソそう来る気はしてたよ!!」
「え……というか、川を下るって」
既に青ざめているエキュゼに、狂人は変わらぬニコニコで答えた。「丸太は浮くので!」そういうことを訊いているんじゃない。
「む、無理だよ! あんなボロボロなのに、えっ、しかもよく見たら三人も乗れる大きさじゃないし……」
「何言ってるんですか〜。乗るのはボクですから〜」
「ああそっか……一人なら、……一人?」
本日何度目になるかもわからない沈黙。衰えを知らない濁流の騒ぎ声が、いやに近く感じた。飛沫は青空の色さえ飲み込まんと激しく殺気立っている。
的確に、悪い予感がした。
「…………一応聞くが、お前はアレに乗るわけだな? で、俺たちの仕事はアレを川に下ろして終了、お前は無事濁流ハイキングを楽しむわけだ。当然一人で」
「アハハ〜、何言ってるんですかー。もちろんバランス取ってもらうために付いてきてもらいますよ〜。そうじゃないと呼んだ意味ないですから」
「何言ってんのお前」
「……乗るのは、あなたなんだよね? じゃあ、私たちはどうするの」
「転覆されたら困るんで横っちょに引っ付いといてもらいます! じゃ、行きましょー!」
「待て待て待ておい待て」
反対意見なぞ初めからなかったとばかりに目当ての倒木へと歩き出すミネズミ。
刹那、俊足の“電光石火”が二つの軌跡を残し、アベルとエキュゼは彼の正面に回り込んでいた。
「お前が本気なのはわかった。一度話し合おう。そうすれば分かり合えるはずだ。な?」
「いやホント無理です。お願いします。死んじゃう、死んじゃう……」エキュゼ渾身の土下座。
「ほら見ろ。炎タイプだぞ? お前これ見てもまだやろうって気なのか」
「むー……確かにそう言われるとちょっと危ないかもしれませんね〜」
やった、思わずエキュゼは晴れ顔を上げる。要求が初めて通じた瞬間だった。倫理諸々で考えればちょっと危ないどころの話ではないのだが、それでも大きな進捗である。打って変わって真面目に考え出す姿には感動すらも覚えた。
それじゃあ、と、ミネズミは真ん中の指を上げる。
「仕方ないので泳ぐ係はキモリさんに任せます」
「「えっ」」
「ロコンさんには後ろに乗ってもらいます。あ、でもいなくてもいいや。帰っていいですよ!」
「……」
二匹は顔を見合わせる。少女は困ったように切なく笑う。ちらと目を逸らしてから、少年はしっかりと頷いた。
アベルとエキュゼは幼馴染だった。だから、言葉を交わさずと意志を汲むのは容易なことだった。心で通じ合えるのだ。
「一緒に頑張ろうな、エキュゼ」
「なあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛んでえ゛え゛え゛え゛…………」
悲鳴は水流にかき消された。
「ああああああああああああ!!」 それからそう間を置かずして、絶叫は濁った水とともに再び流れ落ちてきた。
岸辺と木々の風景は走るように目まぐるしく移り変わっていき、一方で泥水は水面でのたうつばかり。流されているのは自分たちではなく風景なのでは、そんな錯覚すらも覚えてしまい、ままならない思考が弱点属性によるパニックに拍車を掛かる。唯一、爪を引っ掛けた丸太のみが、物理精神ともにかろうじてエキュゼを現実へと繋ぎ止めていた。
「わあ〜、速いですね〜!」
その丸太の上に跨ったミネズミに、十数センチ下の心境を考えるほどの倫理は備わっていないようで。アトラクションか、あるいはツアーの延長線上としか思っていないのだろう、後ろめたさゼロの歓声を遠慮なく放っていた。
当然ながらアベルがこんな不服を黙って受け入れられるはずもなく。必死にしがみ付きながらも、首を回してキッと睨みを入れる。
「はあっ、ああっ、く、おい! おま」
しかし抵抗は容赦ない泥水に飲まれ、続く言葉の代わりに吐き出されたのは水気を含んだ咳だった。むせ返っている間にも激流は襲い掛かり、充分でない呼吸が、水に弄ばれる三半規管が、意識を遠のかせる。
「何か言いました〜?」が、畜生の畜生声に、アベルの冷めかけた殺意と怒りは一気に熱を取り戻した。
「テメェい、ガホッ! ……い、いつまで下ればっ、エホッエホッ……クソがッ……!」
「そうですねぇ、まだ五分の一くらいかな〜。ダンジョンまではあと少しだと思うのでがんばってくださ〜い! あとボクの名前はテメエじゃなくてグレイですぅ〜」
「え、お前この状況でまだダンジョンとかほざいてんの」苦しみも忘れて思わず真顔になるアベル。
「諦めない気持ちが肝心です!」
そもそもタダ乗りに挫折もクソもないだろうが! ミネズミ改めグレイへと叫ぼうとしたツッコミは、弱り切った喉が応えきれなかった。「ごぼごぼ……」沈む口から情けなく気泡が溢れるのみ。
雲間の青を仰いで、夢見のように朧げな意識でアベルは思う。よく考えたら川のダンジョンってなんなんだ。水の上を歩ける訳でもないし、もし迷宮となった川を泳ぐだけなのだとしたら、最初からこの選択は誤りだったのでは。でもどうだろう、澄んだ川のほとりでエキュゼと散歩するのは悪くなさそうだ。なんならネイトも連れて行こう。ちょっと日差しが強い朝に、くだらない話でもしながら
ああ、ああ、それにしても、綺麗な青空だなあ……。……。
荒く咽んでいたキモリは急に大人しくなった。幻想に耽って、頬を打つ水塊すら耳に入っていないようだった。ありゃ、とその様子に気付いたグレイが脇を見遣ったが、それ以上は気にせずに前を向いた。
「そっちのロコンさんはどうですかー?」
「あああああああああああああああ」
「まだまだ元気そうですね〜♪」
雇用主という皮を被った独裁者の下で、探検隊はひたすらに奴隷だった。静謐を冠する名のダンジョンに悲鳴と愉悦がこだまする。薄らぐ波音と感覚は天使の迎えが近づいている証拠か、そんな思考ごと、濁流は彼らを無慈悲に流していった。
しかし、それから間も無くして聞こえてきたのは嘘みたいなせせらぎで。はっとして虚ろだった目に光が戻る。
「どうやらダンジョンに着いたみたいですね〜」
呑気な声よりも先に、アベルとエキュゼは辺りを見渡していた。両岸は来た時よりも明らかに高く積み上がっていて、登ろうにも無理がありそうなほど。流れは変わらずあるものの、いつの間にかそれは緩やかなものになっていた。
ただし、自分たちの知るダンジョンのように入り組んだ通路は一切見当たらず、地続きならぬ川続きとでも言おうか、前に見ゆるは代わり映えのない真っ直ぐな川だった。
「ただの川じゃねえか」
「あーたぶん大雨のせいで水没しちゃったのかなあと。まあいいや、このまま下れば奥まで着くでしょう!」
「す、すいぼつ……」
叫び枯れたエキュゼが掠れて呟く。確かに足元には度々壁だったものらしき凹凸が当たっていたので、グレイの推測は大方正しいのだろう。……その正常な思考を、何故川を見たときに使ってくれなかったのだろうかと思った。
暴れ狂うギャラドスのような波打ちから打って変わり、朽木は滑るように川を進んでいた。水かさは上流からの影響を受ける反面、流れはどうしてか元の(見たわけではないが恐らく)それを保っている。おまけに階段や道具らしきものも見当たらないときた。不思議なものだ、落ち着きを取り戻しながら、アベルはそんなことを考えていた。
船頭のグレイは陽気に鼻歌を歌っていた。耳障りだが、触れたところで余計に胃が焼ける未来しか見えないので放っておく。すると、「今の何の曲だかわかりますか〜?」向こうから仕掛けてきた。睨みと舌打ちだけで返すアベル。が、「え〜知らないんですかぁ〜? これは『ウィムシィアンドリリー』の
」やはり聞いてもないことを語り始めるのだった。沸々と煮えたぎる沈めてやりたい欲を抑えて、耳から耳へと流していく。もういっそ、こちらが沈みたかった。
「
ですからね。これくらい知らないと乗り遅れちゃいますよ? じゃあ次、この曲はわかりますか〜」まだやるか! 続くヘッタクソな歌唱に、いよいよ居ても立っても居られなくなった。アベルはスゥと息を吸い込み、しかし怒号はもう片側の幼馴染の不安げな声に食い止められる。
「ね、ねえ、アレ……ぶつかったらまずくない……?」
「……アレってどれだ。ちっとも見えないが」
「ほ、ほら! あの岩の壁みたいなの……!」
エキュゼが指したものの正体を、アベルは十数秒後になって初めて視認する。進行方向にイワパレスのヤドみたいな、悪意を感じるほど綺麗に、不自然に切り出された岩が水上から突き出ていたのだ。
「ダンジョンの壁の一部ですね〜。なんかのミスであそこだけ高くなっちゃったんだと思います〜」
「言ってる場合じゃねえだろ。どうすんだアレ」
「ボクに言われても困ります〜。探検隊さんがなんとかしてください」
「は?」
「ど、どうしよう!? この流れじゃ止まれないし!」
先の濁流に比べて緩やかではあるが、それでも“体当たり”と並ぶくらいの速度は保っていた。倒木の耐久性の低さについては、ささくれ立った先端を見れば語るまでもない。
開き直って鼠野郎の道連れに専念しても良かったが、諦める前に活路は見えた。
「……! 右に隙間がある! エキュゼ、押せるか?」
「わ、わかった! バタ足で?」
「なんでもいい!」
水が弾ける音と同時に、アベルも左側へ水を蹴る。二匹とも(炎タイプのエキュゼは特に)泳ぎなぞろくすっぽしてこなかったもので、これが正しいやり方かどうかはわからないが、それでも木船の向きが変わっていってるのは気のせいではなかった。
しかし、あくまで『向きだけ』。頭を除いた船体は依然として岸壁の直線上で、「これ以上は……!」エキュゼ一匹では力を加えられる方向からしても限度があった。
ならば、とアベルは木にしがみ付きながら船尾に回り、左側の後部から押し出す。
「岸スレスレまで押せッ!」
「うっ、ぐぐぐぐ……!」
「その調子です〜! がんばれがんばれー!」
「「黙れ!!」」
火に注ぐ油は燃料のつもりか。だがそんな余計な応援が「意地でも負けたくない」と反骨心を奮わせたのは事実である。徐々に脇へと移動していく大木。
そして、グレイの跨る流木は、岩礁へ若干の掠めはあれど、止まることなく隙間を通過した。アベルの判断があと四秒ほど遅れるか、押す力が足りなければ転覆していたかもしれないという瀬戸際だった。
が、しかし。
アベルの見つけた活路は狭かった。岩と岸の幅はちょうどギルドのトーテムポールが通るか通れないかといったところ。
つまり、木の横っちょにしがみ付いていた二匹はどうなるかというと。
「「おブッッッ!!」」 岩陰に隠れて見えづらかったものの、難所を抜けたすぐ先には浮島のように浅瀬が出来ていた。どうもダンジョンの終着地点らしい。
その中央には、緑のラインに縁取られた金色の宝箱が鎮座していた。
だがグレイは、見るからに立派なそれには大した反応を抱かず、「ここがゴールです!」と両側で泳ぐ従者へ労いの一言をかけた。はずだった。
「あれ?」
下四十五度、左右にいるはずの探検隊はパッといなくなっていて。頬を一つ掻いてから下ってきた川を振り返る。目を細めると、件の岸壁に黄緑色がはみ出しているのを見つけた。すると丁度、水死体の如く脱力して浮かんだキモリとロコンが、まるで袖幕から登場するかのよう、どんぶらこと流れてきたのであった。
「いやぁ大変でしたねー! お疲れ様ですぅ〜!」
半ば漂着で浅瀬に打ち上がった二匹が意識を取り戻したのはしばらく後のこと。何の苦労もない社交辞令を受けてふらりと起き上がるアベルに、いつもの減らず口を叩けるだけの気力は残っていなかった。全身ずぶ濡れのエキュゼに至っては一回り細くなった身体を震わせるのみ。哀れ、というより、あまりにむごい光景だった。
「あ、あの宝箱は持っていっていいですよ〜。大したものは入ってなかったので」
「……入って、
なかった……?」首を僅かにもたげるアベル。
「はい! 前来た時は確か、金のリボンが入ってました!」
アベルとエキュゼは、互いに八の字の眉をゆっくりと見合わせた。どちらか一方の勘違いではない、依頼用紙にはしっかり『新ダンジョン』と書かれていたはず。
「……はじめて、じゃ、ないの、ここ、くるの」
「いいえ? ボクらイングランダーグループの管轄なんで何度も来てます〜。あ、でも外部のポケモンに公開するのは初めてですねー!」
ナンドモ、ガイブ、ハジメテ。横文字となった単語群が、グレイの声と共に頭を反響して。それらに整理をつけたのは、先頭で大きく伸びた、一番長身の鍵。
『イングランダー』グループ。
その名前は、大陸の企業に関心すら持ったことのない二匹でさえ、
詳細こそぼんやりと観光関係としか把握していなかったものの
彼方此方で目にするほどだった。
全てを理解した。妙に整った身なり、軽犯罪程度なら帳消しにできる自信、そして、明らかに常人のそれより圧倒的に欠如した常識力。にへら笑いのバックに、絶対的とも呼べる権威が見えた気がした。しかし欲していた名誉が崩れ去った今、そんなものはどうでもいい。
アベルたちは。この、財閥の御曹司に。遊び相手として一日レンタルされていたのだ。
……返す言葉が、出ない。新ダンジョンは? 新発見は? 死の瀬戸際で苦しみもがいた意味は? 既に答えは出ているのにも関わらず、無念を噛みしめるように頭の中で問答が反復する。
「う〜ん、最後の方はアレでしたけど。まあまあ頑張ってくれたんじゃないでしょうか! 退屈しのぎにはなりました〜」
ただ、立ちくらみのような閃光が脳裏を駆け回る中でも、アベルの腹の奥から沸々と込み上げてくる衝動は確かなものだった。閉じかけの拳に痛いほどの力が集まってくる。相手が偉かろうが、後が怖いとか、そんなものはどうでもいい。枷は外れ、我慢の限界だった。
「でも足が少し濡れちゃったんで、やっぱり今日じゃなくてもよかったかもしれないですね〜。まあこうして物好きな探検隊さんが来ちゃったからしょうがないですけど」
「……アベル?」
未だ首と顎下から水を垂らしているエキュゼの隣を、黄緑色が迷いのない足取りでスタスタと横切る。恐れも世間も知らぬ御曹司は、まるで自分以外の全てが些末事であるかのようにぺらぺらと口を動かし続けた。その正面に、左足は強く踏み込んで止まる。
「それじゃ、もうやりたいことは済んだので帰りましょう! お礼もそっちで渡すのでギルドまでよろしくおねが
ワ!?」
拳が、グレイの顔面の高さまで持ち上がった。
本当なら、二十秒前には既に行動に移していたはずだった。後悔なぞ考える間もなく、きっと今頃鼻を押さえたミネズミが驚愕の目でアベルを見上げていたのだ。真っ白になった頭が事実を飲み込むまでの猶予は、クールダウンどころか、ただ憎悪を膨れ上がらせただけだった。
理性を欠いた右肘が、無慈悲に、乱暴に引かれて、
瞬間、アベルの身体は発火した。
「ぐあっ」突如起きた自身の異変に短く呻く。首を動かすまでもなく、草タイプの本能が危機を察した。
炎に包まれた身体を細かく震わせながら、熱源へとゆっくり振り向く。「間に合った……!」口周りに火種を塗したロコンが、呼吸を整えながら燃える幼馴染を見ていた。
十年の歩みを共にしてきた彼女が、今更アベルの思考を予測できないはずがなかった。
……が、実のところ直前までは悩んだ。殴りにいくだけの理由はエキュゼだってずぶ濡れの身で体感している。任せてしまった方が正直気は楽だったのだろう。
だから、アベルが腕を振り上げたコンマ三秒で、家族やネイトの存在が過ぎったのは奇跡としか言いようがない。
焼けゆく両の手。蝕む痛み。未来を想っての一大決心に反し、予想だにしなかった方面からの裏切りによる絶望は、それらを軽く上回った。
「やりやがったなサイコ女ああああァァアアア!!」
火だるまは叫んだことのないような声で、叫んだことのない恨みを遺し、自身を散々なぶってきた濁り水へ大の字で飛び込んだ。飛沫と白煙が上がる。しばらくはコポコポと気泡が立っていたが、少しして無言の背中が浮かび上がってきた。
入江の浮島に二匹のポケモンの息遣いだけが残る。同じダンジョン内でありながら水音はどこか遠かった。せせらぎひとつ立てず、ただ穏やかな流れが大海原へと旅立ってゆく。ああ、『静かな川』ってこういうことかあ……そっかあ……。環境音に目を細め、束の間の現実逃避。
……そこに割り入った鼠声は雑音以外の何者でもなく。一時はアベルの狂気に怯んだグレイだったが、静寂が戻ると、取り繕うように饒舌が熱を帯びた。
「……あーもうびっくりしたなー! なんなんですかあの人、急に燃えるし、すごい叫ぶし……。まあいいや、僕には関係ないことなので。じゃ、気を取り直して帰りましょ〜!」
「次はあなたよ」
「はい?」
「次はあなた、って言ったの。もしギルドに着くまでに一言でも余計なことを言ったら、アレ、だから。……もう喋らないで」
怒りの段階を越えた『無』の表情でエキュゼが言った。冷血の目元に対し、口端からは薄い黒煙が漏れ出ている。
グレイは今度こそ閉口した。
ギルドに着くまでは、とは言ったものの、帰還は探検隊バッジのボタン一つで終わるため、結局のところエキュゼの心に平穏が訪れたのはアベルの引き上げ作業中のみだった。その間、おしゃべり御曹司は言いつけ通り声を発することはなかったが、自ら川へ飛び込むロコンに手を貸すこともなかった。融通の利かない部分はやはりどことなくネイトのそれに近しいというか。命令以前にオスとしてのプライドはなかったのだろうか。
ずぶ濡れのエキュゼがずぶ濡れのアベルに低い肩を貸しながら転送スイッチを押す。光に包まれ、ギルドの地下に到着するや否や、グレイの口は早かった。
「は〜〜〜! もう死ぬかと思いましたよー。まったくぅ、黙ってたボクの時間はどう補償してくれるんですか〜! 『時は金なり』って言うの知らないんですか〜? 酷い方ですね〜!」
「そっちなんだ……」
どうやら彼にとっては火刑よりも無益な自分語りの方が価値あるものだったらしい。エキュゼに大きな感情が沸くだけの熱は残っていなかった。黒焦げのアベルに至っては前を向く気力すら無かった。ポタポタと身体から滴る数キロ先から持ち帰った水が、地面に濃く沁みこんでいた。
しかしそんな消沈した反応も自己主義にはまるで関係ない。「いいですか? そもそも時間というのは限られているのに、一般の方々はそれを……」その上沈黙の反動故か、食い気味に長ったらしい話を始めた。鼻から聞くつもりなぞなかったので内容は耳から耳へと流していたが、それでも無害な羽虫のような鬱陶しさはあって。微睡むような思考で、エキュゼは感じたままに言葉を挟む。
「ああ……あの、もう、帰って、いいですよ。依頼、終わったし……」
「え? 帰りませんケド」
「え?」
「だってお礼がまだじゃないですか〜」
「ああ……」アベルが唸るような声で顔を僅かに上げた。
一連の流れからして何か裏があるのでは、口を結んでエキュゼは身構えたが、高そうなポーチを開いて物色し始めた辺りそうでもないようだった。変なところで律儀だなあ、安心と困惑の入り混じったため息をつく。
エキュゼはなんとなしに周囲を見遣った。依頼にしては早めの帰還だったらしく、昼下がりの掲示板前は閑散としていた。『ダークネス』のボーマンダ、バルが吹き飛ばした書類たちは、誰かがやってくれたのか元通りに整頓されていた。……消えた依頼の中にはもっとマシなのもあったのかもしれない。
と、そこまで考えて、ふと思った。そういえばお礼ってなんだっけ? 記憶を遡るまでに時間は要さなかったが、それより先に答えを出してきたのはグレイの方だった。
「こちらがそのお礼になります〜!」
「そうだ、確か化石……うわでかっ!!」
正面に向き直ったエキュゼの視界に飛び込んできたのは、地面を薄ら覆う萌黄色を塗りつぶすような灰褐色の塊。隣で怪訝そうに口を半開きにするアベルを差し置いて思わず一歩退いた。
エキュゼが驚いた理由は、眼前に突如現れた異物というより、その出どころであるポーチの方だった。遠近法などではない、明らかにこの岩石が入るような大きさをしていないのだ。どうやって、とアベルに尋ねたが、彼も困惑しながら首を振るだけだった。「……見てなかった」。
「はい渡しますね〜。どうぞ〜」
「えっ!? ちょ、待っ……いや重っ!」分かれた尾っぽで掌のように受け取る。「……くない?」力んだ表情を解いた。
「そうなんですよ〜! これ、なんかのポケモンの頭蓋骨らしいんですが、どうも鑑定士さんによると頭の中がスッカスカみたいなんですぅ。相当頭が悪かったんでしょうね〜」
こんな常識なしに馬鹿呼ばわりされるのもなあ、笑みの出ない苦笑でそんな感想を覚えつつ、エキュゼは誰かの遺骨を地面に転がしてまじまじとのぞいてみた。まるで職人が切り出したかのような艶やかな半球状。それを囲むよう円環状に並んだ三角形は、多少不揃いとはいえ意図的にそうでもしなければ成り立たないような配置だった。
げんなりとした焦茶の瞳に輝きが戻る。
ホンモノだ。エキュゼは直感した。
「それじゃ、ボクはそろそろ帰ります〜。色々とダメなところはありましたけど、まあそこそこ楽しめたので! もしかしたらまた頼むかもしれません〜」
「え、あ、うん! あ、ありがとうございます!」
「いや何礼言ってんだお前さっき川で受けた仕ウヂッ」
パシュッ。まばたきが終わるかどうかという高速の肉球パンチが、一瞬のうちにアベルを後頭部から地に叩き伏せる。死んだポケモンと生きた幼馴染を天秤にかけて、少女は迷わず前者を取った。
螺旋階段を上り去っていくグレイを満面の営業スマイルで送り届けるエキュゼ。途中腕を震わせながらアベルが立ち上がろうとしていたが、もう一度叩くと動かなくなった。不安要素は確実に排除しつつ、茶色の背中が消えたことを確認すると、生乾きの赤毛は糸が切れたようにその場でへたり込んだ。
「あああしんどかった……!」
鉛のようなため息とともに出た本心は、普段の声調すら忘れるほどに低く重かった。うつ伏せに倒れた仲間には目もくれず、半ば這いながら報酬へと縋り付く。お宝だ! この成果を誰かに報告したいと思った。無難なところだとルーかな。クレーンには没収されそうだし。いやそれよりももっと見せるべきは
一番の、心配のタネ。
予定外の依頼内容に
恐らくエキュゼのみならずアベルも
頭から抜け落ちていたが、多分彼女が生涯で出会ってきたポケモンの中で、『最も一匹にさせたら何が起こるかわかったもんじゃないポケモン』は、今まさに単独でギルドの仕事を任されているのだ。
蕩けかけた笑顔が、乾いた笑いに変わった。
「……。し、しんどい……な……」
エキュゼは黄緑色の片足を咥え、ズリズリと、心境をそのまま表すような音を立てながら階段を下っていった。
事にもよるが、奇遇というのは案外あるもので。それは思考の合致とか、多分論理的に説明がつく部分はいくつかあったりするんじゃないかと思う。
けれどどうだろう。
「あ、おかえり二人とも! お風呂にする? ご飯にする? それともネ・イ・ト?」
「なんでこっちも焦げてるの……?」
ヘルメットは炭を塗したような黒に、身体の前面はカビたパンみたい焦げたカラカラが、手足をくねらせて相変わらずの芸人魂を見せつけてくる。
場所が違えばやってることも全く別物のはずなのに、しかもアベルと同じ火傷という、奇遇にしてはあまりに限定的なお揃いときた。エキュゼは堪らずクラッとした。しかしそれは鼻腔を抜けた悪臭のせいだった。見れば、隣でしきりに鼻をすんすん鳴らしているギガの全身は、ドゴームの体色によく似た半固形を被っていて。こちらもアベルを落とした身だ、何があったかはお互い不問にした方が良いのではと思った。だけど、この惨状を目の当たりにして一切追及がない方が不自然だろう。どちらにせよ時間の問題ならと、そう割り切って、なるべく平静を装い、しかし目線は合わせずに問う。
「えーっと…………どうだった?」
「だいぶよかったと思う!」
ネイトからはアイドル顔負けなグーサインとウインク。きっと駄目だったんだろうなあ、とギガの方を向いてみる。案の定、鼻を啜りながら涙目で首を振ってきた。「そっかあ……」落胆して困り笑いを浮かべるエキュゼ。相方の痛々しい否定を見たら、踏み込むのに躊躇っている場合ではない気がした。
「うん……なんか、その……あったんだ?」
「あー、うん! なんか、爆発した」
「ば、ばくはつ……」
うぇへへ、真っ黒焦げの頭を掻きながら照れるネイト。彼のことだから、やるならぶっ飛んだミスをすると。なんとなく予想はついていたものの、まさか物理的にもぶっ飛んでたとは。
と、波風立たない事後報告に痺れを切らしたのだろう、恐らく被害者であるギガが、遂にウワアァーーーッと泣き叫びながら口早に言った。
「コイツ! ひッッッでぇんだよマジで! 九割方外しまくってるしよォ、なんだよ! なんで、なんっ……どういう思考してりゃあナエトルとベトベトンなんか間違えんだよォォ!! オイ!! オオイ……!! おおおいオイオイオイ」
(ああ、それヘドロだったんだ……)
爆発とヘドロについてはもう少し説明が欲しいところだが、あの錯乱っぷりを見ては深掘りする気にもなれない。「九割」という言葉だけで、本人の自信とは真逆の結果に終わったことを察した。
ひとしきり伝えて多少は感情に収まりがついたのか、男泣きの背中はおいおいと繰り返し咽びながら静かに部屋へと戻っていった。
「まあ、僕の方はオイオイ話すとして」
「ダジャレ言ってる場合じゃないよ」
「エキュゼの方はDoな感じだったの?」
「え! あ、うん、えっとね……」
純粋な子供の目で聞かれて、エキュゼは咄嗟に顔を逸らした。踏ん切りはつけていたはずなのに、いざ尋ねられると口籠ってしまう。「仲間を焼きました」、なんて倫理観のない答えを出したら、もしかすると失望されてしまうんじゃないかという魂胆すらあった。
少し悩んだのち、エキュゼははにかんで言う。
「……それは、オイオイ、ね?」
「ふうん……」
珍しく納得してなさそうなネイト。普段は血の代わりに変なクスリでも流れてるんじゃないかというボケ具合なのに、こういう時に限って妙に勘が冴えていたりするのだ。小狐はもう一度視線を泳がせる。
倒れ伏したアベルの指が僅かに動いたのを、ネイトは見逃さなかった。
真犯人にバレぬよう、左の手首だけが蛇の如くゆっくりと持ち上がる。左から二本の指を畳んで、その先の一点を示した。気付いてくれ……! 俺はコイツにやられたんだ……! 死体を演じながらのメッセージ。奇跡的にも通じたのか、ネイトはアベルが指した方を見た。しばらくそのまま固まっていたが、合点がいったと言わんばかりに手のひらへ握り拳を落とした。
「なるほど! 食中毒かあ」
ネイトが見ていたのはエキュゼを通り過ぎて食堂の方だった。
震えていた手が、がくりと崩れた。