第14話 例の事件
心地いい。身体が軽い。感覚はなくて、どこまでも飛んでいけそうな自由だった。ブレーキは利かないけど、止まる必要はない。真っ白な中、ただひたすらに前へ進んでいく。ような気がした。
はたと、白い空間は弾けた。
眩しいくらいに艶めく草木の景色が後ろに追いやられていく。かつてないスピードと、痛いくらいのコントラストに堪らず目を瞑ろうとして、ネイトはこれが夢であることを思い出す。
避けられない恐怖体験ほど嫌なものはないとこの時ばかりは思った。木の葉が舞った、それを認識した瞬間には木か何かにぶつかったのか視界が激しく揺れる。次々に襲い来る情報量の暴力は、却ってネイトを冷静にさせた。
どうして、焦っているんだろう
。
直進の軌道に迷いはなく、どこかを目指しているのか、あるいは遠ざけているのかもしれない。よく見ると視線は地面からやや離れていて、どうやら本当に飛んでいるようだった。けれどもわかったのはそれだけで、乗っているのか、連れられているのか、淀みなく前を向き続けている今、そんな自身の状態すらわからない。
瞬間、右側に、仄かな光が灯ったように見えた。同時に流れる景色が加速する。新緑と焦げ茶色はストライプの集中線と化し、空色はただの白と果てて、もはや何がなんだか。明らかにぶつかった枝木の数が増えていて、その度に視界に反映される振動が痛々しいと思った。
そして終わりは、唐突に、あっけなく訪れる。
真ん中に見えた米粒のような誰かが、一瞬にして目の前に近づいて。
気が付けば、ネイトは白い光に覆われた拳を伸ばしていて。
超高速の世界で網膜に映った相手は、確かに、自分の似姿で。
衝突、
僕たちは、消失していた。
キー……ィン…………。甲高い悲鳴のような耳鳴りが反響して、頭に残った不快感と眠気が現実へお出迎えする。そうか、あれだけ強くぶつかったんだからこの感覚も納得
でも、あれ。さっきのって夢だったんじゃ。
霞んだ視界の隙間から、うつ伏せで耳を抑える赤と緑が見えた。目をこすって、嘘みたいな晴れ日光に瞼が赤らませる。ううんと首を曲げ、薄く開いた瞳孔の先に紫を認めると、ネイトはピタリと固まった。
……? ……。…………。
「さっさと起きねええええと、遅刻すンぞォオオオオオーーーーー!!」
「うぎゃーやっぱりーーー!!」
モーニングコールは悪夢より強し。
とはいえ、実際にああはならなかったことに内心安堵して、何も知らないエキュゼ、アベルと共に三度目の朝礼へ向かうのだった。
「えー……みんな集まったな? 今日は大事な連絡がある。よく聞いてくれ」
みんな笑顔で明るく社訓を読み上げる時間のはずが、なにやら打って変わって神妙な面持ちのクレーン。その空気を察してか、小談笑や欠伸をしていた弟子たちが一瞬にして静まった。まさしく
鶴の一声。
羽先に持った紙を見ながらクレーンが話す。
「昨晩七時過ぎ頃、『キザキの森』近辺に住む一家が襲撃された。恐らく例の事件関連と思われる」
「ヘイヘーイ! また被害者が出たのかよ!」
「きゃー! おそろしいですわーーー!」
「リッパ、フラ、お黙り!」
一際大きく野次ったヘイガニとキマワリが注意されるも、どよめきは全体に広がっていた。普段から大声のギガも「またかよ……」と控えめに囁くだけで、昨日よく不安そうな顔を見せたアレスは一層落ち込んでいるようだった。
「れいのじけん?」ネイトが首を傾げる。
「それは、多分」
「『
黒北風事件』、だろうな」
うん、とエキュゼも頷いた。
名前や概要を知らずとも、周囲の反応を見ればよからぬ事件であることくらいネイトでもわかる。その先を訊いてもいいものか、僅かに悩んだ様子を見せると、アベルの方から口を開いた。
「十二年前からだったか」
「ううん、十一年前。あの年森で大きな火災があったでしょ? 私ちゃんと覚えてるもん」
「近所だったからな。……で、その頃から現在に至るまで、物好きの変態がずっとポケモンを殺し続けてる」
「十一年も?」
「十一年も」言い切るアベル。
十一年も。
なんだか現実味のない話だなあとネイトは思った。一匹でもポケモンが殺される事件があれば、それこそ昨日見た保安官たちが犯人の逮捕へ乗り出すのが自然だろう。犯人側だって、たかが物好きで続けられるとは考えにくかった。
腑に落ちない、そんな感想をへの字の口に表して向き直ると、ちょうどクレーンが場の落ち着きを見計らって、再び用紙を読み上げようとしているところだった。
「えー被害報告だが……聞くかアレス?」
「うう……い、いや、聞くでゲス。後輩の前で、自分だけ逃げ出すわけにはいかないでゲス」
「そうか。不味くなったら出ろよ? ここで吐かれても困るからな」
ゴクリ、固唾を飲む音。アレスが
恐らくは血生臭い
こういう話を苦手とするのは、なんとなくイメージ通りというか。“単純”な性質も合わさって感受性に敏感なところがあるのかもしれない。
報告書を手に、クレーンは一息吸う。
「えー……被害に遭ったのはニドラン一家。ニドキングとニドクインの夫婦、息子のニドラン♂の三人家族で、ニドキングは現地の保安官だった」
話は続く。
「昨晩の七時過ぎ、一家団欒で夕食の最中に玄関から襲撃されたと見られる。死因は調査中だが、以前の手口と同様に首元に刺突のあと、加えて今回は激しい火傷があったそうだ」
「ぅぅっぶ……!」
ここまで来てアレスは喉を絞られたような声で苦しげに呻き、遂に伏せてしまった。「オイオイ大丈夫かよ」ギガが屈んで顔色を伺うと、「ちょっと外の空気を吸ってくるでゲス……」薄く開いた目で返す。行ってこい、とクレーンは嘴を右にやった。ふらふらと梯子を登るアレスに、何も言わずジングルが付き添っていく。
「ここからが本題なんだけどねえ……まあいいか」
ため息混じりに呟いて咳払い、
「えー、ところが。今回はなんと、犯行の一部始終を目撃したポケモンがいるらしい」
「な……なんだとォ!?」
「なんですってーーー!?」
通夜のような静けさが、嘘のようにひっくり返った。
目撃者がいたというだけでこの驚きよう。捜査自体は行なっているんだ。ただ、犯人に繋がる有力な証拠が見つからないだけで。ネイトは一時でも疑念を向けた警察隊に申し訳なく思った。
「ヘイヘイ! けどよ!」騒然とする中で、リッパの朱色の鋏が持ち上がった。
「結局そいつもやられちまったんだろ? 噂は立てど、目撃情報を取れたなんて聞いたことないぜ!」
「と思うだろ? それが今回に限ってはそうでもないのだ。なんと息子さんが無事に保護されたらしい」
「えっ……!? ということは」エキュゼが思わず目を見開いた。
「うむ。遅かれ早かれ、じきに犯人が特定されるだろう」
「マジか!?」「きゃー! よかったですわー!」「本当か!」「これで安心だねお父さん!」「マジかよヘイヘイ!」「まあワシには関係ないがなァ」
それぞれが安堵の言葉を口にする。突然知ったと同時に終幕に向けて走り出したこの事件を、ネイトは無い実感でどう喜べばいいかわからなかった。が、とりあえず雰囲気に便乗して「うひょひょ〜♪」と変てこりんに踊ってみる。そんな馬鹿に、隣でアベルが苦々しい視線を寄越していた。
ふと、横目に映ったロコンの少女は。
「そっか……
、
……うん」
沸くことも、微笑むこともなく、静かに紡がれた言葉は崩れて形にならず、吐息となってふわりと消える。不思議そうに覗くと、困ったように笑い、俯いてしまった。
……どうして、そんな顔を?
「こら静粛に! まだ捕まったわけじゃないからね、くれぐれもキザキの森周辺には立ち寄らないこと! いいね?」
「「「「「「「「おおーーーーーっ!!」」」」」」」」
朗報を受けた弟子たちの号令は五割増し。ネイトの頭の片隅で灯った火種は、解散の合図とともに仕事へ雪崩れ込むポケモンの波に流されてどこかに飛んでいった。
知るべきでないと、本能が警鐘を鳴らした。
「ここまでやって、最後は随分と呆気ないんだな」
一応仲間である性悪キモリが、腕を組みながら軽薄に鼻で笑った。事件の方が凶悪だと言われれば確かにそうだけど、こちらの方が陰湿でタチが悪いし、なんならこちらの方がリアルさに欠く分ずっと刺さるんじゃないかなあとネイトは思った。
エキュゼが、むっ、と曲げた口をアベルへ向ける。
「……なに? 裏があるって言いたいの?」
「いいや。今までは足跡の一つも残さなかったヤツが、十二年目でしょうもないミスをしたなと」
「ふうん……それは、うん。そう、思う、けど」
「僕なんかずっと怒られてばっかだもんね」
「自覚あってそれはもはや才能だろ」
「わぁい!」
「病気の」
「わぁい!」
「こ、これから治していこうね……ネイト……」
ごく自然な話の脱線からのいらぬ罵倒とあらぬ慰め。動じず照れる元人間は底なしのポジティブボケ役だった。
と、そんな特に意味のあるわけでもない会話を続けていれば、正面に立つ一番弟子も咳払いせざるを得ない。ネイトたちはクレーンの方を見る。そういえばそうか、くらいの反応だった。
「オマエたちねえ、もうちょっと態度というものを……ハア。まあいいか……」
教育係は頭を抱えるも、悪びれる様子の一つもない顔らを見、諦めて脱力する。言えば聞くだろうが、朝から長々説法を垂れるのはする側からしてもいい気分ではないし、そこまで考えてなんだかどうでもよくなったのだ。
が、流石に気を悪くしたのか、やや申し訳なさそうに困り眉のエキュゼが一歩踏み出して声をかける。
「あの、それで……きょ、今日は何をしたらいいの?」
「……あー、ウン。今日はテキトーに依頼をこなしといてくれ」
「テキトー?」「て、テキトーって……」「適当なこと言うな」
アバウトでどこか投げやりな指示は怠慢に対する応酬か。不満たらたらに表情を曇らせる『ストリーム』。しかしクレーンは、心外な、とでも言いたげに生意気な新入りを睨んだ。
しゅう、勢いよく息を吸い込んで。
「いいかい、昨日と一昨日でやり方は教えたからわかるだろう今日は自分で選んでやってこいって意味だよッ! ……ハァッ……! 勘違いも甚だしい……」
「おおー! 息継ぎなし!」
「え、あ、ご、ごめんなさい……」
「じゃあ最初からそう言えよ」
溜め込んだ鬱憤を一気に吐き出して、世話役は「ああ……」と再び頭に手羽をやって後悔した。結局プライド一本で言わんと封じ込めていた意志はあえなく崩れ、しかもその甲斐もなく反応もイマイチである。色々と情けなかった。
ただ、唯一望み通りの言葉を返したエキュゼのみは、反省だけにはとどまらない、不安に暗む憂いた顔をしていて。クレーンは一つ咳払いをしてから、目を合わせずに言った。
「……わからなくなったら、まあ、聞きに来ていいから……」
そしてそのまま、翼でちょいちょいと螺旋梯子を指す。いつぶりになるか、貴重な入門希望に世話役の態度はとことん弱々しかった。
早朝の窓口、地下一階は、業務に取り掛かり始めたギルドのポケモンたちの活気とは真逆に閑散としていた。支度が済んでいないからか、受付のジングルの姿も見当たらない。外部から訪れていては見られなかったであろう景色。舞台の裏側にやってきたみたいで、エキュゼはなんとなく嬉しかった。
最後尾のアベルが地面を踏んで並ぶと、ネイトは両手を腰にやり、リーダーらしく胸を張って言った。
「どうしよう!!」
「じ、自信と言動が合ってないよ!」
「燃費悪いリアクションしやがって」
惜しげのない恥さらしは期待外れもいいところだ。本当に仕様もなくて、怒りや笑いで高ぶるどころか消沈してしまう。
はあ、と小さくため息を吐いたアベルは、梯子の前から四歩離れて、両の掲示板を見比べる。
「要は楽なの選べばいいってことだろ」
「そういうこと!」
「絶対わかってなかったでしょ……」
あたかも想定済みであったかのようにフフンとドヤ顔のネイトに、黄緑の拳が無言で顎にアッパーを食らわす。「オゴおおおっブ」小さな身体が僅かに浮いた。着地と同時にビタン! と仰向けに倒れる。エキュゼももう、自業自得と割り切って咎めようとは思わなくなった。
茶番と一名の犠牲はさておき。昨日の苦戦を考えると
なるべくサボりたいというアベルの思惑通りに進むのは気に食わないが
やはり易しい依頼を選ぶのが正解なのだろう。イマイチ晴れ切らない表情で、エキュゼはお尋ね者とは正反対の、左側の掲示板を近づいて見上げた。
「……やっぱり、こっちのになるのかな。救助とか」
「そうホイホイと見つかるもんじゃないが、簡単で報酬のデカい依頼が理想的だな」
「またそんなこと言って……。……えっ、あっ!? こ、これは!?」
「なんだ急に」
互いに視界の外にいる幼馴染は、驚いた拍子に目を見開いて顔を合わせた。赤土色の前足が右上を指す。じっと眼を細めて長方形の群れを品定めしていると、「えっと、一番右の、上から三つ目の、となり」本人も目で追いながらだったのだろう、エキュゼの辿々しい指示を聞きながら、アベルもすごろくのマスを進めるように数えて、視線をゴールへと誘導していく。
が、
「これ?」先に上がったのは、ネイトの手だった。
「「……」」
いつの間に復活していたのだろうか。この約一分、全くの無意識にいたリーダーは、気が付けば何事もなかったかのように二匹の間に割り込んでいた。敵なら大惨事である。
アベルは何も言わず、背伸びして画鋲を一つ抜いた。はらり、と用紙が宙を舞う。枯葉のように落ちてきたそれをネイトが掴んだ。どれどれ、パッと両手で開くと、アベルとエキュゼも横から覗き込む。
依頼主:???
場所:トゲトゲ山
目的:遺産を受け取ってくれませんか
お礼:八千六百万ポケ
「なるほど! わから」ネイトがボケ切る前に依頼はアベルにすっぽ抜かれ、三本指は職人の如し繰りを見せる。あっという間に出来上がったのはくしゃくしゃに丸まった紙屑だった。
「あっ、あ゛ーーーっ!? ちょっとなにしてんの!!」かつてない大声で叫ぶエキュゼ。
「はあ……? いやマジなわけねえだろこんなの」
珍しく押されて困惑気味のアベルは納得がいかなそうに眉を寄せて、自らが皺まみれにした依頼用紙を再び広げた。「見ろよ」ペシッと指で叩いて示したのは『場所』の欄。首を傾げたエキュゼに続いて、何故か字の読めないネイトもわざとらしく骨頭を横に倒した。
「ダンジョンのとこ、階層が書いてない。本当に大金を渡すつもりならこんな適当な書き方するか。匿名だし誰かのイタズラか、最悪罠かなんかだろ」
「それは……ううー、そっ、か……」
「あとこれだけ受領印みたいなのが付いてない」
成金を夢見たロコンの少女は、割と本気で残念そうに肩を落としていた。そんな彼女を尻目に、掲示板に並んだ依頼の隅にある朱印と、アベルの手元を交互に見て、ネイトが子供のように驚く。「ホントだ!」模様の有無くらいならなんとか判断できるらしい。だがそれは却って彼が文盲であることを強調しているように見えて……。しっかりしてくれよ、アベルはそう思わざるを得なかった。
「……じゃあ、こっちは」
「こっちは右! あっちは左!」
「『探知の玉を届けて』、か」ネイトのボケは完全にスルー。
アベルは手元の燃えるゴミを再び丸めて隅っこに放り投げると、腕を組んでふんと息をつく。
道具関係の依頼にも様々な形式があるようだった。エキュゼが今選んだような、特定の道具を依頼者本人へ直接『届ける』もの、ダンジョン内を歩いて『探す』もの、ある階層に落ちているお宝を取りに依頼主と『探検』するもの。送達ならまだしも、探索は目当ての道具が拾えない可能性だってあるだろう。後者に至っては
宝探しというより
娯楽じゃないか。新米探検隊がわざわざ博打みたいな仕事を手に取る理由はない。
とにかく、まず知るべきは「俺ら、今何持ってんだ?」。
「そういえばバッグ部屋に置きっ放しだったっけ」
「あ、はいはい! 僕取りに行ってく
うばっ」
真っ当に相手をされなかった反動からか、ここぞとばかりにぴょんぴょん跳ねて自己主張するネイト。返事もロクに待たず足は動き出していて
だから気付かなかったのだろう、踊り場から悠然と現れた存在に。振り返ると同時に重量感ある何かにぶつかって跳ね返り、鼻を潰されたような声で尻餅を着いて、そして、影が身を覆うほどの巨体を見上げた。
「いでで……ふへぇっ!?」
天邪鬼なボケ担当も、その『いあつかん』には思わず身体をビクリと震わせた。同じく顔を上げたままのエキュゼとアベルは声すら出ない。
深みのある空色の体躯、胸から腹にかけては鎧の如し灰の甲殻、太くしなやかに伸びた尾、血の色をした巨翼、長い首の先には、射抜くほどの眼力と
竜の牙。
肩書きを顕す分類は、生態系の頂点、絶対強者の証である『ドラゴン』。
(ぼっ……ぼぼボーマンダ!?)
(とてもやばい)
ネイトが衝突したのは、なんとあろうことかボーマンダの前足だった。圧倒的な力を体現したような容姿を見ればそれが如何に不味いことであるか、しかしアベルたちがわざわざ説明せずとも当人は雰囲気でなんとなく察してくれたらしい。そう、アホでもわかるくらいの強圧だったのだ。
「あ、あはは……ええーっとその、」
「…………?」
竜はこうべを垂らして、何か言うわけでもなく、ただネイトをじっと鋭い目で見ていた。睨んでいる、とも違う。けれども静まり返った空間には、確かに不思議な緊張感が張り詰めていた。
冷や汗を塗りたくるような沈黙だったが、先の凶暴な面影には違和感があった気がして。ネイトは逸らし気味だった視線を前に向ける。動かぬ焦点。僅かに開いた口。間隔を忘れた、薄い呼吸? あれ。違う、これは
固まってる?
「おい、何固まってやがんだ」
そんな胸中を読んだような一言が、不意に知らない第三者の声で聞こえてきたのだから、今度こそ心臓が跳ね上がりそうになった。
「……む。ああいや」
「ったくよお、気ィ引き締めなきゃなンねェタイミングで……」
ちらと背後に目をやって、のしのしと梯子から離れるボーマンダ。印象通りの低音ボイスは、しかし思ったよりも綺麗で、まるでピンと張った糸のような淀みなさだった。拍子抜け、とまではいかないが、それでもエキュゼが妙な安心感を覚えたことは事実である。
しかし、そんなボーマンダの仲間と思しきポケモン
クリムガンが、これまた強面な赤顔を下げてずしずしと現れたものだから、一時抜けかけた恐怖心が、またしても少年たちの背を凍らせてしまったのだった。
ところが。
「…………あ?」
爬虫類の眼光が、ネイトたちを捉えて、やはり動かなくなった。
ぽっかり開いたままのギザギザ顎門。いやそっちが凍るんかい、普段の調子ならそんなツッコミが入ったことだろう。黙殺を半強制させられている身としては、この『無』の時間に対する反応にものすごく困った。クリムガンの視線を辿るようにネイトがゆっくり振り向く。赤面とアホ面を見比べて、アベルは一往復だけ首を振った。仮面越しにでもわかる困り眉を浮かべて元へ向き直る。ネイトはもう、目の前の存在が恐ろしいとは思わなかった。
「ええっと」頭蓋を掻きながら声をかけようとして、
「……チィッ! 行くぞ、こんなガキに構ってる場合じゃねえ」
クリムガンは苦々しげに目元を歪ませ、半ば振り切るように階段を向く。まるで視界に腫れ物でも入ったかのようなリアクションだった。刺々とした尻尾と翼が踊り場へ消えていく。
だが、「待て」ボーマンダの殺気めいた黒目が引き下がる竜を射止める。そして、ギロリと、今度は『ストリーム』を捉えた。エキュゼは思わず息を呑む。意外と人付き合いに難があるだけだったり、なんてのは脆い願望だった。この眼力は確実に何人かやってる。いっそ逃げ出してしまおうか、そんな考えもよぎったが、ちょうど格子の前には明らかにガラの悪そうな、あのクリムガンが待機しているわけで。
大口が、ネイトの腕ほどある太く鋭い牙を見せつけながら空気を吸い込む。弟子入りして早々に絶体絶命だった。そういえばクレーンが厳しいとか脱走者がどうとか呟いてたな。アベルは入門初日のことと正面の状況を照らし合わせて、なんとなく合点がいった気がした。
流石のネイトもこの時ばかりは困惑より緊張が上回って、無意識に拳を握りしめていた。喉奥から吐き出されるは地獄の業火か咆哮か。果たして飛び出したのは
「
すまない。大丈夫か? 怪我はないか?」
「ズコーッ!!」
とても常識的で、大人の対応。
大人が、ぶつかってきた少年に心配の声をかける。珍しくもない光景だった。珍しくもなかったが、死線を彷彿とさせる思わせぶりと不審を続けられて、その末に突然正気に戻るような真似をされては、ボケ役も声を上げてすっ転ばざるを得なかった。
「ここらでは見ない顔だったものでな。新米か?」
「え、あ、は、ひゃい!」エキュゼは咄嗟に上擦りで答える。
「いやはや、驚かせてしまった」
フフ、とドラゴンらしく気品を漂わせた微笑みを浮かべるボーマンダ。ギャップにしてはあまりに不自然というか、あるいはこういう変わり者なのだろうか。あの圧は容姿だけのもんじゃないだろ、アベルは文句の一つでも言ってやりたかったが、拾った命を文字通りの“げきりん”に触れて散らすのはゴメンだった。先輩には容赦なかった睨みも、今ではすっかり隅っこに留まっていた。
しかし片割れは依然として粗暴なままだった。おい、と控えめにボーマンダを呼ぶ声。先と同じく鋭い一瞥だけ返して黙らせると、ぎこちなく笑ってネイトの方を向いた。
「そういえば自己紹介がまだだったな。チーム『ダークネス』、私がリーダーのバルだ。このクリムガンはディメロ。一応お前たちの先輩ということになる。わからないことがあったら何でも聞いてくれ」
「僕ネイト! こっちがアベルでー、僕がネイト!」
「二回も自己主張しなくていいよネイト……あ、え、えっと、私は、エキュゼ、です」
エキュゼは相変わらずのたどたどしい口調だったが、それでもツッコミが出来るだけの余裕が生まれたのはボーマンダ改めバルの柔和な態度のおかげか。色々と変な部分こそあれど、悪意は見えず、人当たりの良いポケモンという印象を受けた。「勝手に名前出しやがって」……アベルを除いては。
バルは頭をネイトたちの目線にまで下げて言った。
「重ね重ねになるが、怖い思いをさせてすまなかったな。そういうつもりではなかったんだ」首を持ち上げて「ほら、貴様も詫びろ」視界外の仲間
ディメロに低音で言い放つ。
「……どういうつもりだ?」
「いいから謝れ」
『ストリーム』には知り得ない上下関係があるのか、ぴしゃりとした一言には、あのクリムガンが相手でも有無を言わせない力があった。曲がり角から赤顔だけニュッと出して、案の定腑に落ちないといった表情ではあったものの、バツが悪そうに視線をどこかへやりながら小さく口を開く。
「悪うございました、これでいいだろ? さっさと行くぞ」
そう吐き捨てるように言って引っ込むと、間もなく梯子の軋む音がした。出口へと登っていったらしい。バルに反してディメロはイメージ通りのひねくれ者だった。既視感があるなあ、とも思った。口に出さずとも、ネイトとエキュゼの目は自然と腕組みキモリの方へ引き寄せられる。
「こっち見んな」
ス……と何事もなかったかのように二匹は前へ戻った。
そんな一瞬の同調なぞ知る由もなく。バルは去って行った仲間に対してため息をつく。
「すまん。奴はどうも素直じゃない性分で……まあともかくだ、この辺で失礼する。我々も忙しいのでな」
また会おう、それだけ言い残して紅翼が羽ばたく。風が巻き起こった。「うわあっ……」エキュゼは堪らず顔を逸らす。ネイトとアベルも腕で目元を隠した。砂埃が立って小石がパチパチと跳ねる。毛を逆撫でるように掲示板が用紙をはためかせていた。
やがて一際強く宙を扇ぐと、鼓膜を殴るような重低音を響かせ、丸太よりもずっしりした巨体がふわりと浮き上がり
打ち上げ花火の如し上昇を見せた。
残されたのは、呆然と立ち尽くす新米チームと、風圧によって荒れに荒れた地下一階。
「これだから、『何でも聞け』って言うヤツは信用できない」
「あり? そういう話だったの?」
「違うと思う……」
翻った依頼たちが、賛同するようにパラパラと音を立てていた。
結局のところ嵐のような探検隊、『ダークネス』が齎したものといえば時間の浪費くらいで、現状として何も進展がないことに気付いたアベルがネイトを小突いて、部屋に忘れたバッグを再び取りに行かせたのだった。
無事に肩掛けの紐を持って自室を出るネイト。そこへ飛んできたのは悪い意味で馴染み深い声で。
「オオーーーい新入りーーーーーー!!」
「んんんーーーーー?」対抗して間延び。
「ちょっとこっちこーーーーーい!!」
「ん、んんんんん」
ギルドの目覚まし担当、ギガがどこかから呼んでいるようだった。これだけの声量で音源がわからないのもおかしな話だが、なんせ地下中に反響するのだ。ずっと遠くにいるような気もするし、あらゆる場所から叫んでいるような感じもする。目を凝らして辺りを見渡してみると、案外すぐに見つかった。紫色が、食堂の前で短い手足をバタつかせている。動きもうるさいんだなあ、あのネイトもやや呆れ気味だった。
「どしたの?」
「よォーーーーーし丁度いいところに来てくれた!」
チョウドイイトコロ? ネイトは首を傾げる。そもそも来たのは呼ばれたからであって
。
「今日はお前に、見張り番の仕事をやってもらう!!」
「んーーー」
「ん?」
「ということで」
「ということでじゃねえだろ」
「えーっと……ネイトは行けないってこと?」
場所は変わって掲示板前。お詫びの品です、とでも言わんばかりに両手で探検隊バッグを差し出すカラカラと、それを引っ手繰るようにして受け取る不機嫌キモリ、戦力云々よりも元人間を一匹にする方が心配なロコンの姿があった。
「ダイジョブ! 離れてても心は一緒だから!」
「一緒にすんな! お前一人で死ね!」
「ちょっ、こらアベル! 死ぬなんて文脈出てないでしょ!」
「出てたらいいのかよ」
「よくないけども!」
「僕は賛成!!」
「「なんで」」
無駄に誇らしげな天邪鬼を見るに、今から見張り番の仕事を降りさせるのは無理だろうと二匹は悟る。
「もう……ネイト、ホントに大丈夫?」
「だいじょばないけど自信はないかな!」
「何もないじゃない……」
「そっちは?」予想外の切り返し。
ネイトが尋ねたのはエキュゼではなく、手持ちの道具を漁るアベルの方。しばらくガサゴソとバッグを弄るアベルをエキュゼと見守っていると、やがて彼は顔を上げて、掲示板を眺めた。
そしてアベルは苦笑した。
「どうやらこっちもロクなもんがないらしい。やるなら道具以外だな」
「どうする? 代わる?」
「悪化させるな。いいから行ってこい」
しっしと手の甲で払うアベル。ネイトは何も言わずにエキュゼを向く。伏し目で少し考えたあと、困り眉ながらも笑って頷いてくれた。ネイトも力強く頷いて、小走りで下の階へと降りていった。
「さて」バッグを肩に掛けて、腕を組むアベル。
「察してはいるだろうが、道具系を除くと消去法で一つだけになるな。これが不幸中の幸いかは知らんが」
「うん。左、真ん中ら辺の」
アベルとエキュゼの視界、そのピントの中心にあるのは一枚の依頼用紙。
依頼主はミネズミ。
お礼は『太古の化石』。
タイトルは
『新ダンジョン、『静かな川』を一緒に探検しよう!』。