第0話 逃走中に
その日は不運なことに雪が降っていた。雪が降ること自体はこの日に限った話ではなかったが、追われる身である彼らにとっては視界不良の上足元も悪く、そして何よりも寒さが体温を奪い、既に彼らの足の感覚はほとんど残っていなかった。
「おい、兄貴ィ! もっと速く走れねぇのかよ!」
「無理だって! 出来たらこんな苦労してないよ!」
「無駄に話すと体力を消耗するぞ! それよりもう少しで着く! 頑張るんだ!」
三人の男ーーー正確には二人の人間と一匹のポケモンは一刻を争う状況なのか、いずれも語気は強めである。しかし、三人とも表情にはどことなく疲弊が出初めており、余裕がないことがわかる。
「そこか! オラ逃げんじゃねえ!」
「殺すな! 生きたまま捕らえろ!」
そんな彼らの心情に追い打ちをかけるように追跡者が声を上げた。「生きたまま」という一言が捕まったらただでは済まないと感じさせる。
人間の一人が後方確認のために振り向くと、ゼエゼエと白い息を絶えず漏らしながらヘトヘトで走るもう一人の人間と、かなり距離はあったが彼らを追う二匹のポケモンの姿がはっきりと見えた。
「まだ追ってきやがるか……クソが!」
付け足すように人間が「チッ」と舌打ちすると、苛立ちに呼応するかのように自身の両目から微量の赤い警告色のような眼光が放たれる。表情も相まって、人間でありながらも獣の威嚇のような見た目となった。
「はあっ、だ、駄目だ、よ、ぜえっ、やったって、勝ち目っこないよ、はあっ」
「………」
先ほど「兄貴」と呼ばれていたもう一人の人間に制止されると一気に冷静さを取り戻し、何か言いたそうな顔をしていたが、眼光も強張っていた表情も、フッ、と消えた。
「あれだ! あの穴だ! 皆であそこに飛び込むんだ!」
先頭を走るポケモンの呼びかけを聞き、後ろを向いていた赤目の人間も前を向いた。ポケモンの指差す先にはアメーバのように不定形で平たいが、中にはまるでブラックホールのように底なしの空間が波紋を描きながらうねうねと蠢いていた。
「飛び込むぞ!」
「……ああ!」
「うん!」
奇怪で不気味な物質(?)であるにも関わらず、何の抵抗もなくポケモンの合図に返事が出来たのは、おそらくこの穴の存在を既に知っていたからだろう。
本来の計画ではこの穴へ入った時点で逃亡成功だったのだろう。先ほどまでの緊張が嘘だったかのようなハキハキとした返事をした。
が、しかし、
バアァァァァアン!!
「ぐうっ……!?」
穴に入った直後だった。突然の雷が先ほどまで『兄貴』と呼ばれていた人間に直撃し、変な軌道描いて闇の中へと落ちていったのだ。
「!? 兄貴ッ!!」
彼の弟と思われる赤目の人間はもはや何も考えずに地面の雪を蹴っていた。この瞬間、彼にとって何かを考えることなど無意味に等しかったのだ。
「バ、バカ! やめるんだ!」
ポケモンが彼を止めようとしたが、手遅れだった。言い終わったときにはすでに彼は飛び込んでいて、必死に兄の手を掴もうとしていた。
「兄貴!」
重力も、天も地もどこにあるかもわからず、ただひたすら深きへ落ちていく。そんな闇の中でも彼は『兄貴』を見失うことはなかった。
そしてもがいた。必死にもがいた。この状況で何をするのが正解なのか、そんなことを考える間もなかった。
そうしてようやく、『兄貴』の手を掴んだ。
「おいしっかりしろ! 生きてるか!?」
最初から意識を失っていたことはなんとなくわかってはいたが、それでも彼は肩を抱いて兄に呼びかけ続けた。状況が状況なだけに生死の確認も意味を為さなかった。
「兄貴……」
赤目の人間は兄を強く抱いた。
しかし、「抱く」という優しい行為に反して、なんの拍子もなく再び彼の目は赤く光ったのだ。
「絶対に、消させたりしねえ。兄貴は……」
「俺が守ってやる……!」
狂気にも似た赤目がより一層光を増した瞬間、どこからかやってきた別の真っ白な閃光が二人の人間を貫き、
『何か』が溶け合うようにして、闇の中へと消えていった。