微睡みの中にて
このアローラに来てから、もうじき一か月。この穏やかな時に身をゆだねても、もういいかもしれない。
そう思い始めたのは、いつのことだろう。
私は、うつらうつらと舟を漕ぐオドシシを見つめながら、ゆるりと思考を巡らせた。
一か月前、私とオドシシは、ジョウトから遥か離れた島国、アローラに来た。
正直、島の名前とかは聞けなかった。
温暖な地域だな、という以外、特に感じる物もなかった。
人生に追われるように急いでいた時期だったからこそ、感想は余計に淡泊だった。
ああ、確か近くに船場があったっけ。なんちゃらの民、とやらが拠点にしていた気がする。
なんちゃらの民、といえば、確か旅の少年が聞かせてくれた、海の王子のタマゴの話があったが…残念ながら、私はその話を確かめられていない。
単純に、人と話すのが苦手だったのだ。
この歳になって、お恥ずかしい限りではあるが。
しかしそれでも、幼少期のトラウマというものは簡単には過ぎ去ってくれないらしい。
度々ポケモンセンターの前まで行って、ついでに聞こうか、なんて考えたりもするのだが、聞けてすらいない。
いつかは聞きたい、と常々思っているのだが、果たして聞けるのはいつになる事か。
越してからしばらく経ち、やることがなくなったころ、通りすがりのトレーナーから、一枚のディスクを貰った。
珍しいことにそのトレーナーは女性だったので(勘違いされては困るので明記しておくが、女性トレーナーはきょうび珍しくない。私に話しかけてくる人物としては、女性、というのが珍しかっただけである)、断ろうとすら出来ず、ただ渡されるがままだったのだ。
トレーナーは「私は使わないので、おじさんが持っていてください」と言っていたが。
くるくるとディスクをひっくり返している間に、どうやらこいつは「技マシン」であることがわかった。
トレーナーとしてジョウトを駆け回ったころに、確か数枚ほど集めていたはずだが…と、荷物をひっくり返すと、しっかり技マシン専用ケースがあった。
人間、こういうものは中々捨てられないのかもしれない。
と思ったら、貰ったディスクに書かれている「88番」はケースには嵌らなかった。
というか、いっぱいだった。
主に「はかいこうせん」とかの複数枚が圧迫していた。
若いころの名残が、ここで来るとは。
やむなし、と遠出して買ってきたケースは、私が持っていたものよりずっと大きかった。
調べたところ、貰った「88番」は「ねごと」の技マシンだった。
なんと特殊な。
そして、なんと奇遇な。
昔は「眠る」と「ねごと」を覚えたカビゴンと共にのんびりジョウトを駆け回ったのだが、まさかこんなところで「ねごと」と出会うとは。
…いや、何故あのトレーナーは私に「88番」を渡したのだろう。
永眠しろ、なんていうブラックジョークではあるまい。
寝言を言うな、というわけでもなさそうだ。なんせ、私は何もしゃべってない。
となると、どうしたものか。
そういう解釈が正しいのだろう。
こんな貴重品を渡しておいて。
使い勝手が難しいとはいえ、技マシンはそうそう渡されたりしない。
一回限りの消耗品だから、複数枚持っていても普通は譲らないものだ。
…と思っていたら。
これ、何度でも使えるのかよ。
おじさん、聞いてないぞ。
あの時のカビゴンは今は息子の元で頑張っていることだろう。
となると、この技マシンはどうしたものか。
今の私の手持ちと言えば、海を越える時に一緒に来た、年老いたオドシシしかいない。
確か、「眠る」は覚えていたはずだ。
ならば、とディスクを取り出し、きょろきょろとオドシシを探す、のだが。
見当たらない。
彼女の名を呼びつつうろうろしていると、テレビの前のソファで何かがすやすや寝ている。
…寝ているポケモンには技マシンは使えただろうか。
説明書を読み返すと、しっかり「使える」と明記されていた。
ふむ。
案外、技マシンを使うのは初めてかもしれない。
大量に持っておきながら、ずっと使う機会がなかったから。
年甲斐もなくわくわくしながら、瑠璃に光る円盤を構え…
…騒音被害とか、大丈夫だよな。
カビゴンの「ねごと」、ヘッドセットが無かったらやってけないくらい凄かったんだが。
幸いというかなんというか、老いたオドシシの「ねごと」は優しいものだった。
いや、ねごとの意味はわからないが。
人間もポケモンも、寝ている最中の言葉というのはわかりづらい。
というかポケモンに至っては全くわからない。
旅の少年が言っていた、ポケモンの言葉がわかる人にでも聞けば、意味のある単語に変換してくれるのだろうが…あいにく、話すことを苦手とする私には、立ち聞きする噂以外に情報源などないわけで、そんな特殊な人間とコンタクトをとることすら無理に等しかった。
というか、見つかったとしてもちゃんとお願いできるかが怪しい。
噛み噛みのお願いになりそうだ。
失礼、噛みました。
…閑話休題。
むにゃむにゃと「ねごと」を使うオドシシの姿を見ていると、なんだか安らぐ気持ちになれる。
このまま逝きそうだ。
オドシシの角には不思議な言い伝えが多い。眠たくなるとか、吸い込まれそうな気持になるとか。
吸い込ま、れる?
…そういえば、連載ドラマ「《吸い取る》込みでお願いします」を録画していない。慌ててリモコンを探すと、彼女がもぐもぐとくわえていた。
それは食べ物じゃないから、返しておくれ。
一通りの家事を終えると、オドシシはまだ寝ていた。
技の「眠る」ではなく、本当に寝ていたらしい。
技の「眠る」は、無理やり寝るようなものだから、そう長続きしないのだ。
よほど疲れていたのだろうか。
ソファに腰かけ、オドシシの頭をなでる。
見事な角だ。こいつを狙って軽い冒険があったのだから、人生わかったもんじゃない。
その冒険の中で、私のカビゴンは始終寝ていたのだが。
私の隣に立つポケモンは、決まって寝るような因果があるのだろうか。
なんて因果だ。
となると、むしろ「私の隣で眠るポケモン」が、むしろ正しいのか。
なんて益体もないことを考えていると、またもオドシシが寝言を言っている。
相変わらず何を言っているかはわからないが、幸せそうな声だ。
そういえば、この間カフェで「ポケマメ」なるものをもらったっけ。起きたら、そいつをあげてみよう。