第三十三話 幻の大地
一発で、いや一声で強敵をKOした桃風船は、俺達を奇妙な言わばに連れてきた。
崖の内側の隠された部屋、といったのが、第一印象。
洞窟のようなそこは、左側の壁が崩れ、そこから広大な海が広がっていた。
崩れた崖とは反対側、その壁には、白く削られた紋様が。
「……この模様…………どこかで……」
無意識に呟くその声に、ミオはしっかり答えた。
「《遺跡の欠片》、あそこに書かれてた渦巻きだよ」
言われてみれば確かに、それである。
中心の円から、煙のようなものが四方にたなびいている。
あの奇妙な絵と、寸分たがわぬそれだった。
何故、ここにこれが。
首をかしげていると、親方は、俺達に向かって何か言い出そうと口を開けた。
何かヒントでも!?
驚いて親方様をじっと見つめると、ウィリフは、こう言ったのだった。
「……ボク、パルダが心配だから、ギルドに戻るよ」
……あ、ああ。
そう、ですか。
確かに、気になるよな。
大切な仲間なんだし。
………死なないでくれよ、パルダ。
血に埋もれたオウムや《ドクローズ》は、既にギルドの仲間が運んで行った。
その際、こんなやり取りがあったことは、明記しておこう。
「……ソフィア。ウォルタ。……先には、俺とミオ、ジャスティスの三人だけで向かう。…他の皆を連れて、トレジャータウンに戻ってくれ」
ハクリューとミズゴロウに背を向けながらそんなことを言うと、案の定、二人からは驚きの声があがった。
「はァ!?」
「へ!?」
当然、か。
ラスボスに総力戦で掛からないのは、二人に取っては不思議なのだろう。
俺は、二人に説明した。背を向けたまま。
「…星の停止は、すぐそこまで来ている。トレジャータウンも、その内呑まれる。……でも、もしかしたら……強力な、時空に負担をかける技を放てば……少しは、時間を稼げる。……そうすれば、もしかしたら……そう、もしかしたらだけど、俺達が失敗しても、助かる人が出る。…そうすれば、またディアルガに挑戦する者が現れるかもしれない」
「……そんなの、仮定……いや、仮定にすらなってないわ……」
「…そうだよ。真実を追求するものとして、失礼ながら言わせて貰うけど……それは、仮定なんかじゃない。只の願望じゃないか。成功する可能性なんて……」
……やはり、その反論をされた。
そう、これは願望であり、建前なのだ。
可能性なんて、ほぼ皆無。
でも、説得はしなくては。
「…可能性は、ある。……行ってくれ」
「……確証はあるのかしら?」
「……あるさ。ジャスティスや、俺の存在だよ。もし失敗したら、ジャスティスは存在しなかったはずだ。ジャスティスの先祖は、この時代で硬直してしまうのだから。……でも、彼は居る。ならば、成功するさ」
勿論、この説得は無意味だった。
それが本当ならば、ジャスティスは無駄な事をして、時を越えたことになる。
何も成功せず、ジャスティスは力尽き、俺は倒れる。
そうでなければ、その仮定は無意味なのだ。
どちらにせよ。
この物語には、ハッピーエンドが無いのだ。
成功すれば、未来が変わったためにタイムパラドックス……矛盾が生じ、俺達は消える。
失敗すれば、また物語は振り出しに戻る。
……訂正しよう。
俺達、“未来から来たもの”には、ハッピーエンドが無い。
どのみち、俺達は消えるか、死ぬのだから。
……それを覚悟で、ジャスティスも、ローズも、この作戦を実行したのだろう。
だとしたら、彼らは何と強いことか。
そして。
その頃の俺も、きっと、覚悟を決めて、ここまで来たのだろう。
それを、ここで指摘されたりして、中断させる訳にはいかない。
「……でも………ううん、分かった。………死なないでよ」
「……アビス、君は《希望の深淵》のリーダーだ。それと同時に、様々な希望でもある。……個人的な感傷も混じるけど、君が死んでは困る」
「……済まない。そっちも頑張ってくれ」
結局、俺は、彼らの顔を真っ直ぐ見ることも無く、話を終えた。
見せられなかった。
感情をうっかり見られたくはなかったから。
今の俺の、苦しそうに歪んだ惨めな顔を、見られたくなかったから。
声は平坦に保てたかな…?
彼らの言ったことは覚えてるけど、どんなニュアンスかは覚えてない。いや、聞けていない。冷静を装う方に、必死になっていたから。
余計な心配は……今更、か。
「………アビス。本音は?」
背後から静かに聞かれた俺は、迂闊にも応えてしまった。
その質問者がミオだったのは、幸運だったかもしれない。
「……彼らだけは、安全に返したい。元の世界に……」
「……そっか。……相変わらず、優しいんだね」
「…臆病なだけさ」
ミオからのその言葉に、肩を竦めて応える。
臆病な俺は、誰かが消えるってのを許せない……それ以上に、それを許した自分を許せないだろう。
だから、彼らを安全な場所に送ろうとする。
もしかしたら、あの不思議なブラッキーとエーフィが、彼らを還してくれるかもしれない。いや、それは希望的観測でも、あれだけのベテランがいれば、既に時が止まった場所に〈テレポート〉するだけの時間が稼げるかもしれない。
彼らは、確率の高い方に逃がしたかった。
ただ、それだけ。
ウィリフがバッヂを掲げるのを見ながら、俺は独り呟いた。
「……正しかったんだよな、あいつらをトレジャータウンに帰して…」
自問自答の呟きに、ジャスティスが微かに
身動ぎする。
「……そう、だな。良かったんだろう」
……俺が真相に、バッドエンドに気付いたのを感じとったのか、彼は、それ以上は言わなかった。
……で。
謎は解けていない。
この洞窟で何をするのか、まだ分かっていない。
「……とりあえず、《遺跡の欠片》を置くよ」
ミオが、おずおずと出てきて、紋様の彫られた小石を床に置いた。
その、瞬間だった。
《遺跡の欠片》が、突然、光り出した。
それに呼応するように、壁画も発光する。
「……アタリ、か」
俺の呟きとほぼ同時に、壁画の中心部に光が集まり……そして、レーザービームのように海に伸びていった。
奇妙な金属質の音を響かせながら、光線は反対の壁の穴を通過し、海に消えていった。
「……い、今のは……」
ジャスティスが、呆けたような表情で海を見つめた。
が、何も起きない。
「……ハズレだった、のか?」
「…ここまで来て、思わせ振りな演出で?」
「…おいおい、勘弁してくれ……」
俺が呟くと、ミオが的確なツッコミをし、ジャスティスが俺達の気持ちを代弁してぼやいた。
三人して顔を見合わせ、揃って大袈裟な溜め息をひとつ。
「……あ、あのー…?」
「ったく、こういう不都合は誰が処理するんだよ……」
「ここはゲームじゃない、だからこそ運営やバグのせいには出来ない…今までのような愚痴は言えないな……誰に向けて愚痴を言えばいいのやら」
「……ねえ、アビス?」
「何だよ?」
「…げーむ、って何?」
「………長くなるから省略」
誰かが話しかけてくる幻聴を聞いたが、気にせず談話。
「……あの、ええと……」
「…とにかく、どうする?泳ぐか?」
「……コート、脱がなきゃマズイかな」
「私はシャワーズになってれば良いかな……」
ジャスティスの提案に、顎に手を当て、真剣に考えてみる。
コートが無ければ寒いし、かといって脱がなければ泳ぐのに不便だ。
さて、どうしたものか……
「…あの、僕が居ますから、泳がなくとも……というか、聞いてます?」
その声に振り返ると、割れた壁から入ってきた誰かが見えた。
その半身は、海に浮かんでいる。いや、浮かんでいるんじゃない。泳いでいる。
ライドポケモン、ラプラス。人を乗せることを生業としているポケモンだ。
「……すまん、空耳と思ってた」
「私も……」
「恥ずかしながら、オレも」
俺が頭を下げると、ミオとジャスティスも同じように頭を垂れた。
その様子を見ていたラプラスは、呆れたような感心したような、なんとも言えない表情で俺達を眺めては、渋々といった感じで話し出した。
「……やれやれ。ここまで呑気に漫才繰り広げる救世主は初めてですよ……まあ、余裕があって、いいのかも知れません。……改めまして、僕はラプラス。ご存知、もしくは予想がついているかも知れませんが、〈幻の大地〉へと
誘う者です」
彼、否、彼女かも知れないが、そのラプラスはそう名乗った。
「……君が来たのは、この模様が光ったから……ってこと、だよな?」
「話が早くて助かります」
ジャスティスが質問すると、ラプラスは微笑みで返してきた。
きっとそれが答えなのだろう。正解、と素直に言って欲しかったけど……
「俺達はこの模様を輝かせた、よって通行手形は持っている……これで正解か?」
「……ええ、正解です。貴方方の海を渡る、という発想も正鵠を射ています。…しかし、貴方方の着水は無用です。僕に乗ってください。…大丈夫。僕は《
誘い人》……案内人。特別な存在ですから、皆さんで乗れます」
そのラプラスは、水タイプ特有の流れるような口調でそう述べた。
「……《幻の大地》は、海の向こうにあったんだ……」
感慨に捕らわれたミオの肩をそっと叩き、俺は三人に向かって言った。
「……よし、行こう。《幻の大地》へ!」
「ああ!」
「ええ!」
「勿論だよ、アビス!」
……肝心なところで、息の合わないグループだった。
「……ラプラス。ウィリフとは、どうやって知り合ったんだ?」
ここは、海の上。心地好い潮風が頬を撫で、涼しげな波音が耳を楽しませる。
日は、若干傾いて来た。あの蟹と貝の五点セットのお陰で、時間は随分と減っている。
しかし、乗っている俺が焦っても、実際に移動しているのはラプラス。
俺がいくら焦っても、何の得にも足しにもならない。むしろ、全員の意気を削ぐ可能性がある。
他の三人も、きっと焦っている。そんなときだからこそ、落ち着かねば。
しかしながら、時間というのは嫌でも余るときは余るもので、結局時間を持て余した俺は、ラプラスにそんな質問をしたのだった。
「……あれは、いつだったか……ウィリフさんが、血まみれになったパルダさんをおろおろしながら必死で手当てしようとしていたのが、印象に残っています……」
その言葉から、ラプラスはとうとうと話し始めた。
「……確か、あのお二人は、あの洞窟に来たところをカブトプス達に不意打ちされ……パルダさんが、ウィリフさんを庇った事によって大怪我を負っていました。その手当てをしたのが、僕です。僕は、本当は姿を見せるつもりはありませんでしたが……パルダさんの怪我の酷さに、つい出てきてしまいました……お二人が探検隊であることは、一目で分かりました。そこで、僕はお二人と、約束を交わしたのです…」
「……約束?」
どこか引っ掛かるその単語に首をかしげると、ラプラスは微笑し、しっかりと説明をつけてくれた。
「……ええ。……『貴方達が、野心に満ちた盗賊か……あるいは、正義の心を備えた探検隊かは分かりません。でも……世界の平和のために……その模様、その不思議な紋様だけは探求しないで頂きたいのです』……ってね」
唐突に厳かな口調で口真似しては、ぺろりと舌を出して笑う。
その様子に、俺もつい微笑する。
そこに、ミオが聞く。
「……それで、ウィリフさんは、何て…?」
「……ウィリフさんは、快く約束してくれました。パルダさんを助けたお礼もあるし、この件からは手を引くよ……と」
ラプラスは、懐かしげに話した。その目が、すぅっと細められる。
きっと、その時の事を思い出しているのだろう。
質問したイーブイは、そっか、と頷いたものの、まだ釈然としないようで、
「…でも、何で探求を禁じたの?」
と、質問を重ねた。
それに対しても、ラプラスの答えは丁寧なままだった。
「ググりましょう」
「「はァ!?」」
すっとんきょうな声をあげる俺達に、ラプラスはクスクス笑って、しっかり付け足した。
「冗談ですってば」
そしてなおも、笑う。
その可愛らしい笑いに、つい俺たちも笑う。
ジュプトルは、出港時から既に、ラプラスの背で仰向けに寝ている。が、彼を起こさないようにという配慮も忘れて、俺達は笑った。
三人分の笑い声が、静かな海に拡散する。
しばらく笑ってから、ラプラスは、今度は真面目に答えた。
「……《幻の大地》には、ディアルガのいる《時限の塔》があります。ディアルガは、時間を司るこの塔に、色々なものが訪れるのを怖れました……」
成る程。
下手に色々な者が《時限の塔》に行けば、その内、良からぬ事を企む者が何かしでかすかもしれない。そうでなくても、何者かの介入で時間が狂えば……考えただけでも恐ろしい。
ラプラスは、海のような静かな口調で、続けた。
「だから、ディアルガは……《時限の塔》を守るために、《幻の大地》を時の狭間へと隠したのです」
「……時の狭間、というのは?」
神妙な台詞が途切れた合間に、俺は疑問をぶつけてみた。
その質問に、ラプラスは苦笑し、
「う、んと………説明が難しいのですが……」
と、歯切れの悪い返しをした。
強いて言うなら、と、ラプラスは続ける。
「……時と時の、ほんの隙間の部分、とでも申しましょうか…」
確かに言いづらそうな場所だ。
そこで、寝ているはずのジャスティスが、低く呟いた。
「……成る程。だから伝承にも乗っていなかったし、調べても分からなかったのか……」
目を瞑っていたはずなのだが、いつの間にやら目を開き、空を見つめている。
視線の先には、遥か高みを駆ける数羽のキャモメが。
「…ええと、起こしちゃった……?」
「いや、大丈夫だ。元々この状況だ、熟睡なんて出来やしない」
ミオのおどおどした質問に、寝たまま答えては、親愛なるジュプトルは続けた。
「……時の狭間なんて……そんなところには、誰も行けないからな」
そう。
あのキャモメなら飛べるが、俺達は行けない、大空のように。
と、ジャスティスは言った。
そして、唐突に俺を見ては、こうも言った。
「…そして、お前なら行ける…深淵、即ち精神世界のようにな」
「おいちょっと待て、何だよその精神世界って、新手のファンタジーの予告か?」
俺がそう問い詰めると、ジャスティスは、「やってしまった」という顔で、
「…お前には関係無かったな」
等と言う始末。
しかしながら、まあ俺は記憶を失っている訳だし、聞けることは聞きたいが……残念ながら、ジャスティスが更に口を開くような事は、結局無かった。
「……いえ、誰も、ではありません」
そこに、ラプラスが口を挟んだ。
これで、俺がさらに追求することは出来なくなった。
もどかしさに唇を噛むと、ラプラスは、軽くジャスティスと俺にウィンクした。
……空気を読んで中断させられた。
それを察し、俺は、どんな表情をすればいいか、分からなくなった。
ラプラスは、そんな俺を見ては微笑み、続けた。
「ディアルガは、《幻の大地》に入る資格を、ひとつだけ設けました。それが……不思議な模様の描かれた、特別な欠片です」
ってことは。
《遺跡の欠片》は、正確には、《幻の大地への鍵》だったのか。
かなり前、ミオに言った言葉を思い出した。
この欠片が、只の建物の欠片だったりしたらどうするのか、と。
……俺の言葉は、大外れだったわけだ。
そして、予測の方は大当たりだった。
「……そして、今回の事件……ウィリフは、テルクから聞いた話や、そこから導かれた俺の仮説に、閃いたんだろうな……あの洞窟こそが、《幻の大地》への扉だと。そして、君に会いに向かった……この世界が、危機を迎えていることを……そして、一刻も早く、《時限の塔》に《時の歯車》を納めなければならないことを、伝えるために……」
「……はい。そして、彼は質問しました。《幻の大地》へ行く方法を、教えてほしい……と。ですから、僕はこう答えました。『《幻の大地》に行くものは、不思議な模様の石が選ぶでしょう』と。…そう、貴方達が《遺跡の欠片》と呼ぶものです」
そうか。
あの時、サメハダ岩で立てた仮説は、全て合っていたようだ。
全問正解ぱんぱかぱーん。
しかし、あの時ミオが選ばれた理由だけ、判明していなかった……いや、待て。
「……ディアルガは、悪しき心の持ち主には、《時限の塔》に来られたくなかった……ならば、肝心なのは心、か。ミオは、今の世界には珍しいほど純粋無垢……選ばれる訳か…」
俺の呟きを、小さく頷く事で肯定するラプラス。
その俺を、ジャスが、苦笑しながら見ていた。
「……お前も選ばれた理由もまた、心……か…」
しかし、残念ながら、俺はそれを聞けなかった。
丁度、少々高めの波が、音を立てて足元を流れていったからである。
もし聞けていたとして、果たして俺の役に立ったかは、不明だが。
「……なあ、ラプラス……」
昼下がりの太陽の下、俺は再び、ラプラスに話し掛けた。
「はい、何でしょうか?」
快く答えたラプラスに、俺は、もうひとつだけ質問した。
「………君に、名前は無いのか?」
それを聞いたラプラスは、複雑そうな顔をして答えた。
少々寂しそうに。悲しげに。
「……ありません。僕は、生まれた時から、ここで橋の役をしています。それ以外に、やることはありませんでした。……ずっと、退屈だった。だから、あの時パルダさんとウィリフさんに話し掛けたのも、退屈をまぎらわせる為だったのかもしれません……きっと、橋の役を立ち回るに必要ないものは、カットされたのでしょう……名前すらも……」
その言葉で、気付いた。
このポケモンも、苦しんでいるんだ。
聞かなければ良かった?ラプラスの言葉は、とても重かった。そして、寂しかった。
でも。
かつての俺のように、自覚してしまえば、それは永遠に心に痕を残す。
誰かが触れて、気付いてくれない限り。
そして、きっと、このラプラスは、俺達と会うのが、最後の出会いになるだろう。
だから。
俺も、手を伸ばそう。
「…単なる勘から、間違ってたら悪いが……君は、メス……なのかな」
「……はい、そうです。が……それすら、今の僕には必要ない部類です。恋も何も……」
「ラス・ロック」
俺は、彼女の言葉を遮った。
ラプラスは、俺の言葉に、まばたきを繰り返した。
俺は、繰り返した。
「ラス・ロック。それが、君の名だ。そして君は、《希望の深淵》のメンバーだ。だから、普通に恋をし、普通に生きる“必要がある”」
俺は、はっきりと言った。
彼女の名前と、役職を。
彼女が求めた普通を、彼女が得る必要性を。
「……えと、あの、その……」
申し訳無さそうにおろおろとするラプラスを見て、俺は苦笑した。
微苦笑しながら、こうも続けた。
「…まあ、メンバー云々のとこは、入ってから抜ければ良いから……押し付けっぽくて、ごめ…」
途中まで言った途端、彼女は、首を千切れんばかりに横に振った。
その軌跡に何かが飛び散り、光を反射してキラキラと輝く。
……もしかして、涙か?
そう思う間も無く、彼女は言った。
「ごめんだなんて、そんなっ……僕は、望んでも叶わぬものを、一つならずもっと沢山、貴方から貰ったのにっ……押し付けなんて思いません、僕も《希望の深淵》に入りたいでずっ……」
最後の方が、微かに濁った声になった。
俺は、彼女の首筋に寄り掛かった。彼女の顔を今見るのは、失礼だと思ったから。卑怯だと感じたから。
嗚咽を漏らしながらも、彼女は、こう言ったのだった。
「僕、ラズ・ロッグは、《希望の深淵》への加入を申請じまずっ…」
泣き声でぐちゃぐちゃな台詞だったけど。
彼女、ラスが、《希望の深淵》へと入った瞬間だった。
「……皆さん、もうじき着きますよ…」
その声が聞こえてきたのは、出港から一時間弱ほど、ラスのメンバー加入から十分ほど経った時だった。
俺とラスの会話は、ぐっすり寝ていたジャスとミオには聞かれなかったらしい。まあ、好都合か。ラスが泣いてるのを、五分も宥めてたからな……
子供のように泣きじゃくっていた彼女は、既に前方を見つめている。
その前方の景色に、俺は違和感を覚えた。
「……何だ…?」
「…ふぁぁぁ、寝ちゃってたのか」
「〜っ、随分と疲れがとれたな……」
ラスの声に起こされたのか、ミオが大きな欠伸を、ジャスが伸びをしながら起き上がる。
そして、俺の様子に気付き、同じように前方を見た。
「……何だよ、あれ……波が、捻れてる…」
ジャスティスの言うように、前方で波が奇妙に盛り上がっている。
いや、やっぱり言い表せるのは、捻れる位だろう。
盛り上がる、というような歪み方ではない。
「あれは、時の狭間との境目……あそこを通って、《幻の大地》へと行きます」
その説明で、合点がいった。
本来の時とその狭間では、誤差が出来るのだろう。その結果が、奇妙に曲がった波なのだろう。
「…さあ、準備はいいですか?行きますよっ!」
ラプラスの声に身構える。と、唐突に。
視界が微かに高くなった。
そして、だんだん上昇していく。
慌ててラスの腹部を見て……驚いた。
「「ラプラスが………飛んでるッ!?」」
そう。彼女の腹部は、どこにも沈んでいなかった。
浮いていた。波間ではなく、空間を泳ぐように。
気付けば、ラスの海を進む時の、波をかき分ける音すら、聞こえてこない。
「……ふふ、違いますよ。飛んでいるのではありません。時空の海を渡っている、ただそれだけです」
俺達の子供のような歓声に、ラスは顔を綻ばせ、おかしそうに笑った。
やがて、かなりの高度に達したとき、前方に、巨大な大陸が見えた。
大陸は宙に浮いているようであり、大地に絡み付いている黒雲は、怪しげな紫の電弧を走らせている。
空中の大地には幾つかの山脈があり、その向こうに、これまた宙に浮いている、崩れかけた藍色の塔……ピサの斜塔ではなく、おそらく《時限の塔》が見えた。
向かい風が強くなる。それに負けじと、ついつい声も大きくなる。
「ラプラスっ!あれが《幻の大地》だな!!」
ジャスティスの大声に、ラスもかなりの大声で答えた。
……ピカチュウの長耳には痛いから、もう少しだけ音量を下げて会話してもらいたかった。
「ええッ!あれが《幻の大地》です!さあ、突入しますよっ!!」
一気に加速するラスに、俺は大声をあげて励ました。
じ、自分の声で鼓膜がっ……
「ラス、いっけぇぇぇ!」
いや、励ましじゃない。
間も無く到着する大地までずっと、世話になってきた礼と……歓びの叫び、ただそれだけだった。
やがて、ちょっと張り出した崖に、ラスは自身の身をつけた。
到着。俺は、珍しく重めの足取りで、そろそろと《幻の大地》に足をつけた。
宙に浮いているという先入観からか、足元がふわふわとしている気がする。いや、それとも揺れている?落ちている?
しかし、残りの二人はこんなの慣れっこのようで、かなり軽い足取りで着地した。
広がる景色は、至って普通の森。空は、いつの間にか日が随分と傾いている。
そして、その中空には……途中からも見えた、崩れかけた塔があった。
既に土台とおぼしき大地は崩れかけ、今でも岩の塊を落とし続けている。
真下にだけは迷い込まないでおこう、と決心しながら塔の上部を見ると、塔の天辺は赤い渦巻きに覆われて見えなかった。
随分と禍々しい。不吉な、血のような色の雲。
もし俺が飛べたとしても、羽で直行だけは避けたくなった。あの雲に直接入るのは、気が引けた。
「……あの塔が、《時限の塔》か……」
感慨深くジャスが呟くと、ラスもそれに同意した。
それを見て、ジャスティスの拳にぐぐっと力が入った。
「……あそこに、《時の歯車》を納めれば……」
因みに、ここまでの道中に、俺達の回収した歯車はコンパクト化されていた。
パズルのように組み合わせた結果、どういう仕組みか大きめの五つの歯車が生まれたのだ。
全くもって、最後の最後まで謎な世界だった。
謎と言えば。
俺が気付いたことを言おうとしたその時、俺が考えていたことと寸分違わぬことを、ミオが言い出した。
「……でも……あれ、よくみると宙に浮いてない…?」
そうです。良く見なくても浮いてます。
どうやって入るんだ。そこまで続く階段はおろか、紐の一本も吊るされているようには見えない。
ここから見えないほど細く、そして強い紐があるならば話は別だが。
「ああ、それは大丈夫です。この先に《虹の石船》があります。それに乗るんです」
案外簡単な答えだった。
しかし、その……
「虹の……」
「イシブネ…?」
ミオとジャスティスが首をかしげる。正直、俺もさっぱりだった。
このラプラスには、読心術など使えそうにないのだから。
常にゆったりと構え、不思議な笑みを浮かべる彼女は、感情が読み取りづらかった。
「ええ。この森を抜けたところに、《古代の遺跡》と呼ばれる古い遺跡があります。そこに、古代の船……《虹の石船》が眠っているのです。それに乗れば、《時限の塔》まで行くことが出来るでしょう」
最後まで丁寧な説明に、ミオは頭を下げた。ジャスティスも同じように頭を下げたので、俺も慌てて同じようにした。
「ありがとう、ラス……このお礼は、基地に戻ってからしっかりするよ」
ミオの言葉に、俺ははて、と首をかしげた。
ラスと俺の友情物語的な何かは、寝ていたミオとジャスには見られていなかったはずだ。
しばし考えてからやっと、俺が到着間際に叫んだ台詞を思い出した。
あの時、ラスの名前を呼んだから、ミオも彼女をラスと呼んでいるのだろう。
呼ばれた側は、はにかんだような笑みを浮かべると、こう返したのだった。
「…いえ、僕は様々なものを貴方方からいただきました……それだけで十分です。強いて願うなら…僕が《希望の深淵》に入ることを、許して頂きたいのです」
最後まで真面目な奴だった。
それを聞いたミオは、にこりと笑うと、ちゃんと答えた。
「許すもなにも、もう仲間じゃない。アビスが認めてくれたんでしょう?なら、私は大賛成だよ」
どうやらこのイーブイは、察しがかなり良いらしい。
今更になって俺は、身近な人物の恐ろしさに気付いたのだった。
「……僕が案内出来るのは、ここまでです……あとは、《時限の塔》を目指して頑張ってください」
ラスは名残惜しそうに言った。歩き出しながら俺たちは、新たに加わった仲間に手を振って答えた。
「ああ、きっと必ず、《時限の塔》に行って、この事件を解決してやる!」
「もう少しだよ、アビス。頑張ろ!」
「嗚呼、分かってるさ」
羽織りっぱなしの黒いコートを風になびかせながら、俺は答えた。
さあ、最終局面だ。
世界を救ってやろうじゃないか。
そのための、一歩。
俺たちは、《幻の大地》へと踏み込んだ。