第二話 旅立ち
「ライト、紅茶もう一杯飲む?」
「いや、いいよ母さん」
文明の足音が届かない森の奥深く。
二階建ての丸太小屋の中で一匹のピカチュウが紅茶をカップソーサーに置く音が響いた。
椅子の下に置いてあるリュックサックを手に取ると、ピカチュウの少年――ライトは鞄を背負った。
「今日は旅立ちの日だものねぇ・・・本当に早いものだわ」
「捨て子だった俺を母さん達が拾ってくれてからもう7年だもんな・・」
今から7年前、森の中で捨てられていた俺を母さん達は我が子のように育ててくれたんだ。
時々、俺が“本当の”子供じゃ無いってことを忘れてしまうぐらいに、母さんと父さんは優しい。
俺が何で湖の近くに捨てられていたのか、横腹の古傷は一体何なのか・・俺は思い出せないでいる。7年間も、ずっと。
ライトはそっと横腹に手を触れる。何かに焼切られたような火傷の後だ。
いつ、どこでこの傷を受けたのか、ライトに分からない。思い出そうとすれば、頭が拒絶してしまう。
父さん達が俺を拾ってくれた時には既に傷はあったって話してたけどな・・。
自分が何者なのか、自分の身に何があったのか、自分は何処から来たのか・・・何も分からないのだ。
記憶が無い不安感は拭えない。例え、自分を抱きしめてくれる家族が居ても。
だからこそライトは旅に出るのだ。自分の記憶を取り戻す為に・・・強くなる為に。
「でも7年もたって記憶が戻らないなんてね」
シンティラは少し顔を伏せる。彼女自身思う所があるのだろう。
ライトはそっとシンティラの両手の上に掌を被せた。
「俺、過去を知りたいんだ。母さん達に拾われる前、俺がどんな生活を送っていたのか・・。この旅で何か手がかりが見つかる気がする・・でも、“過去”がどうであれ、俺は母さんの息子だから・・!」
「その意気だ、ライト」
「父さん」
奥から姿を現したのは父、トレノ。勿論実父ではないものの、彼にとっては父親同然の存在だ。
ポケモンバトルの技術力はライトの遥か上を行っており、現在バトルリーグ公認の『ライトニングジム』、ジムリーダーを務めている程の腕なのだ。
右頬に深い古傷が走っており、彼の強靭さと過去の不明確さを暗示している。
「この森を出てお前はいろんな事を経験するだろう。――全ては“学び”だ。技も精神も肉体も、強くなって帰ってこい、ライト!」
「・・行ってきます」
短く、力強くライトは答え家のドアを潜り森へと駆け出して行った。
「行っちゃったわね」
ライトの後ろ姿を見つめながらシンティラはホッと一息吐く。
「ああ、アイツが家に来てからはや7年か」
トレノは椅子に座って新聞を広げたまま答えた。
今顔を上げればライトの去ったこの家の寂しさに思わず涙してしまいそうになる。だから彼は読んでも無い新聞をジッと凝視している。
目頭が湿ってくるのはどうにも止められないようだ。
「・・トレノ」
愛するライチュウの横に座るとシンティラはそっと彼の傍に擦り寄った。
「本当に“未来”は変えられるの?」
「ああ、変えてみせるさ」
不安げに寄り添うシンティラの肩に手を回し、そのまま抱擁する。
「私心配よ、トレノ。だってあの子はまだ17歳。“予言”の通りなら・・あの子は・・」
「心配する事はないさ。アイツは強い。なんたって俺達の“息子”だからな」
「そうね・・」
ライト・・。お前にはこれから多くの試練が待っているだろう。
だけどな、試練が無い人生なんて無いんだ。
ポケモンにも人間にも成長する為の関門が天から与えられる。
物理的な試練もあれば精神的な試練もある。
野を越え山を越え強さを求める冒険者が潜り抜ける試練も、自身の人生の岐路に立たされ五里霧中の中を道も見えずにそれでも進んでいく旅人の試練も、形は違えど同じ“試練”だ。
俺達が生きている内に培える“世界”なんてちっぽけなもんだ。
だからこそ俺達は学ばなければいけない。
その為に生きているんだからな・・。
「ライト・・・未来を変えれるだけの力を付けろ・・“運命”に負けるなよ・・!」
トレノが小さく呟いた一言。
この言葉をライトが聞いたとしても今はまだ理解できないだろう。
約束の日はまだまだ先なのだから――
****
さらば俺の育った森。俺の家。俺の家族。
イカズチ・ライト17歳。ついに旅立ちの時を迎えるんだ・・!
「やっとこの時が来た・・」
父さん達には悪いけど、俺も一人前の男になる為に旅に出たくてうずうずしていたんだ。
だってこの森じゃ味わえないいろんな事が待っているんだ!ジッとしてなんかいられるかよ!
それに・・。
ライトは草原を歩きながら、そっと後ろを振り向いた。
見慣れた景色、見慣れた森、見慣れた家族。
ここで培ってきた記憶、それは俺の宝だ。
そして、俺が失った記憶も・・紛れも無く俺の一部なんだ。
だから、俺は記憶を取り戻したい。ここから離れて別の場所に行き、ジムを巡り、強くなれば何か思い出すかもしれない。
俺はバッグから地図を取り出し地面に広げる。
ポケモンのポケモンによるポケモンの為のバトル大会。
『バトルリーグ』。
数年前に立ちあがったポケモンバトルの一切を取り仕切る連合の事だ。
これまでは人間の“トレーナー”達が各地で大々的なポケモンバトルトーナメントを開催していた。
しかし、ポケモン“だけ”で運営する大会は存在しなかったのだ。
そこで俺の父さん達が「ポケモンバトル運営の多様化と人間依存の脱却」を目指して作られたポケモンオンリーの合同連合・・・それが『バトルリーグ』と言うわけだな。
「父さんも連合を作った主要メンバーなのに四天王への参加要請を拒否したんだよな・・・」
未だに何故父トレノが四天王への参入を断ったのかは謎だが・・。
「さってと、どこに行くかな」
父さんの『ライトニングジム』は後回しだ。
元々このジムは『バトルリーグ』への挑戦権取得の3大難関として名だたる関門なんだしな。
俺は父さんのバトルをずっと見てきた。今の俺じゃ到底敵わない事ぐらい分かる。
ここに戻ってくる時・・・俺は強くなっている。今よりもずっと。
そしてその時“記憶”を携えて戻ってくることが出来れば・・最高だ。
バトル旅巡りの入門者用のジムに行こう。
こっからだと、そうだな。草タイプポケモンの『ブロッサムジム』が近いな。
ここは確か父さんの親友のロズレイドがジムリーダーをしていたはずだ。母さんが何度か招いていたっけ。
この山を下りて街を挟んだ向こうだな。
・・いや、駄目だ。
俺は大事な事を忘れていたらしい。
詰まる所『ブロッサムジム』は3大難関の・・鬼門の一つじゃないか!
だっけど俺ってば随分不便な所に住んでるなぁ。
ライトは地図から目を話し、眉根を揉んだ。
自分の家でもある『ライトニングジム』は難易度が高すぎで挑戦出来ず、一番の近場はやはり鬼門で挑めず・・そもそもこれらのジムの挑戦レベルは明確に区分されているのだ。
8個中5個のジムは何処から挑戦してもそれはチャレンジャーの自由として保障されているが、残りの3つのジム・・『ライトニングジム』、『ブロッサムジム』、『フリーズジム』はジムバッジを5つ集めていないとそもそも挑む事すら出来ないシステムになっている。
つまりライトは近場のジム二つに挑戦する事は出来ず、ここから山2つを越えた『フレイムジム』に行かなければいけないのだ。
「『フレイムジム』・・炎タイプ専門のジムか。ここならバッジは必要ないな」
ライトニング、ブロッサムの2つに挑戦権が無い以上一番手近なのはここしかない。
地図を畳み鞄に押し込むと俺は立ち上がり思いっきり伸びをした。
よし、行くか!
ライトが足踏み出そうとしたその瞬間。
「待ってよ、ライト〜!」
後ろを振り向くとショルダーを横掛けした一匹のゼニガメが此方に走り寄ってくる。
「おう、アクア。どうしたんだよ」
「どうしたんだよ、じゃぁないよ・・」
立ち止まり息を整える。
ライトは何事かと顔をしかめて腕組みをしている。彼自身が原因だとは気が付いていないようだ。
「もう!勝手に度に出ちゃうんだから。僕と一緒に出掛けるって約束だったじゃないか!」
「そうだったか・・?」
気まずそうにライトは頭をボリボリと掻く。彼が物事を誤魔化す時によくやる癖だ。どうやら彼との約束を失念していたらしい
「大体ライトも僕も旅は初めてなんだよ!一匹じゃ危ないじゃないか。大体最近はポケモン達の間でも問題が浮上しているって時に・・」
「ん?問題なんてあったか?」
朝起きると森周りのランニングと腹筋、背筋30回5セットずつ。
そこから昼までジムに来たチャレンジャーのジムリーダーまでの前座としてバトルを行い昼にはがっつり食事をし一眠り。
夕方には森に体のトレーニングを兼ねた夕飯の木の実採集に赴き、夜には再びランニングと技のトレーニングを済ませた後水浴びをして就寝する・・という体育会系ルーティンな毎日を送っているライトは当然、世事に疎かった。
反対に体力こそ無いが雑学や時事問題の収集に心血を注いでいるアクアは森一番の情報網として、ライトも人目を置いている。
その友人が掴んだ情報だ。ライトの耳が自然とピンと立つ。
「実はさ―」
アクアは声を潜め、周囲をサッと見回した後語りだした。
「最近この森で妙な宗教が流行っていてね・・。僕達の住んでいるエリアから少し離れた場所で夜な夜な怪しげな儀式を執り行っているらしいんだ。不気味な仮面をつけてね」
「別にソイツ等の趣味ならそれはそれでいいんじゃねーの」
どうにも恐怖感が伝わっていないようでアクアは少しだけ声を荒げる。
「何言ってるのさ。単なる仮面同好会なら問題になんかになりはしないよ。どうもその新興宗教の教えってのがその・・簡単に言えばさ、“イカれてる”んだよ」
・・イカれてる?
ライトは訝しげに眼を細める。
成程自分は確かに世事には疎い。この森での交友関係だって大したものでは無い。大勢でつるむより気の合う仲間といる方が楽しいし、何より頭を使うよりも体を鍛える方が好きだ。
しかし、そこまで怪しげな団体がこの近くで活動していれば俺も気が付くと思うんだけどな。
「でも母さんも父さんもそんな奴らの話全然した事ねぇぞ?」
「仕方ないさ。彼らは『ライトニングジム』が干渉してくるのを極力避けてたみたいだし・・かなりの秘密主義らしいしね。僕だって先日風の噂で聞いただけだし」
随分と怪しい奴らだな。
ま、心配はないだろ。ここら一帯は『ライトニングジム』ジムリーダーの父さんの直轄下だし。
第一『ジム』って言う存在自体がその地方のバトルリーグ公認施設であると同時に、地域の治安を収める自治組織でもある訳で・・そのお膝元で派手な行動は出来ないハズだ。
「ま、そんなに心配する程の事でもないよ。どうせただの変わり者の集団ってだけだろうし」
「そうだな。じゃ行くか、アクア」
「うん」
先程の不安感は何処へやら。まだ見ぬ世界へと冒険心を掻き立て、ライト達は鞄を背負い歩き出す。
目指すは炎タイプ専門『フレイムジム』だ――
****
同時刻。ライト達が旅立ちを迎えた“始まりの森”から『ブロッサムジム』が自治義務を持つ森を跨いだ、その先の霊山。
人間はおろかポケモンでさえ知る者は少ない霊山の樹林で一匹のポケモンが瞑想をしていた。
背丈は小学校低学年程だが、その全身から発する静かな闘気は「格闘ポケモン」の名に相応しい。
波紋ポケモン――リオルは突然瞑っていた目を開け、振り返らずそのまま背後に忍ぶ者に声を変える。
「言っとくけど、ボクを脅かそうとしても駄目だからね。イグニス」
「ちぇ・・バレちまったか」
リオルの厳しい指摘にバツの悪そうな表情で茂みから現れたのはヒトカゲである。
名を「イグニス」と言い、どうやらこのリオルの知り合いのようだ。
背後から忍び寄って脅かそうとしていたらしいが、生憎“波導”を扱える彼に通用するレベルの悪戯とは言い難かった。
何度も指摘しているのだが、イグニスはあまり気にしないようで同じ悪戯を繰り返している。勿論、今までに成功例などありはしない。
「ったくよぉ。よくこんな辛気臭い山で修業なんかできるよな。オレにはとてもじゃないけど無理だぜ」
「ここは集中力を高めるには丁度いいんだ。心の奥に入れば自然と五感が研ぎ澄まされる。葉の落ちる音、川のせせらぎさえボクの一部になる。この感覚はここでしか得られないさ。まぁ君の様な俗世にまみれた奴には無理だろうけどね」
瞑想を邪魔された事に対してリオルは少々腹を立てているらしい。
が、機嫌が悪くなると嫌味を連発するのはこの友人の昔からの癖なので、特に気にせずイグニスは続けた。
「それでよ、ソウル。オレは別にお前の邪魔をしにきた訳じゃねぇんだ・・。ただうちの師匠の『フレイムジム』にさ、昨日妙な連中が押しかけてきて・・・そいつを伝えようと思っただけなんだ」
「――妙な連中?」
ソウルと呼びかけられたリオルはピクリ、と反応する。
「俺の思い違いかもしれないけど――もしかしたらお前と因縁がある連中と同じ奴らかもしれないって、な」
「・・・」
イグニスの言わんとする所に心当たりがあるのかソウルは途端に閉口してしまった。
普段から表情変化に乏しい彼の顔は、今や能面と例えれる程の無表情と化している。
その裏には胸を裂くような悲哀と憤怒が渦巻いている事は長い付き合いのイグニスしか知らない。
だが、友人だからこそ敢えて口にはしない。軽々しく同情など出来るはずがない。
彼の味わった苦痛を自分は知らないのだから・・相手の傷に踏み込む権利など無いのだ。
しばしイグニス達の間に沈黙が下りる。
気まずい雰囲気にイグニスが居心地の悪さを感じ始めた丁度その時、ソウルは囁くように呟く。
「行くよ・・」
「――は?何処に?」
「決まってるじゃないか!」
突如立ち上がると混乱気味のイグニスの右腕を引っ張り、ソウルは歩き出した。
「『フレイムジム』に行って調査するんだよ!その“妙な連中”ってのをね!」
空元気気味にソウルはイグニスを連れて駆け出す。
まるで内に秘めた感情を押し殺すかのような空元気。
それがイグニスにとっては余計に辛かったのだが―