第十六話 奪いし技の激突
全くの無表情を貫き通す冷たい表情。無機的としか形容できないそのピカチュウの周囲には何重もの層になった透き通る紅のフィールドが展開されている。
数メートル先には、傷を負いぐったりと伏すイグニスを抱きかかえながら『まもる』を発動させているヒートの姿があった。
「ヒートさんッ!」
ソウルの悲痛な表情は、しだいに驚愕へと変わっていった。会場内の客席に目を向けたライトも同様だった。
理由はあまりにも明白。先ほどまで歓声を上げ、白熱していた客席のポケモン達が皆、ほぼ全員が苦しげな表情を浮かべ倒れているからだ。
先程までの活気は全て消え失せ、この場にあるのは恐怖の感情のみ。
あまりの事にただ茫然とするしかないライト達。だが、次第に怒りにも似た感情がライトの中に沸き始める。
前にも感じたことがあるこの感覚にライトは形容すべき言葉を見つけられない。
理不尽な暴力に虐げられ、ただ恐怖するしかできぬ者達の悔しさ。
そして平然と他者から尊厳を奪っていく存在に対する底知れぬ怒り。
何故かこれらの感情をライトは心のどこかで懐かしく思っている。だが、今はそんな感情に気づけるほど平静でいられる状態ではなかった。
「いったい何してるんだって……聞いているんだ」
絞り出すような低い声。だが、あくまでトゥエンティは平然としている。
「――現在、戦闘前と比べ、保有する残存生命エネルギー量が60%に低下しています。有機ボディの消耗が激しく、現時点で保有するエネルギー総量の内、45%を肉体の回復に当てています。この状態は電子制御系の機能低下につながる恐れがあることから、自己保存原則に基づき、損失したエネルギーの自動回復モードへの移行を完了しています」
突如、フィールドが変色していく。水面のように美しいワインレッドが揺らぎ、少しずつ光を湛え、そして―――
「何ボサッとしてやがる!!『まもる』をさっさと使え!!」
ヒートの悲痛な怒鳴り声がした次の瞬間
「発動『
全方位吸収』」
衝撃波を2、3度発したのち、フィールドの表面幾何学模様が浮かび上がる。透き通ったワインレッドの、半液状のガラス、とでも表現すべき膜の表面を様々な幾何学の紋様が移ろってゆく。
それはまるで近代芸術のようで、普段なら見とれてしまうであろう程美しい光景だったが、突如として神秘的な美を湛えるフィールドが一転、禍々しい光を帯び始める。
と、同時に
「ぐぅ…なんだ、これ…」
ブゥゥンと耳障りな機械音と共に、ライトの体に振動が走り始めた。『まもる』を維持しつつ、思わずその場にしゃがんでしまう。ソウル達も同じだった。
どこまでも不愉快な低周波音。さらに驚くべきことに、『まもる』の防御壁が端から崩壊していくのが目に留まる。
まるで氷が解けていくかのように溶解した『まもる』のエネルギーは、低周波を発する振動源であるLEフィールドへと吸い寄せられ、完全に吸収されてしまった。
「これは…」
次第に強くなる低周波音。あまりの不快感に吐きそうになりつつも、ライトは周囲を見渡す。
ヒートや彼に庇われているイグニス、ソウル、そしてカタリナ以外のポケモン達は体を震わせ、いやこの低周波の振動を受けていると表現する方が正確だろうが、その体からはエネルギーが漏れ出している。
それらのエネルギーは東西南北、まさに全方位からトゥエンティの下に吸い寄せられ、彼が展開している紅きフィールドに吸収されてゆく。
「やめろ、トゥエンティ!!お前みんなを殺す気か!?」
「私の今の優先事項はエネルギーの回収です」
あくまで淡々と答えるトゥエンティ。まさに機械的な反応にライトの背筋が寒くなる。
一体どうすればいい…一体どうすれば…
崩壊してゆく『まもる』の障壁。地に伏すポケモン達。
既にトゥエンティと戦えるだけの体力など、ライトには残っていない。こうやって防壁を維持するだけで精いっぱいなのだから。
「全く、嫌になるね…」
いきなりソウルが『まもる』を解除し、渦中へと飛び出した。手には先ほどの鎌――ただし、色はどす黒い漆黒ではなく、漉き取った蒼だ。
今は自分の復讐心よりも、倒れた仲間たちを救う事が優先なのだろう。仲間を思う純粋な感情が波導の刃に透き通った美しさを与えているのだ。
「ハァァァ!」
雄叫びと共にLEフィールドを斬りつける。防御不能の波導の刃が、エネルギー膜を切り裂いた。
同時に鎌がどんどんエネルギーを吸い取ってゆく。刃は肥大化し、さらにもう1枚の防壁をも易々と引き裂いた。
エネルギーフィールドを引き裂けば引き裂くたびに技の威力が上昇してゆく。
これにはさすがのトゥエンティも形勢不利と判断したのだろう。バックステップで軽やかに距離をとった。
オムニアジムス・ドレインを解除している所を見るに、あの技を使用している時は移動はできないようだ。
「どうだい、ボクの波導の刃…ボクの技も相手の生命力を刈り取るんだ。つまりエネルギーの奪い合いになる訳だけど……どうもボクの技の方が威力が高いみたいだね」
厭味ったらしく煽ってはいるものの、ソウルにとっても防壁から外に出て一気に勝負を決めに行くのは些かリスクが高い賭けだったようだ。
だが、その見返りはあった。トゥエンティのLEフィールドを――イグニスの連続攻撃でさえものともしない絶対の防御を易々と引き裂ける事がこれで証明された。
「それに、こんなのもある、『はっけい』!」
一気に駆けトゥエンティとの距離を詰める。
無言のままLEフィールドを展開するトゥエンティだが、先程と同種の波導を纏った腕は防壁を貫通した。
“
全方位吸収”もソウルの波導の秘儀も、そのどちらもが相手の生命エネルギーを奪うという点では非常に通っている。
しかし、ソウルは日々鍛錬を積み自身の波導操作に磨きをかけ続けている。それは一族の、ミコトの名に恥じぬポケモンになるという彼の決意の表れでもあるのだ。
ただ機械的に発動する技と信念と努力に裏打ちされた秘儀とでは、あまりにも差が大きすぎたようだ。
ソウルは周囲の生命エネルギーを掌に吸収させ格闘タイプ技『はっけい』を放つ。
元々熟練した格闘タイプのポケモンが放つと侮れない威力となる技だが、さらにそこに波導のアシストも加わり、大きな衝撃を生む。
トゥエンティの体は後方へと吹き飛ばされ、鈍い音と共に壁へと激突した。
「……」
無言のまま、トゥエンティはその場で動かなくなる。
勝敗は火を見るより明らかだ。
「ふん、けっこうやるじゃねぇか」
イグニスを背負ったヒートも『まもる』を解除してソウルに近づく。
イグニスに負けず劣らず顔が真っ青なのは、おそらく防御の維持と防ぎ切れなかった生命力の漏出に加えて、ライトとのバトルのダメージがまだ残っているのだろう。
ライトも技を解除すると、真っ先に吹き飛ばされたトゥエンティの下へと向かった。
何故か放っておけないのだ。自分達に害をなそうとした相手であることは十分承知している。
だが、トゥエンティが敵意や悪意からああいった行動に出た訳ではないという事も理解している。ただ、自身の行動原則に基づいて動いているだけなのだと。
「大丈夫か!?」
ライトはぐったりと倒れるトゥエンティに駆け寄り、抱き起す。ひんやりと冷たい体温に触れ、思わず息をのんでしまう。
まるで死体を触っているようで――
「―――肉体的損傷は許容の範囲内です」
いつも通りの返答が返ってきた。ほっと一安心するライト。まさか、打ちどころが悪かったのではと思わないでもなかったから。
「しかし、彼の放った『はっけい』の副次効果で私は現在麻痺状態にあり、著しく行動が制限されています」
……そうか、麻痺か…なるほどな。
その言葉を聞き、ちらっとソウルを見るライト。得意げな笑みが視界に飛び込んできた。
ソウルはただ攻撃を仕掛けた訳ではなかった。
必要最小限の攻撃でトゥエンティの自由を奪う事が目的だったのだ。実に合理的判断というほかない。
「でも、良かった……お前が無事で」
「――なぜ君はそんなに喜んでいるのですか?私は生命エネルギー回収を優先し、諸君らと一時的に敵対状況に陥る事を採択しました。私の無事を喜ぶ合理的理由が見当たりません」
至極まっとうな反論にライトは返答に詰まる。なぜこんなに喜んでいるのか。自分でも全く分からない。
初めて会った時からどこか親近感を覚えていたからか、それとも自分を治療してくれたからかはわからない。
とにかく、このトゥエンティと名乗るピカチュウを放っては置けない。ライトの心にあるのはそれだけだ。
「理由なんてあるかよ。なんか放っておけねぇだけだ」
「……」
何故かトゥエンティはそれ以上何も言わずガラス玉のような瞳でこちらをじっと見つめ続けている。
ライトには妙な確信があった。このピカチュウは、知識と特別な力はあるが、それ以外の社会性や感情、心といった要素が欠落している――だから、自分がここで付き添ってやらねばならないのだと。
もう二度と罪なき誰かを彼に傷つけさせてはいけない。だから、同種としても彼を見守る必要があるのだと。
どこからともなく現れた、数字を名に持つトゥエンティはいわばむき出しの存在だ。
だれかが寄り添ってやる必要がある――そしてその誰かとは自分なのだ、そうライトは確信していた。
「…いいか、トゥエンティ。誰かを悲しませる事はしちゃなんねぇ」
「何故ですか?」
同意も反論もなく、ただ純粋な疑問を返してくるトゥエンティの肩をライトはそっと手を置く。
「心の傷はそいつを長く苦しませる事になるからだ。体の傷は治っても、心は…ずっと痛み続ける。一瞬の行為が、誰かの心を痛めたら、その傷は禍根を生むかもしれねぇんだ」
例え記憶の奥底へと封印されていた傷であっても、それはいつか這い出し、心を襲う。
ライトが嫌というほど経験してきた事だ。
「―――心の傷。心はどこにあるのですか?君は持っているのですか?」
トゥエンティは無表情のまま首を少し傾ける。彼なりに戸惑っているのだろう。
そんな疑問にライトは少しだけ微笑んだ。
「もちろんだ。たぶん、お前にも心はある。だから、一緒に――ゆっくりでもいいから学んでいこうぜ」
ニッと笑いライトは手を差し出す。ひんやりとした手はしばし逡巡した後、差し出された手を取り、二人は立ち上がったのだった。