第一章 『胎動』編
第十五話 怯えと救い
降り注ぐ陽光から、まるで身を隠すように、ライトは一人木陰へと逃げ込んだ。

『雷神』

無意識の内にライトが発動させてしまった力。この身に覚えのない技を、しかし、ライトは心のどこかではっきりと恐怖していた。

体の震えが止まらない。単にヒートを殺しかけたという理由からだけではない。もっと心の奥底から湧き出る、ずっと前に忘却という沼に鎖で縛って投げ込んだ怪物が、今になって、ずるずると這い出してきたような――そんな感覚に、ライトは瞳を震わす。

不幸中の幸いか、ヒートは手負いではあるものの命に別状はないようだった。

しかし、この得体の知れない力がいったい何なのかライトには皆目見当がつかない。

恐らくは失われた記憶と、そして先程脳裏に蘇った過去の断片と関係があるのだろうが…
「俺、いったいどうすれば…ッ」

来た。あの頭痛だ。頭蓋に直接釘を打ち込まれるような、鋭い痛みが突如ライトの中で広がり始める。

「ぐぅ……うぅ…」

堪らず木の幹に縋り、その場にしゃがむ。過去の事に思いを巡らせると、何故かこの頭痛がライトを襲う。いつも、いつもだ。

だが今回の頭痛はいつもの“激痛”の比ではなかった。脳裏に駆け巡るいくつもの光景と共に、今まで感じたことのない苦痛の強襲に、ライトは思わず叫び声をあげてしまう。

「うわぁぁぁッ!!」

明滅する記憶。忘却の彼方から、断片的な映像がライトの脳を通り抜ける。



―――無機質な部屋、赤と緑の光を湛えるどこまでも続く機械の回廊、拘束された大勢のポケモン達―――


張り裂けんばかりの悲鳴、飛び散る鮮血が視界を染め


『未来を取り戻せ、ボクらの未来を…』

弱弱しい声と共に


「何なんだよ、一体ッ……!!」



まるで潮が引いていくかのように、記憶のフラッシュバックが静かに去っていく。

と同時に、ライトを苛む頭痛も少しずつではあるが止んでいった。まだまだ辛いようで
地面に手を付き肩を震わせてはいるが、それでも先ほどよりはいくらかマシだ。

それよりも、今自分の心を占める思いは脳裏を駆け巡った記憶の断片。特に最後の声を思い出した瞬間、大きな悲しみがライトの心に湧き出る。

何なんだ、この胸を裂く悲しみは……

いつしか涙がつぅと溢れ出してくるのをライトは止めることが出来なかった。

今まで感じたことのない胸を引き裂かんばかりの悲哀。いったい誰の為にこんなにも心を痛むのかライトには分からない。どれだけ思い出そうとしても、記憶の扉はまた再び固く閉ざしてしまったのだから。

それがまた悲しくて、どうにもならずにただ涙を流す事しかできないでいると、ふと後ろから白いハンカチが差し出された。

「どうぞ、これをお使いになって」

「だ、誰…?」

思わず差し出されたハンカチを手に取り涙を拭ったが、全く突然の事で、先ほどの感情の高ぶりもあって気の利いた反応が出来ないでいると、その声の主はそっとしゃがみこみライトの顔を覗き込んだ。

滑らかな黒の修道服に身を包み、胸から中央に赤い瞳を嵌め込んだ十字架を覗かせるサーナイトは今だ涙止まらぬライトに優しく微笑んだ。

「私はカタリナ。求導の道を歩む、ただのしがない宣教師よ」

そっとライトの手からハンカチを抜き取ると、今度はカタリナ自ら涙を拭い始める。

初めて会ったはずのライトに、まるで母が子を慈しむが如く接するカタリナの優しさが直接伝わってきて、心が解れ、少しずつではあるが涙が引いていく。

「カタリナ、だっけ。見知らぬ俺をここまで気遣ってくれてありがとな……」

まだ心の動揺はあるものの、ずいぶん落ち着いたライトはカタリナと向き合い、はにかみながらも礼を告げた。

眼をあげると白いハンカチがずいぶんと涙で湿っていて、申し訳なく思ってると、しかしカタリナはそんなライトの心の動きに気付いたのか、微笑んで「いいのよ」とだけ言い、ハンカチをポケットにしまった。

「俺はライト。イカズチ・ライトだ」

「ライト君というのね。意味は輝ける光…なんて美しい名前でしょう」

少々大げさに、と言ってもカタリナには普通の反応なのだろうが、ライトの名を賛美してみせた後、少し真顔になって問うてきた。

「それで、どうしてそんなに泣いていたの?それに、ジムの窓からでも分かるぐらい苦しんでいたみたいだし…」

そんな彼女の問いにライトはどう答えていいのか分からず目を泳がせる。見も知らぬ他人に、自分の過去や今の感情を話すべきかどうか。しかし、このサーナイトは宣教者。つまり教えを広げる者。

誰かの話を親身に聞くのもその役割の内――という事をライトは知っていた訳ではないが、そもそも見知らぬ自分を気遣ってくれた訳だし、きちんと彼女の善意に向き合うべきだと心を決めた。

「いや、実は俺、昔の記憶が無くて…で、分かんねぇんだけど、突然記憶が、こう途切れ途切れに蘇って…頭痛がひどかったのもあるけど、なんだか急に涙が止まんなくなって」
全く歯切れの悪い説明だと内心ライトは苦笑する。こういう時、口下手な自分に本当に腹が立つ。

そんな決して上手とは言えない説明を気にすることなくカタリナは「そう、記憶が…」とまるで自分事のような表情をしてくれて、その共感してくれた事がとても嬉しくライトには思えるのだった。

そっとカタリナと向き合うライト。一瞬大人びて見えた彼女の姿は、よくよく見ればまだ十代の少女であった。種族上元々大人に見えるだけで、このサーナイトは恐らく自分と同い年が幾分上、といったところだろう。

「涙が止まらない時は思いっきり泣けばいいのよ。悲しみを洗い流すために、神は我々に涙という癒しを下さっているのだから」

ライトの胸に当てられた手から、柔らかな暖気が伝わってくる。

対象者の生命力を回復させる技――『いやしのはどう』だ。

彼女の善意と慈愛が技を伝わって、ライトに流れ込んでくる。まるで春の日差しの中、布団で微睡むひと時のような、そんな感覚にただ身を任せていると…




「――何してるの?」

ひんやりとした声に、ライトが振り返るとそこには『フレイムジム』に居候しているというリオル、ソウルが居た。

きっと自分を心配して追いかけてきたのだろう、とライトが素直に思えない程の――驚愕と激怒を混ぜ合わせたような何とも言えない表情で二人を交互に見つめる。

特にその眼差しはカタリナへと、いやより正確には、彼女の胸元で光を湛える“瞳”の十字架へと注がれていた。

ライトは波導が読めるわけではないが、それでも、ソウルの全身から殺気が漲り始めているが痛いほど伝わってくる。殺意を向けられている当事者ではなくともひしひしと伝わるプレッシャーに、ライトは身震いをした。


「……どの面下げてッ!!」


突如、ソウルの両手から淀んだオーラが溢れ出す。

リオルやルカリオの系列は、生命が持つ“波導”というエネルギーを感知し、極めれば自在に操れさえする種族ではあるが、その中でもソウルの一家、ミコト家は波導の秘儀を代打受け継ぐ家系だ。

殺意と憎悪に支配されたソウルから溢れ出す波導は、彼の手に大鎌を出現させた。

ソウルの憎悪を体現した大鎌に、しかし、カタリナは慈愛の笑みを崩さない。

「波導の体現…『ガーデン・オブ・エデン』のデータベースにある通りの力ですわね」

「ボクの前で……その名を口にするなッ!!」

敵意を向けている者が眼前にいても依然、全てを包み愛さんとする彼女の態度は変わらない。

その事がさらにソウルの殺意を燃えたぎらせたのだろう、彼は鎌を振り上げカタリナに切りかかった。

もちろん攻撃されるままのカタリナではない。防御を展開しようと構えた、その瞬間。

彼らの間の因縁やら、事の自体やらを呑み込めないまま――それでもライトの体は勝手に動いていた。

目の前で誰かが襲われていたからか、それとも自分の心を救ってくれた彼女だからかはわからないが、ライトはカタリナの前に躍り出るととっさに『まもる』を展開する。

「な…!?」


二人の驚きの声が重なる。一人はソウル、そしてもう一人声を発したのは……ライトだ。

予想外の行動に出たライトに驚くのは当然といえるが、ライトのそれはより驚愕に近いものだった。

『まもる』のバリアを大鎌はすり抜けたのだ――イグニスやヒートの“魂炎”でさえ防いだ護りの防壁を。

斬られる……!

一瞬死を覚悟したライトだったが、ここで予想外の事が起きた。

なんと黒き刃はライトを切断することなく、そのまま通り抜けたのだ。ライトの体のどこも傷つけることなく。

だが、次の瞬間ライトを襲ったのは斬撃による激痛ではなく、今まで感じたことのない内側から湧き出すような痛み。と同時に、体中の力が一気に抜けていくのを感じ、ライトはその場で崩れ落ちてしまった。

「バカ!死にたいのか!」

ソウルが焦燥の表情でライトに駆け寄る。

すでにライトの意識は混濁とし始め、目の前のリオルが何を言っているのか聞き取るのでやっとの状態になりつつあった。

先程のバトルでのダメージ、無意識の内に発動させた“雷神”とそこからくる精神的動揺――トゥエンティの緊急措置で何とか動けるほどには回復していたものの、ここにきてソウルの殺意を体現した大技を食らったのだ。全く今日はとんだ厄日だと、心の中でライトは自嘲する。

「『まもる』が効かなかったぞ、おい…」

「当たり前だ!この技は波導の刃、相手を斬る度に生命エネルギーを吸い取って威力を増す防御不可能の秘儀なんだよ!!」

防御不可能か…なるほどな、だから『まもる』が効かなかったのか……

波導の刃なんてすげーなこいつ……

思わぬ実力者を目の前に、ライトは弱弱しく微笑む。この一日ですでに体はボロボロ。
もう限界だった。

せっかくトゥエンティが与えてくれたエネルギーも今のですべて奪われてしまったのだから。

「……仕方ない」

ソウルは舌打ちをしつつも、技を解除するとライトの額に掌を当てる。

相手の生命力を回復させる技『いやしのはどう』を使うつもりだ。

「いやしの――」

「『いやしのはどう』!」

声が重なる。いや、ソウルの肩越しに技を放ったカタリナの方が一足早かった。柔らかな慈愛が込められた波導が、ライトをソウルごと包み込む。

ライトの顔に血色が戻り始めていく。と同時に、ソウルも彼女の波導を技を通じて感じ取っていた。

全く“波導”というものは極めて正確な指標だ。

個人的な事情や魂胆、秘匿している感情や知られたくない秘密があれば、当人がどれだけ巧妙に誤魔化し取り繕っても、“波導”としてそれらの情念は外に漏れ出てしまう。

ソウル達の系列のポケモン達は“波導”を感知し、技とする事に長けている。

特にミコトの血族は、先ほどの“大鎌”のように波導を使った秘儀により――自らの波導を練り上げるだけでなく、相手の波導と同期させ、相手の生命力を削ぎ取る事さえできるのだ。

その力の正確さを誰よりもソウルはよく知っている。嘘も誤魔化しも“波導”の前では全て役に立たない。

誰かの発言と波導が違うのなら、波導を信用するべきなのだ。

それが例え―――自分に都合の悪い事であっても。

カタリナからは全く敵意や侮蔑といったマイナスの感情が感じられない。

“波導”は彼女がソウルの憎むべき敵ではない事をはっきりと示している。

ライトがとっさに身を挺して守るだけの価値ある、善良な存在なのだと。

「でも、ボクは……!!」

ぎりっと歯を食いしばる。

分かっている。波導は間違わない。間違っているのは、自分の方なのだ。

カタリナは自分の憎むべき敵ではない。

敵の象徴を、忌まわしい十字架を掲げてはいるが彼女自身は恐らく『ガーデン・オブ・エデン』に住まうだけの無垢なる存在。

何も知らずにただエデンの教理を信仰しているだけのサーナイトに過ぎない。

しかも、ここまで波導が純粋な、ある意味異常なほど清らかだという事実は、彼女が長い間エデンの教義を受け、また布教する側に回った事でさらに信仰心を確固たるものにしているという事を暗示している。

エデンの裏の顔など知らない――故に、彼女は敵ではない。


ソウルから全てを奪った憎むべき仇敵ではないのだ。

ここで彼女を傷つける事に何の意味もない。

しかも今彼女はライトを全力で治癒している。自身の体力を削ってまで。それがすべてではないか。



分かってはいるのだ。頭では……

しかし……


敵意と良心の間で揺れ動く少年の心。



そんなソウルの困惑は思わぬ形で霧散することになった。


「………ッ!?」

突如、張り詰めた波導が一気に一帯を支配したのだ。思わずソウルは立ち上がると、その発生源と思しき場所に――『フレイムジム』へと目を向ける。

会場から溢れ出す波導。恐怖に駆られ乱れた酷い状態の感情がソウルの中になだれ込み始めたのだ。


「いったいこれは――」

次の瞬間、ジムから少し離れた場所からでもはっきりと聞こえるほど大きな悲鳴が響き渡る。

これにはライトも、そして治癒中だったカタリナも驚いて立ち上がりジムを見やった。

叫び声と悲鳴はどんどんと数を増していく。先ほどまでバトルで白熱していた歓声とは全く違う恐怖に満ちた声々。

ライトの体は既に動いていた。カタリナの制止を振り切って、まだ完治とは程遠い状態の体に鞭を打ち走り出す。

後ろからソウルが、遅れてカタリナもついていく。

走って走って走り抜け、ジムのゲートを潜り、バトルフィールド内に入ったライト達が見たものは―――




「…………何してるんだ、お前……」


透き通ったバーガンディのフィールドを挟んでこちらを見やる無機質なピカチュウ、トゥエンティと苦しみに悶え地に伏す大勢のポケモン達だった。

アブソル ( 2015/04/05(日) 14:54 )