第一話 逃走
警告音が焦燥を煽る。
走れ・・!走るんだ・・・!
ウゥー ウゥー
走っても走っても、サイレンは俺の耳を刺激し続ける。
カチャッ カチャッ
足に取り付けられたプラスチックタグが地面と擦れて音を立てる。
持てる精一杯の速さを保ったまま、後ろを振り向く。
まだ誰も追いついていない。
逃げるんだ・・とにかく、逃げるんだ・・!!
「ハッハッハッ・・」
どれだけ走っただろうか。息も切れてきた。
俺はやっとの思いで廊下を抜け、膝に手つき立ち止まる。
息を整え顔を上げると、眼前に広がる光景は今までの延々と続く長い廊下とは違い、煌々と青い光を放つモニターが暗闇に浮かぶ無機質な部屋だった。
追っ手はまだ俺の場所を特定できていない。
隠れてやり過ごさなければいけない。
見つかったらアウトだ。
反抗分子は“処分”される・・一切の例外なく。
その時、後ろから微かにモーター音が聞こえた。
目だけを動かし廊下の先を見る。
「クソッ!」
追っ手だ。奴らの“目”は非常に優れてる。このままじゃ見つかる!!
「隠れねぇと・・早く!」
焦りだけが募る。
胸を突き破って不安と焦燥がのど元に上がってくる。
必死で周囲を見渡すと暗い部屋にぼうっと浮かび上がっている、白い何かを見つけた。
迷っている暇はない。
一気に跳躍すると、その“何か”の影に隠れる。
登録タグがカチャンと音を立てる。今は小さな音さえ命取りに成りかねないと言うのに・・忌々しい!!
彼は憎々しげにタグを掴み、その場でしゃがんだ。
体を低くし地面に伏せ様子を伺う。
ウィィン
モーター音が徐々に近寄ってくる。廊下を渡っているんだ。
恐怖で心臓が激しく波打つ。
今の彼には自身の息遣いと心臓の鼓動さえ邪魔だった。
微かな音さえ、“追っ手”は検知しそこに隠れ潜む者を見つけ出すだろう。
ウィィィィン
ピタリと止まった。音が静寂の中に溶け込む。
・・見られている!
外なんてとてもじゃないが覗けない。
“追っ手”はこの部屋を索敵しているんだ。
ドクン ドクン ドクン
緊張で喉が異常なほどに乾く。唾を飲む音さえ命に関わるのだ。
ウィィィィン
再び“追っ手”が動き出した。
嘘・・だろ・・・!?
来ている。こっちに来ている。
モーター音は明らかに此方へ近づいている。
見つかったのか・・!?それとも、ただ見回っているだけなのか・・?
恐怖とは直面して湧き上がるだけのものでは無い。
確実に迫りくる死を待つ“時間”こそ、その精神を確実に蝕むのだ。
・・恐怖に耐えかねて俺は少しだけ、ほんの少しだけ物陰から部屋を確認する。
その瞬間、俺は自分の軽率な行動を恥じることになった。
『ターゲット確認』
・・俺は見つかっていたんだ・・・。
“追っ手”のカメラアイは無機質な眼差しを俺に向け続けていた・・・俺がそこに居るのを分かった上で、会えて物陰から油断して出てくるまで待っていたんだ。
レーザーが俺の腹部を貫く。
肉が焼け焦げる臭いがする。俺はあまりの激痛にその場に倒れそうになる。
銃口が俺の頭の方を向く。
二発目で仕留めるつもりだ・・・!
「くそ、させるかよ・・十万――」
技を放とうとした、その瞬間。
ピピピ・・キュィーーン
俺の背後で電子音がする。今気が付いたのだが、俺の体がよろめいた拍子に何かに触れてしまったようだった。
「こいつは一体・・」
正体不明の装置の起動音に注意が散漫になったターゲットを、“追っ手”が見逃すはずがない。
『ターゲット処分の許可を申請――『セフィロート』よりの許可を確認。処分開始』
しまった・・!
反撃の機会を一瞬の散漫で逃がしてしまった事を、俺は瞬時に理解した。
無意識に、恐らくは恐怖の感情から一歩引き下がった――その時だ、俺の体に異変が起こったのは。
「な・・何だこれは・・・!?」
俺の体が・・・透けていく・・!?
掌から腕を伝い体に向けて“分解”が進行していく。
俺に出来る事は呆然と自分両手と、消えていく下半身を目にする事だけだった。
“追っ手”もレーザーを撃たずにこちらを凝視している。
どうなるのかを見届けるように、“頭脳”に命令されているんだろうな。
全てが消えゆくなか俺はそんなことをぼんやりと考えていた。
体も意識も少しずつ消滅していく。
痛みも無く、苦痛も無い。
あの機械達に支配され、搾取され、挙句殺されるよりはよっぽど良い最期だろうな。
このマシンが一体何の為に作られたのか、その時の俺には知る由も無かった。
ただ偶然に装置を作動させてしまい、体と意識が消えていく事実しか認識できていなかった・・仕方ないことだがな。
しかし、後から思ってみれば・・
これこそが“運命”って奴かもな。
****
快晴。この言葉でしか言い表せない程晴れやかな天気の昼下がり。
二匹のライチュウが森を歩いていた。
手にはバスケットと巻いてあるビニールマットが携えられている。どうやら、ピクニックに来ているらしい。
「暑すぎず寒すぎず。正にピクニック日和だな、シンティラ」
右の頬に深い傷を負っている雄のライチュウが、横で歩いているメスのライチュウ――シンティラの手を握った。
「君の手は何時も暖かいな・・春の日差しの様に柔らかく優しい。俺の心も温まるよ」
「トレノったら・・」
頬を染めつつシンティラは、トレノと呼んだライチュウにそっと寄り添う。
如何やら彼らはカップルのようだ。
そう、トレノのシンティラ。
この二匹のライチュウは現在加熱中の恋人であり、景観が美しい事で有名なある森に訪れているのである。
「見て、トレノ。湖があるわ」
シンティラが指さした先には、森の中に青く透き通った湖が浮かび上がっていた。
「ここでお昼にするか」
タタタッと斜面を駆け下り、食事に最適な場所を探す。
「あの木陰なんかいいんじゃない?」
成程、湖の傍に丁度太陽の陽ざしを遮ってくれそうな木が一本生えている。
「そうだな・・あそこで食事といこう」
木陰の中に入るとビニールマットを広げ、バスケットの蓋を開けた。
「おお!美味そうだな!」
シンティラ特製のサンドイッチ。彼女の料理はジャンルを問わず絶品なのだ。
「それじゃ――」
「俺達の未来に――」
「「乾杯!」」
祝杯の音が響き彼らの心を高揚させてくれる。
彼らが知り合ってからはや2年。今日は恋人同士になった2周年目を祝う為のピクニック兼パーティなのだ。
「トレノ、早いものね。もう2年よ。私達が出会ってから・・」
シンティラはそっと愛するライチュウの頬を撫でる。
頬に走る古傷は彼が昔負ったものだ。
シンティラも傷について尋ねた事はあった、しかしその度にトレノは口をつぐんでしまう。
今では彼女もその事については極力触れないようにしている。
誰しも触れられたくない過去は持っている。
そこに踏み込む事はルール違反である事を彼女は知っている。だから何も聞かない。ありのままの彼を受けれる。
それだけだ。
トレノも彼女が無意識に自分の古傷に触っている、つまり過去を薄らと知りたがっている事は承知している。
だが、またその“その時”じゃない・・・。
そっとトレノは目を閉じる。
愛する者と共に秘密を抱え込んで生きるのは苦痛以外の何物でもない。
吐き出してしまいたい、そうすれば楽になる。
・・・しかしそれは許されない事だ。時が来るまでは例えシンティラにも、打ち明ける訳には行かない。
「どうしたの、トレノ?」
苦い顔で俯いているトレノの顔をシンティラが心配げに覗き込む。
「・・いや、なんでもない」
秘密を打ち明ける訳にはいかないが、少なくとも今目の前にいる女性を包むこむ事は出来る。
トレノはそっと彼女を抱き寄せる。
突然の抱擁にシンティラは目を瞬かせているが悪い気はしないようで、気持ちよさそうに胸元に顔を埋め目を閉じた。
「愛している・・シンティラ」
「私もよ、トレノ」
この瞬間を彼らは待ちわびていたのだ。
ひっそりとした人目の無い湖の畔で暖かな日差しを浴び、そよ風に吹かれながら愛を確かめ合う。――ラブロマンスが今まさに始まろうとしていた。
二匹は視線を絡め合い、熱い口づけを――
交わすはずだった。
「待って・・トレノ」
「ん?どうした?」
シンティラは立ち上がると湖の向こう側に目を向ける。
先ほどは話に夢中で気が付かなかったが湖の砂浜の近くに“何か”を発見したようだ。
目を細めてシンティラはその“何か”を注視する。次の瞬間あっと息を呑んだ。
「大変よトレノ・・あそこにポケモンが倒れてるわ!」
「何!?」
ほら、と彼女の指さす方向にトレノも目をやる。
「・・・何かあったようだな」
トレノ達は急いで湖の反対側に走り出す。
走り距離が近くなっていくにつれ二匹は自分達が発見したポケモンの姿をハッキリと、確認することが出来た。
それは――トレノやシンティラの進化前の姿、つまり『ピカチュウ』の少年だったのだ――
彼らはその正体不明のピカチュウについて、当然の事ながら何も知り得ない。
だが確実に分かる事、それは彼が衰弱しているという事実―
慌ててトレノ達は彼の下に駆け寄る。
「・・酷い怪我だ・・・」
腹部には深い傷跡、それも切り傷や打撲の跡ではない・・まるで患部だけ焼き貫かれたかのような酷い有様だ。
足首には標識タグと思わしきプラスチックの小さな板が縫い付けられている。
それがあまりに痛ましげでシンティラは思わず目を逸らしてしまう。
「この子・・体全体が衰弱しているわ・・・」
何よりトレノ達が感じ取ったのは、このピカチュウの体全体から発せられる衰弱と死の気配だった。
体の傷は見た目以上に早く回復するものだ。だが、心の傷はそうそう治るものでは無い。
時には体を弱らせ死に至らしめる――心の傷はかくも根深く、その者を蝕むものなのだ。
このピカチュウからはその気配が察せられる。
一見健康そうな肉体の表面に漂う衰弱のオーラを読めない程、トレノ達は鈍くは無い。
「こいつはヤバいな・・直ぐに手当てをしないと・・」
「体が冷え切ってる・・・暖かな布団に包ませて体全体を回復させないと・・!」
最早ピクニックどころではない。
広げたビニールシートや食事を畳んで持ち帰る事も忘れてトレノ達はピカチュウを連れて自宅への急いだのだった。
****
トレノ達の家は湖から2キロ程離れた森の奥に建てられている。
所謂丸太小屋でトレノとシンティラが自ら建てた愛着のある家だ。
シンティラは二階の自分達の寝室にピカチュウを寝かせ、上からそっと毛布をかけてやる。
「本当に酷い傷・・それにこんなタグを縫い付けられて・・・悪戯にしては悪質過ぎるわ」
足に縫い付けられていた標識タグはトレノが電気技を使い糸を焼切って外し、今はシンティラの手の中にある。
「それにしても見た事もない文字・・・」
森の中で暮らしているシンティラでも山を下りた世界――人間の文明についての知識は一応備えているつもりだ。
今この国で使われている文字は彼女も読解は可能だ。
しかし今彼女の手の中にあるこの標識タグの文字は見た事も無い不可思議な字体で、このピカチュウは外国から来たのかとも一瞬考えたが、そもそもあの場所に倒れている事自体が不可解だ。
今自分達が住んでいる森と人間達との世界は遠く離れている。
そもそも人間界の街からあそこまで、こんな年端もいかないピカチュウが移動できるはずがないのだから。
「【テレポート】でもしたのかしら・・でも、そんな技ピカチュウが覚える訳ないし・・」
「シンティラ、その子の様子はどうだ?」
ドアを開けて入ってきたのはトレノ。手にしているのはオレンの実を磨り潰した木の実ジュース。
今の彼の肉体的疲弊度からすればオレンジュースによる回復など微々たるものだろうが、無いよりは断然マシだ。
「まだ気を失っているわ・・とっても疲れていたようね・・」
「だろうな」
トレノはジュースを入れたコップをテーブルに置き、ピカチュウの顔を覗き込む。
・・・ついに“この時”が来たか。
「シンティラ・・」
「何、トレノ」
「話がある。とても重要な――話だ」
何時になく真剣な眼差しにシンティラもゆっくり頷く。
そっと右手でシンティラに椅子に座るよう促す。
彼女が座ったのを見て、トレノもベッドの脇に腰を掛けた。
「トレノ・・・」
「今から話す内容は・・君にとって信じ難いものかもしれない。だが、これは神に誓って真実なんだ」
「ええ、私は貴方を信じるわ」
その一言にトレノは薄らと嬉しそうに微笑む。
そして話し出した。
「このピカチュウは恐らく――」
その日、明かされた秘密は誰にも知られる事なく彼らの胸の奥に封印された。
何時の未来から明かされるべき“約束の日”まで――