第三十三話 帰郷
ピピピピ…ピピピピ…
朝。目覚ましの電子音がジュンの意識を少しずつ覚醒させていく。鳥ポケモン達の囀りと共に暖かな日差しが窓から差し込み、ぽかぽかと温かい布団の中に一抹の未練を感じながらも、ジュンはベッドから這い出した。
まだ重たい瞼を擦りつつ時計を見ると丁度6時半。少し早い気もするが、今日は忙しくなる日だ。早起きするに越したことはないだろう。
「眠い…」
目覚まし時計のスイッチを乱暴に切り、大きな欠伸を一つ。
昨日はよく眠れなかった。上半身裸なバシャーモが夜中に忍び込んだせいだ。
と、そこまで考えて、ジュンはふと寝ぼけた頭を巡らす。
(本当にファオさん、部屋に来ていたのかな…)
どうも現実感が薄い。もしや夢を見たのでは、と思わずにはいられない。
仮に夢だとすれば、ファオが夜這いしてきた夢を見たという事になり、また夢とは心の願望を反映するとどこかの心理学者も言っていた事から推測するに、そこから導き出される結論は…
「いやいや、そんな」
少し顔が引きつる。
ふと、胸元に冷たい何かが当たった。
視線を下げるとそこには、紫の淡い光を放つペンダントトップが輝いている。
(夢じゃなかったんだ…)
自分がネックレスをしている事を遅ればせながら思い出したジュンは、そっとペンダントを手に取ってみた。
何の脈絡もなく手渡されたペンダント。
いったい何の目的があってこんなものを、とは思うものの貰い物を捨てるのも気が引ける。
「見ているとなんだか吸い込まれそうな魅力があるねぇ」
すっかり気に入ったペンダントを片手で弄りながら、朝のシャワーと着替え、歯磨きを終えた。
ユウタ達は既に多目的ホールに集まっている可能性がある。
別荘にそんな場所があること自体驚きだが、ここは世界に名だたるアイビー家の別荘。
既に“荘”のレベルを超え“城”の域に達しているここでは、あって当然のようにも思えて、なんだか感覚が麻痺してしまう。
「ユウタなんかは既に待機してそうだな」
そんな事を考えながら、扉横のチェーンを外し、ドアノブを握った――所でジュンの手が止まる。
(あれ…)
施錠されたドアを開けるというほとんど無意識の行動にジュンは違和感を覚え、ドアノブをじっと見つめた。
内側から開ける仕組みの、いたって普通のノブ。――これには何の問題もない。
この違和感は何なんだと、ふと左手に目が行く。
指先に触れていたのはドアのチェーン。これもいたって普通の、どこにでもある施錠用のチェーンだ。普段ならば何の違和感も感じない…普段ならば。
だが。
……おかしい。
(待てよ……なんでチェーンが“かかっている”んだ……?)
昨日ファオはこの部屋に忍び込んだ。
そこはいい。ドアノブに内蔵されている鍵程度ならばピッキングを使えば一発だろう。
彼がそのような技術を持っている可能性は十分にあるのだから。
だが、チェーンは……施錠用の鎖はかかっているはずがないのだ。
「――この部屋に忍び込んだという事は、このドアからしかあり得ない。でもこのチェーンはどうしたって内側からしかかけれない構造だ。―――ファオさんは、いったいどこから侵入したんだ……!?」
背筋に冷たいものが走る。高まる心臓の鼓動を何とか抑えながら、部屋を見渡す。
窓は嵌め込み式。開かない構造なっているし、工具で傷つけられた形跡はない。
通気口やダクトの類も存在しない。そもそも身長190センチはあろうかという長身のバシャーモが通れる場所など、扉以外にこの部屋には存在しないのだから。
****
(……一体なんだったんだろう)
リムジンのゆったりとした車内でジュンは両腕で目元を覆い隠しながら、ずっと今朝の事を考えていた。
リーフが用意してくれたこの車はよく言えば豪華絢爛、悪く言えば悪趣味で、シンオウの秘教の村にいくには些か目立つ外装をしているが、横になって考え事をするにはちょうど良い広さだ。
(ファオさんが来たのは事実。チェーンがかかっていたのも事実。ホールに行ったときには既にファオさんがいたから、部屋の中に隠れていて僕が部屋を出た後にこっそり抜け出した、という訳でもない…)
ちらっと腕の隙間から真横に座っているファオに視線を移す。
今日の朝ごはんをテイクアウトしたものをがつがつと食べるその姿に、昨日見た妙な迫力は微塵も感じられない。
軽くホラーな状況に正直戸惑いを隠せないジュンは、思い切って尋ねてみようかと考え、そっとファオの膝を叩く。
「ん、ふぁに?」
持ち帰ったサンドイッチを口いっぱいに頬張るファオがこちらを向く。
せっかくバシャーモという種族柄恵まれた容姿を全て台無しにしてしまう顔だ。
「昨日…」
そこまで言いかけてジュンは口を閉じる。そうだ。忘れかけていたが、ファオとの取引の件はユウタにも秘密にしなければいけないのだ。
(…危ない危ない)
危うくユウタのいる場所で喋りかけたジュンは口元にそっと右手を添える。不用意な発言は避けるべきだ。
せっかくのチャンスを無駄にしてしまっては元も子もない。
チェーンの件は心の奥底にしまっておこう、と考え直す。
嵌め込み式の窓も、もしかしたら開閉できたのかもしれないと思うことにした。
そんなことよりも、今はユウタに怪しまれないように立ち回るのが先決だ。
ユウタは既にこちらをちらっとだが見ている。
今のはあまりに不用意すぎた、とジュンは心の中で反省しつつ、笑顔を作って誤魔化す。
「いえ、何でもないです」
ルームミラー越しにこちらを見つめているユウタの視線が気になる。ジュンは腕を顔に再び乗せて視線から逃げた。
(全く、目敏いんだから)
新プラズマ団内で、スパイとしてかつユウタの目を掻い潜りながら、ファオさんの指示通りに動く――これはなかなか厄介な仕事になりそうだ。
シンオウの秘境、そこにユウタの実家があるらしい。
潜入前に親睦を深めようというユウタの提案はどう見ても、あらかじめ予定されていたスケジュールであり、ジュンも特に文句も言わずに従う事にした。
(親睦を深めるっていうか僕の信頼を得る為の作戦だとは思うけど、まぁこちらとしてもユウタとの信頼関係は築いておきたいし、丁度いいや)
確か、過疎化が進んでいる田舎町カンナギタウンを通り抜けて森の奥の奥まで行ったところにある、地元に人間でもなければ知らない村とユウタが説明していたのを思い出す。
「……後、どれぐらいで着くの?」
「そうだな。3時間ぐらいだ」
3時間…結構な時間がかかるものだ。
車窓から外を見れば長閑な田園風景がどこまでも広がっている。街らしい街はとっくの昔に姿を消し、あるのは転々と孤立する家々だけ。
(少し寝ておこう)
ウトウトとし始めたジュンを、ファオはそっと肩を貸した。
その行動にユウタは一抹の疑問――何せ、ポケモンハンターであるジュンを作戦に引き入れる事を渋っていたのは他でもないファオなのだから――を感じたものの、特に気にする事もなくルームミラーから視線を外す。
彼もまた久々の帰郷に心躍らせているのだ。
情報部員として家族ともある種の距離を取っているユウタではあるが、それでもやはり生まれ故郷というのは落ち着くものだ。
「今帰るからな、レイカ」
****
シンオウの秘境。森の奥深くにその村はあった。
一本の舗装が所々剥げ寂れた道を辿れば、見えてくるのは立て看板。
古びた木の板に「ここは神川村」とだけ記されている。
その名の通り、神川(カミカワ)と呼ばれる一本の川が細々と村の中心を流れており、ここからこの村が名づけられたらしい。
村、と言ってもその人口規模から“集落”に近い状態であり、人口も1000人に満たない。
地理的に外からの余所者があまり来ることも無く、村人もこの村からあまり出る事も無い為、そういった要因がある種独特な空間を生み出している。
ただこの一見ただの田舎の集落にも見えそうなこの場所には、シンオウ時空伝説にまつわるある遺跡が存在している点で、特殊な場所である事は確かだ。
最も場所が場所だけに、人の出入りは極端に少ない。まずここに遺跡がある事自体あまり知られていない事実だ。
そんなカミカワ村の中央に大きな屋敷が鎮座していた。
門には二重円と三角形を重ねた家紋が彫られ、屋敷と庭を囲うように石垣が周囲を囲んでいる。
武家屋敷と表現すれば適格だろうか。木製の建物全体が歴史と風格を醸し出している。
閉鎖的な地形と村全体の雰囲気がよりこの屋敷の存在を際立たせていた。威厳と威圧感。
あるいは、ある種の恐怖を人に抱かせるかもしれない。
そんな屋敷の一室で、一人の少女が静かに読書をしていた。
聞こえるのは近くを流れる神川のせせらぎ。濃い緑を湛えた木々の枝は風に揺られさわさわと音を奏でる。
秘境の小さな村の静けさは本の世界をただ感じるのにはとても良い。
障子から漏れる日の光を頼りに桃色の指がそっとページを捲る。ぱらり、ぱらりと部屋には和紙の捲れる音が小気味よい。
ふと少女は横の懐中時計に目をやる。もうすぐ兄が帰ってくる。久々の帰郷だ。
客人を連れてくると連絡に彼女の心は躍っている。久しぶりの“外”からの来客だ。
どんなことを聞こう、何を話そう、一体どんな人たちなのだろう……
“外”は彼女にとって未知の世界だ。前に少し街に出たことがあったが、見るもの全てが刺激的だった。あの経験は今でも忘れられない。その時買ったメダルは今も戸棚に飾られている。
ただ空気が彼女にとってはあまりに不浄過ぎた。人ごみも彼女の体力を奪いすぎるとして両親は二度と街に出る事を許してはくれなかった。
しかしそれでも彼女には満足だった。この村が彼女にとって全てなのだ。
ここにある豊満な自然――春には桃色、夏には濃緑、秋には橙、冬には純白――四季の移り変わりと、時折訪れるポケモン達とのひと時……確かな幸福。
他に何を望めるだろう?
それに、“外”の事は兄が色々教えてくれる。国家の為日々働いている兄は中々自分の事を語りたがらないが、それでもぽつぽつと“外”の話を時折する。
彼女は兄が語る度に目を輝かせて話に聞き入るのだ。お伽噺のような、兄の体験談は彼女の楽しみの一つである。
兄が帰ってくる。客人と共に“外”の話を携えて。
「早く帰ってきてくださいませ、お兄様」
ぽつりと呟いた後、再び部屋に静寂が戻る。薄明かりの中彼女は待ち続けているのだ。
兄の帰郷を。