第三十二話 夜半の来訪者
夢を見た。ただひたすら暗い道を歩き続ける夢だ。
後ろを向いても前を向いても、そこにあるのはただただ底なしの暗闇のみ。そこには希望も絶望もない。無限とも思える虚無が広がっているだけだ。
(僕の希望、僕の夢……世の理を覆す小さな可能性よ、君はいったいどこにいる……?)
たった一つの可能性を掴むためにここまで来たのだ。
全てを捨てて、真っ暗な道を歩いてきた。いつまで歩き続けなければいけないのかは分からない。それでも後になど退けない。
もう自分には進むしか道はないのだから。
(早く、僕のものに……僕の、僕の手の中に……!)
突如、漆黒の世界に一筋の光が見えた。力強い光だ。ずっと追い求めてきたあの存在にも似た、この世ならざる者の放つ“力”
とても力強く、同時に全身を竦ませるほどの威圧感。
(これは、まさか……僕の求めていた……力!?)
ジュンは必死で光を掴まんと手を伸ばした。
何としてでも手に入れたかった。ずっと追い求めていた一筋の可能性を、今―――
――ぐにっ
「……?」
何だこの感触は。生暖かくてふかふかしてる。毛皮…いや、羽毛か?
いや、なんか脈を打ってるし、触って楽しむには些かがっちりし過ぎているというか…
「おいおい、ジュン君。それ女にやったらセクハラで逮捕されちゃうぞ?」
聞きなれた声がした。妙に馴れ馴れしい青年の声。
馬鹿な、彼がここにいるはずが、とまだ半分眠っている頭で就寝前の記憶を手繰り寄せてみる。
確か寝る前にポケモン達はボールに戻して、ドアも閉めた。うん、間違いない。
一体どうやって入ってきたんだか、いや、そうだ…確か今僕が触れている彼はユウタと同じ公安か情報関係者、鍵明けぐらいお手の物なのかもしれない。
そんなことを寝ぼけた頭で考えている間に、だんだんと意識が覚醒してきた。
それと共に、今自分が触っているものの正体も理解し始める。
「……なんでここにいるんですか?」
「うん、ジュン君の寝顔見たいな〜って思って」
声の主は、ジュンの予想通り、バシャーモのファオだった。
何故か上半身裸で(ポケモンだから別に不思議ではないが)、首からはドッグタグをぶら下げている。
今自分の手がどこにあるのかジュンは視線だけ動かして確認する。
胸だ。ファオの胸板に触れているのだ。良く鍛えられている軍属ポケモンの筋肉はごつごつとしていて、正直さわり心地がいいものでは無かった。
大胸筋と呼ばれている部位かなどと、以前どこかで読んだ本の記憶をボゥッとと思い出していると、ファオは何を勘違いしたのかにやけた笑みを浮かべ、ジュンに迫ってきた。
「ラッキースケベだな、ん?」
「………」
何を言っているんだ、このバシャーモは。前から残念なイケメンだとは思ってたけど、本当にとことん残念なヒトだな。
ジュンの冷ややかな軽蔑をものともせず、ずぃっと肉薄してくるファオ。一体何がしたいのか、ジュンが理解できずにいると、ファオはぽつりと呟いた。
「抱いていい?」
「……」
なんだか無性に腹が立ったので、胸の羽毛を掴み一気に毟ってやった。
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「も〜酷いじゃねぇの。ここの羽毛は毎日きちんとセットしてるってのに……」
ベッドの上に散乱する羽毛。
毟られた痛みで先程までベッドの上で七転八倒していたファオも、ようやく痛みが引いてきたのか、頬を膨らませつつ胸をさすっている。
胸元に少し血が滲んでいるが、まあ、ジュンにとってはどうでもいいことだ。
「…それで、僕に何の用ですか?まさか、夜這いに来たなんて言わないですよね?」
もし夜這いだったら“キャプチャー”で石化してしまおう…。
ジュンは机の上に置いてあるキャプチャーの位置を横目で確認する。
腕に装着するこの装置は、特殊な光線を用い照射した相手の体を“石化”させるポケモンハンター専用の装備だ。
商品となるべきポケモンを傷つけず捕獲できる事から、非常に使い勝手がいい。
石化現象の、解除用の光線を別に照射しなければ解かれないという性質もこの機械の利便性を上げている。
「あ〜心配しなくても、ちょっと用事があるだけだ――だから、そんな物騒なモンを使おうなんて思っちゃやーよ」
「……!」
心の内を見抜かれたジュンは、視線をファオに移す。
いつものように笑顔ではあるが、その表情がどこか嘘くさく感じるのはきっと気のせいではないのだろう。
張り詰めた緊張感に顔をこわばらせるジュンに、ファオは笑顔を張り付けたままゆっくりと口を開いた。
「なぁに、ちょっと聞きたい事があるだけさ」
聞きたいこと?
一体なんだ、しかもこんな夜中に。訝しく思うものの、口は出さずに無言で続きを促す。
「――キミさ、なんでハンターしてるんだ?」
……そう来たか。
ポケモンハンターとして何度か同行している(その同行自体が恐らく諜報活動の一環だったのだろうが)ユウタと違い、ファオとは昨日今日あったばかりの関係だ。
最初から妙に馴れ馴れしいバシャーモだとは思っていたが、いきなりこんな質問をするためにわざわざ夜中にこっそり忍び込むなんて、とジュンは眉をひそめる。
(…こんな夜中に来てまで……ユウタに聞かれたくない類の話なのかな?)
はぐらかした方がいいのか?
いや、先程の上っ面の笑顔は完全に鳴りを潜め、今のファオは怖いほどの真顔だ。鋭い眼光を放つ蒼の瞳がジュンを捉えて離さない。
――下手な嘘は言わない方が得策だろう。
そう判断したジュンは素直に、理由をの告げる事に決めた。
「……あるポケモンを探しているんですよ。どんな手段を使ってでも手に入れたいポケモンがね。ハンターになれば、自ずとポケモン達の情報が集まってきますし、捕獲技術も磨ける。…これが理由です。満足してもらえましたか?」
(まぁ、単純に“狩り”が楽しいってのもあるんだけどね)
もう一つの本音はそっと心の中にしまっておく。ポケモンであるファオに言っていい反応が返ってくる理由では少なくともないだろうから。
「………なるほどなぁ。ポケモンをねぇ――で、どんなポケモンだ?」
ほら来た。だから言いたく無かったんだ。
内心舌打ちをする。探し求めているポケモンの名は秘密にしておきたかった。
自分の目的が見抜かれるかもしれないという不安と、単純に秘め事を暴かれる事への不快感がこみ上げる。
ずっと胸の中にしまっていたかったのに…そのポケモンを捕まえるその日まで。
だが、こうなってしまった以上仕方がない。言うしかないだろう。
ジュンは一息ついてから、ため息交じりにその名を言った。
「――“時渡り”と呼ばれる不思議な力を持つポケモン、別名を森の守り神と称えられる存在……セレビィですよ」
その名を聞いた瞬間、ファオの表情が少しだけ変化する。
驚きと、懐かしみが篭った表情はしかし、直ぐにいつもの笑顔に戻ってしまった。
「セレビィねぇ。なら――俺が役に立てるかもな」
「……なんですって?」
このバシャーモは今何と言った?
役に立てるかもしれない、と?
それはつまり、彼はセレビィについて何か知っているという事なのだろうか?
(いや、待て。僕を釣るための嘘かもしれない…)
逸る気持ちを何とか抑える。
ただの出任せの可能性だって十分すぎるほどあるのだ。ここで喰いつけば弱みを握られかねない。
心臓の鼓動が少し早まった気がする。が、ジュンは心の乱れを顔には出さずポーカーフェイスを保ちつつ、逆に聞き返してみることにいた。
「ファオさん、セレビィについて何かご存じなんですか?」
「まぁな」
にやにや笑いながら答えるファオが憎らしい。だが、このまま会話の主導権を握られ続けるジュンではない。
「じゃあ、セレビィの情報を本当に持っているのかどうか……証拠を見せてください」
「裏を取ろうとするとは、なかなか賢いこった。――証拠か。そうだな」
ファオはセレビィが出現するポイントを何か所か語った。
「あいつは基本森にしか現れない。人の手が入ってない清浄な空気に満ちた森が好みみてぇだな」と、そこまで話すといったん呼吸を置いて次々と各地方の森の名を挙げてゆく。
セレビィを祭る祠があるウバメの森を筆頭に、目撃例や逸話が残るシンオウ、カントー、イッシュに至るまでの全ての森がファオの口からすらすらと出てくる――それは、まさしくジュンが労力を割いて調べ上げた出現ポイントと完全に合致していた。
(まさか、このバシャーモが……)
驚きに思わず息を呑む。
(僕が苦労して得た情報をこんなにあっさり…彼らのデータバンクの力なのか、それとも……)
「その顔から察するに、どうやら俺の事を信頼してくれたらしいな。良かった良かった」
オーバーリアクションで胸をなでおろしてみせるファオ。いったいどこまでが演技でどこまでが素なのか――判断が付きかねる。
だが、一つだけ確かなことがある。彼がここに忍び込んだ理由だ。
「…で、僕は何をすればいいんですか?」
「おっ、呑み込みが早いじゃないの。俺、頭の回転が速い奴は好きだぞ」
つまり、ファオはここに取引に来たのだ。
最初からジュンの望むものを知っていたのかどうかは謎だが、彼もまたスパイ。
ハンターとして潜入していたユウタを通じてジュンの動向を調べていても何も不思議ではない。
(あるいは、僕を釣れるだけの自信があったのか…)
ただ一つ確かなことは、このバシャーモがジュンよりも一枚も二枚も上手であり、かつ魅力的な情報源である可能性が高いという事だ。
「まぁ、簡単なことだからな。そう心配しなくていい……新プラズマ団に潜入後、秘密裏に俺とコンタクトを取り続けてほしいってだけの話さ」
「ファオさんと?」
妙な条件を突き付けられジュンは困惑してしまう。ユウタからの潜入依頼を受けた時点で、彼らとのやり取りを続けるのは当たり前の事。
何故今更別個に頼む必要があるのだろうか。
(もしかして、ユウタに知られたくないのか?)
わざわざこんな夜中に忍び込んでまでとは恐れ入る。
「……その秘密裏っていうのはユウタ“にも”って事ですか」
「Exactly」
彼らも一枚岩ではないという事実、何よりも、この取引に応じた時点で既にユウタをも裏切り、ファオの手駒になるという事が確定しているそのこと自体にジュンは正直戸惑いを隠せない。
コンタクトを取り続けるという表現はオブラートに包まれた言葉。
実質は、ファオの出す指示に従ってほしいというのが、おそらくは本音。
いったい何のためにこんな取引を持ちかけるのかジュンには分かりかねるが、それでもセレビィの情報を手に入れられる絶好の機会である事には変わりない。
応じない方がどうかしている。
「――分かりました。潜入後はファオさんの指示を聞くってことで」
「指示っていうか、ちょっとやってほしい事があるだけだからな。後は普通にしててくれればいいし。この仕事に成功したら、セレビィに関して教えてやるよ…人間には知りえない情報を含めて、な」
含みを持たせた最後の言葉に突っ込みを入れる暇もなく、ファオは迷彩柄のズボンのポケットからあるものを取り出し、ジュンの首にかけた。
黒い紐に一つペンダントトップがついたシンプルなメンズ向けのネックレスだ。トップを飾るのは、月光を浴びて淡い紫の輝きを放つ六角柱の水晶。
紫水晶とも少し違う。より淡く、それでいて見ていると引き込まれてしまいそうな魅力を感じる。
揺らぐ紫の光にジュンが目を奪われていると、ファオはそっと耳打ちをした。
「これは俺からのプレゼントだ。それが俺と君をつなぐ絆になる。お守り代わりに持っていてくれ」
ファオの狙いがいったい何なのか、ジュンには知る由はない。
独断的な行動を取っているのは何となく察しはつくものの、今それを追及する気にはなれない。
(おとなしく従っておくか。今は、ね)
何気なく時計を見ると、短針が3時を示していた。
いい加減眠りたいジュンは短く「ありがとうございます」とだけ言うと、顔まで布団を被る。
…まさかポケモンハンターである自分が、ポケモンの指示で動くことになるとは夢にも思わなかったが、これもセレビィの手掛かりを掴むためだと自分に言い聞かせる。
そんなジュンの頭を優しくなでるファオ。リズムの良く頭をぽんぽんと叩かれ、だんだんと瞼も重くなっていく。
が、その前にジュンには一つだけ聞きたいことがあった。
「ファオさん」
「ん?」
どうせ答えてはくれないだろうが、こちらからも質問する権利ぐらいはあるはずだ。
「…あなたの目的は何ですか?……どうせはぐらかすつもりでしょうけど、少しぐらい教えてください」
沈黙。
ああ、やっぱり言ってくれないかと落胆もせず、そのままジュンが眠ろうとしていると、ファオは好き間をおいてから口を開いた。
「―――俺が望むのはポケモン族の解放。自由の獲得。そのために、俺は…あのお方に従っている―――ー言えるのはこれだけだな」
ポケモン族の解放…どこかで聞いたことがあるな……
そんなことを考えながらジュンの意識は次第に遠のいてゆく。
ファオの声もどこか遠くから聞こえてくるように感じられる。
ただ、そんな状態でも一つだけ気になる点があるとすれば…
(“あのお方”…?一体誰なんだろう……)
「Good night.my hateful hunter」
そして意識が完全に眠りへと落ちる直前に、ファオがボソッと呟いたのを確かにジュンは聞いた。よく意味が分からなかったが、特に気にする事もなく意識が遠のいてゆく。
ジュンの意識が暗転していく中、胸に抱かれた水晶柱はただ仄かな光を発し続けていたのだった―