第三十一話 相反する思惑
暗闇も深まり、皆が眠りの中に落ちている頃、ジュンは一人リーフ邸のベッドの上で眠れぬ夜を過ごしていた。
妙に引っかかることがある。大したことじゃないが、リーフの書斎で聞いたあの音。
それに妙な気配。あれはいったい何だったんだ。
確かにそこにいた。間違いない。あの時は夕食の前だった事もあって気が逸れたが、誰かの気配をジュンは確実に感じたのだ。
ただの通りすがりではない。もっと明白な意思を持って聞き耳を立てていた誰か――
「…気に食わないねぇ」
もしかしてユウタかな。僕の事を探りに来たのか……?
彼は警察か公安関係、あるいはどこぞの情報関係者である可能性が非常に高い。
そんなユウタがジュンに新プラズマ団への潜入を依頼してきたのだ。
僕の動向を探っておこうとするのは当たり前と言えば当たり前だけど…
「いや、考えても無駄だ。……もう寝よう。明日も早い…」
仮にユウタが僕の様子を探っていたとして、そこには何の問題もない。
“優秀な手駒”でいればいいだけの話だ。
ゆっくりとジュンの意識が薄れてゆく。重い瞼がそっと閉じ、少しの間を置いてすやすやと寝息が聞こえ始めたのだった。
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ジュンも、ソル達も、いやユウタやリーフ達も皆安らかに寝静まる中、ただ一人眠らずにいる者がいた。
月明かりに照らされた部屋で、ベッドの縁に腰を掛け、静かに窓の外を見つめるバシャーモ、ファオだ。
鍛え抜かれた筋肉の隆起、特に割れた腹筋と贅肉の全くない背中から上腕二頭筋にかけてのボディラインが真っ赤な羽毛と合わさり、何とも言えない雄の魅力と妖艶さを醸し出している。
ファオはハンガーに吊るしている上着の胸ポケットから小さな箱を取り出した。
タバコだ。
彼はヘビーユーザーではない為、こういう何となく体全体が落ち着かない夜に時折だが一服する。
健康には良くないだろうが、全く持ってファオには関係のない話だ。
どうせこの体はこれからもずっとこのままだ。――今までそうだったように、これからもずっと。
パチン、と指を鳴らすと指先から炎が生まれる。炎タイプならではの芸当だ。
タバコに火をつけ、ふぅと煙を吐く。まるで彼の内面の葛藤が流れ出るかのように、嘴の奥から吐かれた煙は直ぐに広がり、霧散して消えた。
「全く、大尉も余計な事をしてくれる」
彼の顔にいつもの笑顔は無い。
いつもの茶目っ気あふれる雰囲気は煙と共に消え去ったのだろうか。
炎タイプとは到底思えない程の冷え切った瞳はただただ外の星空を見上げている。
「あのポケモンハンターを駒にするなんて、何考えてるんだか」
確かに彼なら新プラズマ団への間者としては最適だろう。何せPHCのトップハンターだ。
かなりの信用がある。最初からある信用程、スパイとして最適な隠れ蓑などない。
ポケモン族にとっての敵であるポケモンハンターと手を組むのは正直辛いものがあるが、これも目的の為だと思えば我慢できない事も無い。
(顔は俺好みなのになぁ…ハンターなのがなぁ)
そんな事を考えながら、ふぅと溜息をつく。
右手の中で揺らめく炎がファオの瞳を照らした。
炎で照らされ出来た影がゆらゆらと蠢く。まるで今のファオの心の揺れを体現しているように。
ジュンを起用するメリットはファオも重々承知している。腹立たしいが、とりあえずは顔がストライクゾーンな男の子、と思っておくしかない。
彼を使い、新プラズマ団の内情を探れれば、その弱点を突いて一気に崩壊させる事も可能なのだ。
最も――事がそれで済まないから、こうしてファオは今、頭を抱えているのだ。
こうしてファオが悩んでいる全ての元凶は、そう……ユウタの目論見にある。
(大尉はどうもあいつを使って、新プラズマ団はおろかPHCさえシンオウの利益になるように裏から誘導するつもりでいるようだ。
逆に言えば、ジュンを利用し続けれて、しかもうちの組織の利益になる限り、新プラズマ団の解体はしないって事だ……
ジュンだけであの組織を動かせる訳がねぇが、いったん内部情報を掴みさえすりゃあ、後は簡単だ。指導層を挿げ替えて、実質的にシンオウ政府の傀儡にするのだって十分可能なんだからな)
「冗談じゃねぇよ、クソが」
何のためにここまでやってきたのか。万が一、新プラズマ団がシンオウに有益な存在となりうると判断されれば、件の組織は潰されること無く存続し続ける可能性だって大いにあるのだ。
元々イッシュの問題である以上、被害がシンオウに及ばない限りは、そして利益を絞れるだけ絞れる間は、新プラズマ団は存続し続けるかもしれない。
壊滅さえしてくれればそれでいいのだ。
解体さえしてくれれば、それでファオの目的はほぼ達成されるといっても過言ではない。
だが、仮に、ユウタの提案が“彼ら”の耳に届けば、欲深い彼らの事だ。必ず食いつく。
ファオには確信があった。ユウタの案を彼らの耳に届けてはいけない。
“彼ら”には、新プラズマ団は潰すべき対象と見てもらう必要があるのだ。
利用価値のない、“彼ら”にあだ名す存在だと。
その為に、ファオは新プラズマ団がいかにシンオウ政府に害と不利益をもたらす存在かを印象づける為にここまでやってきた。
証拠を集め、どれ程危険な組織かを証明する一方で、それを打ち消すような情報は全て抹消してきた。
その結果、情報部は本格的に新プラズマ団とPHCの調査に乗り出し、証拠を集め、やっと壊滅の為の大義名分を手に入れる一歩手前まで来たのだ。
それなのに。
……万が一、“彼ら”が新プラズマ団に利用価値を見出してしまえば、ファオの望む“解放”は絶望的になる。
そうなれば
「俺のこれまでの努力が全部無駄になっちまう」
ボッと指先から炎が上がり、タバコを燃やし尽くしてしまう。
ファオの焦りと苛立ちといった感情に呼応したのだろうか、ヤニ臭い真っ黒の灰がはらはらとベッドに落ちていく。
どれだけ苦労して新プラズマ団の情報を探ってきたのか、彼は分かっていない。
秘密主義を貫くPHCと新プラズマ団が裏でつながっている事、空間に歪みをもたらす程の何らかの大がかりな実験を行っている事、そして何よりも……パルキア失踪と何らかのつながりがある事、これらの事実を掴むまでにどれほどの労力を割いてきたことか。
いや、情報部の努力はファオも重々承知している。ユウタもまた、この懸案の一端を掴むために活動してきた。
だからこそ、上手く使えば大きな利用価値を見いだせる新プラズマ団を簡単に潰すことには抵抗があるのだろう。
うまく利用したいというのが本音、というところか。
しかしファオにとって、このユウタの思惑は全くの邪魔でしかない。
今だけは、いつも好意を抱いているはずのあの大尉が、どこまでも邪魔に思える。
新プラズマ団の存続を許せば、ファオの目的は達成されない可能性が高い。
それだけは、何としてでも阻止しなくては。
例え、どんな手段を使っても…以前ならば、手荒な手段をとる事も厭わなかっただろうが……今は…
「大尉と少し長く居すぎたか……」
溜息混じりに出る言葉は果たして後悔か、それとも。
「もっと早く立ち去るべきだったな」
誰にも見せない、ユウタさえ見たことがないであろう、ファオの今の表情はいつもの快活なそれとは似ても似つかぬ冷たいものだった。
目元にしわを寄せ、眉根を揉む。
「何とかしなきゃな。大尉の決定は尊重してぇトコだが、俺にも事情ってもんがあるし」
幸い、ユウタの考えはまだ仮組の段階だ。
本部は勿論、“彼ら”にも知られていない。
今のうちに、何としてでも新プラズマ団を壊滅させる方向にユウタを誘導しなければ。
こちらとて既に大詰めを迎えつつあるのだ。ここで失敗するわけにはいかない。
かといってユウタに手を出す訳にはいかない。個人的にも避けたい選択であるし、下手を打ってこれまでの努力を水泡に帰させては本末転倒だ。
ならば、ファオの取るべき選択肢は自ずと限られてくる。
「…忌々しいぜ、全く」
次の瞬間、彼の手の中の炎が揺らめき、部屋から灯りが消えた。
残された空のベッドを照らすのは月明かりの薄明かりだけだ――