第二十七話 古き友との再会
リーフ邸の2階からは周囲を一望できるバルコニーが備わっている。
ユウタとジュンを1階の応接室に残し、ファオは一人バルコニーから青々とした森を眺めていた。
昼にシンオウに到着し本部で報告を済ませた後、シンオウの大都市コトブキシティのグローバルトレードステーションにてジュンと合流し、そのまま彼の友人の別荘に移動したのが数時間前。
既に日は沈みかけ、夕暮れが周囲を緋色に染め上げている。
優しい日の光を受けながらファオはシンオウに帰還してからの急展開に思考を巡らせていた。
PHC所属のポケモンハンターであり、上層部からも信用されているジュンならばPHCを経由して新プラズマ団に関する情報を探れる――そうユウタは判断し、ジュンをスパイとして利用するアイデアを思い付いたのだが、ファオ自身もこの案には賛成だった。
捜査対象組織の内部に協力者が作れば、情報収集もより捗るだろう。何よりジュンは“裏”に潜む人間。全くの素人ではない分、上手く立ち回ってくれるだろう・・少なくともPHCにジュンを動かしている情報機関の存在を察知されることは、まずないと考えていい。
(イッシュの現地要員に手引きさせてジュン君を新プラズマ団の団員として潜入させれば成果は上げてくれるだろうな・・それにPHCのお抱えハンター達の中には新プラズマ団と関わってる奴もいるだろうし、同僚同士なら怪しまれずに探れる。一石二鳥だ)
情報機関は常に各地方のあらゆる場所に現地要員を潜りこませているが、一方でPHCのような秘密主義を徹底している企業や機関には、相応の信用がある者でなければ長期間潜入させることが難しい。
現地要員では自らがその闇の中に入る事は難しいが、寝返ったポケモンハンターをその暗部に送り込むことは出来るだろう。
大尉も同じこと考えているのだろうな、と夕暮れを見やりながら考えているとそこに一匹のポケモンが音も立てずに近寄ってくる。
白地の床と同じ色の毛皮に鎌状の角、真紅の双眼に獣性を湛えバルコニーに姿を現したのはソルだった。
一方のファオはソルの接近に気がついているようだが、気にせず手すりに両腕を乗せ相変わらず景色を眺めるばかり。互いに口を開かず、沈黙だけがその場を覆っていたが、最初に話を切り出したのは――ファオの方であった。
『よう、久しぶりだな。ソル』
『・・お前も相変わらずだな、ウィクトル』
ソルは少しバルコニーの端まで歩むと軽やかに跳躍し、手すりの上にバランスよく座った。横には両腕を手すりに乗せているファオの横顔が並ぶ。
『今の俺はウィクトルじゃねぇ。綴りはVictorのままだが、“ウィクトル”はラテン語読み。今の俺はVictorと書いて“ヴィクター”だ』
空中に自分の名の綴りを書いて見せると、ファオは大仰に肩を竦めてみせた。
『ふん、ならその“ファオ”ってのはなんだ?』
『コードネーム。俺の仕事上の名前だ』
ソルは彼を古き名の“ウィクトル”で呼び、仕事上では“ファオ”と呼ばれているが今の本名は“ヴィクター”で――と3つも名前を持つに至った旧友にソルは少し眉を顰めた。
そういう面倒な事は彼の好む所ではない。何事も竹を割ったようにスパッと処理したいのがソルの性分だ。
『・・暫く会わない内に随分と名前の数が増えたじゃないか。面倒だな。一つに統一したらどうだ?』
『そういうお前は“ソル”のまんまなんだな』
ファオの切り返しにソルはフンと鼻を鳴らす。どうやら自らの過去にあまり触れられたくないらしい。
『俺は一度本名は捨てた。今の雇い主、ジュンが名付けた名前が種族名“アブソル”からとって“ソル”と名付けただけの話だ』
ソルは自らの本名を一度捨てた。これまで幾多の名前で呼ばれてきたが、“あの日”以来一度たりとも本名を名乗ったことは無い。
各地を転々としている間にたまたま巡り合ったジュンの下で手持ちポケモンとなる際に、与えられた名がた偶然にも自分の本名と同じだったと言うだけの話だ。
『なるほどねぇ。じゃあそのまま“ソル”でいいわけだな。俺は自分の本名あんまり好きじゃねぇから、仕事上のコードネームで呼んでくれると俺としては、嬉しいんだが――』
『それで、なんでお前がここにいる。ウィクトル』
ソルはいきなり核心に踏み込んだ。呼び方を変えていないのはその名の方が馴染みがあるからだろう。
久しぶりの旧友との再会、というにはあまりにも彼らの間に漂う空気は重い。緊張感とさえ言えるその雰囲気は彼らの関係の複雑さを暗示していた。
『まぁ・・お前と同じだと思うぜ、ソル。“
玉座”を抜けたから、俺は今ここにいる。お前がかつて組織を去っていったようにな』
“
玉座”の名を聞いた瞬間、ずっと俯き気味だったソルが少しだけ顔を上げた。
「俺の前でその言葉を口にするな」そう言いたげなソルの険しい表情からは拒絶と嫌悪の感情が読み取れる。だが、そんなソルの反応を気にせずファオは続ける。
『しっかし、クソ真面目で誇り高かったお前が今じゃポケモンハンターの手駒か。歳月ってのは残酷だな。泣けてくるぜ』
普段のファオからはあまり想像できない毒のある言葉は、親しい仲故の軽口やからかいに聞こえるが、その言葉の中に本気の失望が見え隠れしているのがソルには分かる。だからこそ、その言葉は針のようにソルの心に刺さり、ソルはただ何も言わずにうつむきがちに視線を逸らす他無かった。
『まぁそのことは今は問題じゃねぇのよ。ちょっとお前に聞きたいことがあってな』
『聞きたい事?』
ジュンが持つ情報は既にファオ達に全て渡されている。
今更何を聞きたいというのだろう。ソルの眉間がピクリと動いた。不穏な気配を感じ取っているようだが、口には出さない。
『お前の話の中で出てきたミュウ。どんな奴だった?』
『どんな奴と言われてもな』
訝しみながらもソルはミュウについての印象を語り始める。一人称から性格、能力に至るまで――その全てを。
ミュウについて語っていく内に相変わらず景色を眺めていたファオの目が少しだけ開いたのをソルは見逃さなかった。驚いているのか、それとも懐かしんでいるのか。細かい感情の機微までは読み取れなかったが。
『成程なぁ。あいつと会ったのか。大した偶然、というよりアイツもPHC探ってたみてえだし“必然”と言うべきだろうな』
『・・知り合いなのか?あのミュウが』
含みを持たせたファオの言葉にソルは僅かながら苛立ちを隠せない。
昔から情報の出し惜しみをしがちな性格だった。好色で馴れ馴れしいのに、自分の本当の領域は決して表に出さない。心に常に“秘め事”を抱えそれを上っ面の笑顔で覆っている――そんな奴だった。
そして今も変わらず昔のままだ。
そのあまりに変わぬファオの姿に、逆にソルはある種の恐怖を感じてしまう。
時は流れ、季節は移ろい、世界は変わりゆく。それはまるで大河のように、たったの一滴も同じものが存在しない大きな流れのようだ。
そんな時代の流れの中にあって変わらぬ存在であり続ける事の恐怖、諸行無常の世に合って“不変”であり続けてしまう自分の存在それ自体に、ソルはある種の哀しみを感じずにはいられない。
(こいつは昔から“変わらない”・・そして俺自身も昔から“変わらない”のだろう)
『ああ、お前はあいつが抜けた直後に組織に入ってきたから知らなくても無理はないさ。あいつは・・ヘルメスは自己顕示欲の強いナルちゃんだった、昔からな』
懐かしむような表情でファオは何度も「そうか」と呟いていた。遠い目をしている。
一方でソルはジュンの捕獲任務の一環として一戦交えたあのポケモンがこんな所で自分と関係している事に驚きが隠せない。
ファオの話によれば自分が“
玉座”に入った時には既に組織を抜けていたらしいが・・とにかくヘルメスと呼ばれるそのミュウがPHCの暗部に探りを入れていたのは事実だろう。
PHCの陰謀は他ならぬミュウ自身から聞かされた話なのだから。
だからミュウはポケモンハンターに狙われた――今回の場合、捕獲と言う名の“口封じ”役にはジュンに白羽の矢が立ったという事だ。
ジュンがPHC所属のポケモンハンターで、ミュウがジュンの所属企業の腹を探っていたのだから両者の出会いは、成程旧友が必然だと言うのもうなずける。そうソルは内心妙に納得していた。
最も仮にミュウがPHCの暗部を探らなければ、ジュンはミュウ捕獲任務に就くことも無く、そうすればウィクトル――この懐かしい旧友との再会も無かったワケだ、とこの奇妙なめぐりあわせにソルは少しだけ感謝することに決めた。
『しかしその“ナルちゃん”のおかげで俺達はこうして再会できたわけだ。純粋に喜ばしい事だ・・・ウィクトル、正直俺はお前には二度と会えないと思っていた。二度と“玉座”には関わらないと心に決めていたからな』
『なるほどねぇ。でもよ、この地球に居る限り真にあいつ等と“関わらない”で生きていく事なんて出来るはずねぇんだ。ホントは分かってんだろ?それが逃げだってことにさ』
ソルは何も答えない。ただ沈む紅い日を眺めている。そんなこと言われなくても分かっているのだ。自分がただ逃げて、逃げて、逃げ続けていることなど。
だが各地を転々としている間にソルはいつの間にか自分が過去を捨て、今を逃げ、未来を恐れている事実それ自体を次第に忘れはじめていた。
ジュンと出会って、彼の手持ちポケモン達と活動してしばらく経つがそれもソルにとってはどこまでも一時的な居場所でしかない。
だからソルは主体性というものを持たない。
言われたとおりに動き、やるべき仕事を淡々とこなしていく。仲間からある種の好意を持たれている事も知っているが、決してその思いと向き合おうとは一度もしてこなかった。
“兵士”として数々の居場所を渡り歩く内にソルはいつの間にか自らの思考を徐々に放棄していったのだ。何も考えなくていい。自分はただ課せられた仕事と下された指令を忠実に遂行していくだけでいいのだ、と。
昨日のように今日を過ごし、明日もまた今日のように過ごしていく――いつか誰かが自分を倒し滅ぼすまで“今日”が永遠に続くと、そう思っていた。
例え幾世期を経て、自分を過去に知る全ての者が土に帰ったとしても。
だが、この巡り合せ――運命は決して自分が逃げ続けることを許してはくれないのだと、ソルは今悟った。
止まっていた己の歯車が徐々に動き出した音を確かに聞いたのだ。
ソルはファオと目を合わせた後、無言のまま別荘へと踵を返す。お互いに何も言わないまま、ソルがバルコニーから姿を消した。後に沈黙だけを残して。
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新プラズマ団の魔の手から『テレポート』により脱出したミュウとルカは今イッシュ内の別の場所、海の玄関口であるホドモエシティへと移動した。
ポケモンハンターと新プラズマ団との連戦でミュウの体力は既に限界に近かった。波導からも既に師が憔悴しきっている様子が感じ取れる。
だが、ルカも度重なる戦闘に疲れ切っていた。特にアキラの幻影攻撃による精神的負担は相当なものだった。
「お師匠様、これからどうするおつもりですか・・・」
『テレポート』は決して万能の移動手段ではない。
自分がかつて言った場所にしか移動できず、技の使用による体力減少率は『テレポート』させる物体――勿論技の使用者の体重も含まれる――の重量が重ければ重いほど、移動距離が遠ければ遠いほどそれに比例して高くなる。
イッシュ外に脱出しなかったのは師の体力が残り少なかったからだ、とルカは苦々しい思いを抱いていた。
新プラズマ団と名乗るあの組織の規模はルカが思っていた以上に巨大だった。驚異的な技術力に組織力、動かせる人員の数・・・イッシュ中に彼らの情報網が張り巡らされていてもおかしくない。
(しかも俺とお師匠様はルカリオとミュウ・・人目を惹きやすい種族だ・・このまま当てもなく彷徨っていたら、彼らに見つかってしまう可能性が高い・・)
疲れ切った体と疲弊した精神がルカの思考を薄れさせていく。
そんな今にも倒れそうな弟子を一瞥するとミュウは薄い笑いを浮かべて口を開いた。
「心配する必要はありません、ルカ。“当て”ならあります。しばらくはあそこを隠れ家にしましょう。――新プラズマ団は血眼になってイッシュ中を探し回るでしょう、少しの間潜伏しておかなければなりません」
そう言ってミュウが指差した先には、丘の上にたつ教会が見えた。寂しげに丘の上にぽつんと存在しているその建物をミュウは“当て”だと言う。
だが、師がそういうのならそうなのだろう。
そもそもお互いに今すぐにでも倒れてしまいそうなほど疲れ切っている・・もういったん落ち着いて休めればどこでもいい、そう思いルカは何も言わなかった。
「警戒する必要はありませんよ。あそこは安全です。恐らくはこのイッシュの中で一番、ね」
二匹はなるべく人目につかないように急いで岡江の上の教会を目指すのだった。