第十八話 イッシュの影
――イッシュ‐シンオウ直行便機内。
“Attention please. attention please.当機は間もなくシンオウ地方上空へ差し掛かります”
放送される機内アナウンスにユウタの意識が徐々に覚醒していく。
「着いたか」
ファーストクラスの幅広で柔らかな座席に抱かれ、イッシュでの情報活動という激務からしばし解放を全身で味わっていたのか体が少し強張っている。
余程疲れていたのだろう。口の端が少し濡れている。涎の後だ。
これはいかんと慌てて拭うユウタ。若くして情報部のエースを自他共に務める彼にとって、熟睡して口から涎を垂らすなどあってはならない事なのだ。
・・ファオに見られてないだろうな。
チラリ、と横目でファオを確認する。幸いなことに部下のバシャーモは幸せそうな顔をしながら熟睡していた。
熟睡して口から涎というファオが喜びそうなシチュエーションを彼に目撃されることは避けれたようで、ホッとユウタはため息をつく。
大きないびきをかきながら、至福の表情で眠っている。
嘴を時折むにゃむにゃと動かし腹を掻くその姿を他人が見れば、誰が彼をシンオウ地方の特務機関に所属しているエージェントだと思うだろうか。
誰も思わんだろうな。世界中の誰も。
情報部員とは映画の出てくるような目立つ存在であってはいけない。
水面下で動き、極秘裏に物事を処理してする――それがスパイの鉄則だ。
ある意味、ここまで隠し事なくむき出しな態度をとり続けていれば周囲から怪しまれる事はないだろう。
スパイという秘密を多く背負う職業につきながら、「明るいおバカ」であり続けているファオには正直驚いているのだ。
それが彼自身の根っからの性格なのか、あるいはより大きな秘密を抱えているのか、今のユウタには掴み兼ねるが。
やたらとオープンで肉薄してくるくせに、肝心なところ―彼自身についての核心―については決して尻尾を掴ませない。
それがファオという男だ。
「・・起きろ、ファオ。もうすぐシンオウだ」
両手で揺するとムニャっと体全体を震わし、ファオはのっそりと起き上がった。
彼も相当熟睡していたらしく、後頭部から二束に分かれている硬質の毛には寝癖までついている。
寝ぼけ眼を数度瞬かせると、大きな欠伸をかまし、一言。
「あ、おはよーございます」
「そろそろ着くぞ。支度をしておけ」
ファオに指示を出しつつ、自分も降機準備を始める。
久しぶりのシンオウの地。彼にとっては生まれ故郷であり、情報部員としての活動の本拠地でもある馴染みある場所だ。
イッシュのような摩天楼が立ち並ぶ大都市はないが、古き歴史と新しき時代が混在している。
大都市のような利便性に満ち溢れているわけではないが(何しろ、シンオウ最大の都市コトブキシティでさえ、イッシュ地方のヒウンシティの半分の規模しかないのだ)、都会の喧騒を忘れさせてくれるような深い自然が各地に残っており、毎年多くの観光客が訪れている――特にシンオウ時空伝説に深く関係しているカンナギタウンは時代の流れから孤立し、シンオウの神秘性を守る歴史あふれる町として、知る人ぞ知る観光スポットになっていると聞く。
「久方ぶりのシンオウですねぇ!特産品の森のヨウカンにモーモーミルク!いやぁ、楽しみです〜」
「浮かれるのもいいが、観光気分になるのは本部で用件を済ませた後にしろ」
なんせ今回は本部からの帰還命令『スリー・コール』が発令されたのだ。
元々、イッシュ地方の企業の不正疑惑などユウタには何の興味もなかったし、シンオウとの関係性も薄いこの事件に本部が手を出すとは夢にも思わなかったのだ。
だからイッシュ潜入を命じられた時は流石に驚いた。
シンオウ地方内の情報活動ではなく、遠方の地イッシュで、しかも一企業の隠し事を探れと言うのだから。
本部は「安全保障に関わる重大な事案」の一点張りで、PHCに一体“どのような”疑惑を向けたのか一向に教えようとはしないが――
だが、今なら秘匿された事実の一端を垣間見ることができる。
まず第一にPHCが正式な手順を踏まずにポケモンを使った不正な生体実験を行っている可能性が高いこと。
第二に彼らが幻のポケモン、ミュウ―大きな秘密を抱えているに違いない存在だ―を追跡し、恐らくは実験に使用しようと目論んでいること。
第三にエリカの言っていた“時空の歪み”の件。
世界各地で同時多発的に発生していると言われている怪現象だったな・・これについては俺も大した情報を持っているわけではないから、実在すると断定することは出来ないが・・。
ミュウの出現場所とリンクしているとの事だが、まさかPHCの不正行為と何らかの関係があるのか・・?
そして第四に、イッシュの製薬会社「ポケニック」との関係性。
登録されていない不正規の倉庫群、ファオの報告ではポケニック社のものだが、それらは現在、PHCの秘密裏の収容施設として機能していると見てよいだろう。
つまり、PHCの不正行為にポケニック社が一枚噛んでいる事になるのだ。
――イッシュを代表する企業2社が共謀し、何らかの陰謀を企てている事実を示す証拠は現時点で十分すぎるほど存在している。恐らく、間違いない。
しかも、その陰謀が世界各地で発生している怪現象と何らかの関係があるとすれば・・これは既に単なる企業の不正行為などではなく、本部の言うとおり「安全保障に関わる重大な事案」――国際問題だ。
「しかしPHCの不正疑惑を調べたら、随分と多くの“埃”が舞い上がりましたねぇ。叩けばもっと出てきますよ、きっと」
「だろうな」
そもそもポケモンハンターなど雇って秘密裏にポケモン狩りを行っている時点でマトモな企業とは言い難い。
その灰色の人間達を雇っているお陰で怪しまれずにPHC内部に潜り込めたのだが。ポケモンハンターと偽って。
ふぅ、とため息をつき窓から外を見ると、眼下にはシンオウの大地が広がっている。
懐かしの故郷。
神の伝説伝わりし古の地だ―イッシュには無い、或いはかの地が近代化の中で置き忘れてきた“静けさ”を確かにシンオウは持っているのだ。少なくともユウタはそう思っている。
「本部での報告が終わったら里帰りでもするかな」
「あ、俺もご一緒します」
間髪入れずに予定に自身をねじ込んでくるファオ。そういえば、ファオは彼の生まれ故郷に訪ねた事が無いのだとを思い出し渋々ながら頷く。
シンオウ地方の中でも、都市化が顕著な所とそうでない場所がある。彼の故郷は後者。自然の中にその姿を隠し文明化の歩みから孤立した町だ。
正直ファオが喜ぶような施設は皆無だが、自分の故郷には彼も興味があるのだろう。
――それに俺の故郷には面白いものがあるからな。コイツにも見せてやるとするか。
「いいだろう、ファオ。仕事が終わったらシンオウの秘境を案内してやる。都会にはない面白い場所があるぞ」
「それは楽しみですねぇ!」
あの場所は何度赴いても興味深い所だからな。コイツも気に入るだろう。
シンオウの歴史の重みがあそこには凝縮されている。時の歩みから取り残された場所にあったからこそ、神秘性が保存され得たんだ。
窓から外を見ると、小さな灰色の道が見える。シンオウ空港の滑走路―海路を除く、他地方とシンオウを繋ぐパイプライン―がこの高度から見るとまるでミニチュアのようだ。
帰ってきたんだな。シンオウに。
****
「おやおや、アキラさん。茂みで何をしているのかと思えば、興味深いポケモンを連れていますね」
アキラがルカとミュウを連れ、茂みから出ると白衣の男性が声をかけてくる。
「アクロマはん、実験はどないな調子や?」
彼の腕に抱えられているミュウに目を泳がせつつ“アクロマ”と呼ばれた男性は顔に微笑みを湛え答えた。
「順調です。ポータルの発生ポイントも予想地点と合致していますからね。ただ出力不足の問題がありますし、まだまだ実験段階の途中、といった所でしょうか」
明瞭な答えに相槌を打ち、アキラはそっとミュウを木の幹に横たわらせる。
彼の背後で沈黙を守っているルカには現在拘束具のようなものはつけられていない。が、それは第三者視点の話。
ゾロアークの幻影の力はルカの精神に直接作用しており、彼は今“幻の鎖”に囚われている。実体がなくとも精神を支配し、思考を固定化してしまえば、それは現実にあるのと同じことなのだ。
「計画の進行度も上々、気分も最高。加えて帯刀しとるルカリオにレアポケのミュウやで。今日はラッキーや」
豊かな真紅の鬣を掻き揚げ、アキラは自身の前身を撫でるように両手を移動させる。
と同時に、彼の体に急激な変化が表れ始めた。
全身の体毛が急速に退化し、獣の顔つきは人間のそれに近い骨格へと変貌を遂げだす。
鋭い爪は丸みを帯び、鬣は短い髪の毛へと変わり、何よりも体毛が消え顔を出す地肌は人間のものだ。
『――信じられないな・・。こんなことがあるなんて』
流石のルカもこれには驚きを隠せないようだ。
それもそのはず。
「『事実は小説よりも奇なり』ちゅーやろ?人語話せるポケモンがおるんなら、ポケモンになれる人間がおっても不思議はないっちゅうこっちゃ。世界は広いんやからな」
幻影の罠を使い自分を捕えたゾロアークが、目の前で、人間に変化したのだから。
ゾロアークの状態で着ていた灰色の戦闘用ジャケットはどうやら、変化後の人間状態にも合うように作られているらしく全く違和感を感じさせない。
よく日焼けした肌に硬質の髪。歳は十代後半、多くとっても二十歳だろう。
幼さが微かに残る精悍な顔立ちには柔和な笑みが浮かべられ、ゾロアーク時にルカが感じた攻撃的なオーラは鳴りを潜めている。
だが、相変わらず思考が読めない点、そしてルカを拘束している幻影の鎖が解除されていない所を見るに、どうも人間に戻ってもゾロアークの力は継続して発揮され続けているらしい。
人間へと形態変化を遂げたアキラはうんっと両腕を上げ背伸びをして筋肉を解す。
その様子を瞳を輝かせて見ていたアクロマは、興奮した様子でアキラに近づく。
「素晴らしい!何度見ても素晴らしい!キメラ技術の英知は人の本質さえ変えることが出来るのですね」
ポケモンに変化できる人間。 この形態変化が、キメラ技術とアクロマが呼称したバイオテクノロジーの成せる業であろうことは、ルカにも容易に察することが出来た。
やはり、お師匠様の考察は正しかったのだとルカは一人確信を深める。
謎の単語「キメラ技術」「ポータル」。それらは師が見抜いていたイッシュの暗部が確実に存在していることを示す動かぬ証拠。
彼ら新プラズマ団が何を目論んでいるのかまでは分からない。
だがポケモンに変身できる人間を抱え、秘密裏に大規模な調査団を派遣するだけの資金力と技術力を持つ組織が“平和”を謳う理想主義者の集まりとは、ルカには到底思えなかった。
やはり、この島に長居すべきではない。彼らの事を探るいい機会と思っていたが、自分の認識が甘かった事をルカは実感し始めていた。
(逃げなきゃな。お師匠様を連れて、なんとしてでも)
このままこの組織の成すがままにしていては何をされるか分かったものではない。
ベタベタと体を触ってくるアクロマを鬱陶しそうに払いのけ、アキラはルカに近寄り右手で顎を掴み、面を上げさせる。
「あんま下手な事考えん方が身の為や。大丈夫、大人しゅうしとったら悪いようにはせえへん」
半分脅しつけるように、もう半分は説得するように告げる。その表情からは悪意や敵意といったものが微塵も感じられずそれどころかどこか哀しそうな顔つきで、ルカは呆気にとられてしまう。
しばしアキラはルカの瞳をまるで品定めするかのように覗き込んでいたが、彼から不穏な空気が消えたのを感じ取ったのか
「さてと。この島での観測実験も大方完了しましたし、そろそろ引き上げるとしますか」
アクロマの発言に調査団員達は手際よく調査機材を船へと移動させ始めた。
彼とアキラが撤収作業に参加していない所を見るに、やはり彼らの地位はこの調査団内では高いようだ。
機材を運搬する調査団の最後尾にアクロマがついてくのを見て、アキラはミュウとルカの愛刀ミセリコルデを抱え彼に指示を出す。
「さ、自分も来るんや。これからちょっとの間プチ船旅することになるんやけど、自分船は平気やな?船酔い癖あるとか閉所恐怖症ちゃうな?」
『・・俺は基本的に乗り物酔いはしない』
妙な気遣いにルカはムスッとした態度で応じる。茶化している訳ではない。本心から気を使っているのだろう。
自分達をこれから拉致しようという人間が気をかけてくるというこのチグハグぶりにルカの頭は混乱しそうだった。
悪意を向けているなら分かる。あるいは完全に自分達をターゲット以外の何物とも思っていないのならば話は簡単だ。
だが、このアキラという青年はどうにも複雑な男だ。攻撃的なのか優しいのか、性格が良いのか悪いのかよく分からない。
その上波動の力を幻影で封じ込めているこの状況だと、一体彼が何を考えているのかルカには判断しかねる状態なのだ。
元々他者の感情を読む行為を波動による手段に頼ってきただけあって、いざそれを封じられると相手の心理状態が分からない事の不安がどっと出てきてしまう。
そんな彼の動揺ぶりを感じ取っているのか、アキラはルカの背中をポンポンと優しく叩く。
ゾロアーク状態の時の攻撃的な態度はどこへやら。彼本来の優しさが感じられてルカは何とも言えない気分だった。
恐らくはゾロアークに変化すると―『キメラ技術』とやらの産物らしいが―、悪タイプとしての意識が強くなり、少々性格に攻撃性が帯びるのだろう。
「そりゃ良かったわ。ゲロ袋船内に無うてな。船酔いで吐かれたら悲惨やろ」
まるでツアー客を誘導するが如く、アキラは人差し指をクイクイと動かす。付いてこいとの指示だ。
今現在ミュウの身柄と自分の剣は彼の手にある。どうにかしてこの幻影を振り切れたとしても、師を救いだし武器を取り戻す事は現状では不可能だ。
様子を見よう。隙を見て必ず脱出してみせる。お師匠様と共に・・。
ルカは決意を固め、アキラの指示に従い歩き出す。
その10分後、黒い船体の一隻の船が白波を立て島から出向したのだった――