第十六話 苛立ち
シンオウ直行便の機内。
搭乗から数分も経たない内に深い眠りに落ちたユウタの横で、ファオはノートパソコンと向き合っていた。
余程疲れが溜まっていたらしく離陸の時も僅かに寝返りを打っただけで、全く目覚める様子が無い。
「よく眠ってるなぁ」
ファオがそっと手を伸ばし彼の頬に触れても―勿論、バシャーモの猛禽類を思わせる、硬質な爪でその皮膚を傷つけないように気を配りながら――、一向に起きる気配はない。
コクコクと縦に揺れる首はゆっくりと、だが着実にファオの方に傾く。
真に深い眠りに達しているのだろう。最終的にファオにもたれ掛かるような体勢になってしまった。
バシャーモの毛髪は硬質であり、しなやかとは程遠い為、あまり顔を埋めるのに適しているとはいえない。
少なくとも普段の彼ならこんなに無防備にファオには寄りかからないだろう。手が早いこの男にこのような行動を取ればどんなことをされるか分からないのだから。
現にファオはごく自然に、さも当然と言った表情で、ユウタの肩に左腕を回し、彼を抱き寄せているのだ。
だが、何時もならファオの表情が緩むこのシチュエーション下でありながら、ファオの表情は至って真剣だ。
熟睡しているユウタを抱き寄せたまま、右手で器用にキーボードを叩いている。
「――まだ見つからないのか」
ノートパソコンの画面を凝視しながらファオは不満げに呟くと、空いている右手で少し眉根を揉んだ。
「一体何処に消えたんだあのお方は・・」
ファオの指がキーボードの上を滑る。
誰かの事を探しているのだろうか。
パソコンの画面上にはイッシュ、カントー、シンオウ、ホウエン等のマップが表示されており、各都市にはそれぞれアイコンが記されている事を考えると各都市から情報を探っているようだ。
「あれからもう2年も経つのか。――早いもんだな、時が過ぎるのは」
スゥスゥと安らかな寝息を立てるユウタを横目でチラッと見ると、彼は大きく息を吐き出した。
何時も冷静に自分を律してはいても、時折見せる純朴さや不安定さ・・ファオにとってユウタは“彼”を想いこさせる存在なのだ。
勿論、所謂“愛情”も感じているが、それ以上にユウタに対しては、庇護欲ととも言うべき感情が湧き上がってくる。
タイプこそ全く違うが、頭脳の明晰さや青年特有のアンバランスさが似ているからだろう。
「ん?」
その時、ファオはメーラーに一通のメールが来ている事に気づいた。
私用のメールアドレスではなく、情報部員専用のアドレスに送信されている。つまり今彼の元に届いたメールは“仕事”の関係者から送られたもの、と言うことだ。
早速、メールを開き内容を確認する。
文面に目を通すにつれ彼の表情は少しずつだが、曇っていった。
「――予想はしていたがやっぱりそうか」
軽く舌打ちをすると、ファオは気分転換でもしようかと、偶然横を通りかかった機内販売員を呼び止めコーヒーを買った。
横で熟睡しているユウタと同じで彼もシンオウの特務機関の情報部員。イッシュ地方での活動と情報収集による激務で既に体力は限界に近いのだ。
それでもファオはこうして起きているのは、彼が人間よりも体力とスタミナ面で優れているポケモンだからだろう。
だが、こうして糖分を脳に補給しておかなければいかに格闘タイプのファオとて体が持たない。
糖分多めのミルクコーヒーを啜りながらもなお、ファオはディスプレイから目を離さず、指で画面をスクロールし何度も文面を黙読しつづけている。
「・・こうなると、ポケニック社とも関係してそうだな」
シッポウシティの厳重な警備下に置かれていた不正規の倉庫群。
浮かび上がってきたポケニックとPHCの関連性も興味深いが、ファオはそこにある組織の暗躍を見出しつつあった。
まだ確証は無いが、これから調べていけばいずれ露わになってくるはずだ。
地下深くに潜ったイッシュの“影”の存在が。
「シンオウまで後40分ってとこか」
もう少し起きて調査を進めたかったが流石に限界が近いとファオの体は主張し始めている。
スチール缶から立ち上るコーヒーの湯気は彼の眠気を取り去るどころか、かえって体全体をリラックスさせてしまったようで、少しずつ瞼が重たくなってき始めてきた。
「少し寝るか・・」
折角だからとユウタに寄り添い、彼が眠りの世界へ旅立とうとした瞬間――瞼に閉じられる直前の瞳に、ある光景が映った。
飛行機内の乗客の為にとりつけられた機内テレビ。
そこで行われていたのは、シンオウの女性チャンピオン、シロナと四天王、オーバとのポケモンバトル。
興奮した様子の観客たち。場を盛り上げる司会者。
リーグという最高の舞台で、最高のバトルを誇りをもって行うシロナとオーバ。
そして、同じく胸を張ってバトルをするポケモン達――
感動的だ、実に感動的だ。
この映像は、放送は、多くの若きトレーナーの心を打つに違いない。
現にシロナとオーバのポケもバトルの様子に食い入るように見つめている機内の人間達の瞳は輝いている。
彼らは自分の夢――ポケモンリーグに出る事、あるいは、チャンピオンを打ち倒すという大望を抱いているかもしれない―が心の中で躍動しているのを直に感じている事だろう。
だが、人間達には理解できないだろうが・・その場で行われている事は、「ポケモンバトル」なのだ。
ポケモンをモンスターボールに入れて従属させ、人間の勝手で戦わせている。
ポケモンバトルにおいては人は殆ど傷つく事はない。傷つくのは、いつもポケモン達だけだ。
――人は安全圏から指令を出すだけ。傷つき倒れるのは、ポケモンのみ。
モンスターボールという道具に勝手に“格納”し、戦わせる・・・ポケモンを戻すタイミングも、繰り出すタイミングも全ての選択権は人間が握っているのだ。
トレーナーの様々なエゴでポケモンを拘束し、戦闘に繰り出し、あまつさえ人はそれを“信頼”だと“友情”だと呼ぶ。
そしてそれを大部分の人間はポケモンは“好き”でバトルをしているんだ、とのたまう。
ポケモンとトレーナーの間には“信頼”関係があるのだ、と“断言”している――ポケモンの気持ちを、聞いた訳でも理解している訳でもないのに。
人間はポケモンでは無い。
人にポケモンの全ては理解できない。
ポケモンの気持ちは、同族であるポケモンにしか分からない。
にも関わらず、人間が勝手にポケモンの気持ちを推測し、断言していしまう事それ自体が人の持つ拭い難いエゴイズムなのだ。
そして最も恐ろしいのは、そうしてポケモンを支配し従属させている人間達が、一人一人をみれば“善人”でまともな人間達ばかりであるということ。
つまり、ポケモンを従わせ、戦いに駆り出し、それを信頼だと友情だと断言する行為は人間の世にとって“当然”であり“常識”であると、そして人はその関係性を疑う事さえしないと言う事を暗に示している訳だ。
気分が一瞬にして悪くなったファオはテレビから目を逸らすと、そっと横を向いた。
「・・モンスターボールに入れられた段階で、ポケモンは人に支配される・・。人の恥ずべき搾取と支配の機構にポケモンは組み込まれるんだ」
“善良”で“良識”のあるポケモントレーナー程性質の悪い存在は無い。
彼らは人間的には優れていて、ポケモンの事も愛しているかもしれない。
だから人の社会は彼らを肯定する。
彼らの行うポケモンバトルもろとも、ポケモンに対する明らかな支配を認め、それを推奨しさえする。
・・ポケモンである、ファオから見ればこれ程理屈に合わないことは無い。
だが、仕方ないのだ。
人間達のポケモンに対する意識があまりに低すぎて、恐らく世の人間達にはポケモンを支配し、従属させているという自意識さえ無いのだから。
それは優れたトレーナーであろうとも同じ事だ――彼らは確かに優れたポケモンバトルの技術はもっているのかもしれないが、“ポケモントレーナー”などというものは、ファオにとって、最も軽蔑すべき存在だ。
自分達がポケモンを支配している事実に気づけもしない愚か者。
それならまだ、ポケモンを悪事に利用しているという“自覚”を持っている連中のほうがマシだ。
彼らは自ら不正をなしている事を自覚している。
勿論、ポケモンを支配し搾取している点ては同じ事だが、少なくとも「ポケモンを信頼している」だのといった偽善的な台詞は吐かない。
テレビの中で輝く笑顔を振りまく両者と観客達。
その吐き気を催すような欺瞞に、ファオはただ拳を固く握りしめて耐えていた。
高ぶる感情をなんとか収めようと大きく息を吐き出すファオ。
やり場のない激情をこれ以上肥大化させる訳にもいかず、テレビから目を逸らし、横で寝息をたてているユウタに視線を移す。
―――やがて、怒りが鎮火してくると、ファオは何とも言えない気分になっていた。
一過性の怒りは収まり、俗に言うポケモントレーナーのような人間に対する嫌悪感も和らいだ。
だが、このやり切れない気持ちを自分の心から追い出す事は出来ない。
人の世で生きるとはこういう事なのだ。
常に世の理不尽さや無理解と対峙しなければならない。
こと種族間の問題に関して言えば、ポケモンに対する意識の低さは――人間社会において、ポケモンの存在自体は重要視されているにも関わらず――少なくともファオにとっては耐えがたいものだ。
ファオは溜息をつくと、ノートパソコンをそっと閉じ足元に置いてあった鞄に仕舞った。
“彼”の行方も相変わらず掴めずじまいである所に、このポケモンバトルの生中継と重なっては気分も萎えるというもの。
・・こんな事ならさっさと寝たほうがよかったな。
「大尉、あなたをお慕いしているのは・・ふざけた人間社会の因習からあなたが“自由”だからなんですよ・・“あの方”と同じ、人の世に縛られない存在なんです」
そう呟くとファオは激務による疲れも、世の理不尽さからくる苛立ちも全て頭から追い出し――そっと瞼を閉じたのだった。
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『ジュン、あの・・ごめん』
波導拡散の機能も備える煙幕を呼びの分まで含めて使い果たし、森中をルカに見つからないように駆け回って、やっとの思いで手持ちポケモン達を回収したジュンは今、海上を滑るモーターボートの船上に居た。
唯一外傷が無かったワーズは後部座席で申し訳なさそうに項垂れている。
意識が不明のマンダやレイシア達はボールに戻し、比較的元気なワーズには今背後の見張りをやってもらっている所だ。
「謝らなくてもいいよ。僕にもあのルカリオの存在は想定外だったからね」
左手で舵を切りながら、右手で小型デバイスを操作し、任務の失敗を報告する。
正直もうジュンにはミュウの事などどうでもよかった。
今回自分がこの孤島にミュウ捕獲の為に派遣された事、それ自体に意味があったのだ――勿論、ミュウの捕獲に成功しているに越したことは無いだろうが、捕獲失敗の可能性も込々での依頼だったのだろう。
「時空の歪みにパルキアの失踪、孤島に来た謎の調査団・・面白そうだ」
PHCは一体何を目論んでいるんだろうね・・。
僕の様な下っ端には知られたくない秘密なんだろうけど、彼らに知られないように探っていくには少し工夫が必要だな、ちょっとした工夫が。
そうだ・・彼なら調べられるかもしれない。
彼の人脈なら雲の切れ端ぐらいは掴めるかも、過度な期待はできないけど。
何て言ったってハンターを雇ってポケモンの売買の裏稼業に手を染めている企業だからね、その秘密主義の徹底性は僕の耳にも及ぶほどだしさ。
だけど折角PHCの雇われポケモンハンターのポジションにいるんだし、僕の方でも探りを入れようかな。
『・・それにしてもジュン、一体ミュウ達は何を調べていたのかな・・?』
ワーズが首を傾げる。
「それが分かれば苦労はしないさ。ただ一つ言える事は、僕達は利用されたってことだ」
時間稼ぎの為にね。
今更ながら苦々しい気持ちがジュンの中で湧き上がってくる。
仕事だからと割り切ってはいても、やはり捨て駒にされるのは気分のいい事ではない。
しかも予想外の邪魔者のせいで捕獲にも失敗したとあっては尚更だ。
『ジュン・・?』
体よく利用され、任務にも失敗した。苦々しい感情を表にこそ出さないが、元々表情豊かとはいえないジュンの顔は既に無表情さを極め、能面と化していた。
――怒ると感情が表に出ず無表情になる。それがジュンの機嫌が悪い時の癖であることは、勿論ワーズも知っている。これでも彼との付き合いは長いのだから当然だ。
・・今は喋りかけない方がいいかも。
遅ればせながらそう勘付いたワーズは黙り込む。
「・・まぁいいさ」
利用された事も仕事の失敗も既に過ぎた事。今さらうじうじ考えても無駄と言うもの。
「ワーズ、これから――多分、忙しくなる。君達にはこれまで以上に働いてもらうことになるから、そのつもりでね」
突然の言葉に戸惑うワーズを余所に、ジュンはアクセルを踏み、一気にモーターボートを加速させるのだった――