第十五話 撤退
名も無き孤島の森の中で一人、ジュンは静かに佇んでいた。
ミュウを捕獲する為の罠は仕込み終わった。
森中に仕掛けた爆薬はそこを通り抜けようとするものを容赦なく吹き飛ばすだろう。
勿論、五体満足のまま爆風で意識だけを奪う程度の威力に設定してある。
少々手荒なやり方だが、あのミュウを捕縛するにはこれぐらいしなければ駄目なのだ。
ジュンは腕時計をちらっと確認する。既にこの島に到着し、ミュウと交戦を始めてから1時間が過ぎている。
にもかかわらず一向に事態が好転しない事に彼は苛立ちを隠せなかった。
罠を仕込んだものの、本来ならば石化レーザーの一発でこの仕事は完了していたはずだったのだ。
それがここまで縺れ込んだだけでも計算外何に加え、自分が仕掛けた罠がミュウに通用するとは限らない。
「ソル達とC-4トラップ・・この二つの策があれば流石に捕獲できるはずなんだけどね」
自分は抜かりなく手を尽くしたはずだ。
だが、どれだけ言葉で否定しても湧き上がる不安感は打ち消せない。
曲がりなりにも培ってきた“プロ”としてのキャリアが彼の心をざわめかせる。
この落ち着かなさを頭で否定すべきではない。そう直感したジュンはデジタル双眼鏡を取り出すと周囲を見渡す。
何かある、そう警告してくる心の声に身を委ねゆっくりと周りを観察していく。
「・・?」
と、との時デジタル双眼鏡に何かが映った。
海の側を期待もせずに、それでも一応あのミュウが何か小細工を仕掛けていないか確認する意味も込めて眺めていたのだが、どうやら心の声に耳を傾けて正解だったようだ。
「あれは船かな?僕のモーターボートよりも一回り大きな中型船と言った所か」
真っ黒な船体は孤島に近づくでもなく、遠のくでもなく、停船したままだ。
「・・あの船、妙だな」
最初は漁でもしているのかと思ったけど、そんな気配は微塵も感じないし。
ジュンは体を低くして茂みに身を潜め、双眼鏡の倍率を上げる。
人影が船内から甲板に出てきたのが此方からでも確認できた。最初に一人、その後に遅れてもう一人。
「・・明らかに“堅気”じゃなさそうな人たちだな」
どこぞの特殊部隊を思わせる黒い耐久チョッキと灰色の、見るからに機動性に優れてそうな服装。
被っている帽子は黒のベレー帽。白いクロスの刺繍が印象的だ。
初めに出て来た男と、後から船内から顔を出したが女が何やら話し合っている。
今ジュンが潜んでいる島を指さして。
「彼らもこの島に用事があるのかな?・・いや、寧ろこの島の中にいる何かに、と言った方が正確だろうけれどね」
PHCの使いかな。もしかして僕だけじゃミュウの捕獲に力不足だと思ってボスが送り込んできた、とか・・?
いや、その可能性は低い。そうジュンは結論付けた。
彼らが僕の支援に来たのならあんな所で停船させずに、孤島に乗り込んで積極的に僕と接触を図ろうとしてくるはずだ。
それはしてこないと言う事は、彼らの目的はミュウの捕獲以外にあると言う事。
あるいは、僕が捕獲したミュウを横取りしようと待ち構えている可能性も考えられない事はない。
でも、ミュウの出現ポイントデータはPHCが独自で解析、割り出した貴重な情報だ。
そう易々と他の組織が掴めるとは思えない。
・・PHCの関係者かあるいはそれに準ずる立場の人間と見る方が自然だが、それならば同じPHCの僕がこの島で捕獲任務に就いている事は分かっているはず。
なのに近づく気配すら見せないのは解せないね。・・彼らは何をしたいんだ?
ミュウの捕獲の支障になるかならないかを見極めるべく、ジュンは更に倍率を上げる。
その時、船の中から一人の男性が姿を現した。
白衣を身にまとい、土星の輪っかの様な青いエクステ―少なくとも地毛とは思えないが・・・―をした、長身の男。
その若い男性は手にしたデバイスに数度触れ、島を指さし黒服の2人にいろいろと指示を出している。
2人は敬礼をすると、船の中に戻って行った。と同時に、黒い中型船はエンジン音を立てこちらに向かってくる。
・・上陸する気だな。
一体彼らが何者なのか、ジュンには分からない。
だが一連の行動からあの船内での地位は、白衣の男が上位である事が分かった。
科学者が指揮権を持っているということは、即ちあの船が何らかの科学的な調査の為にこの島を訪れているのは明らかだ――しかも、雰囲気から見てあまり表沙汰にはしなくないであろう調査を。
「ミュウが言っていたPHCの“暗部”と関係があるのかな・・?」
ミュウの独白が彼の脳裏をチラリと過ぎる。
――『私がこの島に来ていた理由、それは最近世界中で多発している“時空の歪み”を調べる為です』――
まさか、彼らもその“時空の歪み”とやらを調査しに来たのか・・あのミュウと同じ理由で?
彼はPHCが“時空の歪み”の発生をメディアから秘匿していると言っていた。
パルキアが突如として姿を消した事と、時期を同じくして世界各地で起き始めた“歪み”の現象。それが、つながっていると。
そして、それを調査しているミュウを口封じも込めて捕獲するために、僕が差し向けられたとも。
「・・彼らがPHCと関係があって、この島にその“時空の歪み”とやらを調査しに来たとしたら、それはミュウの仮説が正しいという強力な証拠になり得るね・・」
PHCは伝説の存在、パルキアに手を出したのか?
神と呼ばれしポケモンをその手中に収め、それを世間から秘匿し続けていると・・そんな事が可能なのか?
もしそうだとしたら、“時空の歪み”を秘密裏に調査している理由は何なんだ?
ミュウが“時空の歪み”について調べていて、僕を使って口封じをしようとしているのは何となく理解できる。
もしミュウの仮説通りなら、高い知能と実行力を持つ彼が秘密を探ろうと動き回っているのは、PHCにとって心地よい事ではないのだから。
だが、今この島に上陸しようとしている彼らが、PHCの関係者だったとして、“時空の歪み”について調べる理由が分からない。
彼の仮説通り、“時空の歪み”がパルキアを捕縛している事から発生する副次的な現象ならば、PHCがパルキアを手中に収めている限り“歪み”の発生は起こり続けるのだから、調査するだけ無駄というものだ。
それをわざわざここに赴いて調べに来たと言う事は、“時空の歪み”はミュウの仮説とは違う――パルキアへの長期間の拘束と神の力の弱体化に伴う現象とは断定しきれないって事・・。
「・・まぁ、彼らがPHCの関係者であると決まった訳じゃないし、仮にそうだったとしても今の僕には関係ない。僕は仕事を遂行するだけだ」
見つからないようにスッと身を引くと、ジュンは小型デバイスのGPS機能をONにした。
ソル達を今の今まで独自に泳がせていたのは、罠を仕掛ける為は勿論の事、人間である自分が戦いの場に居ては、彼らの足を引っ張りかねないと判断したからだった。
そして何より、ある意味で彼は自分のポケモン達を信頼している事も理由に挙げられるだろう。
自分が統率しなくとも、彼らの――特にソルやマンダの――リーダーシップは、必ずミュウを追いつめる事が出来ると確信していたのだ。
だが、待てど暮らせどミュウの捕獲成功報告はデバイスには届かない。
ソル達の首輪、ポケモンの技を封じ込める『ディードジャマ―』から、朗報が一向に来ない事にジュンは苛立ちを覚え始めていた。
加えて焦燥感も。
「・・マンダ達から一向に連絡が来ないのはどういう事なんだろう・・。まさか、ミュウが一匹で彼らを倒したのか・・?いや、いくらなんでもそれはあり得ない。僕のポケモン達はそこまでヤワじゃないはずだ」
それとも本当にマンダ達が・・?僕が現場で指示を出すべきだったのか?
「――どれだけ待っても無駄さ。あなたの仲間は帰ってこない」
その時、背後から声がした。
ミュウの声とも違う。若い男の声・・清涼感溢れる青年の声にジュンは振り返る。
そこには波導ポケモンとして知られるルカリオが立っていた。
左腕には目を瞑り、意識を失っているであろうミュウが抱かれている。胸の刺で傷つけないよう気を付けながら。
そして右手には、太陽光を受けて輝く剣が此方に向けられていた。
「・・君は、ミュウの仲間・・?」
自分に突き付けられた切っ先に気を配りながらジュンは口を開く。
「そう。俺はルカリオのルカ、ルカ・アーキヴィスト。お師匠様の弟子だ」
お師匠様。ミュウの事か。
どうやらこのルカリオ、“ルカ”はこのミュウの仲間、もとい弟子らしい。
・・ミュウに仲間が居るとは誤算だったね。てっきり単独行動をしているとばかり思っていた・・。
ミュウが意識を失っている事を鑑みるにマンダ達は尽力してくれたんだろう。だが、このルカリオという新手の登場に敗れたと考えるのが一番自然だ。
しかしどうしようか、この状況。
今のジュンには手持ちポケモンがいない。
このルカリオがどれ程の実力を持っているのかは彼には分からないが、少なくとも彼が手にしている剣で喉元を切り裂く事ぐらいは容易だろう――この刺客が望めば、今すぐにでも。
ルカはジュンをまじまじと見つめ、大きな溜息をつく。
「お師匠様を狙っていたのがまさか君の様な子供だとは予想外だ。森中に爆弾を仕掛けたのもポケモンハンター、君なんだろ?」
今更ながらこのルカリオ、随分と人間の言葉を話すのが上手い。流石に流暢な人間語を話すミュウの弟子と言った所か。
・・言い逃れはできなさそうだ。
元々感情を読み取る力“波導”を有しているポケモン相手に、誤魔化しは全くの無駄というもの。
「そうだよ。“お師匠様”の捕獲が僕の仕事だからね」
「・・・一つ問いたい。何故、君はここまで出来るんだ?森のあちこちに爆弾を仕掛ければどうなるかぐらい分かっていたんだろ?関係の無いポケモンが巻き込まれ、傷つく。――お師匠様を捕まえたいという人間のエゴ・・たったそれだけの事で」
激しい非難をぶつけるでも、感情的に訴えかけるでもない、どこか達観したような視線にジュンは少しだけ顔を俯かせた。
少しだけその視線が痛かった。ほんの少しだけ、だが。
答えないジュンに対し、ハァとため息をつくルカ。
「爆弾は全部俺が無力化していおいた。もう、森のポケモン達が傷つく事は無い。勿論、お師匠様も」
「・・胸騒ぎの原因は君か。真打ちのルカリオ君、君の存在は完全に予想外だったよ」
この任務は失敗だ。
ミュウだけならばおそらくは捕獲成功していただろう。しかし、まさか仲間がいるとは夢にも思わなかった。
しかも、マンダ達を蹴散らす程の実力者と来ている。流石に今回ばかりは分が悪いと言う他ない。
首元に冷たい刃が当たっているが、どうもこのルカリオ、本当に僕をどうこうする気は無いようだ。
だったらこちらにとって都合がいい。
さっさと退却するだけだ。
ジュンはこっそりと指を動かし、服の袖を手繰り寄せる。
彼の服の右袖の内側には、小型の煙幕カプセルが隠されている――ポケモンハンターが逃走用に使用するアイテムで、袖から放出すると非常に濃い煙幕を広範囲に散布する事が出来るのだ。
またこのカプセルから周囲に放出される煙幕は“波導”を拡散させる効能もある。
予備の煙幕カプセルも後いくらか鞄にしまってある。これを随時放出しつつ、森中を煙幕で覆えばマンダ達を回収して撤退するぐらいの時間は稼げるはずだ。
と、その前に。
僕の作戦を土壇場で台無しにしてくれたこのルカリオに一つ聞いておきたいことがある。
「・・君のお師匠様が“時空の歪み”を調査していると教えてくれた。PHCの暗部にその現象がつながっているとね」
微かに首元に当たる切っ先が揺れる。
・・やはり、彼らは何かを知っているんだ。人間である僕が知らない、PHCの秘密の一端を。
この場の空気を掌握すべく、ジュンは続ける。
「波導を読める君なら気が付いているだろ?この島に上陸中の集団の事を。PHCと関係あると見て間違いなさそうだけれどね」
ミュウが彼らの存在を感知できていたのか、否かは僕には分からない。
だけど、僕がこの孤島にミュウ捕獲の為に派遣されたの事実と、あの調査団らしき存在が何らかの目的でここに訪れている現状・・・果たして偶然の一致なんだろうか。
ミュウがこの島に“時空の歪み”現象を解き明かそうと訪れ、そこに僕が捕獲の任務で来ていた・・そこへと“偶然”にも同時刻の同時期に、彼らがひっそりと“何か”を調査をしに来ている訳だ。
・・・これは、偶然と考えるにはあまりに出来過ぎている。
誰かが仕組んだ事、そう考えるのが自然だ。
やはり、ミュウが言っていた“時空の歪み”とやらがこの騒動の中心になっているようだね。
「そうか、君も細かくPHCの秘密を知っている訳じゃないんだな」
君“も”ね・・。成程、彼らも大して情報を掴んでる訳じゃなさそうだな。
「まぁね。僕は雇われハンター。言わば下っ端さ。PHCから仕事を受けるだけの末端の存在である僕が、御大層な秘密を知っているはずがないだろ?」
少し茶化してみるが相変わらず首元に突き付けられた刃先は揺らがない。
「どうやらお師匠様も君も利用されていただけのようだな。――特にポケモンハンター、君はPHC本来の目的の為に、お師匠様と戦うように動かされていた訳だ。口封じ兼目的達成の為の時間稼ぎとしてね」
・・“時間稼ぎ”か。
ミュウに“時空の歪み”を調べられては困るような理由が彼らにはあって、その妨害の為に僕が送り込まれていたと考えるのが一番筋が通るな。
で、僕がミュウと争って時間稼ぎをしている内に目的を達成すると。
“時空の歪み”の調査、あるいはその証拠の隠滅か・・。何れにせよ、僕は体よく利用されたって訳だ。
――ま、そういう依頼主の思惑も込み込みの仕事だから、それはそれでいいけれど、やはり気になるな。
・・・情報収集も出来たし、興味深い事を知れたからそろそろ潮時かな。
今回のターゲットを捕獲出来なかった事は残念だけど、今度はこの厄介な腹心もろとも僕が捕まえてやるよ。
中指で袖に仕込んである煙幕カプセルを器用に引っ張り出すと、ジュンは指の腹でカプセルを押しつぶした。
「君のお師匠様といい、なかなか興味深い事実を知れたよ。特にルカ、君の存在が僕の計画を狂わせたんだ。今度は君とお師匠様をセットで頂くとするよ。残惜しいが、今日はそろそろお開きにしようじゃないか」
ジュンが腕を振るい潰した煙幕カプセルを投げつける。
「なっ・・!?」
突然の事で対応できないルカの目の前でカプセルが破裂し、高濃度の煙幕が周囲を包んだ。
目に煙幕の微粒子が入ったのかルカは思わず目を瞑り目尻に涙を浮かべる。
「ッ!・・目潰しも兼ねているのか!だけど、視界は奪えても波導までは隠せない!」
どうせ目を開けても煙幕で遮られ何も見えないのだ。
ルカは意識を集中させ、波導でジュンの居場所を探り出す。
だが、どれだけ探ってもジュンの位置が見いだせない。その事実にルカの表情に初めて、動揺が走った。
「この煙幕か・・!」
視界を奪った上に、第二の目とも言える波導まで無力化されてしまった。ルカはまだ微粒子の付着に刺激を受ける目をこじ開け、周囲を見渡す。
だが、煙幕は周囲360度全ての視界を彼から奪っていた。ジュンの姿など何処にも見えない。
「・・じゃあね」
最後に確かに聞こえた別れの挨拶。煙幕の中でルカはただミュウを抱き抱え、立ち往生するしかなかった――