第十二話 二重の策
『何、この霧・・』
レイシアは思わず顔を顰める。
先程彼女が仲間を呼びに行く際にこの森を抜けたのだが、その時にはこんな霧は無かった。
つまり彼女がこの森を抜けてから戻ってくるまでの約10分間の間に発生したと言う事になる。
だが、この島の他の場所には霧など発生していない。第一“薄緑色”の霧など、ある訳がないのだ・・普通は。
『こんな霧、ボク初めて見たよ』
『そうだろうな。恐らくこの霧は何らかの薬品が気化したものだろう。迂闊に近寄るのは危険だ』
とソルが言っている傍から森の中に入ろうとするワーズを、レイシアは慌てて引き留める。
『馬鹿っ!アンタ、ソルが危険だって言ったの聞いてた!?』
『でも、声が聞こえたから・・』
様子がおかしい。そうレイシアは直感した。
声など聞こえてはいない。ソルも首を横に振っている。彼にも聞こえていないのだ。
だが、ワーズは確かに聞こえたと熱弁を振るう。
熱に浮かされたように『確かに聞こえたんだ!』と激しく主張する姿は、いつもの弱気な彼とは違う。
そう、何かに憑りつかれたかのような――
瞳に精気が感じられない。
『成程、そういう事か』
何かに納得したようにソルは一人で何度か頷くと、スッとワーズの背後に回り込み、そして――
トンッ
ワーズの首筋に一発手刀が入る。目にも止まらぬ早業にレイシアは一瞬、何が起こったのか分からなかった。
それはワーズ当人にとってもそうだろう。崩れ落ち気絶した彼には、そもそも認識出来なかっただろうが。
地面に倒れたワーズとソルを交互に見返し何とか言葉を捻り出す。
『ソ、ソル・・なんでワーズを・・』
『俺達もこの霧から離れた方が良い』
言外に“理由は後で話す”オーラを漂わせているのを察知したレイシアは素直に頷いた。
ずるずるとワーズをソルは咥え引きずる。
一本の引きずられた跡と二匹の足跡を残して、霧の届かない場所まで移動を終えた後、レイシアは徐に口を開いた。
『で、ワーズを気絶させた理由を聞かせてくれるかしら?こうしている間にもマンダは一匹で戦っている・・仲間を一体気絶させて戦力を削いでまでそうした理由がきちんとあるのならね』
『勿論だ』
ソルは険しい表情で霧に包まれた森に目をやった後、しばしの間を開け喋り出す。
『ワーズが奇怪な言動は、霧に足を踏み入れてから始まった。つまりあの薄緑色の霧に原因があると見てまず間違いない』
つまりソルは森全体を覆っていた“霧”がワーズに何らかの影響を及ぼした、と言うのだ。
それなら彼の行動にも納得がいく。
明らかに取り乱す一歩手前だったワーズを一時的に気絶させ、その原因と思しき霧から離させる。
そうしなければ、彼は“声”のした方に引き寄せられより多量の“霧”に触れ、汚染されていただろう。
『成程ね。ワーズを助ける為に・・でも、あの霧が何らかの作用を精神に及ぼすものだったとして、どうして私達は大丈夫だったのかしら?』
『さあな。俺にも分からん。仮説を立てるとすれば、この霧の効力は精神的に脆い部分を多く持つ存在に強く働くのかもしれんな。・・ワーズは俺達よりも未熟な部分がある。精神的脆弱さを増長させる効能があの霧にあると考えれば、納得は行く』
一頻りの納得が得られたところで、レイシア達は当初の問題へと立ち戻らねばならない。
つまり、マンダへの加勢という課題だ。
だが、あの霧が森を覆い尽くしている限りマンダの所に行くことは不可能だろう。
無理に霧の中を突っ切れば、ワーズの二の舞を踏むからだ。
『霧がある限り俺達はあの森を抜けられない。不本意だが、ここで霧が引くのを待つしかなさそうだな・・』
ソルの舌打ちが彼の苦々しい感情を端的に表す。
彼とて本当はこんな所で足踏みを喰らうなど真っ平御免だが、状況が状況なだけに苦虫を噛み潰すような気持ちで耐えているのだ。
『一刻も早くマンダに加勢しないといけない時にっ・・』
その時、レイシアの脳裏にあるアイデアが閃いた。
(私の技を使えば、この状況を切り抜けられるかもしれない・・・!)
あの邪魔な霧を取り払い、仲間を助けに行ける可能性が少しでもあるのならこれに賭けるしかない。
****
魔法薬の気化による“霧”が森の中に充満し滞留する中、その張本人であるミュウは一匹で木に寄りかかり、分厚い本を読んでいた。
彼の直ぐ傍には魔法薬の霧によって気絶したマンダがその巨体を地面に伏している。
この霧は精神に干渉し、幻覚を見せ、汚染しさえするが実の所効果は一時的なものに過ぎず、しかも濃度の薄さも相まって、精々薬効は1時間が限度なのだ。
だがしかし、それでも『魔法薬の天才』を自称して憚らないミュウが煎じたものだけあって、その効能は折り紙つきだ。
精神的に何らかの弱点や脆弱性を抱えている者はこの霧を少量でも吸い込んだだけで、幻覚と夢の世界に旅立っていくだろう。
無論、ミュウとその仲間にはこの薬の影響を受けない処置が施されている為自滅する心配は無い・・例え、“霧”の発生源に居たとしてもだ。
古代の言語で書かれた如何にも難解そうな本をぱたん、と閉じミュウは空を見上げた。
「ルカはまだ来ないのでしょうかね」
早くあのポケモンハンター達を退け、残留している時空の歪みのエネルギーを観測しなければいけないと言うのに・・。
いや、既にハンター達との戦闘に入って40分以上が経過している。
もう時空の歪みから漏れ出たエネルギーは霧散してしまった可能性も高い。
折角の観測機会が潰えてしまったかもしれない。むくむくと不安感と怒りが自身の中で頭をもたげ始めるのを、ミュウは諦観を持って静かに打ち消す。
いざとなれば、観測はまた別の機会に行えばいいだけだ。彼にとって“時間”など有り余る程あるのだから。
問題は自分を捕獲せんと画策しているポケモンハンターの存在。
「少し舐めていたようですね・・あのボーマンダとグレイシアの実力を・・」
ミュウが少し体を揺らすだけで、全身に刺すような痛みが走る。
その神経を針で刺すが如くの鋭い激痛にミュウは思わず顔を強張らせた。
「まさか、私にここまでダメージを負わせるとは」
どうやらマンダとレイシアの攻撃によるダメージが今になって体に響いてきたらしい。
マンダ達もまさか自分達の攻撃がミュウに有効打を与え、その動きを封じているとは夢にも思ってはいないだろうが、それも仕方がないことだ。
ミュウ自身さえ、つい先ほどから例のバトルによって予想以上の深手を負っている事にやっと気づいたのだから。
パチン
彼の指が軽やかな音を発する、と同時に何処からともなく鞄が一つ地面に落下した。
彼方此方が破れ古ぼけてはいるが年季が入っていて丈夫そうだ。
鞄に手を入れ、がさがさと中を探る事数秒。手には彼の小さな掌と同じ程の小瓶が納まっていた。
桃色の液体が満たされた小瓶の封印を解くと、彼は目を瞑り一気にそれを飲み干す。
「っ・・!!」
煎じた自分でさえ出来ればあまり口にしたくは無い、苦味と渋味を極限にまで高めたようなお世辞にも“美味しい”とは言い難いその味に思わずミュウは口をすぼめた。
「全く・・この味には慣れませんねぇ・・」
不味さの極致を体現する魔法薬ではあるが、その薬効もまた極端なほど高い。
“ミラーコート”による倍化ダメージに“大文字”による追撃、さらには“吹雪”から来る体の冷えと“ドラゴンクロー”の物理的な衝撃・・この1時間足らずの間に、ミュウは既に限界値ギリギリのダメージを負っていた。
特にあのレイシアが置き土産として残していった、森全体を覆い尽くす氷結攻撃はミュウの体を真から冷やし、今もその“冷え”は彼を弱らせ続けているのだ。
ミュウが飲み干したこの魔法薬は体の冷えを取り去り、肉体と精神を一時的に高揚させる事が出来る優れものである――少なくとも、弱り切った自分が例の少年ハンターとそのポケモンに見つかって敢え無く捕獲される事態を未然に防ぐには、十分な効力を持っていると言えよう。
だが、あくまで薬効による気分の高揚と体力の回復は“一時的”なものに過ぎない。
体に蓄積されたダメージというのは、どんな薬でも完全に取り去る事は不可能だからだ。
薬と言うのは、結局の所、肉体が自分の力で自身を再生するのを手助けする事しか出来ない――これは現代医学による薬でも、ミュウが煎じる魔法薬でも同じ事が言える。
その意味でミュウは、全ての傷を癒す究極の薬は“時間”であると考えている。
時間が立てば肉体の傷は癒える。心の傷も長い時間を掛ければ、少しは楽になるものだ。
どんな魔法も、医学も、自然の治癒にほんの少し力添えをすることしか叶わない。そして、だからこそ研究を重ねる意味がある。
しばしミュウは目を瞑り気を落ち着かせていたが、魔法薬がじわじわと痛みを全身から取り去っていくにつれて彼の気力も回復してきた。
「さてと・・流石にこれ以上時間を潰すのは得策とは言い難いですね。折角島全体にかけておいた魔法も解除されてしまったみたいですし」
ミュウがマンダ達と出会う前に予め用意していた“眠りの魔法”は、どうやら術者である彼が予想外のダメージを負った事で発動する前に解除されてしまったらしい。
彼の体力も魔法薬による回復があるとはいえ、今さら魔術を使う気にもなれない。
一時的に回復しているだけで、体に蓄積されたダメージが消えたわけではないのだ。
此処で無理をすれば、いざという時に動けなくなる――そんな可能性は長年生きてきたミュウには容易く予想できる訳で、今ここで魔法を使う訳にはいかない。
そう判断すると彼は本を携え、ゆっくりと宙に浮き始める。
「ルカ・・早く来なさい」
普段は常に自信に溢れプライド高く、傲慢で高飛車な言動のミュウではあるがいざ追い詰められると意外な一面――精神的な脆さと寂しがりな性格が溢れ出してくるようだ。
所謂『ツンデレ』にカテゴライズされるであろうミュウは間違いなく扱いづらい性格であり、彼の弟子であり“女房役”のルカリオ、ルカ・アーキヴィストしか共に暮らしていけないだろう。
パチンと指を鳴らし、再び何処からともなく懐中時計を取り出す。
先ほどの薬瓶といい、一体どこからアイテムを出しているのかはミュウしか知らない。
「後10分でそろそろ1時間ですか・・ルカがここに着くまでもう少し、と言った所でしょうね」
ふと、ミュウは気温がぐっと下がりだしたのに気が付く。
「随分寒いですね・・」
先程飲んだ例のゲロマズ魔法薬の効能で全身が火照っていた為、今の今まで気が付かなかったが周囲の空気がヒヤリと肌寒くなってきているのだ。
何が起きたのかと周囲を見渡すミュウ。その時、彼の頬にふわりとした白い何かが触れた。
「雪・・?」
彼の頬に触れたもの。それは雪だった。
ミュウが上を見上げるとしんしんと雪が降り始めている。“吹雪”の技とも違う。
――島全体に雪が降り始めている。
と同時に森全体を覆っていた気化した魔法薬“汚染の霧”が氷結しだした。
絶え間なく振り降りる雪に接着し、氷結を初め、濃い霧の覆いが少しずつだが薄れていく。
「これはこれは」
何が起きているのか瞬時に理解したようで、ミュウは目を細め周囲を見渡す。
「例のグレイシアが応援を連れて戻ってきた、という所でしょうかね」
スッと目を閉じ感覚を研ぎ澄ませる。
彼は弟子のルカのように波導を読む事は出来ないが、代わりに普通のポケモン達の何倍もの時間を生き、経験を積んできた。
“超感覚”とも言うべきこの力をもってすれば、例え背後からの不意打ちでも高い確率で避けれる。
「・・後ろから、ですか」
“守る”を発動させるミュウ。
次の瞬間、半透明の防壁に衝撃が走った。
「おや、君は先ほどのアブソル君ではありませんか」
悪タイプの物理技“辻斬り”は“守る”の障壁によって、ミュウには届かない。
背後から不意打ちを狙ったのだろうが、やはり流石はミュウと言うべきか。
その爪は獲物を裂く事は無かった。
『お初にお目にかかる。俺はアブソルのソルだ』
『初対面でいきなり不意打ちとは、なかなか趣きがありますねぇ』
ミュウが人間の言葉からポケモン語に切り替える。彼が本気になった証拠だ。
そんなミュウの言葉に、ソルは少し苦笑する。
『俺も卑怯なやり方は気が進まないんだが、何分うちの雇い主がアンタをどうしても手に入れたいらしいからな。悪く思うな』
次の瞬間、ソルの姿が霧散した。
『なっ・・』
“守る”の障壁に阻まれ、その壁越しに喋りかけていたアブソルの姿が塵のように消えてしまったのだ。
『これは、影分身・・!それでは、本物は・・』
ザッ
背後から“本物”のソルの斬撃が、ミュウを襲う。
『くっ・・』
苦しそうに呻き、ミュウは地面に叩きつけられてしまった。
氷点下まで冷え切った空気とフェイクの不意打ちがミュウの“超感覚”を鈍らせていたのだ。
『・・一度目の防御を見越した上での二段構えの奇襲ですか、随分と味な真似をしてくれるものです』
『こうでもしないと、アンタは倒せそうにないもんでね』
背後からの奇襲を成功させた“本物”のソルがゆっくりとミュウに近づく。
口調こそ先ほどのマンダやレイシアとは違い決して荒々しいものではない。
しかしミュウの長年培ってきた“超感覚”は、このアブソルに対して危険信号を発していた。
何とか立ち上がると、瞳に怒りを湛えソルを睨む。
魔法薬による体力、気力の回復。あれが無ければ今頃は倒されていただろう。
『しかし俺の“辻斬り”をもろに喰らってもまだ立てるとは、流石マンダ達が苦戦しただけあるな』
『そういう君は、先ほどのボーマンダ達と随分雰囲気が違いますねぇ・・』
折角の回復も今の一撃で4割近くが削られてしまった。
悪タイプの一致補正があるとはいえ、このアブソルが高い実力を持っている事は明らかだ。
だが、それ以上に――この島の天候を支配し、雪を操っているであろう例のグレイシアが姿を現さない
『ふん、あの小娘は何処かの茂みにでも隠れているのでしょうかね。実力差を考えて正面衝突を避ける作戦ですか。つくづく狡い方々だ』
『まぁアイツを説得するには少々骨が折れたがな。アンタの化け物じみた力の前に、レイシアを晒す程俺“達”は馬鹿じゃない』
軽口を叩いてはいるが、ソルの眼光は依然として鋭いままだ。
対してミュウは黙って指を鳴らす。
虚空からぽとりと小瓶が彼の手の中に落ち、納まった。
今度は青色の液体が瓶の中で波をうっている。
『私の感覚さえも鈍らせるこの寒さ、厄介ですね。この雪の世界を作り出している彼女に潜まれていては私としてもいい気分はしません。君達をまとめて処理させていただきます』
パキッと小瓶の封を開封し、ミュウは掌に液体を零さない程度に注ぐ。
『君達が先程取り払った“霧”。あれは私が煎じた魔法薬が気化したものです。そして、勿論“これ”も私のお手製ですよ』
ミュウは掌に溜めた液体を“サイコキネシス”で宙に浮かせ、薬液の粒を作り出した。
(来る・・!)
ソルの直感通り、念動力によって浮いた薬液が一気に弾丸の如く放たれる。
予期していた攻撃に対し、ソルは軽い身のこなしで全てを避ける事に成功した・・だが、薬液が木々に付着した瞬間、ジュッと音を立て焦げた臭いが立ち上ったのを見て、ソルの表情が曇る。
『・・随分とけったいなもの使ってくるんだな。腐食性の薬品か何かか?』
軽い舌打ちをし、ソルはチラリと先ほどの木に目をやる。
小さな薬液の粒が付着しただけだと言うのに樹皮の表面は焼け爛れ、大きな穴が開いていた。
彼の表情から余裕が消えた事にミュウは満足そうに顎を撫で、笑みを浮かべている。
この魔法薬は、ソルの察した通り高い腐食性を持つ劇薬だ。
しかもミュウと彼が“仲間”と認める存在には効果が無い。通常の薬では無い、“魔法”薬だからこそ出来る芸当と言える。
『ご名答。そしてこの魔法薬とサイコキネシスを組み合わせればこんなことも出来るのです』
薬瓶を空中に放り投げる。咄嗟にソルは身構えるが、瓶から零れ落ちた薬液はミュウのサイコキネシスによって空中に固定されている。
と、次の瞬間魔法薬が一気に高く舞い上がり、“弾けた”。
『まさかッ・・!』
『“腐食の雨”ですよ』
そう、先ほどの劇薬が雨となって頭上から降り出したのだ。
『ぐぅ・・』
腐食薬の雫がソルを襲う。
ソルの表情が大きく歪む。
ほんの一滴が体に触れただけで焼印を押されたかのような痛みが彼の全身を貫く――そして、それはソルに限った話では無かったようだ。
『もうっ!何なのよ、これ!』
劇薬の雨に堪えかねて茂みから飛び出してきたのは、この島の天候を雪に変えた張本人、レイシアだ。
『やっと姿を現してくれましたか、お嬢さん』
地面に降り注ぐ“腐食の雨”。
腐食性の雨粒は茂みに隠れ、直接戦闘を避けていたレイシアを引きずり出す為のものでもあったようだ。
一粒一粒は大した脅威ではないが、それに体を晒され続けるのは大きな苦痛に違いない。
雨粒は地面に落ち、草や木々を腐食させ始め、地面からは煙草をコンクリートに押し付けた時の様な音と共に煙が上がっている。
『・・“守る”』
ソルは“守る”の防御壁を展開し、雨粒から身を守るが・・なぜか横のレイシアは動かない。
何時もならミュウは察する事が出来ただろう、この違和感を。しかし、この寒さの中それを彼に望むのはあまりに酷だ。
『おや、君はこの“雨”から身を守らないのですか?』
『・・・ええ』
ミュウは目を細める。
何かが変だ。高い腐食性を持つ劇薬の雨が降り注いでいると言うのに、彼女は一向に防御しようとしない・・それどころか、痛みすら感じていないかのような表情だ。
周囲の木々や草は腐食が進んでいる。薬効が確かに持続しているしている証拠だ。
だが彼女の体には明らかにダメージが無い。
あの雨の中にいれば数分と経たず全身が焼け爛れるはずなのに。
『まさか――』
『隙あり!“冷凍ビーム”』
“背後”からレイシアの声がした。と同時に冷凍ビームが無防備なミュウを襲う。
そう、これも罠。
先程茂みから飛び出してきたのはレイシアの“身代わり”によって作り出された囮だ。
ソル達は既にミュウの持つ尋常ならざる直観力を見抜いていた。
ジュンのキャプチャーから分身を作り逃れた、あの判断力は彼女達にとっては脅威以外の何物でもない。
だからこそレイシアが天候を操作し、この島を感覚が麻痺する程の寒さに覆われた場所に変える事でまずその“直観力”を鈍らせる必要があった。
その次にミュウの最大の弱点――プライドの高さから来る“油断”を引き出す為にも、レイシア達は一度彼に隠し技を使わせる事にしたのだ。
ミュウの実力は確かに高い。ジュンの手持ちの中でトップの力を持つソルを、遥かに上回っている。
だが、ミュウの本当の敵には彼の中にある“慢心”。そして、それを上手く利用する事がソル達にとっての唯一の勝機だった。
まずはソルが“影分身”を用いた不意打ちでミュウに適度なダメージを与えておく。
そうすれば短気なミュウは確実に大技を使ってくる事は容易に予想出来た。
次にレイシアが技の発動に炙りだされて出てきてしまったかのように見せかければ――自分の分身体を作る“身代わり”をもってすれば簡単な事だ――必ずず大きな隙が生まれる。
その隙を突いて本物のレイシアが攻撃する。これがレイシアとソルの作戦だった。
完全にレイシア達の術中に嵌ったミュウは力なく地面に落下する。
回復量を上回るダメージに加え、体を芯から冷やす寒さ。最早限界だった。
と同時に“腐食の雨”が上がっていく。
ミュウの意識が途絶えた事で技が解除された印である。
レイシアとソルはお互いに顔を見合わせた。
『やっと勝てたわね・・。正直、また起き上がってきそうで怖いけど』
『心配ない。既に意識は途絶えている。ま、マンダと俺達をコンビネーションが無ければ、到底倒すのは無理だっただろうがな』
二匹は地面に横たわるミュウに再度目を向け深いため息をついた。
『ここまで疲れた仕事は久しぶりだ』
『そういえばソル、ジュンと出会う前は他の“雇い主”の下に居たって・・』
彼女の言葉に対しソルは目を少しだけ泳がせ、一息つくと何かを言おうとした。
ずっと彼が隠し続けて来た事について話そうとしたのか、それともお茶を濁そうとしたのか。
何れにせよ彼女がソルの言葉を聞くタイミングは永遠に失われる事になった。
『お師匠様〜!!』
上から聞こえてきた大声に掻き消されてしまったのだ。
声がしたかと思いソルとレイシアが空を見上げたその直後、一匹のポケモンがソル達の目の前に着地した。
傷つき倒れた“師匠”を庇うかのようにミュウの前に跪き、此方に鋭い眼光を向むける真打ちの登場にレイシア達は只々驚きを隠せない。
青と黒の毛並に狐や犬に近い顔。腰に巻かれたベルトには鞘に収まった剣が収納されている。
格闘、鋼の複合タイプを持ち“波導”を読むことが出来るそのポケモン――ルカリオはゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。
そして一言。力強く、ルカリオは咆哮したのだった。
『ここから先、お師匠様には指一本触れさせはしない・・・偉大なる錬金術師『ヘルメス・トリスメギストス』の弟子、ルカ・アーキヴィストの名に懸けて!!』