につめるしおチャイ
につめるしおチャイ
昨晩はお楽しみでしたね、とでも思ったか。
残念だったな。アーカラ島の守り神に聖なるピンクの輝く粉をぶっかけられはしたが、その後は何もなかった。覗かれていると承知の上で事に励むほど相方も俺もマニアックではない。
あのな、おまえに言っているんだよ。
この島を抱く潮騒のように、さりげなくも確かに常に在る視線――――俺たちをみつめているおまえは、誰?
***
今朝の鳥ポケモンの声はいつもより静かだ。シングルベッドの上、夢から醒めたばかりの頭でそう思う。あのおぞましい雷雨を経て絶対数そのものが減少している気がするし、悲しいぐらいに威勢もない。まるで挽歌だ。
それでもアローラには残酷なまでにあっけらかんと太陽の光が降り注いでいる。
俺たち二人がここ、せせらぎの丘近くのオテルしおさいのヴィラに滞在を始めてから何週間を無為に過ごしただろうか。俺はさすがに時差ボケによる頭痛は収まったが、その代わりに襲い掛かってきたのは悪寒だった。
自分の腹部におそるおそる触れてみる。
昨晩、謎の化け物の爪に貫かれたはずの腹には、やはり傷一つ残っていない。
ひんやりとした板張りの床に裸足を下ろす。
枕元で惰眠を貪っていた手持ちのシシコを抱き上げ、眩しい光に誘われるようにソファへと歩み寄った。
ニャスパーを侍らせてソファにしどけなく横たわっている相方の、その白い短髪に手を伸ばす。ふわふわと柔らかい髪は指先でかきまぜると存外にいい気持である。
相方は眉間に深い皺を刻み、軽く魘されていた。いつものことだ。何週間たっても時差ボケが取れない相方は、今もまだ暗く冷たい孤独な悪夢から逃れ得ていない。そう簡単なことではないだろうけど、少しずつでもこの南国の光と熱が相方を癒してくれればいいのだけれど。
――まあ、今のアーカラ島の状況では難しいかもしれないが。
俺が傍にいてやるだけではだめだった。相方の周りはまだ、敵だらけだった。
シシコをソファに預けると、俺は潮風を浴びながらテラスからヴィラの外へと歩み出す。南洋杉や椰子が涼しげに風にそよぎ、咲き初めのハイビスカスが清らかに揺れる。
濡れた芝生を裸足で踏むと気持ちがいい。
顔を上げれば空には見事な虹が架かっているのが見えて、嬉しくなった。
ヴィラの前庭から漂うしっとりと甘く優しい香りに誘われて、朝露に濡れたプルメリアの花をひとつずつ摘みとる。俺は花が大好き。春のカロスの花畑もいいけれど、常夏のアローラの花々も目に鮮やかで心躍る。
「アローラ、メラノさん」
疲れ切った銀紫色の瞳が開かれ、相方が囁く。
「アローラ、アルバさん」
この土地で幾度となく繰り返してきた挨拶をする。俺だけを見ているその瞬間はアルバは優しい目をしているけれど、すぐ厳しい顔になって周囲を素早く警戒する。カロスにいた時からの癖。いつまでもカロス気分が抜けないから時差ボケも治らないんじゃなかろうか。
ソファに横たわるアルバの隣に身をねじ込んでいる俺は、膝に乗せたシシコを撫でながらそんなことを考えつつじっとおとなしくしていた。やがて相方は横になったまま戸惑いの声を上げた。
「……おい、これは何だ」
「俺が今朝作りました」
アルバの頭には、俺が手ずからこしらえたフラワーレイが芳香を漂わせながら乗っかっている。つややかな五枚の白い花弁の端を黄色に染めてきゅっと括ったみたいなプルメリアの花をふんだんにあしらった自慢の一品。我ながら上出来だ。
「知ってるかアルバさん。満月の翌朝にプルメリアのレイを好きな人に贈ると、夢が叶うんだと……」
きょとんとしている相方の頭を撫でながら教えてやると、相方はおとなしく撫でられながら苦笑した。
「昨日の今日なのに、すっかりいつものペースだな。尊敬する」
「月齢チェックして前からこっそり準備してたからな……雷雨で蕾が散らなくてよかった」
「お前の夢、教えてくれないのか?」
「……いや、ごくありきたりな幸福しか夢見てないけど」
「ほう。この私と末永く幸せに一緒に暮らしたい、とか?」
「ばか、はずれです……アンタと一緒に普通に生きたいです」
そう答えてやると、相方は本当にしあわせそうな笑顔を浮かべ、身を起こすと俺のこめかみや頬や鼻や瞼にキスの雨を降らせた。
信じられるか? これで昨晩は何もなかったんだぞ。
相方と一緒に朝食を準備する。といっても、トロピカルフルーツの皮をむくぐらいしかできないけれど。
昨日、海帰りに道端のフルーツスタンドで腐るほど買ってきた果物がまだたくさん残っているのだった。停電さえなければミキサーにかけてスムージーにしたものだが、こればかりは仕方がない。それもこれも昨日の化け物がアーカラ島の発電所を襲撃してくれたおかげだ。
ニャスパーが念力で手際よく果物を切り分けている傍で、シシコに火の粉でヤカンの湯を沸かしてもらった。アローラに来た当初は俺たちはアローラのコーヒーを片っ端から飲んでいたが、次第に茶に凝りだした。オーガニックの香料が配合されたトロピカルフルーツティーも色々と試したが、今朝はハーブティーだ。その名もママキ茶。
ママキ茶はアローラ原産の天然ハーブ・ママキを百パーセント使用、湯を注ぐと瞬く間に黄金色に透き通る香り高い茶ができる。これがまた、長時間抽出すればするほど深くまろやかな味になるのだ。そこにパイルジュースやマゴジュースなどを加えれば酸味のきいたプランテーション・アイスティーの完成である。これもまたアローラの生んだ格別の味。
「はいどうぞアルバさん。熱いから気を付けて」
「ああ、ありがとう」
朝の光の満ちるヴィラは、爽やかな風が通り抜けて心地よかった。いつもより鳥ポケモンが静かなリビングで、熱い茶と甘い果物を楽しむ贅沢さ。
――――あとはこの奇妙な視線が無ければ、何も言うことは無かったんだがな。
アルバが心なしかピリピリした面持ちでホロキャスターでラジオのチャンネルをいじっている。アルバも視線に気づいているはずだ。だからよく眠れないのだろうに、虚勢を張って何も言わないところがまたかわいい。
幸いホロキャスターにはまだ充電の余裕があったので、アルバと俺はフルーツを齧りながらアローラのラジオニュースを聴いた。
まあ俺に関していえばイッシュ語がひじょうに苦手だから9割以上は聞き洩らしているわけだが。特にH音というのが生粋のカロス人である俺にはさっぱり聞き取れないし、アルバ曰く発音もできていないらしい。オテルしおさい、アノアノリゾート、オアナタウン、いずれも俺にはどこがどう間違っているかさっぱりわからないが。
ニュースはやはり昨日の怪物の話題で持ちきりだった。懸命なリスニングの結果、驚くべきことにはカンタイシティだけでなくコニコシティも、そしてアローラの他の島々もそれぞれほぼ同時刻に異空間から出現した化け物の襲撃を受けたのだということが何となくわかった。
「エーテル財団とやらの仕業かねぇ、やっぱり……」
「エーテル財団の代表理事が行方不明になったと言っていたし、十中八九クロだな」
「でもな、うまくいくと思った時に限ってやたらバトルの強い子供のトレーナーが邪魔しに出てきて、いいところ綺麗にかっさらわれるんだぞ……」
「まったくだ。私たちのフレア団から学んでほしかった」
ママキ茶を啜りながら、二人でニヤニヤする。
今日も相方と二人で茶がうまい。
生き残った喜びをかみしめる。
今回の事件によるアローラ全体の死傷者と思しき数値は、どうにか聞き取りに成功した。耳を疑う数字だ。全人類を滅ぼすべく最終兵器を作動させるにあたってもさしあたりセキタイ住民を全員町から追い出して結果的には直接的な被害者を出さなかったこの俺を見習ってほしい。
***
「この分だとしばらくアローラに足止めだろうが、観光どころでもないだろうな」
一通りニュースを聞いたらしいアルバがホロキャスターの電源を切り、マゴの実をナイフで器用に切り分けながら仏頂面で呻く。
面倒なことになったとは俺も思う。海外旅行保険金の請求だけでもそれがカロスという土地ではどれほど面倒な手続きに化けるか、想像するだに頭が痛い。カロスの在外公館もイッシュまで行かないと無い。出国の支援もいつ受けられるか。そもそも未だに安否確認が来ない――昨晩化け物に襲われた時なんてちょうどカロスは朝だろうに、マジで故郷の怠け者どもめ、仕事しろよ。
一方で、そんな間抜けしかいないカロスに早く帰ってやらないと、とも思う。自分も随分な善人に心変わりしたものだ、明るく暖かいアローラの人々と自然のおかげですっかり浄化された気がする。でも俺はただ、相方と俺が自分らしく生きるには故郷に帰るのが一番いいと合理的判断を下すに至っただけだ。
善人ぶるついでに、アローラでも何かできたらいいのだけれど。この土地にはすでにたくさん助けてもらったから。
「なあアルバさん、カンタイシティの復興の手伝いしにいく予定とかある?」
「やめた方が無難だろうな。治安も悪化しているはずだ。インフラの停止に伴いポケモンセンターもろくに利用できない状況で、ポケモンを出すのも控えたいところだぞ」
アルバにはすげなく却下されてしまったが、それも一理ある。
護身用にポケモンを連れ歩くことを習慣としている身には、出歩くことすらままならないようだ。特にアローラ地方では一般トレーナーが非ライドポケモンの力を借りて空路を移動することを法律で禁じているから、飛行ポケモンを主な移動手段としてきた俺たちはなおさら不自由だった。
でも、俺はあまりこの程よい薄暗さと涼しさが完備されたヴィラでじっとしていたくはない。相方もそれは同じはずだった。
なぜって、ここにいるとうすら寒い視線を感じるから。
「アルバさん……気づいてるとは思うけどさ……」
そう渋々と切り出すと、テーブルの向かい側のそいつは、わかってる、と不愛想に鼻を鳴らした。
「この機会に覗き魔をたたき出すか」
「今までよく放置してきたよなぁ」
「お前が呑気に寝ている間に私が何度調べたと思ってる」
「ごめん。おつかれさまです……」
こそこそと謝って小さくなる。ますますアルバを不機嫌にさせてしまったようだ。やはりアルバもこの謎の視線を気味悪がり、俺の知らないところで調査してくれていたのだ――まったく気づかなかった。
「……言ってくれれば手伝ったのに」
「足手まといが偉そうに……」
「で、その足手まといは出しゃばらずに呑気にお寝んねしてたのに、アルバさんはまだ犯人を見つけられてないわけね……」
「うるさいな」
アルバは苛々とホロキャスターをローテーブルの上にガタンと倒した。
現況に満足することを知らずもがき続ける相方のその顔を見るのが俺は大好きである。相方が不細工な面を晒していると、俺はなんだかにやけてしまう。フレア団時代からの癖だから仕方がない。
「…………かっこつけて一人で頑張って調べたのに視線の原因が全然わからないから、だから俺の愛しいアルバさんはこのところ不機嫌なのね…………」
すると苛々のボルテージがマックスに達したアルバはテーブル越しに、ぐい、と俺に顔を近づけてきた。――お、キス来るか、キスしちゃうのか? と思ったら案の定、無言のまま唇で唇を塞がれた。
意味が分からない。
あ、いや、分かるわ。黙れってことかよ。やだ、情熱的。
視線の主はマスコミとかストーカーの類ではない、と俺たちは意見の一致をみた。それぐらいなら手持ちのポケモンたちがすぐに感づく。
その心なしか冷ややかな視線を感じ始めたのはいつからだったか、思い返せばアローラに来た当初からだったかもしれない。「何かがいる」というささやかな感覚は慣れない異国の雰囲気にいとも簡単にかき消されてしまった。にもかかわらず確かにそこにあると感じさせる。
カロスで散々恐ろしい視線に晒され敏感になっている俺と相方とポケモンたちがアローラで遭遇したみつめる視線に対して警戒心を抱くのは、当然の成り行きだった。しかし果たしてその視線は数週間まったく動かず、俺たちに対して何ら物理的なアクションを見せたためしがない。
「得体のしれない何かにただただ見られている」という感覚に怯え続けて、昼間は海やカンタイシティに繰り出して気を紛らわせて、カロスに帰る気にもなれなくて。次第に疲れ果てて、惰性で視線の存在を受け入れてしまっていたのだ。
でも、俺たちは視線と戦わなければならない。
そう決めたから。カロスに帰ると決めたのだから。こんなところで挫折するわけにはいかない。もう逃げない。
だから俺たちは手持ちのエスパーやゴースト、フェアリーといった霊感の鋭いタイプのポケモンを総動員して改めてヴィラ内を探査させた。いずれもカロスでの厳しい逃亡隠棲生活で感覚を研ぎ澄まされた索敵のエキスパートである。
が、数時間かけて総ざらい調べさせたものの、成果は芳しくなかったのだった。
「さっぱりだな」
「ああ、腹立たしいことこの上ない」
「どういう事だと思う、アルバさん」
「よっぽど高位の存在という可能性もある。カプとか」
「アーカラ島の守り神か、まあ、かなりありそうな話だけど……」
実際にピンチを救ってもらった経験もあるわけだし。
しかし解せない。それはアルバも同じようだった。肩にニャスパーを乗せ、腕を組み、片眉をひょいと持ち上げてみせる。
「……何故アローラの守り神がカロスからの観光客ばかり何週間も注視し続ける、という話になるが」
「それなんだよ。カプ・テテフはかなり気まぐれだって話なのに、たとえ要注意人物の元フレア団員だろうと神さんの前じゃ屁でもなかろうに、監視するほどのことじゃないような」
「別の視点から考えてみるか。メラノさんはこのヴィラの外で同様の視線を感じたことがあるか?」
「いや……なんかここにいる時だけ見られてる感じがする。だからここんとこ毎日暑い外に出てたわけだし」
「そう、たとえばヴィラ内に監視カメラが仕掛けられているというほうがまだ理屈が通る。だが私たちの手持ちが機械類を見逃すはずがない、散々カロスで訓練してきたのだから」
議論しても結論は出ない。なにせ視線の元に関する情報がさっぱり出てこないのだ。
けれど相方と喋っているだけでも俺は楽しい。もう何週間も、いやフレア団でこいつに出会った時から何年間もずっとこうして時間を潰してきたものだ。たとえ結婚したとしてもまるで破綻するビジョンが見えないぐらいだ。
そこで俺は思い出した。
昨晩のドタバタですっかり忘れていたが。
つい昨日、太陽と月のご照覧の下、まさにプロポーズし合った仲ではないか、自分たちは。
思い出すと顔が熱くなる、思わず頬が緩む。そうだ、そうであった、自分はこの相方をとうとう配偶者として得るに至ったではないか。そしてやるべきことは見えた。
「なあ、アルバさん」
「なんだ、メラノさん」
「調査はまた明日、な。今日は結婚指輪を買いに行きたい。コニコのジュエリーショップに行こう」
そう、気晴らしは必要だ。少しはお日様の下に出よう、日焼けは心身のゆとりの証。奇妙な暗い視線から自由になろう。
被災地でお金を落とせばアローラにとって多少の支援にはなるはず、それに島クイーンの店なら決して悪いことにはならないはずだ。たとえ店が閉まっていたとしても、命の遺跡まで足をのばしてカプに昨日の礼を言いに行けばいい。
そしてカンタイシティとコニコシティは海を挟んで互いの岸が見えるぐらいの距離だ、このどさくさに紛れて飛行ポケモンでそれぐらい飛んでしまってもばれないだろう。すぐに戻ってこれるし、悪くないアイディアだ。
そのように俺はゴリ押しした。
外出そのものを渋っていたアルバはチイラの皮をむきながらしばらく苦い顔をしていたが、やがて諦めたように表情を緩めて首を縦に振った。愛のパワーのなせる業だ。
***
疑念に満ちた視線が怖い。
悪いことをした自分に向けられる非難の目。ある程度覚悟はしていたけれど、足がすくんだ。そうだ、視線とはこういうものだった。暗く冷たく容赦がない。
強面で小柄なブルーを連れたアローラの警官の前で俺が情けなくびくびくしていると、険しい顔をしたアルバが警官を強く睨みながら俺の前に出てくれた。庇うように。
その後ろ姿が輝いて見えた。眩しすぎて目がかすむようだ。
ありがとう。ごめんな。いつもアンタに守ってもらってばかりだ。アンタだけが頼りだ。
そして俺たち二人はコニコシティ傍、9番道路交番にしょっ引かれつつあった。
説明を端折りすぎたな。事のあらましはこうだ。
アルバと俺はカンタイからコニコまで、行きかうライドギアポケモンに紛れるようにして軽く手持ちの飛行ポケモンの背に乗ってひとっ飛びしたわけだ。その距離は1kmもなかったはずだ。そうしたらうっかり、パトロール中だったらしきブルーを連れたコニコ駐在の警官にちょうど見つかってしまった。以上。これから説教を受けに行きます。
世間の目を逃れている前科持ちのくせに何をしているんだ、と思うか? でも仕方がないんだ、コニコ行きの船の出るカンタイの乗船所は、家族や友人の安否を気遣う人々で阿鼻叫喚の巷と化していたのだから。そしてそのような混雑と混乱の隙を狙って荷物を掠め取ろうとする不届きな輩もうんざりするほど見て取れたのだから。単に買い物をしに行くだけのつもりの観光客には、ちょっとその無法地帯に飛び込む勇気がなかっただけのことだ。
まあそれで法を犯してちゃどうしようもないが、はい、反省します、おとなしくしょっ引かれますよ。どうせ『メラノ』や『アルバ』という偽名の記載された身分証明書だって、フレア団時代に偽造したものだし……ごめん、あまり反省できてないよな。
時間が欲しい。
俺も相方も、まだ視線というものが怖くてたまらないんだ。
頭の固いアローラ警察にしょっ引かれながらアルバと俺はサングラス越しにコニコの現況の視察としゃれこんでいた。コニコシティはシノワズリの街並みとでも呼ぶべきなのだろうか。カロスの街が広場を中心として形成されるならば、一方のコニコの町はいかにも東洋風に大通りを中心に広がっている。オリエンタルな朱塗りの城門、色鮮やかで重厚な瓦屋根、潮風にたなびく黄金の三角旗、ウインディやハクリューを象った銅像、けれどいずれもどこか損傷している。コニコシティもカンタイシティと同様な酷いありさまだった。
こちらにもカンタイとは別個体かつ同種の化け物が出没し、それもまた守り神が退治したのだとは今朝のラジオニュースで聞いた。
まず、アーカラ島全体を襲っている大停電は復旧のめどが立っておらず、混乱が収まらない。
町じゅうがボロボロで、落雷の被害を免れた地面ポケモンであるバンバドロだけが軽やかに荒れた道路を駆け回り、せっせと負傷者や物資をあちこちへと運び回っている。
今まさに目の前で、火事場泥棒を企んだ連中とそれを発見した家主との間で揉み合いが発生している。お互いにポケモンを繰り出してルール無用の乱闘をおっぱじめようとしていた。
そういった細々とした喧嘩にブルーとコンビを組んだ警官はいちいち止めに入るものだから、アルバと俺は逃げようと思えばいつだって簡単に遁走できるのだったが、外国でこれ以上の騒ぎを起こすのも面倒だったので素直におとなしく彼の奮闘ぶりを観戦していた。アローラは平常時は平和であるだけに大変そうである、というのが率直な感想だ。
それも大通りを下った先、メモリアルヒル付近の町の損害は特に激しい。落雷に遭ったか、焼け焦げた樹木が無様を晒し、歴史ある石積みの建物が半壊して瓦礫が雪崩を打ち、途方に暮れる人々の垣根が小さくそこかしこに。ポケモンセンターは通りまで人やポケモンが溢れて、雷に打たれて苦しげに喘ぐ焼け焦げたポケモンたちが病床の空くのを無垢な瞳で待ち焦がれていた。
大切なものが失われてしまったのか、人がポケモンが項垂れて涙を零している、みんながみんな虚ろな目をして嘆いている、エーテル財団への怨嗟の声を漏らしている。それらすべてに強い日射が容赦なく注がれている。
俺たちはサングラス越しに、その暗い世界を見ていた。
ブルーとコンビを組んだ熱血警察官は歯を食いしばって町を駆け回り、秩序の維持に努めている。本当に俺たちみたいな外国人観光客に構っている暇はないのではと思うが、そこはきっちりと9番道路交番まで連れていく。
ところが9番道路、メモリアルヒルに近づくにつれて、異様な熱を帯びた声が聞こえてきつつあった。
それはもはや絶叫といっていい。
――助けてください、カプ・テテフ。
――お願いします。
――命の遺跡にまします、アーカラ島の守り神。
――この子の命をお救いください。
――何でも致します、わたしの命を捧げますから!
***
うん、予想を遥かに上回る光景だった。
昔のアローラの偉人の墓が立ち並ぶメモリアルヒルにまで、狂ってしまった人間が五体投地をしていた。
くたりとした『何か』を抱きしめ、髪を振り乱し、太陽に焼かれた地面に裸足になって這いつくばり泣き叫ぶ人々が、まったく恐れる様子もなく家庭の包丁で己の頸部を掻っ捌こうとするのに対し、ドン引きしてそれを止めようとする人の数のほうが少ない。信じられないことに。
命の遺跡に祀られるカプに己の命を生贄として捧げようとしているのだ。
じりじりと照り付ける太陽の下。
風のない生ぬるい空気に変なにおいが漂っている。
なあ、ほんとうに、ひどいありさまだったんだ。
そういう話は聞いていた。でもそれはたかだか外国の航海者がアローラに来る前までの話だろう、人の命を生贄としてカプに捧げるなんざ。それに命の神カネは戦の神クーと違って生贄を必要としないというふうに、俺は調べていたのに。
これは何?
自傷している一人がふと重傷を負うだろう、そうすると周りが寄ってたかってとどめを刺しに行くんだ、自分は死にたくないけれど生贄は自分こそが捧げたいなどと考える狂った人間もいるために。
いったいここはどこだ、と思った。
未開の地にでも迷い込んだみたいだ。
暑さの中、暗い視界がぐらりと回った。
それほどまでに現在もカプはアローラの人々から熱狂的な信仰を集めているのだった。特にカプ・テテフ――命の神カネはあらゆる傷をたちどころに癒す力を持つ。アーカラ島民だけではない、化け物に襲われたアローラ全土から信心深い人々がアーカラ島に集結し、カプ・テテフの奇跡の業を頼みに命の遺跡に押しかけている。こればかりは他の三柱のカプに頼ることはできないから。
でも、どれほど血の生贄を捧げても、メモリアルヒルに溢れかえる彼らには恵みが与えられることはとうとう無いようだった。それはそうだろう、カプ・テテフは戦いを得意としないポケモンでありながら一晩で化け物を二体も退けたばかりなのだ、今頃は人の望みを聞くどころでなく殻にこもって大自然のエネルギーを蓄えるのに熱心だろうに。
――と、理解を超えた凄惨さにそのような不謹慎な事を考えることで現実逃避を図っていたら、アルバの手に視界を塞がれた。
背後から強く、強く抱きしめられる。相方は勝手に俺のサングラスを奪い、おいコラやめろ眩しいと思う前にその腕で俺の瞼をがっちりと塞いだ。
何も見えない、真っ暗だ。でもアルバの両腕が震えていて、そのまま俺は強引に方向転換をさせられた。あまりの惨状に呆然としているらしき警官を完全に無視して、町へとUターンした。
ずんずん進む。俺は荒れ果てた舗道の敷石に足を取られないように集中しながら、相方の偽名を呼んだ。
「……アルバさん」
返事はない。
俺の目が塞がれたまま、どんどん進む。アルバのにおいがする。茉莉花みたいな甘い匂い。
「アルバさん、大丈夫だよ」
「うるさい黙れ」
苛立ったような声音のくせに震えていて、本当にかわいいなあと思う。
「そういえば、愛するポケモンを蘇らせようとしたAZに、彼らはよく似てんね」
「ほんの少し前のメラノさんもああだった」
「ん、ああ、まあ……そうだったかもな」
後ろから抱きしめてくる相方が俺を押しつぶすようにどんどん体重をかけてくるから、さすがに首や背中が痛くなってきた。抱え込むようにして、昨日の雷雨で荒れた道端に抱きしめられる。静かな参道に俺たちは二人きり、なぜかくっついてしゃがみ込んでいる。
「……アルバさん、怖いんか。大丈夫だって……あれぐらいで影響されたりしないし」
「怖い」
肩口にぐりぐりと顔をこすりつけられている気がする。随分と素直に感情を吐露するようになったものだ。かわいくて仕方がない。仕方がないので俺はきつい姿勢を我慢して後ろのほうの相方に手を伸ばし、その白い短髪をわしゃわしゃ撫でてやった。
「変なの。フレア団にいたころはアンタ、非人道的なポケモンの実験とか平気でしまくってたのに。グロいのには耐性あるかと思ってたよ」
「私も彼らと同じになっていたかもしれない…………」
「…………ああ、なるほどね」
「うるさい黙れ」
絞め殺される勢いで抱きしめられる。我が相方はもしやキテルグマの生まれ変わりだったのだろうか、などと呑気なことを考えつつ、文句を言えない立場に甘んじてじっと耐え忍ぶ。
生の実感たる痛みの中でぼんやり思う。なぜ命の神はカロスからの観光客にすぎない俺を救い、一方ではアローラで生まれ生きてきたであろう信仰深い彼らを見捨てるのかと。なんと切ない気まぐれであろうか。
アローラの人々だって俺以上にカプ・テテフの無情さを知っている筈だろうに、なぜ迷わずあのようなことができるのだろう。
もしかしたら彼らは、カプへの生贄になると称しておいて、単に生きることから逃れたいだけなんじゃないのか。
ああ、気持ち悪い。デジャヴだ。
相方の腕の中で目を閉ざす。
*****
思い出を語ろうと思う。まあ、今さらこの俺のフラダリラボ法務部所属時代の華麗なる偉業の地味な裏方作業の数々を長々と並べ立てようとは思わない。
むしろ俺のハイライトは、フレア団壊滅後に俺が自主的にやったことだ。
ミアレシティの大停電とか、ボール工場での大量窃盗とか、列石に繋がれた大量のポケモンの処遇とか、故郷を追われたセキタイ住民の心身の被害とか、フラダリラボの不祥事に端を発する不況だとか、どれをとってもフレア団が悪いということは明らかだ。しかしそのトップのフラダリ氏は現在に至るまで生死不明である。
ともかくフレア団を裁かねば市民の怒りと社会不安は収まらない。
ところが、フレア団の幹部は誰一人として表舞台には出てこなかった。それがなぜかは想像がつくだろうか。フレア団幹部を全員牢屋に並べてみろ、壮観だぞ、誇張なく各界の名士が勢ぞろいだ。実際にそんな事態になってみろ、カロスは機能が停止する。それはけしてカロスの一般市民にとっても利益にはならない。
だから、かつてフレア団と呼ばれた集団は、スケープゴーゴートを出すことにしたわけだ。
俺がそれに自ら志願したのだ。
わかっていたよ。哀れな子山羊はかつての仲間からも切り捨てられるってわかっていた。
実際にカロス市民だけでなく、かつての仲間であった元フレア団員からも容赦ない攻撃を浴びせられることになった。その具体的なシナリオはだ、まず俺がフレア団の一責任者としてメディアに露出しまくってヘイトを稼ぐだろう、そして十分に連中の鬱憤を晴らしてやったところで――俺が“自殺”してしまえば………………。
とにかく当時の俺はそういうシナリオが最善と信じていた。
相方の為なら死ぬことすら怖いとは思えなくて。だから幹部を差し置いて、元セキタイ住民に対して悪役に徹してみたわけである。
でもね、それはつまり俺一人が楽になりたかっただけなんだよ。
カロスじゅうの憎悪の視線を向けられて、想像を絶する恐怖の渦に叩き落されて、いつの間にか本格的に壊れちゃっていたんだよね。死んだほうが楽だからそちらを選んだだけなのよね。わかっていたよ。結局はただのエゴだってわかってはいたんだよね。
俺のそんな甘い考えは相方にバレていて、実際に自殺しようとしたら、相方には死ぬより酷い目に遭わされた。
エスパータイプのポケモンって凄いよな、どういう原理か知らないが人間の記憶すら操ってしまえる。自殺を試みた俺は相方のニャスパーの念力で記憶を消されて、ようやく手探りで記憶を取り戻した俺が今度こそ自殺を遂げようとしたら、またすぐに記憶を消されて。その繰り返し。
生き地獄。
それは永遠に死ねない苦しみも同然だ。
だって目の前にいるのはいつだって知らない『アルバ』という人間。思い出せば思い出すほど、死ぬしかないと思えるぐらいそいつのことを愛し憎んでいるのに忘れなければならない。そいつのことを覚えていてやれない。
そもそも脳みそを念力でいじられるというのは、めちゃくちゃつらい。それだけでもアルバを憎む理由には十分なる。それに見方を変えてみればそれは、アルバは俺の記憶をいじって都合のいいお人形にして傍に置こうとしていたのだとも捉えられるわけだ、俺が意地になるのもわかるよな?
たかだか二年間で、自殺未遂と記憶消去を5サイクル。
結局はその5回目でとうとう俺も自殺を諦めた。意地になって難しく考えすぎてただけだ。
ただ忘れていただけなんだ。俺たちは「一緒に普通に生きる」ことさえ出来たらそれでよかった、ということを思い出したから。
ヤンデレじみた相方の、この俺に生きてほしいという望みを俺は信じることにして、ありとあらゆる視線と戦おうと決めて、今ここにこうしている。
だからなんというか、カプ・テテフに命を捧げてしまう彼らには勝手にシンパシーを感じている。分かっていても止められるわけではないのがつらい点だけれど。
俺は相方に助けてもらったが、だからといって俺には彼らを止めることなんてとてもできやしない。一途に思い詰めた人を止めるのは、ものすごく大変な事だろう。少なくとも『死ぬより酷い目に遭わせる』覚悟を持てるぐらいでないと出来ることではない。それは何より残酷な所業だ。俺にはとてもそんな資格はないから。
その点、俺の相方はものすごいからな。こいつはまったく容赦なかった。
焼き殺さんばかりの太陽のごとき溢れる強烈な愛のエネルギーが俺を生かしている。結婚しような。
*****
機嫌の悪そうなアルバを引きずって朱色の城門をくぐり、荒廃したコニコシティまで戻ってきた。
相も変わらずもたれかかるようにして俺を抱きしめているアルバが、ぼそりと呟く。
「結婚指輪買おう」
思わず笑ってしまった。知ってる。その為にコニコまで引きずってきてやったんだろうが。運悪く警察に見つかったあげく信じられない光景に遭遇してしまったが、俺たちは俺たちにできることをしよう。
被害が比較的少ない町の北部は、意外にも人やポケモンで賑わっていた。その理由も、アローラ中から命の遺跡に詣でに来た人間がこの町に集結しているためだと今は分かる。
こんな時だからこそ元気をしっかり蓄えようではないかと、あちらこちらの店が非常な安価でうまそうな食事を提供していた。もうじき昼時であたたかいにおいに食欲もそそられるが、昼食は指輪を物色した後にしようと相方と相談して決めた。
色とりどりのレイを吊るしたレイスタンドでは、遺跡参りをするであろう人々が競って色鮮やかな美しいレイを買い求めている。俺はついその中のプルメリアのフラワーレイを盗み見た――うむ、俺の仕事はプロに遜色ない。それにしてもメモリアルヒルがあのような有様でなければ、自分たちも昨晩の感謝を込めて命の神にレイでも贈ったのだけれど。
降り注ぐ日差しと暑さの中でのんびり大通りを歩いていくと、島クイーンが経営していることで有名なジュエリーショップはすぐに見つかった。シックだが堂々とした店構えだ。
店内を覗くと、さすがに島クイーンらしきその人の姿は見えないものの店は開かれている。俺たちと同じようなことを考えたらしい観光客が比較的多く訪れており、その中でも豪奢なマダムが大量の宝石のジャラジャラついたごついアクセサリーを景気よく数十本もまとめ買いしていくのに、俺もアルバも目を点にした。
「アルバさん、あれ……間違いなくアノアノリゾートに滞在していそうなマダムだな……」
「アノアノじゃないハノハノだ。超特需だな……あれに比べたら私たちの買い物なんてかわいいものだぞ……」
そんな気前のいいマダムに心なしか背を押され、ついに店に突撃した。アローラの天然の素材を使用したアローラジュエリーが涼しい店内に所狭しと煌めいている。パールルが作った真珠、サニーゴが落とした珊瑚、磨かれた貝殻、鼈甲、ヴェラ火山の活動が育んだペリドット。
店員に話しかけ、結婚指輪を作りたい旨を伝えると快い笑顔で祝福してくれた。この非常時なのに嬉しいことだ。
二人して見本のリングをいくつか試着した上で、サイズや材質や意匠など細かい要望を伝える。
ピンクを聖なる色とするアーカラ島への敬意とカプ・テテフへの感謝を込めてピンクゴールドを素材に選んだ。デザインは逆巻く波を模したスクロールに、可憐なプルメリアの花、それに結びつきを象徴するマイレの葉といったモチーフを組み合わせたもの。
これでもかというほどアローラの雰囲気を詰め込んだオリジナルのマリッジリング像が浮かび上がる。約一か月後には納品できるとのこと。
さあご注文が承れてしまいましたよ、なんということでしょう、どうしましょう。俺、本当にこの人と結婚してしまうんだな。
アルバが手帳を睨みながらふむと鼻を鳴らす。
「一か月後か、さすがに一度カロスに帰るか……どうするメラノさん」
「うん、カロスに新居探すだろ、婚姻契約締結するだろ、一か月後くらいなら……なあ、いっそこっちでアローラ風の挙式ってできるかな」
「時間的にかなり厳しくないか? 式の予約というのはもっと前もってするものかと思っていた」
「どうせこのところの騒ぎでアローラの観光客は減るだろ……そこをばっちりとカヴァーしてやる思いやりをだな」
イッシュ語が下手だな、と相方は笑った。何を今更。
それより俺はアローラ風の挙式というものに非常に心惹かれていた。ドレスを選んだり髪をいじる必要はないと思うのだけれど、ひと月後という厳しいスケジュールでの結婚式の予約ができるかは要相談だ。
「もちろん、ホテルしおさいで」
「今度は本館に泊まりたいな。妙な視線も無いし……ラブカスプールもあるしな……」
顔を見合わせて同時に噴き出した。
完璧じゃないか。
フレア団時代はただの同僚と思っていなかったこいつとこんな話をするようになるとは、本当に夢のようだ。なんて楽しい毎日だ。
結婚するにあたってはやはりきちんとした住所があるほうが何かと楽だ、新居はどこにしようか、カロスを逃げ回っていた時はひたすら各地のポケモンセンターを転々としていたものだから俺も相方も住所らしい住所がない。二人ともハクダンワインが好きだからいっそまさにハクダンに住むのがいいかもしれない、葡萄畑が広がる丘陵地帯に残された古びた農家を買って、改修して暮らそう。ポケモンたちがいれば工事だってそう大変なことじゃない。庭に花やハーブや果樹を植えて、池をあつらえて。
指輪の見本やその他のジュエリーを眺めながら、夢中でそんな話をした――――視線を感じながら。
背筋をぞくりと悪寒が這った。
もちろんジュエリーショップの店内の冷房が効き過ぎだから、ではない。
笑っていたアルバがふと口をつぐむ。俺もさりげなく周囲を窺う。
今も誰かが、みつめている。
興奮していて気づかなかった。いつから? 店に入った時から?
ヴィラの視線と同じだろうか。そうかもしれない。
おまえは誰だ、と胸の中で問いかけてみる。むろん返事はない。
――カプ・テテフなのか? 昨日は余所者を助けてくれてありがとうな。でもおまえのことを心から信じて頼りにしている人とか、おまえの存在を死ぬ理由にしている人とか、そっちの方をどうにかすべきじゃ、ないのでしょうか……俺たちなんか見てないでさ。カロスで悪いことをしてきた自覚はあるけどさ、現代にはプライバシー権なんてのがあるんだぞ、見られてると俺も相方も夜に楽しいことする気になれないし……。
下世話なことを念じてみても視線の主からはまるで音沙汰なかったが、なぜかアルバに頭をはたかれた。
「なんで」
「お前が妙なことを考えると、この子が不機嫌になって暴れる」
店内でモンスターボールにしまわれていた相方のニャスパーが、俺の思考を読んで嫉妬に狂ってボールの中で暴れているとのこと。エスパーだからってむやみやたらに人の心を読むんじゃない。
***
指輪の注文を済ませて涼しいジュエリーショップを出た後は、熱気あふれる屋台で点心を買って昼食にした。コニコ文化を象徴する蒸し饅頭だが、アローラに持ち込まれたこれは特にマナプアと呼ばれるらしい。
歩きながら手のひらサイズの饅頭にかぶりつく。モチモチとした仄甘い皮の中から、ぎっしりと詰まった熱々のピンク色のチャーシューが溢れ出る。熱い。猫舌ゆえに苦しむ俺を尻目にアルバは三口で平らげ、さっさと紙箱の中の二つ目に手を伸ばしている。
息を吹きかけて冷ましてから食べると美味かった。
美味い、けれど。
俺はなんだか背筋が寒かった。
だってなんだか、ジュエリーショップで感じた視線がずっとついてきている気がするんだもの……怖すぎるだろう。
もしかしてホラーだろうか。化け物に殺されて怨霊となった魂が、カプに救われ生き延びた俺のことを恨んでいるのだろうか、なんて思ってみたりして。笑えない。遺された人があのような剣幕だ、無念のうちに命を奪われた者たちもどれだけ恨み深い事か。ああカプ・レヒレよ、彼岸の神カナロアよ、彼らの魂を安らかに眠らせたまえ。
俺ががたがた震えていると、何やらやたら上機嫌なアルバがニヤニヤしてきた。
――なんだこいつ、なんでこんな急に楽しそうなの。不気味すぎる。なんだかフレア団時代、ラボでポケモン解剖実験を前にした時のこいつみたいだ。
いや本当に、相方に何があったのか心配になるレベルだ。そんなに結婚指輪を注文できたことが嬉しかったのだろうか。俺も嬉しいけど。
色々な意味で鳥肌の立つ二の腕をさすりながら、早くも三つ目のマナプアにかぶりついている相方のあとに随ってなんとなくコニコの街を歩いていたのだが、どうも我々は海に向かっているのではなく灯台を左手に山の斜面を登っていた。
「……ちょっと、アルバさん」
「仕方ないな、半分やるから」
「じゃなくて、そっち何があんの」
「ディグダトンネルだ。今朝で懲りたろう。乗船所は相変わらず混んでいるようだし。このあたりの野生ポケモンのレベルもたかが知れているから、ゴールドスプレーを撒いて腹ごなしに散歩だ」
俺の右斜め前を歩きつつそのように勝手に決めてしまったアルバは、やはりなんだかご機嫌だった。くるりと振り返ると、口に咥えたマナプアをそのまま口移ししてきやがった、いやマナプアは手のひらサイズだから唇を触れ合わせて口内で食物を移すという厳密な口移しにはなっていないのだが。
そしてアルバの腕にがっしりと肩を掴まれる。にげられない!
知ってるぞ、これ、カントーの菓子メーカーが出した細長いチョコスナックでやるやつだろ、最後まで食べきるとキスすることになるゲームだろう。しかしアルバは動かない、俺が反対側からマナプアを半分食べてキスするまで離さないという事か。なんて変態的な思考だ。
しかしこうと決めたら実力に訴えてでも主張を押し通そうとするのが相方である。ええい屈してなるものかと、俺は一気にマナプア半分をそいつの口からもぎ取った。
そして後悔した。
――……か、からい。
具はカレーだった。しかし予想以上にやたら辛い。
まさかあまりに辛すぎるから俺を謀って残りを押し付けたんじゃあるまいなと、死に物狂いでカレーマナプアを飲み下しながらアルバのアホ面を涙目で睨む。そいつはご満悦の様子で、褒美のつもりか軽くキスをして俺を解放し、そのまま早足で巨大な洞窟へと入っていった。
しかしおとぎ話の姫君を蘇らせるキスも、俺の口内のひりつく痛みは癒してくれなかった。いったいトウガの実をどれだけぶち込んであるのか。甘い飲み物でもたらふく飲まないと口内の痛みが引かなさそうなぐらい容赦なく辛い。頭がぐらぐらする、暑さも相まってふらふらする。ああ、そうだ、カレーにはチャイだ。甘いチャイが欲しい……。
唸りながら俺も渋々と洞窟へと足を踏み入れると、それを見計らっていたかのように先行していたアルバがくるりと振り返ってゴールドスプレーを俺の顔めがけて噴射した。
ありがとう、随分とひどいにおいのチャイだな。茶のいれ直しを要求する。
薄暗く涼しい洞窟の中、地面からぴょこんと金色の毛が生えている。ディグダのヒゲだという。あちこちでゆらゆら揺れていて愛らしい――ボールから外に出した俺のシシコが飛びかかりそうになるのを押しとどめるのが大変だが。いや気持ちはよくわかる、ブチって引っこ抜きたくなるよな。でもディグダを怒らせてうっかり地震でも起こされたら俺たち生き埋めになるからな。
道を照らすのは、アルバが抱えているニャスパーの“フラッシュ”だ。本当にこの子は人の記憶もいじれるし、念力で果物も切り分けられるし、人の心も読めるし、暗闇も明るく照らせるし、優秀すぎる。
一方、ディグダのヒゲに気をひかれっぱなしの俺のシシコときたら、応用の利く技など覚えていないし、もはやただのかわいいマスコットだ。暖かいから懐炉代わりには重宝するが、このアローラではひたすら暑いだけだったりする。ボールから出して連れ歩いているだけでスリや強盗に対する抑止力になるというのは大事なポイントだが、正直なところその役割は他のポケモンでも事足りる。火の粉でお湯を沸かせるが、停電が復活すれば普通にコンロは使えるはずだ。ああ、なんて役に立たない子だろう。でもかわいいから許す。
ゴールドスプレーを嫌って逃げ出すズバットの影がちらつく。
時折ディグダが岩をひっかく音がかすかに聞こえ、あとはアルバと俺の二人分の足音が洞窟内に静かにこだまするばかり。
「……なあアルバさん、静かじゃないか? もっとトレーナーが通っているんだとばかり思ってたんだけど」
「コニコの灯台側からディグダトンネルに入るのは難しいんだ。それに、このトンネルを通るぐらいの実力あるアローラのトレーナーは大概ライドギアで空を飛んでくる」
「人気ないんだ」
「そもそもここは野生のディグダの棲み処だ、地形も日々変動する。迷うと面倒だというのもある」
アルバはそう淡々と答えた。
俺はにわかに不安になってきた。いや、確かに『ディグダトンネル』という名称は聞いたけれど、まさかそんな整備もされていない天然の洞穴だとは思わなかったんだ。そしてアルバも穴抜けの紐を用意しているようにはとても見えない。
「……おいアルバさん、本当に大丈夫か? 野生のディグダの活動ですぐに地形が変わる不思議なダンジョンだってのにどう行けばカンタイに戻れるか分かってるのか?」
「まあ道なりに進めばどうにかなるだろう」
輝くニャスパーを抱えたまま、俺のほうを一瞥もしないまま相方はまったく歩を緩める気色がない。俺は追いすがりながらその服の裾を引く。
「いや、俺、フレア団時代にアンタと徒歩で現身の洞窟抜けようとしてめちゃくちゃ迷ったの覚えてんだけど?」
「よく思い出したな。あそこは壁が鏡になっているのが悪い」
「そうだね、たしかアンタなんか鏡に額をぶつけすぎて見事な痣が……いやそうじゃなくて。アンタの勘なんてあてになるか、いやならんな。早めに引き返すぞ」
ぐいと腕を引くと、ニャスパーの光に照らされて怒気をはらんだ相方の鬼の形相が俺を睨みつけた。
「――私の勘があてにならないのか!」
「たった今そう言ったんだけど!?」
笑いをこらえながらそう叫び返した、のが悪かった、かもしれない。
地面が大きく揺れた。
***
しまった、ディグダたちを刺激したか、と俺たちは喧嘩も忘れて咄嗟に揺れる大地にしゃがみ込む。ええと、たしか足は閉じて、手は地面につけない――いや、これは落雷に遭った時に感電しないための対処法なんだったか。昨日教えてもらったばかりの……。
昨晩の記憶がフラッシュバックして、吐きそうになった。
狂ったように激しく点滅を繰り返す電灯、真っ赤に染まったプールの水面、空に突如開いた大穴、異様な闘気を纏った電気の化け物、オテルしおさいの建物を乗り越えてこちらをみつめてきた、顔無き頭部、瞳無き視線、そいつが腕を振るったのが見えたから相方を守らないとと咄嗟に立ち上がると、銅線の鋭い爪が腹に、刺さった。気を失う直前、泣きそうな顔をした相方に向かってごく自然に笑顔になれたのを覚えている。
洞窟の揺れる地面をひたすらに睨む。これは幻覚だ。落ち着け。頭が痛い。脂汗が浮かぶ。暗い。寒い。怖い。視線を感じる。視線を感じる視線を視線を視線を。
こわい。
――――俺たちをみつめる、おまえは誰?
アルバの汗ばんだ手に肩を掴まれた。弾かれるように顔を上げる。
けれど、てっきり愛するその人の熱い瞳が俺の顔を心配そうに覗き込んでくれているものと思いきや、その期待はあっさり裏切られた。
屈んだアルバは俺の肩を強く掴みながらまったく別の方向を睨んでいた。相方の腕の中のニャスパーも、俺が抱えているシシコも洞窟の奥の一点を注視して低く唸り全身の毛を逆立たせていて。
地面が揺れて気持ちが悪い。
気づいたら、震えが止まらなくなっていた。おかしいぐらい手足が笑っている。あれ、おかしいな、昨日は胸の内に燃え盛る熱が力をくれて立ち向かえたのに。今は寒くて全身に鳥肌が立っている。頭がぐらぐらする。ああ、幻覚じゃない。
俺たちにあつい視線を送っているのはカプ・テテフなのだろうか。また助けちゃくれないか、なんて、無理だろうな。あの哀れな自己犠牲心溢れるアローラの島民を見捨てるぐらいだ、カプももう馬鹿の一つ覚えみたいにあんな奇跡は起こしてくれない。
俺たちの目の前に現れたそいつを何と形容したものか。
透き通るような白い、ガラス質のドククラゲみたいな生命体。
顔が無い、その点は昨日遭遇した化け物と共通するといえるかもしれない。
でも、こんなの、俺はニュースでは聞いていない。
こんなのもいたのか、アーカラ島に。
それがフラッシュの光の中で白く浮かび上がって、洞窟内をふわふわと一匹、何気なく漂っているように見えた。かわいい、とは思えなかった。
だってそいつの視線は害意に満ちていたから。わかるんだよ。ああいやだ、逃げ出したい。サイズ感による圧迫感は昨日の化け物と比べれば大したことないはずなのに、昨日の比じゃないくらい無性に怖い。死ぬ思いをして奇跡的に生き延びて、その矢先にまた、これだ。いい加減にしてほしい。
完全に油断していた。あたまが回らない。
終わったな、と思った。
あーあ、指輪これからつくってもらうのに。浮かれるものではないね。
だってほら、その化け物は今に、俺たちを食い殺そうと石英の触手を伸ばしている。
***
しかし相方は動いた。
その行動の素早さに俺が驚いたぐらいだ。
耳を持ち上げたニャスパーの念力が化け物を打ち払う。
化け物は意外とあっけなく吹っ飛び、洞窟の岩壁に激しく打ち付けられた。手を緩めるな、と鋭い指示が飛びニャスパーは追撃を加える。
俺の腕の中で炎の鬣を激しく燃え上がらせたシシコも化け物に噛みつくべく飛び出そうとしたけれど、それはなんとか止めさせた。直後、アルバの熱い手が俺の冷えた腕を強く掴む。力強く引っぱり上げられてどうにか立ち上がり、化け物に背を向けて二人して逃げ出した。
逃げる。
逃げる。
相方が走りながら後ろ手にゴールドスプレーを散布している。果たしてあの未知数の化け物にどれほど効果があるか。さらには、どちらに向かえばどこに出られるのか分からない恐怖があった。アルバの勘はゴールドスプレー缶ほどにもあてにならないし。
しかし難儀だったのは、地面が揺れることだった。トンネルに棲みついた野生のディグダたちが動揺しているようで、足元が不安定になっており移動がままならない。自慢じゃないが俺は運動音痴に定評がある。相方が手を引いてエスコートしてくれるが、さぞや足を引っ張っていることだろう。
案の定、揺れる大地に足を取られて転びかけて、しかし相方の腕にがっしりと支えられた。ごめん。
「惚れるわ」
――しまった、うっかり心の中のセリフと口に出すセリフが逆に。
「今更だ。逃げることに集中しろ」
――ごめん、やっぱり惚れるわ。
さっきの化け物は浮いていたから、背後に迫っているか否かも分からない。目の前には闇、闇、そして闇ばかり。そのくせにさっきから不躾な視線がどこからかまとわりついてくるのが空恐ろしい。
不意に地面が大きく揺れて、アルバも俺も立ち止まることを余儀なくされた。天井から土砂が降りそそぐ。
目の前の地面がぼこりと盛り上がった。二人揃ってびくりと肩を震わせる。
驚いた。それはディグダであり――ただのディグダではなかった。
化け物に前に回り込まれていた。
あの石英の化け物は頭から金色のヒゲが生えている小さなディグダに触手を巻き付け、まるで寄生でもしているようだ。憑りつかれたほうのディグダは異様に興奮している。
なるほど、自身が戦うよりも他者に寄生し、宿主の身を守らせるタイプというわけか。化け物を守るという使命に駆られたディグダは再び激しく地震を起こした。こちらに、真正面から。
揺れた。立っていることなどできない。俺も相方も地面に叩きつけられる。人間はこんなにも非力だ。
にしてもディグダってこんなに強い地震を起こせるポケモンだったっけ、そんなことを呑気に考えている場合じゃないけれど。
連鎖的に他のディグダたちも暴れ出して、洞窟が丸ごとぐらぐら揺れる。俺は地面に座り込んだままシシコだけはしっかりと抱え込んだが、頭が痛くてどうしようもなかった。
ばらばらと土砂が全身に降りかかる。
洞窟そのものが崩れて生き埋めになるほうが早いだろうか。
そんなことを思いながら、やっぱり相方の手だけは、しっかりと握り直した。素敵だろ。今度は守れなかったけど、一緒に死ねるならそれも幸せかもな、なんて、また諦めてみたりなどして。
*****
フレア団が掲げていた理想をご存知だろうか。フラダリ代表に選ばれた人間だけが美しい新世界に永遠を生きて、残りは全滅という作戦だ。単純で綺麗だろう。
ところが、この俺に関していえば、永遠を生きるなんてのは絶対に嫌だったんだよな。
『美しい世界を作るという崇高な理想を実現すること』には魅力を感じて夢中になったけれど、実際にその美しい世界に自分が生きたいかというと、けして俺はそうではなかった。だって、そんな世界に行ったところで、もう、する事が無いから。
もちろん相方は違ったみたいだ。相方は永遠の命を手に入れたら、今度は死者を蘇らせる技術を研究するつもりらしかった。死んでしまった愛するポケモンを生き返らせるのだ、といつぞや酔った勢いで教えてくれたのを覚えている。――あの時はそんな馬鹿なと笑い飛ばしたけれど、今思えばあながち夢物語でもなかったな、だってAZはあのミアレのパレードで愛するポケモンと再会できたから。まあ今となっては相方は死者蘇生の研究なんてするべくもないのだけれど、その話は今は置いておく。
フレア団所属当時の俺は、俺の仕事がそういった相方の願いを叶えることに繋がるならそれ以上の喜びはなかったのだが、それでも相方と一緒に新世界に行くつもりはさらさらなかったのだ。フレア団員で一人だけの例外として、全世界のその他大勢と一緒に最終兵器で潔く散るつもりだった。
ところがだ、好きになっちゃったんだ。そいつのことが。
おもしろいんだもん、生き生きしてて。腐りきったふざけた人間しかいないカロスに激しい怒りを抱いていて、まさに太陽みたいだった。そんなキラキラ輝くような愛しい人が時間の止まったような狂った『美しい世界』に閉じ込められるなんて耐えられない、と若かりし日の俺は思っちゃったのですよね。
そんなわけで、俺はそいつに心中を迫ったりもした。
素敵だろう? 青い春ならぬ赤い春だろう? 狂ってるだろう? 今すぐ死ぬか、あるいは永遠を生きるかの究極の選択。0か∞か、クソみたいな二択だけれど、俺たちはもう止まれないところまで来ていた。
もっと早く出会えていたら、一緒に普通に生きられたかもしれないのにね、なんて。
さて結果的には伝説のポケモンを従えた子供たちがフレア団を滅ぼしてくれたおかげで、相方と俺はこうして一緒に普通に生きることができているわけだ。いやもちろん、その後別途に俺がフレア団バッシングの矢面に立ちその茶番劇場を自殺で〆ようとしたことに関してはなんら言い訳ができないけれど。
そう、何度も生きることを諦めた。でも、そのたびに救われた。
一度目はゼルネアスとイベルタルとあの子供たちに、二度目は相方と手持ちのポケモンたちに、三度目はアローラの土地とカプ・テテフに。
しょうもない弱い俺のことを、見守ってくれてたんだよな。
ありがとうな。
*****
「おいこら、こんなところで諦めるな」
相方の熱を帯びた声が聞こえて、はっとした。意識が飛んでいた。
未だに揺れている洞窟は崩れかけながらもまだ息のできる空間があって、ずいぶんと呑気だなと俺は思った。まだ頭がぐらぐらしている。
白いガラスの化け物は寄生したディグダにめちゃくちゃに地震を起こさせながら、不運な獲物が大地に還る様子を窺っていた。自分自身は洞窟が崩れかけてもディグダを操って逃げられるということなのだろうか。気味が悪い。
どうしよう、とまたもや絶望的な気分になっていたら、温かい相方の左手に右手を強く握り直される。
顔を上げると、綺麗な銀紫色の太陽みたいな目と視線がかち合った。相方は激しい振動に歯を食いしばっていたが、ふと苦笑してみせた。
「なんか悪いな」
「……いや」
「今度こそ守ってやろうと思っていたがこのざまだ。私の手には負えない」
「……アンタのせいじゃないよ」
「が、悪あがきはさせてもらう」
そしてアルバは俺の手を握った左手とは反対側の右腕を振りかぶった。
え、何してんの。
その手は何も持っていない、でも何か、透明なものを掴んでいるような――――?
相方が叫ぶ。
「ずっとプライベートを覗かせてやってたんだ、少しは助けろ、でないと解剖してやる」
そして透明な『それ』を化け物へと投げつけた。
相方の嘆願に応えるように、エメラルド色の閃光が眼を焼いた。
しっかりと手を繋いだままの相方も、その腕の中のニャスパーも、俺が抱えていたシシコも、鮮緑に染められて。
無数の視線を感じる、涼やかなみつめる視線を。島を抱く潮騒のようにさりげなく、それであって常に確かに在る視線。
島クイーンの経営するジュエリーショップからずっとついてきていた視線の主――否、アルバが発見し拉致しかけていた『それ』は、化け物を前に闘志をむき出しにした。
緑の光線は何十も束になって、相方と俺が息を呑んで見守る前で膨れ上がり巨体をなしとぐろを巻く。
橄欖石の鱗を煌めかせる大蛇は、石英クラゲを一瞥し大地の底から震わすような咆哮を洞穴に轟かせた。
ああ、やっと会えたな。おまえのことはフレア団にいたころから聞いていたよ。
カロスの創造と破壊のバランスを監視し秩序を守るポケモンじゃなかったのか、海の向こうまでご苦労なことだ。
それとも元フレア団員である俺たちを監視していたりするのか?
あるいは俺たちの手荷物にでも紛れてバカンスに来ちゃったのか?
――――アローラ、偉大なるZ。
***
未だに口の中がびりびりするので、アルバにハイ・ティーを所望した。俺に激辛カレーマナプアを押し付けた責任を取らせているのである。
俺はあたたかいシシコを腹に載せ、ヴィラのリビングでソファに腰かけふんぞり返り、キッチンでせっせと作業する相方のナイスな後姿を観察していた。電気の復旧に伴い復活したコンロの火にアルバは鍋をかけ、スーパー・メガやすで購入したテンガン山のおいしい水を注ぎこみ、安い茶葉をぐつぐつ煮る。
そこにオアナ牧場の新鮮かつ栄養たっぷりのモーモーミルクとアローラ産の砂糖を盛大にぶち込む。そしてさらに加熱し、じっくり煮詰める。
「アローラって、イッシュに占領されてから一時期サトウキビのプランテーションが盛んだったんだよな。ところで、そのサトウキビ畑のプランテーションの労働者としてアローラに流入したのが、コニコシティや、ウラウラ島のマリエシティの人々の先祖だったわけ」
「ふうん……うわ、泡が」
アルバは慌てたふうにコンロの火を止め、鍋に蓋をして茶を蒸らし始めた。
「けれど、最盛期には百ほどもあったアローラのサトウキビ工場は次々と閉鎖されつつある。最後のサトウキビ農園も製糖工場もこのアーカラ島にあるらしいけど、それも閉鎖が決まってるんだと。人件費の高騰や、機械、肥料、燃料などの輸送コストがかさばることが主な理由だ。そもそもアローラという島嶼地域では農業用水の確保も難問で」
「へえ……あ、茶漉しあった」
アルバはキッチンをひっかきまわして目当ての器具を見つけ出すと、鍋の蓋を取り、茶を濾しつつティーポットに注いだ。
「そもそもサトウキビのプランテーション農園を作りまくった時、農業用水がそっちに取られたせいでこのせせらぎの丘近くに広がっていたアローラ伝統のタロイモ水田はいくつも潰されたわけだけど。で、サトウキビに次いでプランテーション農業で注目されたのが比較的少ない水で栽培できるパイナップルで。まあいずれにしても人件費の問題で生産中止が続出しており」
――と俺が丁寧に蘊蓄を披露してやっていると、アルバはせっかく甘くおいしそうに仕上がったチャイに盛大にシーソルトをぶっこんでくれた。
「見ろメラノさん、この塩は赤いだろう。アラエア・ソルトというらしい」
「おいおい、塩入れるにしてもチャイには岩塩だろ……」
とりあえず文句を言っておいたが、俺は岩塩と海水塩の違いが分かるほどの舌を持っていないから実質的には問題ない。アルバがチャイをマグカップに注いで差し出してくれた。
淡いベージュの飲み物は細かに泡立ち、ほわほわと湯気を立てている。温まったカップにそっと口をつけ茶を啜ると、相方がしっかりと煮詰めてくれた塩チャイはじんわりと優しくあまじょっぱかった。
思わず吐息が出て、何気なく視線をちらりと上げると、相方は大特価のマトマスナックげきから味の袋をこちらに差し出しながら幸せそうに笑っていた。俺もカップを片手ににっこりと笑ってそれを拒絶した。
涼しい夕方のこと。
アローラの夕日は、透明な赤だ。
夕暮れ時には、人はふと甘く優しい顔になる。
常夏を謳いながら、カロスと比べれば格段に日没が早いのがなんだかもの寂しい。そして故郷カロスの秋は一気に日が短くなり空は曇りがちになるから、なおさら帰ることを思うと気が滅入る。
もちろん嫌なことばかりではない。家を探して、籍を入れねばならない。幸せで美しい、新しい世界が待っている。
海から涼やかな風が吹いてきて、浜の椰子を揺らしていた。昨晩の雷雨を生き延びた鳥ポケモンたちが輝く夕空を背景にねぐらへと帰ってゆく。今朝咲いたハイビスカスの花はしぼむ。
何度も繰り返し見た風景である。ここは何も変わらない、光と熱に満ちた永遠の楽園。追放の時は近いけれど。
それでも誰かが見守っていてくれる、求めればきっと助けてくれるから、たぶん大丈夫。
「なあ、おまえはまだカロスに帰らないんか?」
俺はカップを置くと、涼やかなみつめる視線に問いかける。そいつは今まさに、いや何週間も前からずっと、目の前にあるローテーブルに張り付いていた。俺たちのヴィラのリビングのど真ん中に透明化した状態で堂々と鎮座ましましていたのだった。
透明なジガルデ・セルはうんともすんとも言わない。それはそうだ、セルそのものは意思を持たないと聞く。ディグダトンネルで化け物から俺たち二人を救い出すなり再びどこかに旅立ってしまったジガルデ・コアの、秩序を監視するための単なる目にすぎない。
思えばカロスの伝説のポケモンも随分と気まぐれだ。トレーナーに従うことを選んでみたり、世界を滅ぼそうとした元フレア団員を助けてみたり。
それとも、期待をかけてくれているということなのだろうか。
己の分の塩チャイを用意したアルバが嘆息しながら、ソファの俺の隣に体をねじ込んでくる。そしてチャイを啜りながら眉を吊り上げた。せっかく素手で捕獲したジガルデ・コアにあのまままんまと逃げられたことを根に持っているらしい。
「なあメラノさん、セルだけでも解剖していいだろうか?」
「助けてもらったのにその仕打ちはないだろ……」
苦笑しつつふと見やると、不敬にもアルバはテーブルの上に手を伸ばして透明なままの伝説のポケモンをむんずと掴み、自分の塩チャイの中に頭部から突っ込んでいた。
「……何やってるんだい、アルバさん」
「いや、高張液に浸したら収縮したりしないかと思い立って」
「唐突過ぎる」
「私たちの愛の巣を無礼にも監視していたのが気にくわない」
「愛の巣はカロスに新しく作るからいいだろ……」
「よし、ナマコブシ投げの刑に処す」
そう決然と顔を上げてアルバは立ち上がった。よく煮詰められた塩チャイから引き揚げられたセルは意外にも透明化ができなくなり、ぷるんと透明感のある緑色の体躯を晒していた。アルバの手の中でぐったりしているように見える。モーモーミルクのにおいがプンプンする、あ、これ放置したらすごく雑巾臭くなるやつ。
臭いセルを手にそのままずかずかとテラスに向かう相方のその豪胆さに、俺はむしろ感心してしまった。こうと決めたらけして曲げないはずのアルバが、解剖を諦めるとは。ものすごい成長だ。
ナマコブシ投げ、それはアノアノビーチの風物詩。
今、俺たちは、命の恩人の分身たるジガルデ・セルでナマコブシ投げをしようとしている――。
シシコが走り出した。ニャスパーも走り出した。セルを掴んだアルバが猛然とヴィラを飛び出すのを俺も追いかけた。
東の空には、ヴェラ火山の向こうに十六夜の月が出ているのが見える。
西の海には、沈みかけた太陽が緑に輝いている。グリーンフラッシュ、昨日に引き続き拝めるとはなんと運のいい。海と番う太陽は永遠の象徴だ。俺も相方と永遠の愛を築くのだ。緑をまき散らしながら。
相方が振りかぶる。笑いながら。
俺も笑う。
夕日に向かって、この海の向こうのカロスめがけて。
ヴィラを取り巻く、心地よい音色の潮騒。
薫り高いジガルデ・セルの、非難がましい視線。
またいつか困ったときは助けてほしい。誰が見ているか知らないけれど。
だからアローラ、永遠に愛してる。