第一話
不思議な世界に生きる、不思議な生き物。
いつ、誰が言い出したのか。今はもう知る者は居ない。
それでもその生き物は、ポケットモンスター。
縮めて、ポケモンと呼ばれている。
ここで紡がれる物語は、そんな独自の生態系を持った不思議な世界で生きる冒険好きなポケモンと、別世界からやって来た人間の道程である。
『秘宝が悪意に染まる時、一人の人間が現れる。
降り積もる負の雨を押し流し、安泰へと導かん。
見分けるならば、誓の紋章を探すべし』
これはかつて、とあるポケモンが遺したであろう予言書。この近くのちっぽけでどこにでもある様な洞窟の中で、適当に置かれていた古めかしい石の板。これが発見された当時は、あった場所や状況から、そこに記されているその意味を誰もが軽く考えていた。
『ただの悪ふざけだろ』『今さら古くさい』『そもそも悪意に染まるってどういう事だ?』
ほとんどの者はそのおとぎ話を信じることはなかった。
『悪意』や『誓の紋章』なんて言う言葉自体がいかにも大袈裟で、そういうお年頃な子供の作った妄想に聞こえてしまったのかも知れない。そもそも、すぐに見つかりそうな所にこの内容の石版が放置されていた事実からして、誰かのイタズラという線が有力だった。
そして何より、この世界は前より数々の危機に見舞われてきた。
世界を荒らし、恐れられてきた自然災害。
各地に広がる不思議のダンジョン。
この星の時を止め、凍らせ、焼き尽くしかけた悪意。
これらを見聞きし、時にその身で味わった大人達は欠片でも、あの様な怪文書を信じたくはなかったのだろう。それでも、私は信じた。根拠なんて確かな物は持っていない。自分の勘が、確かに頷いた。『この文章は、いつか事実となる日が来る』と。
それに、予言の初めに記されていた『秘宝』が本当にあるならば行ってみるしかない。信じてみるしかない。初めから疑って掛かってたら、冒険なんて夢のまた夢。
時に冷静に、時に大胆に、時に客観的に、時に感情的に…………これらを使い分けれてこそ、一流の冒険家と言える。自分で思っておきながらだいぶこんがらってしまったが、今は自分の気持ちをしっかりと抱いて、私に出来ることをするべきなんだ。
そう決意したあの日からしばらくが過ぎて、確証なんてなかった予言が現実のものへと変わった時に。
私は、ある存在との出会いを経験する事となった。
見向きもされなかった予言書は、夢見るだけでちっぽけな私を、広い広い世界へと導く大きなキッカケになる。はじめの一歩を、強く踏み出しはじめたんだ。
頭が、痛い。
そして、眩しい。
黒く染まった瞼の裏に、少しずつ光が射し込んでくる。優しいような厳しいような、そんな優しさと強引さをごちゃ混ぜにしたような日光のシャワー。ゆっくりと注がれつづける。少しずつ、慣れてきた目にともなってようやっと、ぼうっとした頭が活動しだした。
目の前に広がる樹木の群れ、地面を覆う草花。見上げればドーナツのようにぽっかりと開けられた大空。小さな広間のような地で、少年は目覚めた。拍子抜けしたような、困惑の感情といっしょに。
「………ここは」
そんな”少年”の寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、
ありのままに乱立する無数の木々。
その真ん中に鎮座する小さな池。
どこまでも広がる青い空。
土に敷きつめられた生い茂る草花。
優しく頬を撫でたそよ風。
これは正しく、誰の手にも左右される事無く発展した自然の姿その物。ありのままに育ち、育む場となった森林。その場はあまりに心地よかった。無意識のうちに、少年は腕を上で組み、軽く伸びをしようとした。いや、できなかった。
「……!?」
腕が、届かない。そのままの感覚で腕を伸ばそうとして、ある地点で急に動かなくなる。体が麻痺してる訳でもない、ではなんで動かない?
えも言われぬ感情に煽られつつ、ふと自身の両腕を見たときにようやく最後の眠気が吹き飛んだ。
あったはずの指は極端に短く、まるっこい形状に。丸見えだったはずの肌は白い毛でおおい隠されている。それ以前に、長さも圧倒的に足りていない。
追い打ちをかけるように、形容しがたい身体の違和感を感じた。具体的に例えるなら、本来体には無いはずの何かが付いていて、その中に神経がびっしりと通っているような感覚。嫌な予感を胸に仕舞いつつ、恐る恐る自分の臀部を振り返った。
「何、これ……?」
紺青色の毛並みをまとった平べったい何か。見るからに、紛れもなく尻尾そのものである。さすがに、これを触る勇気はなかった。なんとか落ち着こうと、澄んだ空気を大きくとりこむ。
次に足を見てみれば、厚みのあった所が少しばかり薄く、平べったい。これもまた肌色から尻尾と同じような深い紺色へと変色していた。
夢ではないかと、頬をつねようとしてふかふかの毛が手を柔らかく包み込んだ。そもそも、こんな丸い手でほほ肉をつかむことも出来ない。そして耳は小さな三角形のような形状に変わり果てている。なぜか首周りに一枚、緑色の布が巻かれているのを腕で持ち上げて見えた。そもそも、服自体を着ていないことを今さら自覚した。
そして、腹部には丸くなった胴体と真ん中に据えられた1枚のホタテ貝のようなもの。とても信じられないが、ここまでの自身の変化は現実であると言わざるを得ない状況にまで発展してきた。そして、なんの偶然か。少年の頭の中には今、自身の姿形に関しての心当たりがあったのだ。
ちょうどいい所に透き通った綺麗な池。そこに沈む石ころまでくっきりと見渡せる水面。その縁から身を乗り出して、鏡がわりとして自身を見る。映るのは今までの自分であって欲しい。そんな事が頭をよぎった。しかし、現実はあくまで現実だった。
全体的に丸みを帯びた二頭身、首に巻かれた深緑色に”不思議な紋章”が刻まれたスカーフ、ラッコにとてもよく類似しているフォルムに加えて手の感触で確かめた特徴の殆どが当てはまる。おまけで少々長めな紺色の尻尾が背中からチラチラと覗く。あまりにも自身の姿が変化しているのを見て、少年は声にならない声で叫ぶ事しか出来なかった。
(え、えぇええええええええ!?!?)
改めて自覚した”人間ならざる”その姿。その人間たちが見たら大層人気の出そうな愛嬌マスコット、にもなれそうなその造形。少年の心当たりは見事的中大当たり。当たったところで、景品なんてものはないが。
ざっくり、具体的に言うならば。"元人間"であった少年は、
ラッコポケモン『ミジュマル』にジョブチェンジしていた。
――――――なぜこうなったのか、訳が分からない。
少年は、とりあえず自問自答してみることにした。
(と、とりあえず今の状況を確認しよう。
まずは名前。僕は蒼い波と書いて、”アオハ”)
(次は本来の僕。元々は”人間”だった。つぎは、なんでこんな所にいたのか……ダメだ、分からない)
とりあえず、思いつく限りの事柄を確認していく。年齢、住所、家族構成、生活風景、よく行った場所。自分の性別、名前などの最低限の記憶はすぐに出てきた。
だが、人間だった頃の記憶。少年の家族、職業、日常、友人、その他ほとんどの記憶がぽっかりと空いたように抜け落ちたことが判明してしまった。あるひとつを除いて。
なんで、今の自分の姿が容易に想像できたのだろうか。池で確認する前に立てた想像図と、した後に見た現実。その二つは多少の誤差こそはあるものの、その九割ほどはピッタリと一致していた。見なければ確認できない、顔のパーツの配置なども含めて。それどころか、今となってはこの体に何が出来るのか。少年はそれすらもだいたい把握していた。本能ではなく、知識をもって。
「………なんで、家族の記憶がなくて、ポケモンを知っているんだろう?」
そういって、自問自答を続けようとした、次の瞬間だった。
「Grrrrrrrrrrr……………」
どこからか、恐怖を煽るような低い唸り声が響く。
ドスの効いた、敵意むき出しの重低音がヒタヒタと足音を立てる。音が大きくなっていくにつれて着々と距離が縮まる。
「だ、誰………?」
少年―――――アオハが振り返ったその先、森の奥から覗く二つの光。火を見るよりも明らかに、自分を品定めしている獣の眼光が背筋を強ばらせる。あまりもの迫力に冷や汗は垂れ、足が竦む。ようやく木漏れ日のスポットライトはその姿を照らした。長く歪んだ二本の角、足首には浮き出た骨のプロテクターがまとわりついている。悪魔の猟犬と評しても過言ではないその野獣の名を、アオハは知っていた。
「ヘルガー!?」
口から漏れ出ている炎には毒素が含まれていて、それで火傷するといつまでも長引く。目の前にいる狩る側の知識が脳裏を駆け巡る。が、その途中で体が右に飛び退いた。その直後にまとわりつく熱風、真っ黒に燃え尽きている地面。もし、今の反射で逃げられてなかったら。そう考えて、尋常ではない寒気に襲われた。
このままじゃ、やられる。
何とか抵抗しなければ、そう思っていた所に今の自分の姿が脳裏に浮かぶ。
炎には、水を。
上手くいく保障なんてどこにもないが、ダメ元で使えそうな技のイメージを練る。そもそもこの方法で使えるのかどうかも分からない。しかし、これで成功しなかったら自分はどうなるのか。正直、想像に難くなかったが、ネガティブな思考を無理やり押し留め、集中する。
「GAAAAAAAAAA!!!」
その間、明らかに牙を向けている相手が技発動を待ってくれる筈もない。禍々しい鋭利な前足の爪がアオハを切り裂かんと襲いかかる。小さい体で懸命に躱していくが、中々技のイメージが定まらない。それでも、どうにか頭をフル回転させて固めていく。
冷たく、激しく、流れる水。
「ん゛っ!?」
思考が纏まったとほぼ同時に、体の奥から何かが渦巻き始めた。初めは小さな物だったが、徐々に大きく膨れ上がり、全身に押し寄せる。何かを吐き出す時の様な慣れない感覚を堪えようとして、膨れ上がった物を口の中から一気に放出した。
「GAAA……!?」
出てきたのは、かなり圧縮された水の光線。その威力はそこそこの物で、飛びかかってきたヘルガーを捉えると、そのまま押しのけ、後方へと大きく吹き飛ばした。
水タイプの基本技と称される、みずでっぽう。
アオハは自分が、この技を使い、成功させたのが俄にも信じられず、呆然と立ち尽くしていた。
初めての体験で体力を消耗したのか、肩で息をしつつも、気を抜いてしまったほんのわずかな時間。そのわずかが、命取りだった。
「うわっ!?」
「Grrrrrr………」
タイプ相性自体は良かったが、その他が足りずに決定打とはならなかった様だ。それどころか、下手に反撃したせいで敵意どころか殺意まで見て取れそうな程に激昂している。
なんの前触れもなく視界がぐるっと回転して、地面へと叩きつけられる。鈍い鈍痛とチカチカとする視界に襲われた。そこを逃すまいと、小さな両肩を大きな前足で押さえつけるヘルガー。その目はギラギラと暗く光っていた。理性の一欠片もない、本能そのもの。そして、鋭い牙の並んだ口を盛大に開け始める。鋭く生え揃った凶悪な牙の列。今か今かと獲物を待ち構えるようにテカテカと、光を反射する。
「っ………!」
もう、ダメだ。
フルフルと体を震わせ、せめてこれから自身に起こる惨劇を見ないように目を思い切り瞑ろうとした。
が、その時が訪れることはなかった。
「グガァッ……!?」
どさり、と何かが吹き飛び、倒れた音と時を同じくして、ふっと体にかかってた重量が無くなった。
「………へ?」
今度は警戒しつつ隣を見ると、ついさっきまでマウントを取っていたはずのヘルガーがよろよろと立ち上がる。怒りで染まったその眼は、ある一点へと向けられる。突如現れた、栗色の体毛に包まれた兎にも犬にも見える様なポケモン、イーブイが獣と真っ向から対峙していた。
「Gaaaaaaa!」
「……よっと!」
不意打ち気味に放たれたかえんほうしゃを、軽い身のこなしでひらりと避けるイーブイ。ヘルガーが技を発動させたまま追尾し始めて尚、縦横無尽に躱し続ける。その動きには、一点の迷いも見られなかった。
「………はっ!」
突然、イーブイの尻尾に無数の星が現れ、守るようにして取り囲む。白く輝く星の数々は、主が走り続けながらもヘルガーに向かって不規則に流れ込むが、口から出している炎の軌道を変更し、負けじと焼き払ってしまう。炎と光弾がぶつかり、点火し、巻き込み、爆発的な連鎖反応を起こした。その反動として広範囲に白煙を撒き散らす。
その煙が晴れたその先に、イーブイの姿は見えなかった。動揺しているのか、きょろきょろと周りを見渡しているヘルガーの足元に、僅かな揺れが生じた。
「!?」
「隙ありっ!」
気づいた頃には、地面から飛び出したイーブイの攻撃を腹部に喰らっていた。上へと打ち上げられた黒い体は、投直投げ上げ運動よろしく、最高点で停止して落下を始める。
それを待ち構え、ふさふさの尻尾を白銀の様に発光させる。イーブイは一回転して、鋼鉄のような硬度を得た得物を勢いのままに振り下ろした。
「これで、トドメっ!」
鈍い音を立てながら、ヘルガーの胴体を絶妙なタイミングで地面に叩きつけた。その後、体が僅かに持ち上がろうとして、前から崩れ落ち、地に伏した。この連続攻撃には流石に耐えられなかったらしい。
「………さて、と」
相手が立ち上がらない事を確認し、不意にこちらを向いたイーブイに、アオハは体を跳ねさせる。明らかに強ばっているのを感じたのか、努めて明るい声色で話しかけてきた。
「あっ、驚かせてゴメンね!ケガはない?」
「……うん。助けてくれて、ありがとう」
ようやく警戒心を解いたと感じた所で、そのイーブイは唐突に質問を投げかけた。名前、出身地、ここに来た訳、などなど。明らかに興味津々かつテンションが上がっているのが分かった。しかし、今答えられるのはそう多くはない。
「僕はアオハ。どこから来たのかとか、ここに来た理由は分からないんだ」
「分からない?」
「うん。覚えているのは、名前くらい。どうやら僕は人間だったみたい」
「………!」
その言葉を聞いたイーブイの目が、一瞬見開かれた。そして、アオハの体をくまなく見始める。もしかして、人間発言は言ってはダメだったんだろうか。アオハは不安に襲われた。しかし、特に敵対するような態度をとることはなく、最終的にその目線は首に巻かれてるスカーフに留まった。
「どうしたの?」
「えっ、ああいや。何でもないよ! それより、自己紹介がまだだったわね」
イーブイはかなり焦った様子だったが、アオハの方は、その意図がまるで分からず、きょとんとしているだけだった。
気を取り直してコホン、と咳払いをひとつ。
一旦気持ちを整理した所で、彼女は堂々と名乗った。自身の存在を知らしめる様に、高らかに。
「私は、ヒナノ。 ――――――――――将来、世界一の冒険家になるポケモンよ!」
その日の天候は、これ以上無いくらいの快晴だった。