第1話 はじまり
サメハダ岩と呼ばれるの崖の空洞で、ミズゴロウはのんきに目を覚ました。尖る岩々から外の景色を覗くと、既に夕焼けの紅が凪いだ大海を美しく染めていて、荒れ狂う嵐が襲ってきたのは遠い昔のことのようだった。
惚けて眺めているのも束の間、今起きた時間とふつう起きるべき時間とを比較した。朝から夕方では、ほぼ半日眠りこけていたことになる。ねぼすけ、なんてものではない。
「でも、休息は大事だよ」
ためらいないあくびと共にひとり自分に言い聞かせ、また睡眠する訳にもいかないので、やおら立ち上がった。昨夜の雨でまだ少し濡れている黒いスカーフを巻き、首にかけた宝石のペンダントがあることを確認して、出口に繋がる短い階段を静かに上がった。
まず頭だけひょっこり出す。そして、階段の存在を隠すカムフラージュ代わりの茂み越しに外の様子を伺う。ほんの少し湿った匂いが皮膚に馴染むだけで、ポケモンの気配はなかった。転ばないよう注意して、ミズゴロウは地上に出た。
念のため。
口のなかで呟くと、夕と同じ色の瞳をぐっと閉じた。瞬間、スカーフの下のペンダントが淡く点り、仄かな熱を帯びる。しばらく立ち尽くしていたが、目を閉じたまま、ふと力みを緩めた。それは昨日の追っ手に対する策であり、ずいぶんと簡単でまたとても不便にも思える、いわば彼なりの変装だった。それでも彼には周りが“視える”のだ。
「行こう」
自らを奮い立たせ、ミズゴロウは店じまいを始める街中へと歩み始める。
午前は快晴だったのだろう、植物も地面も微かにしか雨の跡を残していない。風も撫でるように優しく、たそがれどきの空気は柔らかかった。商売を生業としているらしいポケモンたちは、仕事が一息ついたのか住民や隣り合う店の主との歓談にふけっており、よそ者であるミズゴロウの存在はあまり気にかけられなかった。話題の落ち着いた一間にちょろと見かけて、ギルドの新入りだろう、と考える程度の認識である。
そう、ギルドというものがこの町には存在する。ざっくばらんに言えば、この世に潜む財宝を見つけるための冒険に出たり、前人未踏の地を開拓していく“探検隊”の集まりだ。一方で、捜し物や救助活動、悪さをしたおたずね者の退治などもこなすため、なんでも屋的なイメージを持たれることもしばしばである。
雑草の侵食を受けて形の崩れた石畳が緩く円状にまとまる広場を通り抜け、ぼんやりと店番に立つ表情の分かりにくいヨマワルを横目に進むと、ミズゴロウはさらさらした土の地面の十字路に出たことが分かった。矢印状に削った木板に赤字で記した標識が雑に積み重なって横手に立っていたので、確認がてら書かれた場所を音読してみる。
「えぇと……後ろがトレジャータウンで、このまま真っすぐ行くと外。右が海岸で左がプクリンギルド、ね」
どこに向かうべきか、しばし止まって考えた。どうやら彼に用があるのはギルドのようで、急な登り階段の先を見上げたが、ここからでは施設の姿は見えなかった。
橙色の空に、小さくちぎれた雲が流れていく。お月様がもうすぐ顔を見せに来る頃合いだ。
単独で行けば怪しまれるかもしれない。
ひとしきり悩んだすえ、彼は海岸に向かう階段を降りて行った。短い間にたくさん起きた、彼のできごとと環境の変化に整理を着けるために、いま一度考える時間をとることを選んだのだ。
そこへ、水色の後姿を認めて木陰からのっそり現れたポケモンが二匹。
「あいつ、トロそうだな」
その一匹、ドガースが嫌な笑みを浮かべてスモッグを噴かした。隣のズバットもにやにやして羽ばたきながら、言葉を継いだ。
「何か金目の物でも持ってそうだ。狙うか」
「おう」
実際のところ彼らの目的は、物を取られたポケモンの困り様を見たいという一点にあったが、その予想自体は当たっていた。悪だくみの結果を夢想しながら、怪しい一組はエモノの後をこそこそとついていった。
〇
サメハダ岩から見たときよりも、海はもっと近くにあった。細かく白い砂は見事な浜辺を作り上げており、高い岩場でクラブたちの吹いた泡が波間に浮かび上がり、優美な光景をいっそう幻めいて際立たせる。ミズゴロウは数歩の足跡を残すと、疲れと悩みを忘れて、きらめく水面を前にぼうっとしていた。
だが、まもなく意識を取り戻さざるを得ない原因があった。それは、思い出した現実の状況や彼にしか知れない己の過去ではなく。
「ぐごぉ……がぁ」
どんなに趣のある景色も台無しになること間違いない、大きないびきだった。気持ちの良い気候だから、砂浜で眠ってしまうほどの心地よさはあったにせよ、それにしても節操のないポケモンである。
見やると、砂浜の奥、角の取れた岩辺の近くに全身傷だらけのヒトカゲが仰向けでぐっすり眠っているではないか。足元には奇妙な紋様の描かれた石板が転がっており、底を波の際に洗われていた。
初めはうるささに不快を覚えたものの、あまりに怪我がひどいことが分かったために、ミズゴロウは慌てて駆け寄った。短い前足で頬を軽く叩いて、とりあえず起こそうと試みた。
「起きて!」
「んおっ!?」
思った以上に素早くヒトカゲは目覚めた。がばと起き上がり、周辺をきょろきょろ見回すと、それこそ起きているかも判別しかねる糸目のミズゴロウと目が合った(と彼は思った)。そのへんてこな顔というよりは彼の存在そのものを、開いている左目をぱちくりして、不思議そうに眺め訊ねる。
「お前、ポケモンか?」
「そりゃあ、見れば分かるでしょ」
この世界には、当たり前ながらポケモンしかいない。名前や種族が分からないというならまだしも、お前はポケモンかと問うてくるのは変わっているとしか言えなかった。 そんな世間知らずもとい世界知らずのヒトカゲに、ミズゴロウは小さく息をついた。今時すっとんきょうな振りをして騙しにかかる手合いも少なくないと、身構える。しかし、警戒をおくびにも出さないので、ヒトカゲは構わず気になったことを続けざまに聞いてきた。
「名前は?」
「名前……ゴ
ロウ。ゴロウって呼んでよ」
「ヘンな名前だな」
ちょっぴり言葉に詰まって、ゴロウは自分の名前を名乗ったが、目の前の相手は評価をバッサリと切り捨てた。なんだか疑うことが急に馬鹿らしくなって、探られるだけというのもシャクだからと、彼も疑問をそのまま返した。
「じゃあ、君は何て言うの?」
「オレ?オレは……ありゃ」
軽く答えてやろうとしたヒトカゲが、ウンウン唸りながら、首どころか体ごと傾げた。だが、どんなに思い出そうとしても、そもそもの記憶が空っぽのようで手繰り寄せる当てすら見出せなかった。その中で、ただ一つだけ確かなことが、それがただの直感に過ぎないにせよ……閃きに似てパッと頭のなかに降りてきた。
「思い出せねぇ。けど、俺がニンゲンだってことは確かだ」
「ニンゲン!?」
ゴロウがいきおい驚き、ヒトカゲは声の大きさに顔をしかめつつ、おぼろげな事実ながら自分も納得させるように頷いた。ゴロウはといえば、俄かに信じがたいといった顔で彼を見つめていた。
「そうだ。きっと、そうだ」
「文献の限りでは大昔も昔の存在のはずだよ。ましてや、“ニンゲン”という言葉をふつうのポケモンから聞くなんて」
「お前は“ふつう”じゃないのか?」
「うぐっ」
独り言めいた言い訳に、ヒトカゲが妙に鋭い指摘を入れた。動揺で予期せぬ弱点を突かれた形になって、ゴロウは返事に窮しわざとらしく咳払いした。
「知り合いに、詳しい方がいてね」
「へぇ」
明らかに下手なお茶の濁し方だったが、ヒトカゲは別段追及するつもりもなく曖昧に相槌を打った。おかげで密やかならぬ安堵を覚えたが、もっと話題を変えようと、最初から心配していた怪我について尋ねる。
「君のその怪我。大丈夫、じゃないか」
「怪我……うわ、本当だ」
言われて、自分の状態を確かめようと彼が体をよじると、ものすごい痛みがあちこちを駆け抜けた。苦しみで顔が歪むが、閉じた右目はびくともしなかった。
「め、めっちゃ痛ぇっ!」
「やっぱり。そんな状態でよくいびきかいて寝られたね。とはいえ、手持ちにオレンの実もないし……」
「おい」
どうしたものかと悩んでいるゴロウの背後に声が掛かる。振り向くと、見るからに意地の悪そうなドガースとズバットが浮いていた。ドガースは浜辺に転がっていた石板を頭の上に乗っけている。漏れ出すガスの臭いと羽ばたきの騒音が澄んだ浜辺に漂い始めた。
ズバットがゴロウとヒトカゲを交互に睨み、ついで石版に頭を向けて言った。
「お前ら、このお宝はもらうぜ」
「うん、いいよ」「おう、いいぞ」
「え?」
「だってそれ僕のじゃないし」
「俺も記憶にないし」
怪しさという点ではあんまり劣らない二匹は、あっさり承諾してしまった。その簡単さに拍子抜けすると同時に、弱いものいじめの常套手段が上手くいかなかったことにズバットは困惑した。これにはドガースも驚いたようで、にやけた顔のまま硬直するが、ひねくれた思考がすぐに余計な考えを生み出した。
「ズバット。こいつら、俺たちを怖がってるんだぜ。だから、知らない振りして自分の大事なものをすんなり渡したのさ」
「なるほど。ということは、お前らは弱虫クンなんだな」
「ああ。ビビりのおくびょう者だ」
話に割り込む隙もなく、二匹は自分たちで勝手に盛り上がっている。ゴロウは煽りがあまりに下らないものだから言い返す気も起きず、げんなりした様子で、てきとうに追い払うことに決めた。
「分かったから、さっさと行ってほしいな」
「フン。しょうがねぇ。弱虫クンのお願いに免じて、これ以上は……?」
ズバットの言葉が、途中で止まる。ドガースの笑みがひきつり、ゴロウも背筋にびりびりした震えを感じて、恐る恐る後ろを振り返った。
「だあれが弱虫だぁ……?」
体の衰弱なぞどこかに置いてきてしまったかのように、いつの間にか、ヒトカゲが立ちあがっていた。怒りは挑発を燃料に燃え盛っており、開かない右目が微かに震えている。およそヒトカゲには似つかわしくない熱気が地面の砂をチリチリと灼き、ゴロウたちはプレッシャーとも熱さともつかない汗を垂らした。
「こいつやばそうだ。引くぞ」
「お、おう。あばよ!」
そこはかとない危機を察知したドガースとズバットは素早く身をひるがえして逃げようとすると、浜から火の粉がやたらに噴き出して、行く手を塞いでしまった。
「こっちだ!」
ズバットが機転を利かせ、焦りに駆られながら、二匹は海岸の端、丸みを帯びた岩場の積み重なる洞窟へと脱兎のごとく、走って行った。
目まぐるしい状況の変化にゴロウはますます混乱して、彼は彼でゴタゴタをすべて放棄して退散しようと洞窟とは反対側に踏み出したら、あやまたずヒトカゲにスカーフの結び目をむんずと掴まれた。首を引っ張られる形になって、変な呻きが潮騒に混じる。
「ぐげっ」
「一緒に来い。あいつら引っぱたきに行くぞ」
ヒトカゲの放つオーラは、引っぱたくというにはあまりに物騒であった。突っ込みたくなるのを堪えて、ゴロウは誘いを辞退しようとする。
「いや、僕はべつに」
「売られた喧嘩はオトナ買いしろって言うだろ?」
「言わない言わない」
「問答無用」
挟んでしまった合いの手もむなしく、ヒトカゲはずるずるとゴロウを引きずっていくのだった。なすがまま、下界の些事になど囚われることなく瞬き始めた星々を仰いで、ゴロウは心の底からの溜め息を放り投げた。
「変なのと会っちゃったなぁ……」