Chapter1 嵐の海で
プロローグ
 ひどい暗闇だった。もはや地形も定かではなく、ごうと吹き付ける嵐のさなか、耳をつんざくようなとどろきの前に光る雷が、動くシルエットを二つ、青白く照らした。
「だ……大丈夫か!」
 “突き刺す”と表現しうるほど激しい雨にまで曝されている影たちの片方が、振り向いてどうにか言葉を絞り出す。余程の場数を踏んでいるのか、このような恐ろしい悪天にあってもその声は落ち着いた色を含んでいた。
 訊ねられた方は答えることも出来ず、繋いだ手をほんのわずか、強く握っただけだった。
 それが、精一杯だった。
 また、雷が閃く。その一際大きい怒号は大地の一端を削ったと見られ、衝撃がふたりを引き裂かんとする。天から降り落ちる脅威は明らかに彼らを狙っており、徐々に精度を上げつつあった。
 足を引っ張る暗い雨の水溜まりに拘泥しつつも必死に走っていた二つの影にも、とうとう限界が近付いてきた。稲妻がすぐ傍で炸裂し、地面にぶつかって尚余りあるエネルギーをもろに喰らってしまったのだ。
「離しては、駄目だ!」
 まだ体力のあった先頭の影が、ついにほどけようとする小さな手へ、見えない闇に向かい懸命に腕を伸ばした。相手を励ましているのか自分を叱咤しているのかさえ、この混沌では誰も、知るすべはなかった。
「もうすこし……なんとか、頑張るんだ!」
 いよいよ身の危険が間近に迫って張り上げた声にも、やはり反応はない。ましてやもう、握っていた手の在り処も立ち込める黒に溶けてしまった。こうなっては互いに独りであり、再会の目処は断たれたも同然であった。
「このままでは……」
 深い哀しみと諦めの混じった呻きをも許さんとばかりに、冷たい閃光が、今までで最も大きく、ふたりのあいだに注がれた。決定的で、致命的な一撃だった。
「うおあぁぁぁっ!」
 嵐が止んだあと、深くえぐられた灰色の大地には、なんの生き物の痕跡もなかった。



 雷雨の治まるところを知らぬある日の夜。戸を締め切った家々が並ぶ、住民一匹もいない街中を、三匹のポケモンが駆け抜けていた。構図で云えば二匹が追いかけており、残りの一匹は追いかけられていた。組となっているのはどちらもポッタイシで、逃走真っ最中の方は、黒いスカーフで申し訳程度に顔を隠したミズゴロウだった。
「待てぇっ!」
 月並みな台詞を吐いてきた追っ手に、ミズゴロウは心中嘆息しながらも四つ足を速めた。
 レースの分は彼にあった。というのも、いつにない嵐が視界を遮るからである。水タイプと言えど彼らのいる場は地上ゆえ、水中とはまた勝手が違う。
 町外れまで突っ切ったミズゴロウは、目の端に丈の長い草々の揺れていることを察した。すると、間髪入れず、吹く風に身を預けるようにして、茂みへ飛び込んだ。
 数瞬遅れて、追っ手たちも町外れに差し掛かる。しかし、ついさっきまで眼中にあったはずのターゲットの姿はどこにもなかった。
「おい、あの“おたずねもの”はどこに行った?」
 雨を全身に浴びながら、目つきの鋭い奴がきょろきょろと辺りを見回して言った。
「見失っちまったかも……。なぁ、もう帰ろうよ」
 声色からも分かるほど気弱なもう一方が、一応自身も周りを探ってから、提案した。
 直後、ぴかと雷が光って、脅しのような鈍い響きが二匹の肌を伝い、身震いさせた。遠くの出来事であったとはいえ、電気は彼らにとって恐ろしいものに違いなかった。
「そうだな。ここらにいる、と伝えられるだけでも十分だろう」
 ちょっとだけ悔しそうだった鋭い奴も流石に観念してその提案を呑み、二匹は踵を返して外れを去っていった。
 さて、当のミズゴロウはどうしたか。
 幸運なことに、隠れた茂みにはなんと、ずいぶん前に掘られたらしき穴と地下に続く階段があった。ミズゴロウはそれとは知らず、勢いのまま階段を転げ落ちたのである。
 降りた先は小ぢんまりとした空間だった。完全に密閉されているわけではなく、ギザギザした歯のような岩の隙間から雨風が入り込んでいたけれど、雨宿りするには十分だった。
「はぁ……」
 追っ手の気配の絶えたことと、ようやく身を落ち着ける場所に出られたことに、ミズゴロウは安堵の息をつく。逃げ切ったという喜びよりも、疲労が顔に色濃く表れていた。
 おもむろにスカーフを解いて、地べたに寝転がる。今まで受けた雨滴がしとしと落ちていって、硬い岩の床に跡を残していった。
 珍しい橙色の瞳が天井を見上げ、ついで真っ黒な空に目を向ける。
「ここ、サメハダ岩かぁ」
 そんなことを呟いて、ミズゴロウはすぐに深い眠りに落ちた。
 ときおり鳴る雷以外すべてが暗い夜のなかで、彼の首元に下がった、水色の宝石をあしらったペンダントだけが、透きとおるような小さな輝きを浮かべていた。

■筆者メッセージ
たぶん続きます。
誤字など修正点があったら教えて下さると大変ありがたいです。
鈴索 ( 2019/07/01(月) 21:06 )