死神ドクター - 本編
K20 ―中編―
 今まで知らなかったのだが、K19の本名はサヤカと言うらしい。考えてみれば自分に名前がなかったので他人の名前を知ると言う事に関して、私は些か無頓着だったのだろう。尤も、自分に名前が欲しいとも特に考えていなかったが。
 あの日を境に私とサヤカの関係はかなり良くなっていた。私は自分でも信じられないくらい笑顔が増えた気がするし、心なしかサヤカも私が授業を手伝ったりした成果か全体的な学力が向上していた。
 研究者達が実験動物である私達をどう思っていたのかは興味がなかったが、止めに入らないところを勘案するに奴らにとっても私とサヤカの友好は実験に対しプラスに作用していたのだろう。たまに施される注射や何かの波長チェック、科学者達の能面の下に浮かぶ僅かな喜びの色は見逃しようがない。
 彼らの期待通り、いやそれ以上だろうか? レールに乗せられ進んでいることに苛立ちがなかったと言えば嘘になるが、この頃の私は……きっと幸せだったのだ。
 サヤカの名前を知ってから2週間程が経過した頃、光に闇が差すと言えるような不穏な空気を私は感じていた。サオリ先生の表情が普段よりどことなく元気がないように見えたし、防弾ガラスの外に見える科学者達も右往左往している。
 かと思えば慌ただしかった科学者達は1人の男が扉から入って来ると一斉に姿勢を正し、傍に控えていた別の科学者が手に持っていた資料らしき紙束を男に手渡す。恐らく、私達のデータに違いない。
 奇天烈な恰好とまでは言わないが、男は身なりの良いスプライトの入ったダークスーツを身に纏っていながら、ここの規則なのかは不明だが、その上から染みやら皺やらくたびれた感じのある白衣を着ると言う変なスタイルであった。
 ともあれあの男が来たことが研究所内のざわつきの原因なのは間違いない。サオリ先生は私達に自習を続けるよう言うと席を立ち、あの男の下へと向かい何やら話し始める。
「ねえK20、あの男の人って誰かな」
「知らないよ。でも、嫌な予感がする……あの人、怖い」
 私の口から弱音が零れたのにサヤカが少し驚いているようであったが、多分私の方が自分の口から出た言葉に驚いていただろう。素直に怖いなどと、今までだったらきっと言わなかったに違いない。
 驚いたことはもう1つ。スーツの男と話していたサオリ先生が僅かに驚いた表情を浮かべた後にこちらへ向けた視線と表情、きっと今までも予兆はあったのだろう。だが今になって初めて気付いた。彼女の表情にあるのは戸惑い、迷い、躊躇。
 対照的に男の表情にあったのは、腹の底から込み上げて来る吐き気を催すような好奇の視線。まるでCMで見た面白そうな玩具を目の前にして、昂る感情が抑えきれない子どものような無垢なもの。
「目を合わせない方が良いよ。サヤカ、無視して勉強続けよう」
「う、うん……待って、大人達が何人かこっちに来るよ!?」
 怯えた声で叫ぶサヤカの言葉に反応して外を見ると研究員達が数名こちらの方に駆け足で向かってくるのが見えた。明らかに今までとは違う反応。残り2人とは言えここまで露骨に大人達がこぞって来るなんて異常だ。
 カードキーのロックが解除される音がすると研究員達は顔を合わせて頷き合い、私に寄り添っているサヤカの手足を掴むと強引に私から引き剥がす。私が手を伸ばすも叩き落とされ、もはや届かない。
「K20! いや! 助けて!」
「アザギ様がお呼びなのだK19! 大人しくついて来い、可能な限り怪我をさせたくはない」
「止めて! 私が、私が代わりに行くから!」
「お前は今はお呼びではない! ええい、放せ! 邪魔だ!」
 私が掴み掛った研究員が舌打ちをすると腹部に激痛を覚えた。胸部を蹴り飛ばされたのだと分かった時には既に宙を舞い机を巻き込みながら倒れ、呼吸が整わず地面に伏して呻いたことだけはしっかり記憶にある。
 苦しかった。歪む視界の中でサヤカが叫ぶ声だけが聞こえた。私の心配をしてくれていたのか、それとも必死に助けを求めていたのか、今になってもどちらかは分からない。ただ分かることだけはある。あの時の私には、助ける力がなかったと言うこと。
 気絶していたらしい。次に気が付いたときにいたのは自分の部屋のベッドの上、熱もあったのか頭の上には氷嚢が乗っており、近くの椅子ではサオリ先生が腰掛け眠っていた。
 不覚にもこのとき私は嬉しかった。看病されたことなんてなかったから。ここに来る前はどんなに苦しくても自分で耐えて、寝て何とかするしかなかったんです。ここに来てからはそもそも看病が必要なほどの病気になったことがない。
 嬉しさの後にすぐ心に寒波が訪れる。起き上がろうとして腹部に刺すような痛みを覚え、ベッドに倒れ込んだ。その衝撃で気付いたらしいサオリ先生が目を覚まし、安堵からなのか呆れからなのか溜息をつく。
「K20、貴方は自分が何をしたのかわかっているの」
「……サヤカは、K19は、どうなったんですか」
「貴方が知る必要はないわ。それより、何であんなことをしたの。無駄だと分かっているでしょう」
 諫めるような彼女の言い方に私は無性に腹が立った。無駄だと言う事など百も承知。だが例え無駄であろうと、目の前で大切なものが失われるのを黙って見ている愚か者にだけは断じてなりたくなかった。
 ここに来てから私は可笑しくなったのだろうか。それとも、アイカやサヤカと出会ってから理解不能になったのだろうか。生き残るためには従順であること、それが絶対だと信じて疑わなかった。なのにその時私は、サオリ先生に掴み掛っていたのです。
「先生は! 大切な人が失われるのを、自分に光を齎してくれた人達がいなくなるのを、黙って受け入れられるんですか!?」
「ここに来た時からそうなる覚悟はあったはずよ。特に貴方は一目見た時から分かっていた。世界を信用していない孤独な瞳、大人を恨む邪悪な気配。それが地獄の中で光を見せられればどうなるか、それは貴方自身が一番理解していたはずよ」
「分かっていましたよ! 彼女達と仲良くしたって辛くなるだけなんだって。でも、だけど……それでも私は満たされていた。なぜ私だけ残したんですか。どうせろくでもない実験のモルモットにされて死ぬのでしょう? なら殺せば良いじゃないですか! サヤカと一緒にこ――」
「殺せなんて簡単に言うものではない!」
 痛い思いは何度もしてきた。数えきれないくらい、それこそ生れ落ちてからずっと。私は知っていた。嬲られる方は無力を痛感しながらも媚びへつらい生きなければならず、蹂躙する方は優越感と快感に満ちているのだと。
 だが私はここでも思い違いをしていた。その時の私には分からなかった。目の前で私の頬を思い切り叩いたサヤカ先生が、どうして声を荒げたのか。どうして辛い表情をしているのか。どうして顔を俯かせたまま足早に部屋を出て行ってしまったのか。
 絶望と諦観と言う危ういロープで繋がれていた私の心は限界だったに違いない。サヤカ先生の出て行った理由が少しでも理解出来てしまったそのとき、私は本当に全て失ったのだろうと泣いた。
 恥ずかしいくらいに泣いた。泣き崩れた。

 次に気付いたときには鉄格子付きの窓の外から太陽が昇っていた。どういう姿勢で寝ていたのか覚えていないが、毛布はちゃんと掛けられ氷嚢は無くなっていた。
 謝らないといけない――そう思い布団から出ようとした直後、忘れもしない、地獄の門が開く音がした。怯えながら目を向けるとそこにいたのは昨日突然やって来た、研究員達がアザギと呼んでいた研究者らしいスーツを着た男。
「やあーK20。私はアザギ、ロケット団の幹部の一人だ。以後お見知りおきを……ふーん、やはりいつ見ても悪くない素体だ。K19も悪くはなかったが……教養、運動神経、淀んだ瞳、実に私好みだ。実験体でなければ妻に迎えたいほどにね」
「変態……」
 聞き覚えのある声だった。以前トイレに行こうとしたとき、曲がり角でサオリ先生と話していた男の声。こいつは突然やってきたわけじゃない、ずっと前からここで私達のことを見て知っていたんだ。
 付き添いの研究者達が私の言動を咎めようと前に一歩出てきたがアザギがそれを手で制する。容赦なく私のことを蹴り飛ばす研究者共が嫌な顔一つせず素直に引くところを見るに、絶大な権力を持っているのは確からしい。
「そーだ私はド変態だ! そんな超ド級の変態が良いニュースを持ってきた。なぁK20、辛いだろう。奪われ、失い、泣き叫び、いつ死ぬかもしれない恐怖だけが残ってしまった。私はね、心が痛むよ。幼気な少女を苦痛に晒し続けることを」
「白々しいですね。そう言いながら目がとても嬉しそうですよ。さっさと良いニュースと言うのを教えてください。どうせ、ろくでもないことなのでしょう」
「そんなことはない。君の希望を叶えてあげようと言うのだ。クラウンから聞いたよ。殺して欲しいとね。でもね、命を粗末にするのは良くないし今の時代は流行らないよ。命と言うのは有意義に使わねば」
「……言っていることが、良く分からないのですが」
「運が悪ければ……いや、良ければ死ねるかもしれないな。丁度先日完成したんだ、実験の成功率を上げる強心剤と鎮痛剤を併せ持つ劇薬がな」
 相変わらずアザギの表情をは笑っていた。逆に私はきっと、青ざめていたに違いない。死ぬことすら、奪われたのだと。
「K16とK18は臓器の変容に耐え切れず死に、K17は脳が焼き切れて死に……類似の薬を使ったK19は惜しかったな、だが精神が崩壊して使い物にならなくなってしまった。故に、薬を少し強くした。君は、壊れないでくれよ」
「い、嫌だ……死ぬことすらなくずっと苦しむなんて嫌だ! は、放して! 嫌だ嫌だ嫌だ! 行きたくない助けて! 助けて! 先生、サオリ先生!?」
「実験室A2に連れて行け。失敗前提で臨むのは良くないが、コイツも駄目なら補充するぞ。サカキ様に実験開始の通知、経理部に次の素体集めのために使う予算の手配を進めておくように」
 死ぬことは怖くない……私は初めて、そんな人間などいないのだって分かった。その時の私はどうしようもなく怖くて、恐ろしくて、不安で、叫んで、抗って、叶わなくて絶望して、私から顔を背ける彼女を憎んだ。
 まるで自分の娘と楽しい遊園地にでも行くかのような微笑みをアザギは浮かべながら、私は抗うことも出来ず診療台の上に貼り付けにされた。両手両足が縛られ、肩や脛、恥骨周りまで入念にバンドで固定するのは今にしても異常だと思う。
 あの壊れた笑顔のままアザギが私に打ち込んで来た注射器、中の液体は透明で水のようにも見えた。栄養剤と抜かした液体を私の中に入れられた直後、私は自分が自分でどうなったのか、正直もううろ覚えになってしまった。
 分かるのは全身が誇張抜きで張り裂けるような痛みに支配され、絶叫を上げ続けたと言うこと。舌を噛み切って自殺しようとしたら猿轡をされ、次から次へと妙な注射を投与され、口が塞がれたので鼻からチューブを通して何かを胃の中に流し込まれたと言う事実だけ。
 激痛と悲愴から私の視界は歪み続けた。涙はいずれ枯れるものだと思っていたのに、私は数時間に渡り涙腺から涙なのかよくわからない物を流し続けた。投与された薬のせいなのか体は火照り、呼吸が荒々しくなり、常に全力で走っているような息苦しさ。
 いつ死ぬのだろう。いつ死ねるのだろう。もはや壊れた心で死を待っていた私を出迎えたのは、朝日だった。いつもの部屋だった。何も変わっていなかった。だが私は何かが変わっていた。具体的に何かと言われると、外見上の変化はない。
 だが腕に残る大量の注射の跡と既に完治し塞がりかけているその傷を見て、私は自分が人間ではなくなったのだと分かった。心は壊れたはずなのに、私の口から零れたのは乾いた笑い声にも似た、嗚咽だった。
「は、はは……あはは……なんで、私は……生きてしまったのですか」
「Kプロジェクト、正式名称はKnight Of Rocket。人間でありながら多くの生物と親和性の高い細胞を持つ少女に対して、あらゆるポケモンの細胞を埋め込み力を発現させる……文字通り、ロケット団の騎士たり得る存在を作る企画。実験は成功したの」
 今更知ってどうしようもないし、知ろうとも思わなかったプロジェクトの概要を教えてくれたのは、目の下に酷い隈を作りながら湯気1つ立っていないコーヒーカップを手に持っているサオリ先生だった。
 何を言っているのか正直分からなかったし分かろうともしなかった。だが私には聞こえて来た。目の前で実験成功に喜んでいるはずの女性の中から、ただひたすらに謝って来る懺悔のような冷たい波の音を。まるで、心が聞こえるように。
 今にして思えば私は彼らの想像を越えた傑作だったに違いない。でなければ心が読めるような相手の前に研究者など遣わせるはずがない。ガイド機能が付いたタブレットでも置いておけばいいのだから。
「K20、これからは普段の勉強に加えて特別な授業も受けてもらいます。貴方の中にある力を引き出すための、今までとは違う訓練です」
「……好きに、してください。どうせ私は実験動物。人でなくなり、ポケモンでもなく、もはや自分が何なのか分からない生きているだけの存在。ごめんねサヤカ、私だけ、ごめんね」
「泣いている暇はないわ。アザギは目が覚めたら、直ぐに連れてくるように言っていたからね」
「ならさっさと連れて行けばいいじゃないですか」
「対象の肉体や精神の状態を見極めるのが研究者の仕事よ。貴方は今、アザギに会わせるのは適切ではない。私はそう判断している。信じてもらえないかもしれない。けれど、これだけは信じて欲しい……私は、貴方の味方でありたい」
「何でそんなこと言うんですか。嘘だって叫びたい。ふざけるなって怒鳴りたい。なのに、分かってしまうんですよ……う、ひっぐ……ずるいじゃないでずがあ!」
 彼女は、サオリ・クラウンは、いつから私の味方だったのだろう。初めて会った日? 違う、あの時の彼女はアザギと同じだった。夜に彼女とぶつかった日? どうだろう、手を差し伸べてくれたけど。
 きっと「いつから」なんてないのだろう。少しずつ日々の中で、彼女の中の何かが変わったのかもしれない。だがその時の私にとってはどうでも良いことであり、非論理的で感情を優先する子どもであった私には、反抗精神が芽生えただけだった。
 自分の好き勝手なことをしながら、謝って来る大人。抗えない社会の序列が存在することは生まれながらに理解していたが、理解していたからと言って境遇に納得できるわけではない。誰でもそうだ、そうだろう。

 次の日から授業の内容が大きく変わった。通常の授業に関する時間は大きく削られ、サオリ先生の代わりに今までどこにいたのかわからないくらい多くの科学者に囲まれての授業となって行った。
 体中や頭に電極のようなものをつけられ、最初にやらされたのはポケモンと接すること。ガーディやゴース、アーボックやタマタマ、タイプも容姿も異なるポケモン達を何時間も私と接触させることで相互の変化を見ていたらしい。
 ポケモンは素直だった。私が遊びたいと思えば一緒に遊んでくれ、何もしたくないと思った時はそっとしてくれていた。このときの私は理解出来なかったがどことなく気付いていた。私がポケモン達の感情を操作していたことを。
 自分の感情を他者に投影する。どうやらフーディン等のエスパータイプの細胞の力のようだ。時が経つにつれて次は人に心を閉ざしたポケモン達の相手をさせられた。攻撃的、閉鎖的、暗澹たる想いの奔流が私の中に流れ込み頭がどうにかなりそうだった。
 研究者達は彼らを『屈服』させろと命じて来た。だが私は反抗期だった。屈服ではなく『信頼』を選びたかった。それはまるで巨大な氷に抱き着いて溶かしていくような痛みを伴うもの。
 指示通りに動かない私をしかし研究者達は無下に扱えない。ただ唯一の成功例、その機嫌を損ねることも、何より万一大怪我でも追わせてしまったならアザギを筆頭にしたロケット団団員による粛清が待っている。
 彼らは気付いていないのだ。私が読み取れるのはポケモンの感情や記憶だけではない。貴様ら1人1人の記憶や感情もまた読み取れるのだと。彼らが思っている以上に、私は急速な成長を遂げていた。
「……何をすれば、あの子たちをここまで追い詰めることが出来るんですか。どうすれば、そこまで心を闇に委ねられるのですか」
 私の前に運び込まれてきたポケモン、草タイプらしいふわふわとした初めて見るポケモン。カントー地方では初めて見た、恐らく別の地方にいたポケモンなのだろう。
 酷く傷ついていた。私が治療して上げようと手を伸ばすとその体は逃げるのではなく、私に向かって突進し軽量そうな見た目からは考えられない威力で私の体を数メートルは吹き飛ばして地面に転がされた。
 科学者達はいつものようにスピーカー越しに言ってくる。『屈服』させよと。目の前にいるのはもはや人に恨みを持つだけの獣、未来永劫人間と分かり合えることがないように見える氷の塊。
 自信はあった。その氷を鉄の扉に閉じ込め、自由に持ち運べる自信が。恐らくこれこそが、科学者達が求めているもの。ポケモンのコントロール、あらゆる感情を閉じ込め意のままに操るメカニズムの解明。
『K20、そいつを屈服させろ。言っておくが、今までのような生易しい相手と比較しないことだ。そいつは既に何人か殺しかけているぞ』
「お互いに不幸ですね。私はK20、あなたの名前を教えてくれませんか。この先、仲良くやっていくにはまず名前からです」
 懲りずに立ち上がって手を伸ばしてはまた吹き飛ばされた。何回か繰り返したところで立ち上がれなくなった。無機質な天井を眺めたまま、私は次第に考えることを止めて行った。理由は簡単でした。体が痛い、それだけだった。
 腹部が痛く呼吸が苦しい。私は体を起き上がらせていました。身体が重い、呼吸が粗い、酸欠になったかのように苦しい。だが、失った後の後悔はもっと痛く辛く、「どうして」、「なんで」、「あのとき私は」、そんな言葉が延々と私の中に吐き気を生み出し続ける。
 研究者達が中に入って来る。ヘルガーを連れていた、手には鉄棒。彼らの心が黒い。彼らの心が荒い。私は咄嗟に走り出す。気付くとヘルガーは意識を失ったように項垂れ、逃げようとしていたポケモンの前に両手を広げて私は立っていた。
「あっ!……わ、私は……」
 謀られた。ヘルガーが完全に沈黙したことへ満足した科学者達はボールに戻すと直ぐに部屋から出て行き、ガラス越しで聞こえないが直ぐにいくつものパソコンを操作し出す。無意識に、ヘルガーを屈服させられてしまった。
 どれぐらい泣いていただろう。気付けば先ほどまで私を攻撃していたポケモンは心配そうに私に近づいてきたが、私は無視してしまった。同情されたくない、この悲しみを慰められたくない。そんなときにふと思った。今まで私がしてきたことは、ソレではないか。
 凍てついた心を抱き締めて、無理やり氷の心を解いてしまった。仲良くなりたかった、辛い思いを少しでも減らしてあげたかった。そんな上から目線の氷解はまごうことなき屈服ではないか? 私は、分からなくなった。何が正解か、わからない。

「K20、余り落ち込むことはないのよ。貴方は『兵器』としては優し過ぎるわ。ヘルガーの件はまだしも、その前のポケモン達のことは気にすることはない。彼らは貴方に救われたはずよ」
「でも私は無理やり彼らと仲良くなったに過ぎません。この力がなければ、果たして同じことが出来たでしょうか。私は結局、この力を使って理を捻じ曲げたに過ぎないんです」
「これからはもっと辛い実験も待っているわ。気を強く持ちなさい、エモリア」
「……? エモリア? サオリ先生、とうとう私は分裂でもして新しい生徒を教室に作り出してしまったのでしょうか」
 左右を見渡すが私しかいない。幽霊でもいるのかと思ったが、そんな気配もない。サオリ先生は大きくため息をつくと、私の頭に丸めた教科書を軽く叩きつける。痛くはないが。
「貴方の名前に決まっているでしょう。プロジェクトKは転換期に差し掛かっているわ、K20の名称は廃止して正式なコードを付与する必要があるの」
「その割には機械的な名前ではありませんね。名付け親は誰ですか、センスがないですねと言ってあげます」
「ごめんなさいねーセンスがなくてえ!」
 どうやらこの名前をはサオリ先生が考えたらしい。迂闊にセンスがないと言ったことを少し後悔したが、兵器として命名するにはやはりセンスがないと思う。
 他にも色々なコードの候補があったらしいがサオリ先生が結構ごり押ししたらしい。曰く、兵器とは言えど少女なので街中で呼んだりしても違和感ない多少可愛げのある名前にするべきだっと。
「名前に由来はあるのですか」
「あるわよ。感情(エモーション)と記憶(メモリア)を操る兵器……でも、本当は違う。優しい感情と温かな記憶を持つ子、そういう意味を込めた。授かれなかった私の子どものために考えてた、名前よ」
「子作りのプロセスは知っています。男性と女性がそれぞれの生殖器を刺激することで生殖活動を――」
「はいはーい、子どもがそんなこと考えんで良い。兎に角、貴方は今日からエモリアよ。そうね、呼びやすいようにエミリーと呼びましょう。名付け親だし、私のことは母さんと呼んでも良いのよ」
「はーいお母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さ――」
「私が悪かったわ。だから無機質な目で連呼するのは止めて、怖い! 正直怖い!」
 私はK20を卒業しエモリアとなった。名前とは、個体を識別するための記号である。知能が高く増えすぎた種が効率と管理を最適化するために作った原始的だが理に適った定義である。
 この日の私はまた1つ不可解なことを覚えた。いくらの脳で理屈で名前とは最適化のプロセスにおけるファクターにすぎないと分かっていても、私はとてもとても、心が温かかった。

 兵器でも生きている以上は休みが必要らしい。個人的には精神的にも肉体的にも休息が必要なほど疲弊しきっていないのだが、いつも通り朝6時に起きて教室に足を運んでようやく休みだと気付く。ワーカーホリックと言うモノなのだろうか。
 以前から研究所内を歩いていると大人たちの好奇の視線が向けられていたのだが、今はそれがさらに強く感じる。好機だけではない。恐れ、気味悪さ、自分達の実験で作っておきながら畏怖の対象とするなんて身勝手甚だしい。
 記憶を読む力が私にはある。思いを読む力が私にはある。だが彼らには必要最低限しか使わない。使わなくても分かっているし想像もつく。泥まみれの砂場に手を突っ込んだり踏み込めばどうなるか、考えるまでもなく汚れる。せめて心だけでも汚さないようにするため。
 研究所内には小さな庭園があるのだが、天井は防弾ガラスと強化ネットで逃げられなくなっている。たまに研究者達がここでティータイムを寛いでいるがこんな牢獄のような場所で良く美味しくお茶が飲めるものだ。その逞しさだけは羨ましい。
「……あっ。ねえ、貴方の名前を教えてくれませんか。私はK2……エモリアです。ネーミングセンスは中の中と言うところです」
 サオリ先生が聞いていたらどつかれそうだが率直な感想だ。草むらで震えていた影は私の方を見るとおずおずと出て来る。そう、先日何度も私を吹っ飛ばしてくれたふわふわしたあのポケモン。
 どうやら私を何度も攻撃したことにちょっとした戸惑いがあるらしい。魚のいない小さな池の近くに腰を下ろした私とそのポケモン、私達はただ黙って流れて来る水を眺めていた。
「私は自分のやって来たことが間違いだったのではないかと、貴方と会った日に思いました。辛い思いを無理やり閉じ込め、都合の好い思いだけを作ってしまったのではないかと」
 信頼と屈服は同じではないかと思わされた。信頼とは本来長い長い時間を掛けて築き上げていくもの、だが屈服は一瞬で相手を踏みつけるもの。私が行ったのは間違いなく後者だろう。
「それでも私は感じたんです。闇の中に灯る温かな光を。私は感じたんです。名前を呼ばれたとき……こんな私なのに、名前を呼ばれたとき……嬉しかった」
 中の中だろうと構わない。この先からはより残酷な実験が増えるだろう。だけれどこの嬉しさだけは偽りのものにしたくない。彼らの心に灯った光を偽物だなんて認めたくない。
 青臭かったというべきでしょう。ですがこの青さはなくしたくなかった。しかしもしまたヘルガーの時のようなことがあれば、私は力を使わざるを得ない。この頃からでしょうか、私が物事を切り分けるようになったのは。
 横にいたポケモンも別の意味だが切り分けたのでしょう。名前を教えてくれました。モンメンと言うらしく、ここに来る前はイッシュ地方と言うずっと遠い海の向こうで暮らしていたらしいです。
 最初はトレーナーと共に楽しく旅をしていたらしいのですが、パーティの中で彼女だけが進化出来ずにどんどんと後れを取り、最後は役立たず扱いされてトレーナーに捨てられたと言う。
 その後は荒れていたようで道行くトレーナーやポケモンに危害を加え、ついには警察に捕まり巡り巡ってロケット団に引き取られて酷い実験を受け続けた。最初が幸せだった分、落差は私より酷いだろう。
 思い出し泣きなのでしょう。モンメンの目から流れる涙を私は飛べる術を知らない。私が彼女なら放っておけと言うかもしれない。だが今のこの場所では私が、私だけが、受け止めてあげられるのだ。
「強い方が良いのは事実でしょう。ですが、私は強さだけで決めつけません。強くなくても、出来ることはたくさんあります。私で良ければ、もう一度だけ人間と、仲良くしませんか」
 酷いことを言っている自覚はある。散々自身を蔑ろにした連中の同類と仲良くしろなどと。だけれど私は信じたかった。彼女の心にある人を信じる思い。
 彼女も本当は失いたくなかったのだろう。自分の中に残る人との暖かい記憶を。彼女が私の初めてのポケモンだったと言える瞬間だと思う。この出会いがあったから、今の私はいるのです。

 そう、彼女がいたから、私はいまここにいる。


月光 ( 2018/07/16(月) 03:32 )