死神ドクター - 本編
導き
 なぜ、こんな目に遭わねばならないのだろうか――目の前で対峙するホウオウの鋭く射殺すかのような視線をその身に浴びながら、エミリーはメガタブンネを従え満身創痍で片膝をつく。
 土砂降りの中で視界が揺らぎ、打ち付ける雨を体に触れる直前で蒸発させるほどの熱量を放つホウオウの熱気が蒸し暑さを加速させた。荒々しく目を拭う彼女の一瞬の隙を突いたホウオウは翼を大きく振り上げ、叩きつけるその速度には容赦がない。
 回避しようとするエミリーの前にメガタブンネは素早く駆け寄ると両手を前に突き出し、「まもる」によって視界を覆うほどに迫っていた脅威を弾き返す。助けてくれたメガタブンネの頭を撫でながら、エミリーはぎこちなくだが立ち上がる。
『娘よ、何故そこまで足掻く。自らの行いを反省して今後は命を見捨てぬことを誓い、その亡骸を私に差し出せば先程からの不敬は不問に処すと言っているのだぞ』
「反省? 誓う? 不敬?……ふふ、それは神様ジョークですか? ははははは」
 脳に響く言葉を聴いたエミリーは端々の言葉を復唱すると俯きながら嗤い出し、先ほどまで息絶えだった表情と打って変わって可憐と言っても差し支えない笑顔で面を上げる。
 その笑い声はまるで相手を憐憫するような、小馬鹿にするような無邪気さすら感じさせた。眉を顰めつつ厳つさを増した表情を浮かべるホウオウは口から強烈な炎を吐き出すが、エミリーは服が汚れることも厭わず大きく横にジャンプし、地面を転がりながらその攻撃を回避する。
 服は大いに汚れた。だがその腕に抱える黒焦げにも近いピカチュウの亡骸はしっかりと抱え、先程まで笑っていたエミリーが立ち上がった後に見せた表情を前にホウオウの体が僅かだが震えると身を退かせる。
 何と言う事のない無表情。普段のエミリー同様に何を考えているか分からない少し呆けた顔に見えなくもない。しかし同じ無表情ながらも放たれている凄みともいうべき威圧感、比喩ではなく刺殺すような痛みすら感じさせる視線にホウオウは苛立たしそうに唸る。
 たかが人間に後れを取ってしまった自身の不甲斐なさからなのか、はたまた神とも言うべき己に不遜不敬極まる態度を見せるエミリーへの憤怒か。
「驕らないで下さい。命を救うように言いながら私の命はどうでも良いと言い、この子の想いを見据えず高みから助けてやるなどと、これが驕りでなくて何だと言うんです」
『言っている意味がわからないな。私は救うように言っただけ、貴様の命をどうでも良いとは言っていない。それに救いはその命のため。全ての命が輝ける未来を進めるよう私は救いを与えるのだ』
「ならば何故私を救わなかった? 意図せずとは言え私を救ったのは貴方ではなくプラズマ団。それに神の癖に知らないとは罪ですね。この命を助けろとは私に死に近づけと言っているも同義」
『……何やら貴様にも事情があるようだな。しかし、私の教えは全知なる導き。人のあるべき姿、人の歩むべき道、人の輝ける未来』
 輝く両翼を広げながら語るホウオウを見上げ、しかしエミリーの口から漏れたのは感嘆の呟きではなく、辟易を隠そうともしない溜息。
「時間の無駄ですね。私と貴方はねじれの位置にある直線、N極同士、近づき互いを理解しようとしても無理です。例え神であろうと私の信念は曲げさせません」
『私と対等の悟りにでもいると言うのか? それこそ人の驕り、傲慢! 貴様に信念があろうと、今この時は、私の導きが正しき未来を亡骸へと与えるのだ』
 両翼を広げ燃え盛る体を赤々と輝かせ、雨さえも意に介さぬ灼熱の炎がエミリーとタブンネ目掛けて容赦なく迫る。殺意は感じられない。だが、無事で済む火力ではない。次の攻撃を既に準備するホウオウに対してエミリーも素早く行動に移る。
 迫る業火をメガタブンネのハイパーボイスが吹き飛ばすが残滓の熱風がエミリーとメガタブンネを包み、まるで蒸し焼きにされるかのような息苦しさと肌の痛みを覚える。再び炎が来る――熱で揺らめく視界の中でエミリーが敵に目を向けると、舞い散る炎を突き破りホウオウが眼前に姿を現した。
 並の鳥ポケモンとは比較にならない威力のブレイブバードがメガタブンネを打つ。さらにその余波でエミリーの体が吹き飛ばされ宙を舞い、先程まで休息を取っていたコテージの外壁にぶつかる。悲鳴と同時に反動で正反対に飛び、体の正面からうつ伏せに地面へ崩れた。
 抱えていた黒く焦げた亡骸が腕から離れ、倒れるエミリーが手を伸ばすが届かない。メガタブンネの体が光ると姿が元に戻る。もはや戦える状態ではない。
『彼我の戦力差を理解しながら、良く抗ったものだ。貴様の威圧、一瞬だが私をたじろがせたこと……認めよう。だがこれで終わりだ』
 眼前に舞い降りるホウオウを見上げながらエミリーは泥だらけの体を何とか立ち上がらせ、落ちている亡骸とホウオウの間に割って入ると両腕を広げ遮る。
 放たれる威圧感は相変わらずだが立っているのも精一杯。ホウオウは右翼を軽く振るうとエミリーの華奢な体は抗うこともできず吹き飛ばされ地面に打ち付けられるも、再び立ち上がろうとする彼女を見てホウオウは僅かに溜息をついた。
『わからぬ。何故そこまで傷つき、私に歯向かうのか。これ以上時間を掛ければ、その亡骸の魂は浄土へ向け旅立ち、私の力を以てしても救済できなくなると言うのに』
「それでいいんです。死に行く者の願いぐらい、せめて……叶えたいじゃないですか。でも、なにより、私が……貴方みたいな勘違いした神、嫌いなんですよ」
『私が勘違いしているだと? 私の正しき教えが人々を支え導き、ジョウト地方へ繁栄をもたらした。私自身も人々を導くことで大きく成長し、こうして神の位を賜っている。その私に、勘違いと吠えるか。ただ神が嫌いと言う、貴様の私怨ではないのか』
「勝手に解釈して結構です。ここに来た時から私、貴方が気に食わなかったのは事実ですから」

――そう、ここに来た時から……



「神虹祭?」
「そう、伝説のポケモンであるホウオウを祀るお祭りよ。エンジュ地方では毎年元旦からの一週間、盛大に街をあげてお祭りをするの」
「三が日が過ぎたなら、普通に働くべきなのではないでしょうか」
 夕暮れ時のエンジュシティ、優美な街並みに映える提灯や雪洞が仄かな明かりを放ち、表通りにはこの寒い中で法被を着た男達や仮面をつけた子どもたちで溢れていた。
 そんな大々的な祭りがあることはちっとも知らなかった。と言うよりも興味がなかったエミリーはエンジュシティに到着早々傍観しようの浴衣に着替えさせられ、彼女をコーディネートしたバーネットも横で満面の笑みを浮かべている。
 ホウエン地方での数か月に及ぶポケモン達の治療活動、並びにアララギ研究所スタッフの教育活動を終えたエミリーは『冬は寒い方が好きだ』と言う理由でジョウト地方を訪れ静かに過ごす……はずであった。
 しかし空港で出会ったバーネットの誘いを受け(ただで飯が食えると言う誘い文句に誘われ)、昼食を終えた後にエミリーを待っていたのはバーネットの付き添い人形と言う酷く不本意な役割。豪華な昼食を頂いた手前、無下に断れない。
 食事をしているときの笑顔をもっと怪しむべきであった――心の中で己の不覚を恥じながらも、仕方がないので祭りの屋台で売られているたこ焼きや焼きそばを頬張る。食べること自体は嫌いではないのだ。
「伝説のポケモン、ホウオウ。かつて命を失った名も無き3匹のポケモンを蘇らせたと言われている。そのうちの1匹こそ、私が追い求めるスイクンなのだ」
「バーネット博士。聞きそびれていたのですが、このキザったらしい男性は誰ですか?」
「私の名はミナキ。スイクンを追い続け、かつて人が犯した過ちを超越して彼の者と語り合うことを望む者。バーネット君、こちらの可愛らしいお嬢さんは何者かな?」
 ミナキと名乗った男はエミリーの手を取り恭しく接するが、反対にエミリーはその手を遠慮容赦なく払い除ける。
 紫色のタキシードに赤色の蝶ネクタイ、更に白いマントを靡かせるその立ち姿に先刻の振る舞いでは確かに"キザ"と初対面の女性に言われても仕方ない。
「彼女はエミリー。研究仲間っというわけではないのだけれど、良くポケモン研究の際に知恵を貸してもらっている人よ」
「ほお、まだ若く見えるのに識者だったと言うわけだ」
 バーネットの紹介にこれまた仰々しく頷いて感心してみせる姿勢がどうもエミリーの癪に障るらしい。普段から無表情な彼女だが、より一層の冷たさを感じる。
「エミリー。君はこの町、エンジュシティがどのようにしてホウオウと親しい関係になったかを知っているかい?」
「あまり興味がないです。バーネット博士との約束で渋々いるに過ぎません」
「その割には楽しそうに屋台を回っているように見えるが……まあ、良いか。ここから見えるスズの塔、その兄弟とも言える塔が実はもう1つあったのだ」
「あの、別に話してくれなんて言ってな――」
 言ってない……エミリーがそう言うのを遮るかのようにバーネットが口を塞ぎ、何かを諦めたかのように首を横に振る。つまり、そういうことだ。この話……話し出したら止まらない類。
 語る事こそ生き甲斐とでも言わんばかりに話すミナキを見て辟易するエミリーだが、この手の輩は聞いてなかった場合に後で同じことを繰り返しかねない。仕方なく、彼が指差す方向に視線を送る。
 そこには荘厳な装飾などが施されてるわけではないが、夜の中に光る炎の明かりが仄かに反射するだけでも分かる優雅さを放つ1つの塔が聳え立っていた。
 ミナキの先ほど言葉にしていたスズの塔と呼ばれるのが、アレだろう。続いてミナキは別の方角を指差すがそちらには同じような建物はなく、背の低い廃屋のようなものが見える。
「あれが焼けた塔。スズの塔以上に荘厳かつ華麗な塔と言い伝えられているが、悲しいかな……人の争いの結果、火事に見舞われてしまったのだ」
「その火事で命を落としたと言われる3匹のポケモン、それを悲しんだホウオウは彼らに命を与えた。それがスイクン、ライコウ、エンテイって、もう耳にたこが出来るほど聞いたわ。ミナキ君、会う度にこの話するもんね」
「エンジュがホウオウの伝承の地であり、所縁ある場所って言うのはそのお陰ってことですね」
「そういうことだよ。最初は命を操るホウオウを人々は恐れ畏怖したが、次第にホウオウの授ける教えと導きを受け入れ、昨今では良好な関係を築いているわけさ」
「気に入らないなぁ……」
 ポツリと呟いたエミリーの小言にミナキは普通の人と違う反応であることに一瞬戸惑いながら、バーネットも普段と異なるエミリーの口調に僅かな違和感を覚えた。
 同時にミナキは何かを思い出したかのように慌てて周りを見渡し、特に誰も自分達を注視していないことに安堵しながらエミリーの耳元で極力平静を保ちながら呟く。
「エンジュはホウオウ信仰の都市なんだ。あんまり否定的なことは表で口に出さない方が良い。と言うか、出さないでくれ」
「ふん、自分思いの淵すら出せないなんて大した信仰ですね。言論統制って言い直した方が良いんじゃないですか。ロケット団ですら発言の自由はありましたよ」
「そこまでよエミリー。何が貴方の癇に障ったのかは分からないけれど、ミナキに当たることじゃないでしょう」
「……そうですね、ごめんなさい。ただ、私は」
 エミリーはスズの塔の鉄片で一際明るい輝きが街を照らしているのを見上げ、そこでホウオウを誘う準備を進める人々を見ながら囁く。
「神ってのが、どうにも好きになれないんですよ」

 バーネットとミナキに付き合い終えたエミリーは空が紫に染まる夕方、まだ街が明るいのを余所に1人スズの塔付近に予約していたコテージ近くのベンチへ腰を下ろしていた。
 見上げればスズの塔の最上階には虹色の光が仄かに光り輝いており、伝説と謳われるホウオウが降臨しているのが如実に分かる。エンジュの人々の誇りであり畏怖、だがエミリーは数秒見ただけで目を背ける。
 神に沸くのは信者のみで十分。彼女の意識は既に次へ向かう場所、すなわちウルトラビーストと呼ばれる未知の生命体が確認されていると言うアローラ地方。聞けば酷く凶暴だと言う。
「話しを聞く限りではまるで未知の大地へ突然飛ばされ不安から来る突発的な衝動にも考えられましたし、一先ずは話してみる必要がありそうですね……あら?」
 先ほどまで夕焼け空が見える程度には晴れていた空はいつの間にか重い雲に覆われていたらしく、ポツリポツリと一滴二滴、瞬く間に雨脚が早まり雨音と腹に響く様な迸る雷鳴。空が夕焼け以上の白に光る。
「冬なのに夕立のような天気ですね。私はコテージに戻りますが、そこにいる貴方達も良かったらどうです?」
 立ち上がるエミリーは近くに聳える大木の根元で身を寄せ合っている2匹、ピカチュウとピッピに視線を投げる。近くにトレーナーらしい姿が無い所を居ると、場所的に珍しいが野生のポケモンらしい。
 声を掛けられたピッピは小さく震えると体を丸め、同時にそれを見たピカチュウが全身の毛を逆立たせて前傾姿勢の威嚇を行う。人間に対する敵対心が全身から如実に溢れていた。
「貴方達は群れの中でも弱かったがトレーナーに捕獲された。最初は幸せだったが次第に弱いからと邪魔になり、捨てられたと言うところですか。まあ、何も悲観することじゃありませんよ。良くあることだし、大抵のポケモンは自由を謳歌するものです」
 初対面の人間にまるで過去を見られたかのように核心を突かれた2匹は硬直し、そんなピカチュウ達に背を向けてエミリーはコテージへ戻る。野生のポケモンの私情へ深入りするつもりはない。すると大抵良くないことしかない。
 あの様子ではコテージには来ないだろう――エミリーがドアに手を掛けた直後、空が大きく光ったかと思うと空と背後から激しい轟音が響き、何かが弾けるような衝撃波が彼女をコテージのドアへと叩きつけた。
 ぶつけた額をから血が出ていないことを確認し、後ろを振り返ると先ほどと変わっている点が1つ。大木が割れている。正確には雷が当たったことで内部の水分が沸騰して爆発し、内側から弾け飛んでいる。赤い炎が揺らめくが勢いは弱く、降り注ぐ雨によりすぐ消え去った。
 根元の近くには先ほどまでポケモンだったらしいものが2つ。1つは前進が黒く焼け焦げ、体が消し飛ばされたのか右半身しか残っていない。もう一方は辛うじて原形を留めているが全身が焼け爛れ、既に息が切れかかっている。
 倒れているその物体にエミリーが近づくと電気袋から弱々しい電気が放たれた。どうやらこっちがピカチュウらしい。しゃがみ込んだエミリーは額に手を当て、静かに瞳を閉じる。
「……弱い故に群れを追われ、人に拾われ幸せを知り、同時に人に捨てられ絶望を知る。貴方も彼女も、身を寄せ合いながら生きていくしかなかったのですね。安心なさい、どちらも私が弔いましょう。貴方達が同じ場所へ逝けるよう」
 黒い塊から水が流れる。それは涙なのか、それとも目の辺りにたまたま当たった雨粒なのか。
「自分の想いや考え方。それらを全て否定するかのような世界の辛さ、悔しさ、悲しさ。私も貴方達と同じでしたよ。弱さ故に閉じ込められ、いじられ、逃れられぬ運命をこの体に施されました。気持ち悪い、こんな体にされて……ですが、1つ違いました。私には受け入れてくれる人達がいたんです。結局、何者も支えられねば生きていけません」
 涙なのか雨粒なのか、エミリーの目頭から水が流れる。目の前の物体は既に動いていない。せめてこれ以上腐らぬように冷凍保存用の道具を取り出そうとした直後、先程まで暗かった空が心なしか明るくなっていることに気付く。
 ウェアラブルコンピュータを操作しかけていたエミリーが上を向く。虹色の輝き、後光差す優美な羽ばたき。見たことはないし見ようとも特に思わなかった。しかし目の前にいるソレは大いなる神の力を十分に示している。思わず平伏したくなるほどの圧倒的存在感。
 何故そうしたのかは分からない。エミリーは自身の心に問い掛けるよりも早く黒焦げの亡骸とホウオウの間に割って入り、彼女の行動を見たホウオウが荒々しい咆哮を放った。
『そこを退け娘よ。悲しみの声が聞こえた。人の無慈悲さを受け、失意のままこの世を去った命の揺らめきを』
「だから何です? ここにいる誰も、貴方を必要としていません。さっさと塔の屋上に帰って寝てたらどうです」
『私を前にし、去勢とは言えそこまで大見栄切れるのは大したものだ。しかし私の導きこそが正義、悲しみに包まれる魂を救うことが私の使命』
「神気取りが!」
 吠えるエミリーは腰のモンスターボールに手を伸ばし、放たれたモンスターボールから赤い光に導かれタブンネが姿を現した。のほほんとした表情で目の前のホウオウを目撃し、数秒遅れて驚き表情を引き締める。
 同時に指で一瞬覆い隠した左目が輝き、紋様を浮かび上がらせタブンネの体を変化させる。全身が大きく白くなり、メガタブンネへと昇華を果たした。
『メガ進化、珍しいものを使うな。特に左目、石には見えなかったが……貴様、ただの人間ではないな』
「教える必要はないですね」
『言わなくても分かる。過去の素性までは知れぬ。だが貴様、救おうと思えば先ほどそこで今は無き命、救うことが出来たのではないか?』
「だったら何だと言うのです。命を助けるだけが救いではないんですよ。誰もが貴方と同じではないんです」
『結構。だが私は教え導く存在、そして救うべき者。亡骸を渡せ娘よ、さもなければ……貴様の思い上がりから救済してやろう』
 メガタブンネの放つ一撃とホウオウの炎が交差する。しかしメガタブンネの攻撃は容易に消し飛ばされ、炎の残滓がエミリーの服の一部を焦がす。力の差はまさに火を見るよりも明らかだった。
 劣勢を感じ取ったエミリーは転がる黒い塊を抱いて走り出すが、ホウオウはたった一度の跳躍を以てして彼女の進路を妨害する。逃げることは不可能。だが言われるがままに亡骸を差し出すのも心が許さない。
 目の前で対峙するホウオウの鋭く射殺すかのような視線をその身に浴びながら、エミリーはメガタブンネを従え満身創痍で片膝をつく――



 巨大な翼が地面を叩き、土砂が激しい濁流となって立ち上がろうとしたエミリーを飲み込み砕け散った大木の根元まで押し流す。泥が口の中に入ったのか激しく咳を繰り返し、よろよろと近づいてきたタブンネが背中を撫でた。
『救済の時は来た。世を嘆き、しかし希望を信じた命よ。我が力を以て現世に再度舞い戻れ』
「やめ……命を……弄ぶな……」
 ホウオウが両翼を広げると虹色ではなく黄金の輝きが周囲を包み込み、黒く動かない固まりが輝きを放つ。
 黒かった表面は黄色さと艶やかな毛並みを取り戻し、止まっていた命の鼓動は再び動き出す。尖った2つの耳が小まめに動き、閉じられていた瞳が大きく開かれた。
 何が起きたのか数秒理解できなかった。しかし理解した。理解してしまった。目の前の圧倒的存在感、倒れているエミリーの姿、見当たらないもう1匹の姿。
 涙が流れた。叫ぶピカチュウの体から激しい電流が迸り、状況が理解できていないホウオウの体を直撃する。弱点の攻撃なのだが、しかしホウオウは一瞬たじろいだのみに留まる。
 ピカチュウの右手に握られていた黒ずみの塊は色を取り戻しておらず、よろめきながら近づいたエミリーは痺れることを厭わずその体を優しく抱きしめた。
「ごめんなさい、約束を守れなかった」
『小さき命よ、お前は救済されたのだぞ。だと言うのに、なぜ悲しむ。なぜ未来への希望を嘆く』
「分からないでしょう。上から見下ろすだけの神気取りに、弱者の気持ちなんて……」
 痛覚が麻痺する。ホウオウの目が光ると力が入らないエミリーの体からピカチュウが引き離され、ホウオウの横に浮かび身動きを封じられた。
『これ以上放電を受ければ娘よ、貴様の命に関わる。この小さきものには私が救済を導く』
「……ピカチュウ。救いではなく渡し船が欲しくなったら、私のところへ来てくださいね」
 膝をついていたエミリーの体がぐらりと地面に倒れ、慌てたタブンネが彼女の体を担ぎコテージの中へと連れて行く。それを見送り、ホウオウもその場を飛び立った。



 無機質な部屋だった。ポケモンに関する情報だけはとにかく豊富に用意されていた。食事も決して劣悪ではなく、希望があればたまに叶うくらいには充実していた。
 心は暗かった。恐怖はあった。逃げることは出来なかった。友達もいた。仲の良い子も何人かいた。1人1人と大人達に呼ばれて部屋を出て行った。戻ってこなかった。最後は1人になっていた。
 大人達は言った。「こいつも駄目なら補充するぞ」――ホジューってなに? 私達は……モノなの?……
 大きな手が伸びて来た。嫌だ、嫌だ、嫌だ! 行きたくない! 行きたくない!! 行きたくない!!! 助けて助けて助け――



「助けて!」
「きゃあ!?」
 叫び声をあげて上半身を起こしたエミリーは右手を前に差し出し、過呼吸気味の激しい動悸をゆっくりと抑えながら左右を見渡して夢だったことに安堵する。部屋の中は色に溢れ、いらないものも沢山用意されている。
 近くでは看病をしていたらしいバーネットが驚いたのか椅子から転げ落ちている。昼食後なのか窓から差し出す光は明るく、食器を洗っていたタブンネが心底嬉しそうな笑顔を浮かべてエミリーの下へ駆け寄る。かなり心配を掛けたようだ。
「タブンネ、心配してくれてありがとう。バーネット博士、驚かせてごめんなさい。看病してくださっていたんですよね? ありがとうございます」
「ようやく目が覚めたのね。貴方、3日間も寝たきりだったのよ。かなりうなされていたようだけど、大丈夫? 寒気はない? 今おかゆ作るから、ちょっと待ってなさい」
「3日……」
 自分がそれほど長く寝ていたことに正直驚きを隠せないのか、エミリーは直ぐに時計を確認すると確かに日付はあの日から3日進んでいる。それほどまでに肉体的にも精神的にも己を酷使していたらしい。
 すぐにバーネットが用意した数名分の粥を元々大食なこともあり、エミリーは瞬く間に平らげた。良いことなのか悪いことなのかは分からないが、どれだけ嬉しくてどれだけ悲しくても、人間腹は減るのだ。正常な証拠でもある。
 食事を終えたエミリーにバーネットは説明を求めた。隠すこともないのでエミリーも全てを話す。話が進むにつれてバーネットの表情が心配を通り越して呆れているようにすら見えて来た。
「貴方って人は、よりにもよってホウオウに楯突いてボロボロにされるなんて……死んだらどうするのよ! もっと自愛なさい!」
「別に自己犠牲だとかそんなんじゃありませんよ。それにホウオウだって神を気取ってるんですから、私を本当に殺すことはないと思ってもいたし。それに、気持ちが抑えられなかったんです」
「珍しいこと言うのね、貴方ってそういうタイプじゃないと思っていたわ」
「よく言われます。自分でもそう思います。冷徹な女、人情に欠けた人間、それが私。優しさは世界に溢れていますよ、博士のような人達で。だから私は別の在り方を求めたんです」
 優しさだけで世界は成り立たない。時には残酷過ぎる現実も存在する。それを理解しているからこそ、エミリーはその道を求める命のためにあろうとした。
 しかし結果は伴わなかった。純然たる理由、弱かったから。理想や導きではなく唯一の友と共に逝くことを望んだ命1つ満足に助けられなかった。
「元気になったようだから、私は一度エンジュのホテルに戻るわ。貴方の過去のことは分からないけれど、まだ若いんだから命落とすような無茶したら駄目よ」
「……はい」
 上着を羽織ったバーネットはコテージを出ていくときも無理をしないことと釘を刺し、彼女を見送ったエミリーは布団から起き上がると全身の筋肉痛に表情を歪める。
 体も硬くなっている。軽くストレッチをしてから着替えさせられたらしいパジャマを脱ぎ、洗濯してくれたらしい普段着を着用する。3日も寝ていたのは完全にエミリーの計算外、時を無駄にするわけにはいかない。
 心配するタブンネに笑顔を向けてボールに戻し、忘れ物がないことを確認して外に出た瞬間に足を止めた。目の前には自分を見上げ、何かを求めて来るピカチュウの姿。エミリーの表情から笑顔が消えた。
 その小さな手には黒ずんで今にもボロボロに砕けてしまいそうな小さな固まりが握られていた。エミリーは膝をつくとウェアラブルコンピュータを操作して薬を一式転送する。コンピュータから放たれた赤い光が形を帯び、送られてきた複数の器具。
 複数の薬を調合し、最後に一滴紫色のドロドロした液体を落として掻き混ぜる。見た目は透明で水の様に見えるそれを小さなコップへと移し、ピカチュウの前に置くとエミリーは立ち上がって背を向ける。
「私は命を無駄にするのが嫌いです。見捨てたり取捨選択することは合っても、命を奪うなんて絶対に嫌です。助けた後で苦しむ現実があろうと知ったこっちゃありません。そういう意味では、私はホウオウと同じです。ですが――」
 言い淀むエミリーはそれ以上何も言わず、次の目的地へ向かうため歩き出す。後ろではガラスのコップを持ち上げる音が微かに聞こえ、草むらが揺れる音を最後に何も聞こえなくなる。
 右手の拳が震え、強く握り過ぎたその手からポタポタと赤い液体が零れ落ちた。助けてくれと言った自分が、多くの人に助けてもらった自分が、本当に助けて欲しいと願う相手を前にして何もできなかった。
 無力と言う言葉をこれほど感じたことはあっただろうか。色々考えて、エミリーは考えるのを止めた。もう考える必要はない。終わったことだから。明日からまた、いつもの自分でいるために……
『娘よ、私は――』
「二度と話しかけるな、不愉快なんですよ……私に、私に……命を奪わせやがって!」
『承知した、もう二度と語り掛けん。だがこれだけ言われてくれ。すまなかった……』
 三度目の語り掛けはなかった。





 神虹祭の最終日、ホウオウは導きとして人々に教えを伝える。
 いつも同じような言葉であり、それは絶対であった。しかし今年は少し、いや大変違和感があったと巫女は語る。
「最後にホウオウ様はこう仰られたのです。『だがしかし、自分が曲げられないと思ったものは、神の教えより尊いと思えるものがあるならば、教えに立ち向かってでもやるべき人であれ』と」


月光 ( 2018/07/16(月) 03:30 )