本編
幸福の定義
 汽笛の音が鳴る。リニアの開通、空港の整備が進んで以降クチバの港は全盛期より寂れているが、それでもまだ大型船の出入りは行われている。
 クチバシティから少し離れている11番道路でもその汽笛は聞こえ、エミリーは時折勝負を仕掛けて来るトレーナー達の相手をしたり断ったりしながらここまで来ていた。
 数週間前に伝説の古代ポケモンであるグラードンとカイオーガ、その2匹が目覚めてホウエン地方は未曽有の危機に直面。だが勇敢なトレーナーと四天王やチャンピオン達の活躍で事なきを得たらしい。
 エミリーが今目指しているのはそのホウエン地方。元々もっと早く行くつもりだったが、先の大災害で交通規制がされていたのだが、それが最近ようやく解かれてきた。
 遠方のホウエン地方に向かう理由は他でもない。ホウエン地方でも今なお多くのポケモンが傷ついているため、ポケモンセンターの受け入れが出来てもジョーイの数が足りず、フリーのポケモンドクターの手が少しでも借りたいと言うホウエン地方のポケモン協会からの要請。
 移動が船で少し時間は掛かるが、交通費もホウエン地方での宿泊代も食事代も当面の間はポケモン協会持ち。支払われる金額も悪くないため、エミリーとしても行かない理由は特にない。
「カイナシティに美味しいレストランがありましたが、果たして無事残っているでしょうか。海に面している都市でしたから、高波で相当な被害にあ――」
「お姉さん! お、お願いです! あの子を助けてください、ポケモンセンターまで運ぶの私じゃ無理なんです!」
 上等な海鮮料理に呆けていたエミリーは横から突然掛けられた少女の大声で現実に戻され、溜息をつきながら声の方向を見やる。
 齢10歳に届くかどうかと言う、あどけない少女が涙目でエミリーを見上げていた。空のモンスターボールを持っていないところから察するに、どうやらまだ10歳以上ではない。小奇麗な服に身を包み、ちょっと裕福そうな家柄を醸し出していた。
 ほぼ全ての地方で共通だが10歳にならないとモンスターボールは購入できない。大人がポケモンの入ったモンスターボールを貸与することは認められているが、バトルをして捕まえるには10歳未満は危険とされ売ってくれないのだ。
 目の前の少女も例外ではない。彼女が指を指す先ではヒトカゲが力なく倒れ、その命のバロメータである尻尾の炎が弱々しく揺らぎ今にも消えてしまいそうだ。
「ヒトカゲ……この辺りには生息していないはず、貴方のポケモンですか?」
「違うよ! ミカはポケモン持ってないの! ディグダに散々虐められて、ミカが止めるように大声で止めたの。でも、必死に逃げたのに今度はヒトカゲが倒れ――」
「必死に逃げた? つまり、貴方達はディグダのトンネルの奥に行ったのですね。ならば自業自得、私が助ける道理はありません」
 立ち去ろうと踵を返したエミリーだが右手を少女に掴まれる。見ると右手には財布のようなものが握らされており、涙腺を崩壊させながら少女は懇願に近い声で喚く。
「わ、私のお小遣い全部使うから、お願いだがらあのごをだずげでぐだざい!」
 力強く握られる手を容赦なく振り解いたエミリーは渡された財布の中身を確認する。合計で5万円、どう考えても年端も行かない少女が持つ金額ではない。しかしエミリーには大した問題ではないのだ、これが綺麗な金なのか汚い金なのかなんてこと。
 現金だけを抜いた財布をミカに放り投げ、強く地面を蹴りエミリーは20メートルは離れていたヒトカゲの下へ一瞬で移動していた。余りの速さにミカは一瞬エミリーの姿を見失ったほどだ。
「キュワワー、アロマセラピー。タブンネ、いやしのはどう」
 腰のベルトから駆け出すと同時に取り出してたモンスターボールから2匹のポケモンが飛び出し、状況を察してヒトカゲへそれぞれが癒しの技を間髪入れずに発動する。
 倒れているヒトカゲの傍へ駆け寄ったエミリーはウェアラブルコンピュータを操作すると機械の端から飛び出した赤い光線が地面に刺さり、そこに複数の薬がセットされた薬箱が出現した。モンスターボールの転送システムを道具に応用したシステムだが、まだ普及はしていない。
 生命尽き果てる直前だったヒトカゲはキュワワーとタブンネの技で呼吸が少し落ち着き、エミリーがヒトカゲの体を数回触って調べると素早く複数の薬を調合。半透明な黄色の液体をヒトカゲの口へ強引にねじ込む。
 荒々しかった呼吸は次第に正常なテンポへと納まっていき、5分ほどすると尻尾の炎は強く燃え盛り一命を取り留めたことを物語る。
 死に掛けていたヒトカゲが元気を取り戻したことに笑顔となったミカがヒトカゲに駆け寄るが、近づいてきた彼女の体をエミリーは容赦なく掌でどつき、彼女からヒトカゲを庇うように立ち塞がった。
「どいてよ! ヒトカゲ元気になったんでしょ、抱きしめたいの!」
「残念ですが、いくつかの質問に答えてからにしてもらいましょう。事と次第によっては、私は貴方を警察に連れて行かなければならないので」
「し、質問?」
 戸惑うミカを前にエミリーは氷のように冷たい視線で彼女を見下ろし、後ろで2匹にヒトカゲの治癒を続けさせる。
「貴方はヒトカゲと逃げて来たと言うが、ヒトカゲの体は汚れているのに貴方は随分小奇麗ですね。逃げて来た、何て様子じゃありません」
「転ばないように気をつけてただけよ!」
「ヒトカゲの体にはディグダがつけた傷とは明らかに違う傷がついていました。爪痕から察するにアレはルガルガン……おや、貴方は腰にもう1つモンスターボールがついていますね。開けてもらえませんか」
「こ、これは空っぽのモンスターボールだもん!」
「なら、それでヒトカゲをゲットすればよかったですね。まあ、そんなことはどうでも良いんですよ……『ソレ』、何に使う予定でしたか?」
 3歩程の距離にいたミカの目の前に迫ったエミリーは彼女が振り上げた右手を制し、胸倉を掴んで彼女の小さな体を締め上げ宙吊りにした。
 苦しそうに呻き声を上げるミカが右手に持っていた注射器をエミリーは左手で奪い取り、彼女の体を草の上へと放り投げる。注射器の中は透明の無味無臭の液体だが、これが何であるかは想像に難しくない。
「恐らくは毒物、これでヒトカゲを殺すつもりだったのでしょう。殺した罪を私に擦り付けた上でね……貴方、年の割には随分と外道なことをする」
「……ハハ、残念だな。もうちょっとで貴方を犯罪者にすることが出来たのに。いや、今からでもやろうと思えば出来んだよ」
「それは先ほどから、木の陰でコソコソとこちらの様子を伺っている男の手助けのことですか。警察官、もしくはクチバシティの市議関連者……貴方の家は余程裕福のようですね、羨ましいです」
「化け物かよアンタ。でも残念、今回は暇な警察が見つからんかったのよね。だから通報してって考えてたんだけど大失敗。アンタ、中々やるじゃない」
 先程までの泣き顔や困惑した表情が嘘のようにミカは年相応には見えない笑みを浮かべ、木陰にいた人物に視線を送ると中年程の男性がエミリー達の前に姿を現した。
「わたくし、フォルトン家の執事長をしておりますゲンスケと申します」
「これはご丁寧に。私はエミリーと申します」
「ッ!? もしや、あのポケモンドクター……なるほど、正直並のジョーイ程度では治せない程に衰弱したヒトカゲを素早く治療した処置、納得です。感服しましたよ」
「なにゲンスケ、コイツ知ってるの?」
「有名なポケモンドクターです。いやはや、相手が悪かったですなミカお嬢様。マチスさんを相手にするより厄介かもしれん相手ですぞ」
「何それ、頑張った私が馬鹿みたいじゃない。もう良い、帰る……そうだエミリー、私の家に来なよ。いや、来い」
 ミカの頭を撫でながら笑って見せるゲンスケとは対照的に、今度は年相応に頬を膨らませながら不貞腐れていたミカだが、帰ろうと踵を返した直後に振り向きながらエミリーを指差し告げる。
 指差されたエミリーの返答を聞きもせずミカはクチバシティに向けて歩き出し、申し訳なさそうに恭しく頭を下げて来たゲンスケはヒトカゲを自分のボールに戻すと、「案内いたします」と言って歩き出した。
 先に歩き出したものの道中ミカは時折振り返ってはエミリーとゲンスケがいることを確認し、大通りの端の方を自宅に向けて進んでいく。
 振り返って確認してくるミカに対してゲンスケは律儀に笑顔で頷くことで返事をし、そんな彼をエミリーは黙って後ろから観察する。少しだけ最初より、彼との距離を開けた。
「……ゲンスケさん。1つお聞きしたいのですが、この薬は本当に毒物なのですか」
 先ほどミカから回収したガラス製の注射器を取り出し、彼の目線まで持っていき問い掛ける。
「お察しの通り、それはただの栄養剤です。ただし、一時的に心臓を止めるものですがね」
「この薬物は表の世界では、特殊な医療機関でしか取り扱い出来ないタイプです。貴方は歩き方も特殊ですね、足音がせず常に踵で走り出せる体勢を崩さない。随分と物騒な執事長を雇うブルジョワもいた者ですね」
「恐ろしい方だ。最初に歩き出した時より50cm距離を開けているのはそのためですか、それが貴方の反応できる間合……安心して下さい、昔の癖が抜けないだけです。貴方を同行するつもりは絶対にありません」
 後姿を向けたまま案内を続けるゲンスケとの距離を変えず、エミリーはそのあとに続く。

 暫く歩くとクチバシティに到着し、人々の往来が激しくなった。最盛期ほどではないにしろ、漁船や客船が港には各所に並び、今しがた出港した船も見えた。
 先を歩いていたミカは近くにいたタクシーを見つけると呼び止め、ゲンスケとエミリーを乗せて家へ向かう。クチバシティの入口からそれほど遠くない距離に目的の屋敷は見え、門の前で全員タクシーを降りる。
 それなりに豪華な家に仕事で向かったこともあるので特に驚かない……と言うより、元々顔に出にくいエミリーの態度が気に入らないのか、ミカは「ちょっとは驚けよぉ」と愚痴をこぼす。
「ワースゴイオオキナヤシキデスネー、オドロキマーシター」
「その棒読み腹立つ! まあ、沢山あるうちの1つだけど。うちの家系はクチバシティでは有名な地主の一族でね、漁業関連の企業とか入港管理の仕事は大体うちの系列なんだ」
「確かにフォルトンの文字はクチバシティでチラホラ見ますね。最近も、長男のカズヤ・フォルトンがグループ会社の副社長に就任したのをニュースで拝見しましたよ」
 長男の名前が出た瞬間ミカの動きが僅かに止まり、先程まで明るく話していた表情が僅かに曇った。
「まあ、ね。カズヤお兄様は将来会社を継ぐことが約束された人なの、同じ兄弟でも……何でもない、エミリーはそこに座って待ってなさい。今何か持って来させる」
「ミカお嬢様、それでしたらわたくしめが――」
「いい、私が行く。それぐらいできる。曲がりなりにもエミリーは客人なんだから、主を立てなさい」
「承知しました」
 綺麗に整備された庭が一望できるベランダ、そこに置かれた椅子にエミリーは腰を下ろす。ゲンスケは座ることなく、少し離れたところに黙して立つ。
 不機嫌な足取りで消えて行ったミカを見送り、ゲンスケは小さく唸る。執事長として主人を怒らせたことに対する己の不注意を嘆いたのか、はたまたミカが本当に1人でコックに指示だし出来るかを案じているのか。
 静かな時間が流れる。時折、ポッポやバタフリーと言った野生のポケモン達が姿を現し、庭に実っている木の実を食べる。それが日常なのか、ゲンスケはそれを止めることも咎めることもしない。
「エモリア様、少し宜しいでしょうか」
 静寂を切り裂いたのはゲンスケの言葉だった。
 2人とも庭の遠くをただ平行で眺めていただけだったが、呼ばれた名前にエミリーは視線だけを彼に向ける。
「……本名まで知っているんですね、屋敷を見た時よりは驚きましたよ。何でしょうか? 言っておきますが『ミカお嬢様のこと、正直どのように思われましたか』という質問は興味がないので答えません」
「人の心を読む、噂通りですか。では、質問を変えさせてもらいます。貴方から見て、ミカお嬢様は幸せな風に映りましたか」
 言い回しを変えただけで結局同じことではないか――心の中で溜息をつくエミリーだが、この質問を躱してもまた同じような質問が来るのが視えたので諦めて会話を続けた。
「裕福な家庭、充実した教育、横暴が許される権力、どれ1つ取ってもそんじょそこらの家庭よりは幸せな要素は整っています。一般の定義ではですがね」
「では、一般以外の定義はあると思いますか」
「あり過ぎて困りますね。高潔を義務付けられた血筋、誉れあることを求められる境遇、他を御せねばならぬ才能……これらは全て先の置き換えに過ぎない。表現が違うだけで求められるゴールは同じ。そして最後にそれらをプラスかマイナスにするのは本人の器の大きさ次第です」
「幸福の定義とは、本人の資質に全て掛かっていると言うのですか。私は貴方の境遇を多少は知っているつもりです。それでも、幸福は個人の捉え方と仰るのか」
「ミカは兄に僻んでいる、彼らは先に生まれたと言うだけで彼女以上のものを数多く持っている。性格上それが気に食わないのでしょうが、気にしなければ良いだけです。過去は、現実は、切り捨てられない。ですが前を向いて歩くか、後ろを見て絶望するかは個人の自由」
「では、貴方は――」
「私はいま幸せです。なにせ、店で飲食すれば数千円から数万円はするティータイムを楽しめるかもしれないのですからね」
 一瞬キョトンとしたゲンスケだが少し噴き出すと豪快に笑い、目から零れた涙をハンカチで拭きながら、先ほどより少し嬉しそうな表情で再び庭を眺め出す。

 それほどしないうちにミカは屋敷の中から戻り、昼時と言う事もあってかエミリーは思っていたよりもかなり豪華な昼食に相変わらずの無表情に少し微笑みを混ぜながら舌鼓を打つ。
 運ばれてくる料理は当然のことながら庶民的な量や油や肉汁で誤魔化すものではなく、一皿に色取り取りの野菜や上品な肉が盛り付けられる繊細さを持ったコース料理で、かつてカロス地方のレストランで奮発して食べたディナーを思い出していた。
 フォークとナイフを使う順番、置き方、面倒臭い様式美はあるが食事そのものの美味しさには変えられない。ミカも幼少ながら既にその辺のマナーは叩き込まれているらしく、食事の淀みなさにはエミリーも多少感心する。
「うちはイッシュやカロスでも活躍していたシェフやコックを定期的に雇っているの。勿論偶には牛丼やラーメンも食べたくなるけれど、私はこういう料理の方が好きね。食は幸せのバロメータの1つだわ」
「そうですね。旅をしていると良く携帯食料に頼りますが……アレは酷い、ビーフジャーキーを食べたら後は萎びたレーズンや砂糖をぶち込んだ練り物ぐらいしか残りません。まぁ、それでも私にとっては十分幸せなんですけどね」
「そんなんで幸せなの? エミリーの幸せって結構安いのね、子どものお小遣いで買えるわよ」
 容赦のない物言いのミカに対しエミリーは特に気を悪くしない。安い幸せ、それは一般的に見れば、ましてや今食べている料理が普通のミカからすればどうしてもそう映るもの。
 気付けば手の動きが停まっていた。幸せを感じた時はどうしてか昔を思い返す。今を幸せに生きよう、では、あのときは幸せだったのだろうか?
「食べ物かどうかも良く分からないパンみたいなものや、口に入れることすらしない食事に比べれば幸せですよ。ミカ、幸せとは絶対的なものではないのです。相対的、個人的なものなんです」
「ん? 言葉の意味が良くわからないって」
「全員が全員、同じことで幸せを感じるとは限らないと言う事です。貴方にとっては安い幸せでも、私にとってはかけがえのない幸福」
「……私はね、学校の友達や先生に良く羨ましがられる。フォルトン家の娘だから、裕福な家庭の子だから、誇れる兄弟や両親がいるからって。でもね、言われるたびに私は詰まらなくなっていく。辛くなっていく。分かってるんだよ、今日みたいなことするのだって……フォルトン家の娘じゃない、ミカ・フォルトンを見て欲しいからなんだって。でも、誰も私を見てくれない!」
「ミカお嬢様……」
 俯き枯れそうな声を絞り出すミカの前で、エミリーは表情を変えずスプーンを手に取り、運ばれてきたスープを一口吸い込む。
「あ、このスープ美味しいですね」
「って聞けよおい!」
 本当に美味しいと思っているのか無表情のまま食事を進めるエミリーに対し、対面に座っていたミカは擬音が聞こえるなら確実に血管が切れた様な音を奏でるであろう怒りと共にテーブルを叩く。
 頑丈なテーブルと非力な少女の腕っぷしなこともあり料理は落ちなかったが驚いたウェイターが皿を落として割ってしまい、謝りながらも慌てて片付けるがミカは普段咎めるであろうことも眼中になくエミリーを睨み続けた。
 とても齢10歳に満たない少女とは思えない凄みの利いた視線を浴びながらも、エミリーはゆっくりとスプーンを置き、ハンカチで口を拭きながら僅かな呆れ顔をミカに向ける。
「食事中ですよ、マナーを弁えなさい。あと『私が辛さ抑えて話してるのに!』とかは不要ですよ、興味ないですから」
「エミリー様。ミカお嬢様も多感なお年頃、もう少しマイルドに接して上げられませぬでしょうか」
「そんなに辛くて家が嫌で家族が鬱陶しいなら、出家するなり庶民の養子になるなりすれば良いではないですか。愚鈍な兄弟や両親は貴方を見てくれないのでしょう、見てくれる代わりを探せば良いことです」
「本気で言ってんのアンタ……取り消してよ、何の権利があってアンタにパパや兄様のことを侮辱する権利があるのよ! アンタに私のな――」
「少なくとも、自分の本当の気持ちを他人に偽り、他人を見ないくせに自分だけ見て欲しいとせがみ、自分を見てくれている人に気付けないくらいならば……その方が幸せですよ」
 喉から出かかっていた言葉が詰まる。図星と確信を突かれたミカは口を何とか動かそうとするが言葉が出ず、それでも捻り出そうとする弱々しい声とエミリーの食器を動かす音だけが響く。
 言い返せない想いが代わりに目から零れ出し、傍らに音もなく近づいたゲンスケがハンカチを取り出し差し出すがミカはそれを払い除ける。掛ける言葉が、返す言葉がない。
「貴方はまだ10歳弱、それでも普通の子よりは世界と言うものを知っているでしょう。現実は優しくない。大人の世界よりは幾分程度は温いですが、それでも思い通りになど行かないんです」
「……分かってるよ。でも、だったらどうすれば良いの。私はパパや兄様を凄いと思う、でも比べられるのは凄い嫌。私じゃなくて、その向こうにいる別の人を見られてるみたいで、私が見えないものに負けたみたいで」
「負けることがそんなに嫌ですか。負けを認めるのは失敗ではありません。本当の失敗と言うのは、ただただ後悔を連ねることです。いっそのこと開きなれば良いんじゃないですか。自分の家族は凄いんだと」
 爪先立ちでテーブルに手を叩きつけて立っていたミカは少し顔を上げてエミリーを見るとまた視線を逸らし、小さな声で何かを繰り返し呟く。
「先ほど言いかけてたことにも答えましょう。私は貴方のことなど、今日会ってからのことしか知りません。貴方も私を知らないでしょう。ですが私は、貴方を良く知っている人を知っています」



 雨が降っていた。ポケモンセンターの宿で目を覚ましたエミリーは曇天とした外の景色を見ながら億劫そうに溜息をつき、いつも通り顔を洗ってから髪の毛を整える。
 出立の支度を終えてから朝食を取り、ホウエン地方へ向かうフェリー乗り場へ向かうためにポケモンセンターを出たエミリーの前には一台の黒い車が停まっていた。一言で言い表すならば、高級車と言うところだろう。少なくともタクシーには見えない。
 後部座席の窓が開くと1人の少女が溌剌とした笑顔を見せながら身を乗り出す。ミカはエミリーがバイクや車の類に乗っていない、または乗る様子がない雰囲気に呆れた様な表情を浮かべ、悪戯な笑みを浮かべて手招きする。
「オイオイまさかフェリーまで歩いていく気? 乗りなよ、連れて行ってあげるよ」
「結構です。直接行かず、寄る所もありますからね。今日は警察官やギャラリーは連れてきていないみたいですね」
「あぁ、アレは飽きたから止めた。私こう見えて忙しいんだ、この後で兄様の職場を見に行かなければいけないの」
「社会科見学と言う奴ですな。エミリー様と昨日別れてから行きたいと言われまして、これからわたくしめと共に数ヵ所回る予定です」
「ゲンスケ、余計なこと言わない」
 運転席の窓を少し開けたゲンスケが律儀に挨拶をする後ろでミカはシートを可愛らしく蹴り、エミリーは腕時計を見ると方角を変えて歩き出す。
「あ、おーい本当に乗って行かないの?」
「結構です。楽をしたい気分な時もありますが、ぷらぷらと街中を歩いてみたい気分になることもあるのですよ。ミカ、貴方は貴方のやることをやりなさい」
「ふーん、そう。じゃあゲンスケ、さっさと行きましょう。10年後ぐらい、今乗っておけば良かったと後悔させてやるんだから」
 ミカの言葉を聞こえてか聞こえていないでかエミリーは振り返ることなく歩き続け、ミカを乗せた車もエミリーとは逆方向に向かう車道へ入り見えなくなっていく。
 車がカーブを超えて見えなくなった辺りでエミリーは脚を止めて振り返り、モンスターボールから出て来たタブンネが心配そうな瞳を彼女に向けた。
「ありがとう、タブンネ。怖くなんかない、覚悟はしてる。ごめんなさいね、ミカ。10年後では……絶対に会えない」

 車はカーブを曲がり終えてポケモンセンターは見えなくなった。クチバシティの道路を走りながら移り変わる見慣れた景色にミカは少しだけ飽きを感じ始める。
 本日の第一目標であるエミリーの見送りが完了した今、ふと思い出したかのようにミカは体を運転席へと乗り出し、ゲンスケの顔を横から真顔で凝視する。
「ミカ様、その、物凄く気になるのですが」
「物心ついたときからゲンスケっていたよね? ねえ、ゲンスケっていつから執事やってたの? どうして、私のことを気にしてくれたの」
「……ミカ様も大きくなられた。もしかすると、私をすぐにクビにしたくなるかもしれませんよ」
「うん、その時はそうするね」
 笑顔で容赦なく言い放つミカの表情を横目で見て、ゲンスケもまた微笑みながら語り出す。
「私は工作員だったのです。早い話、悪い奴です。クチバシティだけではない、カントー地方のあちこちの組織に雇われては、依頼主に言われた相手の秘書になったり社員になったりしていました」
「具体的にどんなことしてるもんなの」
「一番多いのが相手の弱みを握ること、そして相手に弱みを作ることでした。例えば議員選挙などで相手側のサポータを装い、裏では不祥事を生み出して悪評を広めるなどです」
 どんなことをしたのかゲンスケはミカに話す。何十年も前、物心ついたときからそのような生き方をしていたこと。
 最初にやったのは近所にいた金持ちの屋敷に対する泥棒、その時に見つけた情報をこれまた近くにいた別の金持ちが高額で買い取ったことが生業の始まりであった。罪悪感や羞恥心はなかった。ただ生きる金が欲しかった。家には億を超える借金があった。
 10年ほどそんなことを続けて金に困ることはなくなった。そして同時に気付く、自分はこの先どう生きていくのだろうと。結論は簡単、何も変わらない。18歳にもなって義務教育も高等教育も受けていないガキに出来ることなんて他にない。
 途端に虚しさを感じた。借金を返し終えた瞬間に両親は再び自堕落な生活に戻り、嫌気も差した。家を捨てた、家族を捨てた、だが金は必要だった、だから続けた。虚しさを埋めるためにだろうか、とにかく誰かに必要とされる場所に居続けたいと願い、そして生業を生き甲斐とした。するしかなかった。
 あの時の気持ちを表現するならば、毎日が止まっていたと言うべきなのかもしれない。日々の幸福など知らず、ただひたすら不幸な人を生み出した。まるで自分の感じる虚無感を、他人の不幸で埋めるかのように。
「愚かな私は生き続けた。そして10年前に訪れたのがクチバシティの市議選挙……そうです、貴方のお父様が立候補していた選挙でもあります」
「もしかして、パパに雇われて相手の弱みを……」
 表情に陰りを見せたミカにゲンスケは微笑みながら、しっかりと首を横に振る。それだけでミカの表情は嬉しそうに晴れる。
「逆です。相手側に雇われ、貴方のお父様を負けさせるように仕向けられたのです。期間は短かった。貴方のお父様は清廉潔白、いくら探っても不祥事は見つけられない。かと言って、投票日までにでっち上げる時間もありませんでした」
「じゃあゲンスケは工作に失敗して、パパは議員になって、今でも工作活動のためにうちにいるってことになるの?」
「それも違いますね。いえ、失敗と言うのは正しいのですが……時間がなかった私は惨めながらも仕事に持っていたポリシーに反する手段を取らされることになりました。流血沙汰、所謂暴力です。私は選挙日の前日、広場で演説を終えたお父様に近づきました。みすぼらしい怪我人を装い、近づいてナイフで刺すために……あぁ、勿論命まで取るつもりはありませんでしたよ」
「そりゃ命取られてたら今頃もっと私の人生ダークサイドだったっての。あれ、でもパパとお風呂何度も入ったけど、刺し傷や切り傷何て体にはなかったわよ」
「当然です。私は、刺せなかったのです。群衆の中で血糊を使ってまで怪我人を装い近づいたとき、貴方のお父様は真っ先に私に気付き、そして……手を差し伸べてくださったのです。周りが気味悪がるなか、SPが制止するなか、真っ先に心配をしてくださった」
 嬉しかった……小さく確かな声で囁いたゲンスケの表情を見て、ミカは少しの戸惑いを覚える。一度も見たことがない、ゲンスケの瞳から流れる涙。彼は手袋でそれを拭い、ズレかけた進路を元に戻す。
 しばらく静かだった。ミカはかつて父にゲンスケについて聞いたとき「信頼できる男だ」としか言わなかった。勿論、今日までのことを考えれば信頼出来ないわけがない。頼りになるに決まっている。
「私は全てを自白しました。相手の不祥事なら仕事柄調べていたのですが、貴方のお父様はその情報を使わなかった。それでは、相手と同じだと言われて。まあ、結果勝利したのですから、それで良かったのでしょう」
「パパが優し過ぎて少し心配になっちゃうなあ……あれ、その流れで何でゲンスケがうちに来たわけ」
「嬉し過ぎて自白と一緒に身の上やら何やら、吐き出したい気持ちになってしまいましてね。全てを聴いたお父様が私を雇ってくださったのです。いやはや、私が当時のSPでも勿論反対するレベルですね。旦那様はこれから生まれて来る娘を頼みたいと私に言ったのです。耳を疑いましたね、こんな奴に娘の世話を頼むのかと」
「本当に信じられないわね、私だったら色々と聞き出して使えるものは何でも使ってから……うーん、工作員として雇っちゃうかも」
「逞しくなられましたな。旦那様は仰られた、『これから生まれてくる娘はきっと、色々と悩むだろう。辛いこともあるだろう。同じ気持ちを知る君が支えてあげて欲しい』と。それが、私の次の生き甲斐になりました」
「……パパ、何でもお見通しって感じ? 腹立つなぁーなんかさ。んで、ゲンスケはこーんなお転婆通り越して不良一歩手前の娘のお手伝いしてて……その、辛くなかった?」
 昨日とは打って変わって、もしくは心配するのは彼女の素であり常なのか、伏し目がちになりながら問い掛けるミカに対し、ゲンスケは相も変らぬ微笑みを崩さない。
「まさか」
 その声はとても、いつも通りだった。
「幸せですよ。これまでも、これからも」

月光 ( 2018/07/16(月) 03:30 )