死神ドクター - 本編
自然の理
 カントー地方はトキワの森。常盤とは変わりなき緑を指す。空を覆う鉛色の雲のせいで緑は滲んで見える。
 その名の由来通り地平線まで針葉樹林と広葉樹林が織り成す幻想的な風景の中、1人の女性が佇み手に持つ何かを静かに動かしていた。
 小さな芋虫のようなポケモン、キャタピーに女性はキズグスリを少し吹きかけ、痛がる様子を無視して腰の瓶を1つ取り出して蓋を開く。
 その直ぐ近くでは親なのだろうか、2匹のバタフリーが厳しい警戒の視線を女性に向けながらくるくると舞い、だが彼女の行いを決して邪魔することはない。
 取り出した瓶の薬液を人差し指に漬け、付着したそれをキャタピーの傷に塗り込む。先程まで苦しみ悶えていたキャタピーだが、その表情から少しずつ苦痛の色が失せていく。
 女性は最後にテープ型の絆創膏を取り出してハサミで切り、それを先程の傷口に被せてキャタピーを解放する。
 近くをフワフワと飛んでいたキュワワーに指示を出すと仄かな香りが漂い、険しい顔をしていたバタフリーが一転、嬉しそうに女性から離れたキャタピーを迎えに来た。
「治療は終了です。背中の絆創膏は自然に皮膚に馴染むので、そのまま無理に剥がさないように」
 通じているのかいないのかは分からない。分からないが、嬉しそうに舞いながら去っていく2匹と歩いていく1匹を見送り、女性は救急箱に道具を片付ける。
 左の手首付近に装着しているウェアラブルコンピュータを操作し、ライトから一直線の赤い光が飛び出るとそれは救急に当たると薄赤い光で覆い、次の瞬間にはそれを消し去った。
「お疲れ様です、キュワワー。貴方が居なければ、興奮したバタフリーに襲われているところでしたよ。それにしても……」
 女性は辺りを見渡す。先ほど治療していたキャタピーが倒れていた場所だが、辺りには所々に深い爪による切り傷や、掘り返された地面等が見える。
 ここでポケモンバトルがあったのは明らか。いや、それが『本当にポケモンバトルだったのか』どうか、女性は起き上がると周囲の検証を行う。
 良く見ればあちこちの場所の木々の葉が焼けていたり、木の表面にも焼けた様な傷があるのが分かった。これは炎ではなく、電撃による攻撃。
「……なるほど、ニビシティで聞いた話は本当でしたか。とは言え、私がどうこうする問題じゃないですね」
 女性はいくつかの確認を終えると周囲に群がり、恐怖と憎悪のような鋭い視線を向けているポケモンたちに気付き、軽く溜息をついた。
 どこの誰だか知らないが、迷惑な話――向けられるソレらを無視して女性が歩き出すと、草むらがガサガサと揺れ、一瞬経過した彼女の前に1匹のラッタが飛び出す。
 体中がボロボロになっており、追い立てられたのか尻や尻尾に残る噛みつかれた跡が痛々しい。
 地に伏せたラッタは女性がいることに気付くと慌てて臨戦態勢を取り、そして彼女は……無視して横を通り過ぎて行った。



 歩き続ける女性は唐突に立ち止まると、腕のウェアラブルコンピュータを数回叩いて地図を空間上に表示する。そして首を傾げる。
 真っ直ぐ進んでいたはずなのだが、いつどこで道を間違えたのか、進行方向がニビシティの方に向いていた。そう、気付けば逆走していたらしい。
「困りましたね。こんなことなら、素直に車で送ってもらうべきでした。今夜は野宿かもしれない」
 本当は困っていないのか表情に出にくいだけなのか、旗から見て彼女が困っているようにはあまり見えない。
 心配そうに女性の周りを飛んでいるキュワワーに彼女は軽く微笑み、「大丈夫、何とかなる何とかなる」と言い聞かせる。
 嘘から出たまこと……と言うわけではないのだろうが、暫く獣道を歩き続けると人が作ったであろう、雑草が無く土が露出し、タイヤの跡が見て取れる道路に出た。
 これが2番道路の本道ならばまっすぐ進むだけでトキワシティへと到着できる。尤も、森が深すぎて空の先にもトキワシティのビルなどは確認できないが。
「やはり、何事も歩き続けることが大事ですね……このタイヤの跡、先程の場所にあったのと同じですね。それに、割とまだ新しい」
 しゃがみ込んだ女性は湿った地面に出来た痕跡を確認し、砂の積もり具合や乾燥具合から大凡の時間を逆算する。
 恐らくここを通過して1時間も経っていない。余り関わりたくはないのだが、トキワシティでの仕事が待っているので悠長にしていられないのもまた事実。
 相手がまだ『生業』だか『仕事』だかを続けているのなら、面倒なことになるかもしれないが、その時はその時だ。
「気にせず行きましょう、キュワワー。気にしても仕方ないこともあります」

 しっかりとした道に出てから30分ほどが経過した時だろうか、道を歩いていた女性は突然立ち止まる。
 楽しそうに歌っていたキュワワーも突然立ち止まったことに気付いて静かになると、道を外れた僅かに先の方から確かに破裂音のようなものが聞こえて来た。
 右側方向。気にせず女性が歩き出そうとしたその瞬間、草むらが激しく揺れると1匹2匹、さらに後ろからどんどんと黄色い影が彼女の前に飛び出す。
 悲鳴のような声を上げながら通路に立っている女性の前を物凄い速度で横切って行き、群れが去ってから暫くすると、今度は低いエンジン音が草むらを薙ぎ倒し彼女の前に姿を現す。
 小型のトラックのように荷台が付いたバギーを運転していた男は道で立ち止まると、左右を見渡して悪態をつく。
「クソったれ、見失った。おいアンタ、ピカチュウの群れがここを通り過ぎて行かなかったか?」
 お世辞にも品性も行儀も宜しくない男は彼女に問い掛け、助手席に座っていた2匹のガラガラが鋭い剣幕で睨みつけて来た。
「なあ、同じ人間同士、教えてくれたって罰は当たらねえぜ」
「密猟は貴方の仕事でしょう、私が他人の仕事に口出す必要はありません。では、失礼」
 いつもと変わらぬ声のトーンで淡々と断った女性が歩き出すと男性は舌打ちし、ガラガラに顎で指示すると車から飛び出したガラガラの持つ骨が彼女の喉元に突きつけられる。
 慌てたキュワワーが止めようとするがもう1匹のガラガラも飛び出すとキュワワーに骨の切っ先を突きつけ、男がこめかみに血管を浮き上がらせながら怒声を飛ばす。
「舐めた口きいてんじゃねーぞ小娘! こちとら明日までに卸さねーといけねーんだよ、大人は大変なんだ、時間食わせんじゃねえ!」
 怒声に怯えたのかバギー後方の幌が外されている荷台には傷つき捕獲ネットで身動きを封じられたピカチュウ達が小さな悲鳴を上げ、そのうち何匹かは女性に助けの眼差しを送る。
 横目でそれを見ていた女性は今度は自身に骨を向けるガラガラの目に視線を向け、氷のように冷たく、何か見透かされているかのような瞳にガラガラが一歩後ろに退く。
「大人なら、小娘に頼らず自分で何とかしてください。それに、話していると時間がさらに無駄になりますよ。あと、私も急いでいるんです」
「ッケ。まあいいさ、それにしても随分と冷たい嬢ちゃんだ。後ろで捕まっているこいつら見て目の色一つ変えず、助けてあげてなんてことも言わず、自分が急いでるってなぁ……お前、俺が言うのもあれだけど屑だわ」
「良いですよ、別に屑でも。弱者は自然の理に従い、強者に破れた。ならば、私が助ける道理がありません。では、さようなら」
 女性が2匹のガラガラの骨を意表を突くほど自然な動きで制し、呆気に取られる2匹と1人の前を通り過ぎる。
 しかし次の瞬間、唐突にエンジン音が轟くと金属の板とフレームが女性目掛けて迫り、彼女は慌ててその場を飛び退くと足先にフレームが当たり体勢を崩した。
 突然走り出したせいでボンネットに乗っていた2匹のガラガラは落とされて木や草むらに打ちつけられていた。2匹とも小さな苦痛の声を上げる。
 肩から落ちた女性は小さく呻くと車に乗っていた男は悪辣な笑い声を上げ、彼女が額に汗を流しながら見上げて睨みつけるが反省の色はない。
「あー悪い悪い、俺も急いでたからついつい足に力が入っちまったよ。おいガラガラいつまで転がってやがる、早く乗り込め」
 ガラガラの心配などを余所に男が再びアクセルを踏み込むと、走り出した車体に倒れていたガラガラが必死にしがみつき、何とか助手席へと戻っていく。
 ゆっくりと起き上がった女性は体中を見渡し擦り傷しかないことを確認し、腰の便に手を伸ばすが今の衝撃でひび割れたらしい。
 黄色い液体がポタポタとガラス瓶を伝って地面に零れていく。女性は何とか残っていた液を傷に塗り込み流れていた血が止まった。
「やってくれますね。ですが、あのような小物に構っている暇はありません。行きますよ、キュワワー」
 心配そうに眺めているキュワワーに分かりにくいが笑顔を向け、男が草木を傷つけ去って行った先を睨みながら、彼女は再び歩き出す。

 その夜は野宿だった。思った以上に痛めた足での歩行は辛く、歩けば歩くほど骨の芯がズキズキと警告を発してきた。
 結果として彼女は中継地点のポケモンセンター経営のコテージに辿り着くことが出来ず、仕方なしに今は使われていないらしいバス停の待合所で横になっている。
 屋根があるだけ幸いだった。どうも天気が良くないとは思っていたが、野宿する場所を見つけた直後に中々弱い雨が彼女を襲った。
 少し濡れてしまったが問題はない。壁に掛けられていたキャンドルランタンに蝋燭が残っていたので、彼女は遠慮なく火をつける。揺れる炎が心を落ち着かせる。
 明日にはトキワシティに到着することを考えながら眠りに着こうとしていると、ポーチの中のウェアラブルコンピュータがピピピっと着信を知らせる音を出す。
 さっさと寝たかったのか露骨に面倒臭そうな溜息を吐きながら電話に応じ、そして溜息が聞こえていたのか相手の声がどこか震えている気がしなくもない。
『エーミーリー? 電話に出た瞬間溜息ってのは止めてもらいないかしらね』
「こんばんは、アララギさん。トキワの森、空気が良いですね。星空が見えないのは残念ですが、雨の音もまた風情がありますよ」
『そうじゃないでしょうが! 貴方今どこにいるの? 今日中に遅くても中継地点のコテージには着くって言ってたわよね』
 電話の相手であるアララギは聞いただけでは怒っているようだが、心配してくれていたのか電話越しには聞き取りづらいものの安堵の息遣いが聞こえた。
「色々ありまして。いやはや、トキワの森の生態を知りたいなど言わずに、博士の車に乗せてもらうべきでした」
 本心からだ。エミリーは先ほどの出来事を話すつもりは毛頭ない。しかし素直にアララギの申し出を受けていればと少し後悔している。
 話しを聞くとアララギは飛ばせばトキワシティに到着することが出来たらしいのだが、態々エミリーと色々話をしたいがためにコテージで待っていたと言う。
 しかし待てども待てども彼女が到着せず夜になって連絡もないから、流石に心配になって連絡を寄越したらしい。
「大丈夫、明日の正午までにはコテージに到着します。もし待っていて下さるのでしたら、車に乗せていただけませんか」
『オーケイ、明日の朝はのんびりと朝食を楽しめそう。そうだ、警察からの情報だけどね、どうも密猟者が活動してるらしいわ。それも、ちょっと危険な奴だって』
「それは怖いですね、見た感じ大物って雰囲気じゃなったのですが」
『そうなのよ、警察でもロケット団に雇われてる末端じゃないかって言って……た?……エミリー?」
 会話の流れでそのまま進もうとしていたアララギだが、エミリーの言葉を独り言のように繰り返し、暫くの静寂のあと電話の先から怒鳴り声にも似た大声が響く。
『見た感じって、見たってことよね!? だ、大丈夫なの? 怪我とかしてない? あ、まさか遅れたのって――』
「アララギさん五月蠅い、落ち着いて下さい。現に私はこうして無事ですし、彼はピカチュウの群れを追って森の奥に入って行ったのでもう会うことも多分ないです」
『心配しないわけないじゃない! でも対処も必要ね。エミリー、その男と遭遇した場所の位置情報頂戴。警察に連絡して、一帯の捜査を依頼するわ』
「構いませんよ。私が彼を庇う理由もないですし。じゃあ、位置情報送りましたので私は寝ますね。ふわあああ、眠い」
 感謝の言葉を述べたアララギがエミリーにまだ何か注意を促そうとしていたようだが、彼女は通話を切るとウェアラブルコンピュータの電源も落とす。
 待合所に備え付けれていたブランケットを毛布代わりにし、彼女は既に寝ていたキュワワーに「おやすみ」っとだけ言って眠りにつく。



 快晴……とまでは言わないが、昨日までのどんよりしていた空模様は消え去り、所々から差し込む天使の梯子が木々を緑に照らしている。
 地面は少しぬかるんではいるが歩く上での問題はない。髪の毛を梳かしヘアピンで留め、ヘアゴムでそれほど長いわけではない後ろ髪をポニーテールのようにまとめた。
 寝ていたキュワワーを起こすがまだ寝ぼけているらしく、仕方なく頭に髪飾りのように被せて目的地へ歩き出す。
 朝霧が立ち込めている。トキワの森の霧はかなり深く30メートルほど先は殆ど真っ白で見えないが、道を外れることなく進めばちゃんとコテージには到着する。
「道は素晴らしい。ここの地理に明るくない私でも、真っ直ぐ進めば目的地に着けるのだから」
 肌を少し濡らす程度の霧が心地よい。2時間ほど歩くと霧は殆ど晴れており、森のあちらこちらからは虫ポケモンや鳥ポケモンの日常が始まっていた。
 ここ暫くは都会にいることが多かったせいか、森林浴が妙に心地が良い――はずだった。森の奥から、聞き覚えのある破裂音を聴くまでは。
「今の発砲音、昨日と同じですね。恐らく捕獲ネットの発射装置の音でしょうが、進行方向から聞こえてくるのは嫌な予感がしますね」
 道を外れると言う選択肢がない以上、エミリーは不安な表情を浮かべるキュワワーに一度頷いてから再び歩き出す。
 それほど時間は掛からなかった。数十分程歩いたエミリーの視界にはサッカーコート程の開けた野原が現れ、その一角に見え覚えのあるバギーが停まっていた。
 道から少し外れた場所にある。道の上に停車していたら邪魔だったが、特に困らないのでエミリーはこちらに気付いたピカチュウ達の視線を無視して歩く。
「邪魔だ、雑魚が!」
 怒声が響く。同時にエミリーの前に1匹のキャタピーが宙を舞いながら叩きつけられ、飛んで来た先ではバタフリーがガラガラの攻撃で地面に落とされている。
 倒れているキャタピーの体には絆創膏がされていて、先日エミリーが治療したキャタピーであることは明白。そんなキャタピーに近づいてきた男は靴の先で弱々しく倒れる体を小突く。
「せっかくピカチュウ達を包囲出来そうだったのに、テメーのせいで台無しだぜ。昨日と言い今日と言い……なあ、アンタもそう思わないか? いるんだよなぁ、人間にもポケモンにも場の空気弁えず邪魔する奴」
 倒れたキャタピーの頭を靴底で転がして遊びながら、男は下卑た笑いを浮かべてエミリーに顔を向ける。
「こいつらの縄張りだったのか知らないが、こいつらの糸のせいでバギーがスリップして追い詰めたピカチュウが……ほれ、あの通りだ」
 男が親指で示した先には草原の中でただ1本生えている樹があり、その枝に多くのピカチュウ達が避難し様々な視線を男とエミリーに注いでいた。
 恐怖、憤怒、諦観、少なくともプラス要素の感情が含まれていないのは考えるまでもなく、また感じ取るまでもない。
 手足はあの男から逃げ続けていたせいなのか尻尾まで泥だらけになっており、どのピカチュウ達の表情にも疲弊感が漂う。
「全く頭に来るぜ、ノルマが達成出来てないってのによ。だが手はある、その前に……邪魔したテメーは死んどけ!」
「キュワワー、フラワーヒール!」
 男が足を振り上げた直後、キュワワーの持つ花から放たれた光がキャタピーを包み、その体が僅かだが寝返りを打つように回転する。
 盛大に蹴り損ねた男は股関節を痛めたのか片膝をついて苦悶の声を上げ、その隙にキャタピーは男から遠ざかると草むらの中へと姿を消した。
 異常を察知した2匹のガラガラが素早く男の前に立ちはだかり、男は脂汗を浮かべながらエミリーを睨みつける。
「小娘テメー何の真似だ!? 興味ないんじゃなかったのかよ、雑魚が強者に嬲られることによ!」
「そこまで言ってませんけどね。私はあのピカチュウ達が密猟者である貴方達に挑み、そして捕まったから無視しただけ。貴方の先ほどの行いは自然の理の外、ただの弱いもの虐めです」
「嘘つけよ、どうせ情に絆されたんだろう。ピカチュウ共がガラガラに挑んだなんてテメーに分かるわけ――」
「ガラガラの体中には、明らかに逃亡している相手から受けたとは思えない以上に傷跡があります。盛大に反撃された、自明です。それより、貴方はガラガラ達を治療しなかったのですね。こちらにいらっしゃい、望まぬ仕事でついた傷なら、癒しましょう」
「必要ねえ。お前らも互いに顔なんて見合ってんじゃねえ!」
 エミリーの本当によく見なければ分からない程の笑顔の優しさに骨を持つ手が緩んだのも一瞬、男の恫喝にガラガラ達の目は再び鋭く殺意を宿す。
「それに何ださっきのは! 何で俺が振り上げた足よりテメーのポケモンの方が行動が早いんだ」
「キュワワーの特性は『ヒーリングシフト』、癒すことに関しては貴方の動きなど陸に上がったヒンバスより遅い。それより、私ばかり睨んでて良いんですか」
「あぁ!? 何言ってや……あ、あいつら!」
 擬音が聞こえるのであれば血管がブチ切れたような音が聞こえたのだろう。
 エミリーと男が目を向けた先では数匹のピカチュウ達が仲間のネットを取り外しており、捕獲ネットに囚われていた獲物の半数近くが逃げて樹の上へと逃げていた。
 股関節の痛みなど忘れたかのように男は立ち上がるとガラガラ達に「見張ってろ!」と叫び、停めていたバギーに飛び乗る。
「このバギーは特別製でな、大型ポケモンを轢いて捕まえるときのために恐ろしく丈夫に作られてんだ。そんな細い樹なんざへし折ってテメーら全員叩き落してやる!」
 アクセルが大きく吹かされると爆音が響き、それが合図であったかのように野原の周りからは虫や鳥ポケモンたちの声が響き、ピカチュウ達の声が響く。
「……止めなくて良いんですか?」
 男に視線を送ったまま語り掛けて来たエミリーの言葉の意味が分からず、ガラガラ達は気を緩めることなく首を傾げる。
 100メートルほど離れていた樹に向かってバギーは走り出し、デコボコの野原の道を苦にもせずドンドンと速度を上げて樹へと進んだ。
「ピカチュウ達はあの瞬間、逃げようと思えば森に逃げられたはずです。さらに、助けた仲間は傷ついてるとは言え、野原の深い草や森に逃げた方が良かったはず」
 淡々とした口調で語られる言葉の意味にガラガラが気付いた瞬間、その時にはもう遅かった。
「アレは逃げているのではない。誘い込んでいるんですよ、彼をね」
 バギーが消えた。正確には一瞬にして視界から見えない場所へと落ちた。豪快な激突音と落ちた際にハンドルに激突したのか、クラクションが轟いた。
 直径4メートル、深さ3メートルはあろうかと言うほどの落とし穴。車の下には粘着性の糸に草花を付着させ、地面の偽装に使われたポケモンたちお手製の絨毯が敷かれている。
 落とし穴に完全に落ちたのを確認したピカチュウ達は声を上げると一斉に樹から降りて行き、森の木々からもオニドリル達が『何か』を掴みながら飛び出した。
「い、いてええ! 歯、歯が折れた! 俺の前歯が! 足が動かねえ折れやがったのか!? 左腕も折れてやがる……と、扉が開かねえ!? 畜生ふざけやがって!」
「痛そうですね。駄目ですよ、ちゃんとシートベルトはしないと」
 落とし穴の端から中を覗き込み、男の苦悶の表情を見ながらエミリーは無表情で注意する。
「ガラガラ達は何して――いや、良いところに来た。おい助けろ! 同じ人間だろう、見捨てるとかあり得ないよな!」
「口の利き方が宜しくないですね」
「わ、悪かった。小娘と言ったり何かと口が悪かったのは謝る。だから、助けてください」
「そう言えば車で撥ね殺されそうになりましたね。あのせいで、私はコテージに着けず晩御飯も携帯食料になってしまいました」
「悪かったよ、悪かったって! 飯も奢る! 土下座だってする! だから助けてくれ、嫌な予感がするんだ!」
 男の表情は怒りから一転して焦り、そして懇願が進むにつれてその表情は蒼白になっていく。
 穴の中、ましてや脱出できないバギーの中から外の様子など見えない。だが分かることもある……先ほどからオーケストラのように響き続ける、ピカチュウやオニドリル達の鳴き声。
 鳴き声はドンドンと増えて行き、次第に近づいて来ているのか大きくなっている。そして男は知っているのだ。職業柄、悪い予感程良く当たるのだと。
「……良いですよ、助けてあげます」
「ほ、本当か!?」
 初めてエミリーが笑った。それは見上げる男にも分かるような、美しく、凛とした、そして……感情が籠っていない笑顔。男の背筋が冷たく震える。
 横にいたキュワワーにエミリーが指示を出すと花のリングが輝くと同時にマジカルリーフが放たれ、荷台に拘束されていたピカチュウ達の縄を切り裂き、一斉にバギーを駆け上がって穴から出ていく。
 先程まで男を助けると思っていたピカチュウ達はエミリーを攻撃する直前、彼女の笑みを見て動けなくなった。
 それは気持ち的な面だけではない。いつの前にかエミリーの傍に出ていたエルフーンのわたほうしが絡まり、足の動きが封じられている。
「約束通り、助けましたよ」
「ふざけるな! こいつらじゃないだろ、俺を助けろよ! お前それでも人げヒッ!?」
 絶叫の途中でバギーの天井部分に何か重く固い物がぶつかり、男は頭を庇いながら思わず身を伏せる。
 立て続けにバギー天井からガンガンと音が響き、天井に凹みが出来る頃になって男は落ちてきているのが大きめの石であることに気付いた。
 それはオニスズメやオニドリル達が森の中から拾ってきたもので、上空には彼らの鳴き声が十重二十重と重なり途絶えることを知らない。
 直後にピカチュウ達の声が響き渡り、小石や砂利を含めた土砂が落とし穴全ての方向からバギーや男目掛けて浴びせられる。
「や、止めてくれ! 小娘、こいつらを止めてくれ! ガ、ガラガラはどうした!? こいつらを今すぐ薙ぎ倒せ! あ、あなをほるで俺を助けに来るんだ! 頼むから!」
 反応はない。既にバギーの車体の半分近くは埋まっており、例え穴を掘ったとしても扉は壊れて開かず、さらに岩や小石が邪魔で男を引っ張り出せるか怪しい。
 嗚咽交じりの懇願が穴の中から響くが、エミリーは笑顔を崩さず断り続ける。悲鳴はいつしか罵詈雑言に変わり、涙を浮かべる目からは恨みや憎しみがエミリーに刺すように向けられていた。
「糞女! 人でなし! テメー覚えてろよ、化けて出てでもテメー殺してやる! 殺人鬼め!」
「別に私が殺そうとしているわけではないですけど?」
「見殺しにしながら白々しい! そもそも、テメーさえ居なければ、ピカチュウの群れを見失うこともキャタピーに邪魔されることもなかった!」
「私が居たこととそれらの事象には何の因果関係もありません。それに、私が貴方を助けないのにはちゃんと理由があるんですよ。貴方にも話しましたよね」
「はあ!? 見殺しの理由な――」
 男の言葉を相変わらず笑顔のまま遮り、エミリーは静かで、だが有無を言わさぬ氷のように冷たい口調で言葉を放つ。
「弱者は自然の理に従い、強者に破れた。ならば、私が助ける道理がありません」
「お前は……何なんだよ、人が死ぬの目の前に、なんで笑ってやがるんだ……」
「おや、私は嗤っていましたか。それは失礼しました。死にゆく命へのせめてもの手向け、質問に答えます」
 エミリーは笑っていた表情を直すと再び無表情になり、冷たい視線で男を見る。
「私はエモリア・クラウン。貴方、ロケット団への卸売り業者のようですね。とは言え、末端も末端では知りませんか」
「……お前が……死神」
 震える声はエミリーには届かず、そしてそれが彼の最期の言葉となった。
 岩石や土砂によって穴は完全に埋められ、ピカチュウ達が念入りにジャンプして地面を叩くことで固めていく。
 その様子を見ていたエミリーはまるで最初から関与していなかったかのように、興味もなさそうに歩き出す。
 だが何かに気付いたのか足を止めて振り返ると、そこにはあの男の手持ちだったガラガラ達がエミリーを見つめていた。
 困惑しているようで、それでいてどこか嬉しそうで、そして僅かな恐怖を孕んだ目。
「望まぬ仕事をした傷を治す、約束でしたね。着いて来なさい。コテージまであと少しですから、そこで治療しましょう」
 良く見なければ分からない程の僅かな笑顔だが、ガラガラ達は大きく頷くと彼女の後に続く。

 コテージには正午到着した。アララギ博士は外で待っていたらしく、エミリーを見つけると大きく手を振る。
「ようやく来たわねエミリー、待ちくたびれてお昼寝しちゃうところだったわ」
「申し訳ありませんアララギさん、出発はもう少し待ってください。彼らを治療する約束なので」
 ガラガラ達を見たアララギが挨拶すると、ガラガラ達も骨を掲げて挨拶する。
 直後にエミリーとガラガラ達を近くにいた数名の警察官が取り囲み、警察手帳を見せながら厳しい口を開く。
 余りに突然の出来事にアララギは驚き言葉を失うが、エミリーの表情は相変わらず冷たい。
「このガラガラ達、骨の形状などから密猟者テッドの所有ポケモンだと思われるが、君は彼の仲間かね」
「いいえ」
「何故奴のガラガラを連れている。奴がどこにいるか知っているか」
「目の前で野生のポケモンたちに殺されましたけど」
 突然の事実告白に数名の警察官が動揺するが、上司らしい男が咳払い1つで黙らせた。
 自分たちの処遇か何かを巡って話していることぐらいはガラガラにも分かった、だからこそ一抹の不安を覚えながらエミリーを見上げる。
「確認するが、君は奴を助けようとはしたかね? 奴には、色々と吐いて貰わねばならんこともあった」
「助ける義理も義務も責任もありませんから、何もしませんでしたよ」
「……そうか、ではガラガラの身柄をこちらへ渡してくれ。せめて彼らに、奴のアジトなどを案内させる」
「お断りします」
 断固とした即答に再び後ろにいた警察官たちがざわめき、流石にエミリーの前の男も目を見開く。
「そのガラガラ達を庇うと言う事は君もテッドの共犯であり、公務執行妨害と言う事になるが?」
「ちょ、ちょっと待ってください! エミリーは決して密猟者の片棒を担ぐような子ではありません! ガラガラ達だって、その、密猟者の手持ちだとは限らないじゃないですか」
「申し訳ありませんが博士は静粛にお願いします。エミリー君、断る理由を聞かせてもらえるかな」
「このガラガラ達には治療すると約束しました。それが終わるまでは、例え警察であろうと神であろうと、私の邪魔はさせません。終わればお好きにどうぞ」



 結局エミリーは公務執行妨害でトキワシティの警察署まで連れていかれたが、コテージでのガラガラ達の治療のみは断固として決行した。
 多くの裂傷をもなっていた傷に複数種のキズグスリを的確に処方し、キュワワーの治癒とエルフーンの綿で作成したガーゼで瞬く間にガラガラ達の傷は治療された。
 治療が終わった後のエミリーは別人になったかのように警察の質問に従順に答え、テッドとの関連性もないと見なされ解放されたのは当日の夕方。
 警察署の外に出ると待っていたのかアララギが安心からほっと胸を撫で下ろしながら、笑顔でエミリーに手を振る。「待ってなくても良いのに……」と小言が漏れた。
 治療したガラガラ達は警察に保護と言う名目で引き取られたが、この先のガラガラ達の運命など興味もないので、エミリーは何も言わない。
「良かった、反抗的な態度で留置所に入れられないか心配してたのよ」
「えぇ、私ってそんな生意気な態度取ってます? 割と失礼なこと言うのってどちらかと言うとアララギさんじゃないですか」
「……コホン、今の発言は聞き逃してあげる。ところでエミリー、相談なんだけれど」
「お断りします」
 即答。また本題を言っていないアララギは開きかけた口をコイキングのようにパクパクさせ、残念そうに肩を落とす。
「まだ何も言っていないじゃない」
「『貴方はまだ若くてしかも女の子なんだから、昨日や今日みたいに危ない目にこの先も遭うかもしれない。大人としてそれは放っておけない。もし良ければ、私が受け持っているチームの医療班に来る気はない?』……ですよね」
「一言一句その通り。ねえ、私の提案は魅力に欠けるかしら? 私も嬉しいし、貴方のためにもならないかなって思ったんだけれど」
 名残惜しそうに俯きながら再度アタックをするアララギだが、エミリーの返事は変わらない。僅かな期待を込めた視線に対して、ただ機械のように等速でゆっくりと首を横に振る。
 西の空で茜色に輝いていた太陽が地平線へと沈む。アララギとエミリーの周りの電灯の明かりがカチカチと音を立てながら光を放ち、静寂の中で歩き続ける2人のうちエミリーが太陽を指差した。
 沈みゆく太陽は世界に鮮やかな赤と紫のコントラストを作り出すが、その輝きは次第に消えて闇が人の世を包み込む。
「アララギさん、貴方は太陽です。世界を照らし、美しく染め上げ、朝日の如く人々に希望をもたらす光り。アララギさん、私は闇です。世界を包み、冷たく塗り潰し、闇夜の如く人々の希望を奪う暗黒。私と深く関われば、誰も幸福にはならない。もはやこれは自然の摂理に同然です」
「エミリー、貴方は自分を責め過ぎている。現に貴方のお陰で助かった命は数多くあるわ」
「そして私ではなく別の人だったのならば、救われた命も数多くあります。人々が『助けて当然』と言う命を私は見捨てて来ました。それにですね、アララギさん。貴方だって少しは思っているのでしょう」
「な、何のことかしら」
「人やポケモンの心を感じて、他の人には生物的に出来ない治療が出来て、自分でも理解出来ないぐらい情緒不安定で……いえ、もうはっきり言います。気持ち悪いでしょう、私のこと」
「ッ!?」
 激しい音がした。気付けば視界が右にズレていた。左の頬が妙に痺れた。険しい剣幕のアララギが右手を振り下ろし、そしてエミリーは叩かれていた。
 走ったわけでもないのにアララギの呼吸は酷く乱れ、肩で息をする彼女とは対照的にエミリーは僅かに唇の端を吊り上げている。
「……ふふ、ごめんなさい。意地悪なこと言いましたね。でも、事実私が医療班にいるとチームの輪が乱れます。他の人の迷惑になることは率先してしたくない」
「いえ、私の方こそ叩いてごめんなさい。貴方のためとか言いながら、心のどこかで研究のためとか思っていたのかもしれない。研究を飛躍的に進めるのに、優秀な人材は多ければ多いほど良いからね」
「アララギさん、優し過ぎますよ。今度、イッシュ地方で旅立つ子供たちにポケモンと図鑑を託すのでしょう? もう少し威厳を持たないと。ほら、オーキド博士みたいに厳つい顔作って下さい」
「流石にあの人の真似は厳しいわよ、眉間にシワが増えちゃう。おっと、話している間に着いたわね、あの建物よ」
 アララギが指差した先には一軒家の民家よりは少し大きめの建物があり、カーテン越しにでも分かる明るい光が灯っていた。表札には『オーキド研究所 トキワシティ支部』と記載がある。
「少し前にホウエンで起こった干ばつと大雨の異常気象、その際に傷ついたポケモンの一部が保護されている研究所……が、あそこですね」
「えぇ、そうよ。ホウエン地方の生態系は多様で独特の構造を持つポケモンも多い、貴方はホウエンなどにも良く行っているみたいだから是非とも医療班の指導をお願いしたいわ」
「うわ、結局研究の片棒担がされるんですか」
 呆れたような声で呟くエミリーだが表情に変化が乏し過ぎていまいち嫌がっているのか、はたまたアララギの抜け目なさに感心しているのか分からない。
「ふっふっふ、そこは大人としてのテクニックと褒めてもらいたいわ……エミリー、貴方は自分を闇と言ったわね。なら、私が照らしてあげる。少なくとも今この瞬間は、ようこそ光の世界へ」
「感動的なことを言ってくれてとても嬉しいです。だけど、それだと私は光で照らされて消えちゃうんですよね」
 再びアララギが肩を落とし「台無し……」、と小さく、ぽつりと愚痴った。

■筆者メッセージ
編集ミスって本編消えた……
月光 ( 2018/07/16(月) 03:29 )