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小さな炎が生まれた。炎は周りにあるものを何もかも取り込んで、次第に大きくなっていく。気が付けば、辺り一面が火の海だった。だが、触れることはできない。それは彼の、心の中で燃え上がる創作の炎だった。
(書かなければ……)
彼はごちゃごちゃした部屋の隅から、ノートとペンを引っ張り出す。頭に浮かぶ物語を、大まかに書き取っていく。
(火が消えないうちに……)
物語の大体をまとめたところで、彼は自分のデスクに向かう。スリープ状態にしたパソコンを叩き起こし、ワードプロセッサーを起動する。起動するまでの待機時間も惜しいとでもいうように、彼の左手のペンはノートの上を踊り狂う。
やっとのことで起動したワープロに、思いつく限りの物語を文章にして打ち込んでいく。
フッと音がして、それまで轟々と音を立てて燃えていた火が消えた。同時に、彼の手が途中で止まった。頭に思い描いた物語を彩る言葉が、フッと途切れた。
彼は趣味で小説を書いていた。日常の鬱憤や感動を、物語という形で文章にする。その作業がたまらなく好きだった。
だが、最近はどうも執筆が手につかなかった。彼は思い立ったら吉日というタイプで、要するに、気が乗っている時はそれこそいくらでも書き進めることができるのだが、別の物事に心が移ったかと思うと、それまで手を付けていた小説がそれ以上書けなくなってしまうのだった。
彼は移り気な性格の人間だった。何かに熱中するときは時間も忘れるほどだが、すぐに別のものに目が行ってしまう。何かにあこがれていても、数時間後には別のものにあこがれの対象が向いている。
そして、何か楽しいことや嬉しいことがあった後、何かを終えた後は、何故か空虚な気持ちになるというのだ。普通は心に喜びや達成感が、心の中に残るはずだ。だが、彼の心にはそれが残らなかった。まるで初めからそんなものは存在しなかったとでもいうように、真っ白になってしまう。まるで、心が燃え尽きてしまったかのように。
一人暮らしを始める前、彼は父親に、自分のことを相談したことがあった。
「ねえ、父さん。何かものすごく楽しい出来事があった時とか、何かをやり遂げた後にさ、何だか心が空っぽになったような気分になるのは、どうしてだと思う?」
「うーん、それ、
燃え尽き症候群ってやつじゃないのか?」
「
燃え尽き症候群?」
「何かに一生懸命になっていた人が、期待に添わない結果に直面した時に、無気力になってしまうって心の病気なんだ」
「うーん、ちょっと違う気がするなぁ。思いっきり友達と遊んですごく楽しかったのに、その後で似たような感覚に襲われることがあるから」
「じゃあ、ちょっと違うかもしれないけど、明日のジョーみたいな感じかな」
「多分そうだね。ジョーはライバルとの戦いの後、燃え尽きて灰になっちゃったんだっけ」
「ああ」
「だとしたら、僕は何かをする時に、心を燃やしているのかもね」
その時の父親の顔を、彼は今でも覚えている。少しだけ哀愁を含んだ苦笑い。無気力になるたびに、彼はその顔を思い出す。
(誰か、火をつけてくれ……僕の心に……)
導火線が湿っている。湿気を飛ばそうにも、ヒーターなど無い。
(いつものように激しく燃え上がる炎でなくてもいい。蝋燭の先に、小さな炎が揺らめく。それだけでいい。そこから僕自身の手で燃え上がらせればいいのだから。僕の心に、火を……)
火種を灯す蝋燭は、既に短くなっている。もうそろそろ替えなければ。だが、見当たらない。プロットはある。だが、膨らまない。自分の周りにいくらでも転がっているはずの言葉が、全くと言っていいほど思いつかない。どうにか言葉をひねり出し、ワープロに打ち込んで、うーん、と唸ってまた消す。それの繰り返しだ。
「いつもの勢いはどうしたんだい?」
どこからか声がした。少年のような、少し高い声だ。
彼は驚いて立ち上がるが、どこを向いても声の主は見当たらない。彼の部屋には彼以外の人間は誰もいないはずなのだ。
「いつもなら、一気に描き切ってしまうところだろう?」
またしても声がする。頭の中に直接流れ込んでくるわけではなく、ちゃんと耳から声が入ってくる。彼は声のした方を見て、何が喋ったのか更に分からなくなった。
得体のしれない声は、彼のデスクの方から聞こえたのだ。だが、彼のデスクには彼のパソコン、ノート、ペン、それに、薄紫色の炎を灯した、見たこともない形の蝋燭が一つ立っているだけだ。
「ん?」
彼は違和感を感じずにはいられなかった。こんな所に蝋燭など立っていただろうか?
「そうだね。ボクはたった今ここに来たばかりだから、見覚えがないのは仕方がないかもね」
同じ声が聞こえる。今度ははっきりと分かった。あろうことか、デスクの上の見覚えのない蝋燭が喋っている。
彼が顔を近づけると、蝋燭がぶるぶると震え始め、ぴょんと跳ねた。よく見れば、その側面には可愛らしい目と口と手が付いている。その目が、今はしっかりと彼の顔を見つめている。彼はポケモンを家においていなかったはずなのだ。なのに、そいつは何故かそこにいた。
「俺はポケモンを連れ込んだ覚えはないんだが」
「ボクはゴーストタイプのポケモンだからね。その気になれば、壁抜けなんてたやすいことさ」
「……何でここにいるんだ?」
「君が困っているようだから、様子を見に来てあげたのさ」
「頼んだ覚えは……」
「心で叫んでいたでしょ。心に火をつけてくれって」
彼はどきりとした。蝋燭が喋っていることには驚かなかったのに、内側に触れられることには耐性が無かった。
「お前、心の声が聞こえるのか?」
「一応、読心術にも通じているからね」
えへんと胸を張る蝋燭。いわゆるドヤ顔で彼を見た。
彼はいかにも胡散臭いといった目で、小さな蝋燭を眺めた。だが、信じざるを得なかった。この蝋燭は、彼の思っていることを見事に言い当てたのだから。
「君が望むのなら、君に火をつけてあげよう。ただし、燃やすのは君の魂だよ。魂を燃やしてまで、君は何かを描き出すことを望むかい?」
蝋燭はにやりと笑って、彼の胸に向かって手を上げる。ビシッと音が聞こえそうなほど素早く洗練された動きに、彼は思わずたじろいでしまう。
彼の喉がゴクリと鳴った。物語を描きたい気持ちは山々だ。だが、魂を燃やすという蝋燭の言葉が、些か気掛かりだった。
(何か副作用があるのだろうか?それとも、俺の魂を乗っ取ろうと……)
「そんな恐ろしいこと考えてないから。副作用はあるにはあるけど、君の魂を燃やすのは、君自身のエネルギーの為だけさ。ボクが人の魂を燃やして生きているって、あれは迷信だね」
また心の中の声に返事を返された。だが、これで確信が持てた。
彼の中の恐怖を、創作意欲が塗り替えていく。
「……頼んでもいいか?」
「よしきた!じゃあ、少しの間君の心に入らせてもらうね」
蝋燭は嬉しそうに笑って、その場からフッと姿を消した。
次の瞬間、彼は自分の内側に小さな火が灯ったのを感じた。湿って火の付きそうにない導火線を除いて、燃えるものなど何もないかに思えた心の中で、薄紫色の小さな灯火は何かを取り込むように膨み、徐々に赤みを帯びていく。
燃えている。自分の中で、自らの魂がパチパチと音を立てて燃えている。
書かなければ。誰に言われるでもなく彼はそう思った。今書かなければ、また逆戻りだ。今しか書けない。
彼の頭の中で、火花がはじけた。いくつもの言葉が浮かんでは消える。彼はその中から、物語にふさわしい言葉を瞬時に捕まえる。捕まえた言葉を、今度は瞬時に電気信号に変換して、出力する指に伝える。
途中で何度も指が止まりそうになる。本当にその言葉でいいのか、物語の筋はこんなものでいいのか。彼の迷いが、彼の指の動きを妨げる。
(こんな所で止まるわけにはいかない……)
必死で頭の中の引き出しを引き開け、彼が過去に触れてきた言葉や物語の筋を思い出す。その中から必要な要素を取り込んで、自分だけの物語を構成していく。
燃え上がる炎の真ん中に、一滴の水が滴り落ちた。
本来炎とは相性の悪いはずの水だが、この水は違った。彼の中の、文芸の泉から流れ出す清水である。炎の真ん中に落ちた滴は引き金となって、勢いよく炎を燃え上がらせた。周りでは陽炎が舞い踊る。小さかった炎は今や巨大な火柱となって、天高く昇る。真っ赤だった焔の色は、次第に金色(こんじき)の光を帯びていく。
彼の手は自然に動いた。心の炎が、早く早くと彼の手を急かす。まるでピアノでも弾くかのような指捌きで、湧き上がる言葉をパソコンの画面に打ち込んでいく。
そして――――
「書けた……」
彼はキーボードを叩く手を止めた。彼の目の前では、彼の思い描いた世界が、文章という名の海を漂っている。時に激しく、時に静かに、物語の波が押し寄せてくるのが分かった。
一方、彼はというと、自らの描いた物語のを前にして、真っ白になっていた。心の中には何も残っていない。喜びとか達成感とか、そう言ったものが全く湧いてこない。自分の中のものを全て燃やし尽くしてしまったような、そんな顔だった。
「どうだい?魂を燃やして描いた君の世界は?」
いつの間に戻ってきたのか、彼の肩に乗った蝋燭が、彼の耳元で囁く。彼は蝋燭に手を差し伸べて、机に降ろしてやった。彼の父親がそうしたように、彼は苦々しく笑って言った。
「だめだな。確かに、書けることは書ける。でも、その後が続かないから。今までいろいろあった何かが、今じゃすっかり空っぽだ。これじゃあ、前と同じか、それ以上によくない」
蝋燭はにっこりと笑った。
「ね、分かったでしょう。物語を描くのは君自身。君の導火線に火をつけるのも。そして、燃料は君の魂ではない。君自身が、日常の中で見つけ出した欠片さ」
「俺自身が、見つけた欠片?」
「そう。君自身が、自分の周りで見つけるのさ。物語も、それに見合う言葉も。そして、君のやる気を引き出すものもそうでなければ、ほら、今回みたいに。ぽっと燃えて、ぷっつん。そうはなりたくないよね?」
うっ、と返答に詰まる彼に、蝋燭は柔らかな声で続ける。
「勢いも大事だけどさ、まぁ、気長に行きなよ。君の好きでやっていることなんだから、締切なんてないでしょう?自分で自分をひどく追い込み過ぎるようなことだけはやめておきなよ。君みたいなタイプの人間が追い込み過ぎたら、また今までみたいにすぐ燃え尽きてしまうからさ」
彼ははっとした。思えば、彼は自分で自分に枷を掛けていた。その枷が自らの首を絞めていることにも気付かず、彼はもがいていたのだ。そのことを、目の前の蝋燭が気付かせてくれたのだ。空っぽだった心に、じんわりと暖かい何かが染み渡っていく。
「……ああ。できるだけ、気を付けてみる」
普段笑うことの少ない彼の頬が、自然に緩んだ。蝋燭は優しく微笑み返す。
「じゃあ、ボクはそろそろ行くよ。執筆、頑張ってね」
小さな手を振りながらそう言い残して、蝋燭はフッと消えた。
暗い部屋を、彼のパソコンの明かりだけが照らしていた。
「ありがとう」
誰もいなくなった虚空に向かって、彼は呟いた。
真っ暗だった心の中の、短くなった蝋燭に、小さな火が灯った。