大きくなるということは
進化するって、ただ大きくなるとか、強くなるとか、そんな風にしか思っていなかった。進化するとどんないいことがあるか、そんなことばかり考えていた。だから、気付けなかった。進化することは、必ずしもいいことばかりじゃないって。
生まれた頃のボクは、ちっちゃくて、軽くって、丸っこかった。体に比べて手も足も小さかったから、一緒にいたあの子と同じ距離を歩くのでもものすごく時間がかかったり、何でもない所でよく転んだりしたっけ。でも、あの子の後を追いかけて、どこへでもついていった。
あの子は絵を描くのが好きだった。幼稚園でもらってきたクレヨンで、よくボクのことを絵に描いてくれた。
初めてボクを書いてくれた時の絵は、お世辞にも上手いといえるものじゃなかった。クレヨンが太いから仕方ないのかもしれないけど、ボクの目や口はぐりぐりで、おなかの三角模様はカクカクで、ボクの頭を塗った肌色が、輪郭の黒に交じって汚れていたりした。でも、そんなことは気にならなかった。ボクはただ、あの子がボクを描いてくれるだけで嬉しかった。
小学校に入学してから、あの子は何かを書くときに鉛筆を使うようになった。なぁに?と横から覗いてみると、
「しゅくだいだよ。明日までにやって、学校にもって行くんだ」
と言っていた。ボクの体よりも大きなノートに、たくさん文字を書いていた。
あの子は絵もたくさん描いていた。鉛筆の柔らかい線で、輪郭から陰影まで、何でも描き分けた。描いた絵の上から、今度は色鉛筆で色を塗っていくこともあった。消しゴムで消したらそれまで描いていたものが全く違うものになったりするみたいで、間違わないように慎重になって描いていたから、ボクが構って攻撃をしても
「ごめん、あとでね」
と断られることもあった。
あの子はボクのこともよく絵に描いてくれた。どこかにお出かけした時なんかは、行ったところの風景をバックにボクを描いてくれた。ボクだけじゃ寂しいよなんて顔をしていたら、あの子はボクの絵の隣に、あの子自身の絵も描き加えた。
「これで、いつもいっしょだよ!」
あの子はにっこり笑った。ボクもつられて笑顔になった。
あの子が中学校に入る頃にボクは進化した。背の高さも体重も、前の姿の倍くらいになった。あの子と比べるとまだ小さかったけど、進化していいことが二つあった。
一つは、手足が前よりちょっとだけ長く、大きくなったこと。歩くのも前より楽になったし、何より、物が持てるようになった。前は手がちっちゃすぎて、両手で何かを持つなんてことは出来なかったし、指も発達していなかったから、片手で何かを持つことすらも難しかった。でも、今はちゃんと物を持てる手がある。嬉しくて、あの子にいろんなものを持って行ってあげた。
もう一つは、背中に小さな羽が生えたこと。おかげで、羽をぴょこぴょこ動かせば宙に浮くことができた。歩くよりもこっちの方が何倍も速く動けた。おかげで、あの子に抱いてもらわなくても、あの子の行くところ行くところについて行けるようになった。足はせっかく大きくなったけど、使うのはあの子と手を繋いで歩くときくらいだった。
羽が生えたと言っても、まだ空を高く飛べるわけじゃなかった。風を捉えるにはボクの羽は小さすぎて、一生懸命に羽ばたいても、体を浮かせるのがやっとだった。だから、あの子に「一緒に空を飛んで」とせがまれた時は、ボクの無力を恨むしかなかった。
あの子は文字を書くときに、鉛筆ではなくシャープペンシルを使うようになった。鉛筆の時よりも細い線で、鉛筆よりも少ない力で大きな筆圧が残るペンだった。時折指でシャープペンシルをもてあそびながら、あの子は小学生の頃の倍以上の文字を書いていた。鉛筆のような柔らかい線ではなくなったけど、濃淡だけは辛うじて出すことができるものだった。
でも、あの子が絵を描くとき、シャープペンシルを使うところをあまり見たことがなかった。あの子はそれまで通り、鉛筆で絵を描いていた。どんなに芯が短く潰れていても、削り器で削って使う。あの子にはあの子のこだわりがあるみたいだった。
「細かい所はシャープペンシルの方が描きやすいんだけどね。でも、濃淡をつけたり、輪郭の柔らかさを表現するのは、鉛筆の方がやりやすいんだ」
事実、あの子の描く絵は、どれも柔らかい印象を受けた。見ているだけで心が落ち着くような絵だった。
あの子が高校生になる頃、ボクはまた進化した。あの子の入学祝いにと、あの子のお母さんがボクにくれた光り輝く石に触れた瞬間、ボクの姿はそれまでとは全く違うものになっていくのを感じた。体は一気に大きくなって、体重も一気に増えた。丸っこい体はそのままに、体の両側に立派な翼が生えた。これからはあの子を乗せて空を飛べるんだと思うと、いてもたってもいられなくなって、あの子に許可をもらっては何度も大空へと飛び立った。
でも、できなくなったこともあった。
翼が大きくなった分かどうかは知らないけれど、僕には手がなくなった。おかげで、それまでみたいにものが持てなくなった。何かをあの子に持って行こうとするならば、口にくわえていくしかなかった。
(進化する前はあんなによく使っていたのに、どうしてなくなってしまったのだろう?)
僕には不思議でたまらなかった。
もう一つ、それは、あの子の隣を一緒に歩くこと。今までは二足歩行ができたから、あの子と手を繋いで歩くことができた。でも、今はそれができない。ボクの足は地面を早く歩けるようにはできていなかった。ただどこかに摑まったり、木にとまったり、地面で休んだり、飛び立つときに地面を蹴るくらいにしか使えなくなっていた。
体が大きくなったせいで、あの子は移動の時、ボクをボールに入れるようになった。ボクの背中に乗って空を飛んでいけばいいのにと思ったけれど、あの子の通う高校では空を飛んで学校に行ってはいけないというルールがあったみたい。居心地は悪くないけど、やっぱりボクはボールの外――――あの子の隣にいたかった。
あの子は何かを書くときに、シャープペンシルではなくボールペンを使うことが多くなった。細い線は一度書いたら消すことはできなくて、インクの濃さの調整もきかない。
「大切な書類はね、このペンで書かなきゃいけないんだって」
大切な書類――――あの子は大学に行こうと思っていたみたいで、その手続きの書類がたくさんあった。失敗しても消せないから、あの子は鉛筆で下書きをして、その線をボールペンでなぞっていた。
あの子は絵を描くときにも、ボールペンを使うようになった。鉛筆で書いた輪郭線を、細く鮮やかな黒のボールペンでなぞっていく。輪郭が描けたら、今度は色ペンや絵の具で色を塗っていく。よくテレビとかマンガとかでみるような綺麗な絵になって、ボクは少し驚いた。
鉛筆だけの絵も、時々描いていた。でも、その頻度は、小学生の頃と比べるとずいぶん減っていた。
あの子は大学生になって、親元を離れて一人暮らしを始めた。空を飛んで学校に行くことも許されるようになった。ボクは毎日のようにあの子を背中に乗せて、あの子の家と大学の間を何度も行き来した。
あの子は自分専用のノートパソコンを使うようになった。絵を描くのも、パソコンですることが多くなった。仕組みは分からないけど、画面に触れるだけで操作できるみたいで、普通の紙には書けないペンを使って、画面に絵を描いていた。
色も濃淡も自由に操作できて、普通には描けないような複雑な絵も、あの子は簡単に描いて見せた。発色のいい、綺麗な絵だと思った。
代わりに、鉛筆で絵を描くことがめっきり少なくなった。黒と白、色の濃淡だけで表現されたモノクロの世界。色とりどりの鮮やかな絵も好きだけど、毎日のようにそんな絵を見ていると、不思議とモノクロの絵も見たくなる。だから、ボクは時々鉛筆をくわえてあの子のところに行った。あの子は困ったように笑いながらも、
「しょうがないなぁ」
と言って、鉛筆で絵を描いてくれた。人間の顔だったり、自然の風景だったり、都市のビル群だったり。鮮やかな世界に見慣れていたボクには、あの子の描くモノクロの世界が、どこか物足りないような、それでいて、色のある世界に欠けていた何かを取り戻させてくれるような、不可思議な気持ちにしてくれる魔法のようにさえ思えた。
「気に入った?」
絵を描き終えると、あの子はいつもボクに尋ねた。もちろん!とボクは答える。鳴き声としてしか発せられないから、あの子がちゃんと理解してくれるかは分からない。でも、
「よかった。じゃあ、また描いてあげる」
って言ってくれるから、きっとボクが喜んでいることは伝わっているんだろうなと思った。
「ねえ」
ある日、あの子がボクに尋ねた。
「君は、進化してよかったって思う?」
ボクは素直に頷けなかった。空を飛べるようになったのは嬉しいし、戦うことだって前より得意になった。でも、できなくなったこと――――あの子と一緒に歩いたり、木の実を手に持って来たりすること――――を考えると、本当に進化してよかったのかどうか分からなくなってしまう。困った顔をしていると、あの子は空を見て言った。
「そっか。君も迷っていたんだね」
君も?そこで気が付いた。あの子は何かに迷っているんだ。何に対してかは分からないけど、似たような悩みを抱えているからこそ、こんなことを尋ねてきたのだと思った。
「大きくなって、できることは増えた。買い物も料理も一人でできるようになったし、いろんなことが考えられるようになった。絵だって小さい頃に比べたら上手く描けるようになったと思う……でもね、何だか、小さい頃に持っていた心を失ってしまったような、そんな感じがするんだ。母さんは、それが大人になることだって言っていたけど」
その通りだった。大人になると失われてしまうもの――――その最たるものが、子供の頃に持っていた純真な心だった。何者にも囚われず、目の前のものを自分の感情のままに受け止める、空を行く雲のような心。触れただけで儚く壊れてしまいそうな、透き通ったガラスのような心。あらゆる物事に分別をつけければならなくなる大人には、持っていると邪魔になるものなのかもしれない。
進化も、同じだ。環境に適応するために体の一部または全部が変化する。何かができるようになることもあるけど、反対に要らなくなったものは衰えていく。ボクの種族にとって、手はいらないものだったのかな?それは、ボクには分からない問題だった。長い年月をかけて、この姿を手に入れたご先祖様にでも聞かなければ、答えは出ないのだろうと思った。もっとも、そんなことは叶わないと分かってはいたけれど。
「でもね。あたし、思うんだ。何かが無くなっても、今あるものや新しく手に入れたもので、世界は切り開いていけるんだって。今の自分を受け入れて、進めばいいんだって」
あの子の顔が、今までで一番大人びて見えた気がした。子供の心では辿り着くことのできない答えに、あの子は辿り着いたんだ。
「どうかな?間違っているかな?」
ボクは首振って否定した。そうしたら、あの子はにっこりと笑った。まるで子供の頃に戻ったような、純真な笑顔だった。
あの子はまだ、大切なものを失ってはいない。そう確信した。
大きくなるっていうことは、何かを失い、新しい何かを得ること。失うものが何か気付かないことの方が多いけど、実は失ったんじゃなく隠れているだけかもしれない。
大きくなるっていうことは――――
―――――体だけじゃなく、心も大きくなること。
ボクも早く大きくならなくちゃ。
あの子に追い付けるように。
またあの子の隣を歩めるように。
No.468 トゲキッス 祝福ポケモン
・揉め事の 起こる 場所には 決して 現れない。近頃は 姿を 見かけなくなった。
・お互いの 存在を 認め合い 無駄に 争わない 人の為に 様々な 恵みを 分け与える。
・争いの ない 平和な 土地に トゲキッスは 訪れ 様々な 恵みを 分け与えると いわれる。
――――ポケモン図鑑より