ぼくの空
5.廃墟の空
 空を飛んでいた。
 荒廃した土地の遥か上空から、地面を見下ろしながら飛んでいた。
 かつてそこには街があったのだろう。黒く朽ち果てた建物がいくつも連なっている場所だった。壁が崩れて中が見えているのはまだマシで、骨組みだけ、あるいはそこに建物があったであろう痕跡だけしか残っていない場所さえあった。誰かが住んでいるようには思えなかった。
 そのうちの一つに、ぼくは目を留めた。街の中でもひときわ大きなお屋敷らしかった。ところどころ崩れている部分はあるものの、そこかしこに補修の後が見られ、未だにその原型を保っていた。
 気になったのはお屋敷ではなかった。その玄関口で、誰かが手を振っているのを見たのだ。
 高度を下げて近づいてみると、それは灰色のぬいぐるみだった。つぎはぎだらけで、縫い目の部分から中身の綿が飛び出していた。黒ずんだ金属のチャックでできた口は開いていて、ぬいぐるみはケタケタと笑っていた。
「よお。よく降りてきてくれたな。久しぶりのお客様だ」
 ぼくが地面に降り立つと、ぬいぐるみは嬉しそうに話しかけてきた。
「はじめまして。君はここで何をしているの?」
「よくぞ訊いてくれた」
 ぼくが尋ねると、ぬいぐるみは腕を組み、ふんぞり返って答えた。
「俺はな、ここでご主人様の帰りを待っているのさ」
「君のご主人様?」
「おうともよ。ご主人様は大事な用事があって、俺にこの屋敷の留守を任せて出ていったんだ。きっと帰ってくるからって、笑ってくれたっけな」
 ぬいぐるみの表情があまりにも誇らしげで、ぼくは感心してしまった。このぬいぐるみは、「ご主人様」のことをとても慕っているのだ。
「あんた、どこかでうちのご主人様を見ていないか? こういう人なんだが」
 人形は破れた体の中から、一枚の写真を撮り出した。すっかり色あせた、精悍な顔立ちの男が写っていた。
 今までいろんな場所を旅してきたけれど、ぼくの記憶にその男はいなかった。
「ごめんよ、見たことがないや」
 ぼくが答えると、ぬいぐるみは一瞬ぽかんと口を開けていたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「そうか。ああ、いや、気にするなよ。お前は悪くないんだからさ。たまたま知らなかっただけなんだから」
 そう言って写真をしまいこむぬいぐるみの表情は、どこか寂しげだった。一目見ただけで、作り笑顔と分かる表情が張り付いていた。
「そうだ。久々の客なんだ、うちに泊まっていかないか? 部屋はみんな綺麗にしてあるからさ」
 この場所はぼくの目的地ではなかった。でも、ぼくにだって休息は必要だ。それに、おそらくぬいぐるみは寂しかったのではないかと思ったのだ。「綺麗にしてある」という言葉が、自分でそれをやった証拠だ、自分以外にやる者がいなかった、というのは考え過ぎだろうか。
 こんなことを考えるのは、ずっとひとりで飛んできたぼくの寂しさを紛らわせようとしているだけなのかもしれないけれど。
 ぼくが思った通り、屋敷には誰も住んでいなかった。だだっ広い屋敷のだだっ広い部屋に案内され、そこでぬいぐるみと夜遅くまで話をした。
 主人がいなくなった後、召使だった者も次々と屋敷を後にし、最後にぬいぐるみだけが残されたという。ぬいぐるみは誰もいなくなった屋敷を、今までずっと守ってきたのだ。壊れた所は補修し。家の中は日を分けて掃除をし。ご主人様がいつ戻ってきても良いようにと、ぬいぐるみは長い間手を尽くしてきたのだ。
「帰ってくるといいね」
 ぼくがそう言うと、ぬいぐるみは「ああ」と答えた。その時の希望に満ち溢れた顔といったら。暗いだの不気味だの言われるゴーストタイプのポケモンとは思えないくらい、屈託のない笑顔だった。
 ぬいぐるみの話をたくさん聴いた後は、ぼくが旅の話をした。色々なところを巡ってきたぼくの話を、ぬいぐるみは目を輝かせて聴いてくれた。けれど、「ご主人様」の話をしていた時の方が、もっと良い顔をしていた。
 お互い話をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだった。目を開けた時には、部屋の窓から眩しい朝の光が差し込んでいた。
 その日、ぼくは屋敷を出た。ぬいぐるみはもっと居てくれても良いと言ってくれたけれど、ぼくには帰るべき場所がある。今はその途中。十分に休んだのだから、これ以上長居する理由はなかった。
 ぼくを見送るぬいぐるみは少し寂しそうな顔をしていた。けれどきっと大丈夫だろう。これまでずっと一人で屋敷を守ってこられたのだ。きっと、「ご主人様」が帰ってくるまで達者でやっているはずだ。そう思うことで。後ろ髪を引かれる思いを断ち切った。

 次の日、一人の男がぬいぐるみのいる屋敷を訪れた。ぬいぐるみが持っていた写真に写っていた、あの男だった。
 男の姿を見るや否や、ぬいぐるみの瞳が大きく見開かれた。
「やあ、ただいま」
「帰れ」
 にこやかに手を上げる男を睨みつけ、ぬいぐるみは吐き捨てるように言った。
「どうしてだい。私は約束を果たしに帰ってきたんだ」
 ぬいぐるみを抱き上げようと伸ばされた男の手を、ぬいぐるみは払いのけた。
「二度とその姿で、ここに来るんじゃねえ」
 その言葉を聞いて、男――に「へんしん」していたぼくは溜息を吐いた。初めて屋敷を訪れた時の姿に戻ったぼくを、ぬいぐるみはぶん殴った。思い切り振りかぶった割に、力のこもっていない貧弱なパンチだった。
 ぬいぐるみは俯いて、片手で目をこすった。チューリップの花のような形の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「本当は知ってるんだ。俺のご主人様は、とっくに死んじまったんだろうって。もう二度と、ここへは帰ってこないんだろうってさ」
 ぬいぐるみの頬を伝う涙に、ぼくはそっと触れようとした。ぼくの指が拭い去る前に、布地に綿が詰まった肌に吸い込まれた涙は、しばらく渇きそうになかった。
「ありがとよ、励まそうとしてくれて」
 それからぬいぐるみが泣き止むまでの間、ぼくはぬいぐるみの横に腰掛けて、背をさすり続けた。ようやく落ち着いた時、ぬいぐるみの表情はどこかすっきりとしていた。憑き物が落ちたようだった。本当に落ちていたら、動かなくなってしまうのかもしれないけれど、少なくともその心配はなさそうだった。
「また来なよ。今度は本当の姿を見せてくれよ」
 そう言って、ぬいぐるみは手を振った。今度こそ、本当にお別れだった。

 ぼくは屋敷を後にした。このままここで暮らすこともできるけれど、ぼくが帰るべき場所はここではないからだ。それに、もう一度戻って来られるかどうかわからない。戻ってきたときに、まだこの街が存在しているのか、ぬいぐるみがここにいるのかさえ分からない。だから、約束はしなかった。ぬいぐるみの主人のように、意図せず約束を破ってしまうのは嫌だった。それでも、またこの場所に来たいと思っていた。きっとまたこの屋敷を訪れて、あのぬいぐるみと他愛もない話をするのだ。想像だけが膨らんで、ぼくの胸を満たした。
 次は、本当の自分で居られるだろうか。回り始めた思考が、ゆっくりと停止する。
 本当の自分は、どんなだっただろう。


円山翔 ( 2020/02/26(水) 21:34 )