4.海原の空
空を飛んでいた。
見渡す限りの海の上を、潮風に吹かれながら飛んでいた。快晴の空にはキャモメの群れが飛び回り、獲物を見つけるや否や水面目がけて突進する様が見受けられた。随分と高いところから狙いを定めて飛び込んでいるようだけれど、同じくらいの高度からでは何も見えなかった。もう少し水面に近付いてみよう。ほんの気まぐれだった。
水面近くを飛んでみても、波立つ水面に荒く映るぼくがいるだけだった。いや、最初はそうだったが、いつの間にかぼく以外の誰かがぼくの真横にあたる位置にいるように見え始めた。海色の小さな背中だった。真横を見ても、誰もいない。そこでようやく気付いた。海色は飛んでいるのではない。水中を、飛ぶように泳いでいるのだ。障害のない空を飛んでいるぼくと遜色ないくらい、海色は速かった。
視界の先に、白い氷河がみえた。着地して休むには十分な大きさだった。
視界の端に、海色が映った。水中から獲物を狙うバスラオの如く飛び出してきたのは、先ほど見た子ペンギンだった。
子ペンギンは空中で両手をばたつかせた。空を飛ぼうとしているのだろうか。その羽ばたきは、小さな体を海面から遠ざけた。ほんの一瞬だけ、飛んでいるぼくと同じ場所にまで浮き上がった。しかし、重力には勝てなかった。ゆっくりと降下し、水飛沫を上げた。
氷河の上に降り立ったぼくのところに、先程の子ペンギンがやってきた。
「驚かせてごめんね。空を飛ぶ練習をしていたんだ」
頭を下げる子ペンギンに、ぼくは「大丈夫」と言った。本当は翼にぶつかりそうだったけれど、咄嗟に旋回して避けたので怪我はなかった。
「君は泳ぐのがうまいんだね。海の中を、飛んでいるみたいだった」
「泳げてもだめさ」
ぼくは褒めたつもりだったのだけれど、子ペンギンはそっぽを向いてしまった。
「僕は、君みたいに空を飛びたいんだ」
「無理だよ」、という言葉を、ぼくはすんでのところで呑み込んだ。子ペンギンの瞳は本気だった。彼が飛べないことが事実だとわかっていても、それを否定してしまうのは心が痛む。
「飛んでみるかい?」
ぼくは尋ねた。ぼくが子ペンギンを抱えて飛べば、空を飛ぶことだけはできた。だが、
「いい」
子ペンギンはすぐに否定した。
「自分の力で飛べなければ、意味がないもの」
ぼくには、この子ペンギンが可哀想に想えてならなかった。空を飛べるキャモメに生まれていたら、そんな夢を持つことも、飛べ
ずに悔しい思いをすることもなかっただろう。しかし、それはキャモメが「飛べる」からであり、飛べない者が空を飛びたいと思うのは、むしろ自然なことなのかもしれない。
飛べるといいね、とは言わなかった。無理だ、とも言わなかった。頑張れ、とも言わなかった。
何も言えなかった。何と言ってよいやら分からなかった。
自分にはできることが、子ペンギンにはできない。できる者には、できない者の気持ちは分からないのだから。今ここでぼくが何を言ったって、子ペンギンを傷つけはしても、慰めにはならないと分かっていた。
何も言えないぼくを見て、子ペンギンは言った。
「分かっててもさ、夢見ちゃったんだから仕方がないでしょ」
飛べないことを知ってなお、よほど空を飛ぶことに憧れているのだろう。子ペンギンの表情は、子供とは思えない哀愁を感じさせた。
しばらく休んでから、ぼくはまた飛び立った。ペンギンはまた海に潜り、助走をつけ始めた。十分スピードが上がったら、空目がけて飛び出し、懸命に両手をばたつかせる。が、やはり飛ぶことはできずに落ちてしまう。その一連の動作を、ずっとずっと繰り返していた。
何度目か分からない着水を決めたとき、子ペンギンは何かの気配を悟って水を蹴った。直後、子ペンギンがいた場所を、一匹の鮫がものすごいスピードで駆け抜けていった。
獲物を逃した海のギャングは、体を反転させて子ペンギンを見つけた。赤い瞳がギラギラと輝いていた。尻から水を噴射し、一気にスピードを上げて子ペンギンに襲い掛かる。
子ペンギンは必死に逃げた。海で最も速く泳げるとされる鮫を相手に、子ペンギンは負けじと逃げ回った。すんでのところで噛み付かれそうになるのを何度か繰り返し、それでも諦めずに逃げた。鮫ほどのスピードは出せなくとも、機動性においては、子ペンギンが鮫を上回っていた。
それでも、差は徐々に縮まっていった。接近を繰り返すごとに、鋸のような歯が子ペンギンを噛み砕こうとする。このまま逃げ回っていても、いずれは食われてしまう。子ペンギンは意を決して、頭を上に向けた。これで最期になるかもしれない、直線勝負に出た。
一直線に昇っていく子ペンギンを、鮫も一直線に追いかけた。子ペンギンは振り向かなかった。そして、水面近くまで昇ったところで、全力で水を蹴った。
ザバッ。
水飛沫を上げて、子ペンギンは空へと飛び上がった。その後を追って、鮫も水上へ顔を出した。
飛び出した勢いそのままに、子ペンギンは両手をぴんと伸ばした。子ペンギンの体は放物線を描きながら上へ上へと昇っていく。鮫も同じ軌道を辿り、子ペンギンに近付いていく。牙が迫る。噛み付かれる。生暖かい息を感じた時、子ペンギンは両腕をぐんと一振りした。
そのひと振りが、子ペンギンの体を一つ分前へと推し進めた。鮫の牙が空振りし、鮫はそのまま海へと落ちていった。息をつくのも束の間、子ペンギンの前には真っ白な氷河の大地が広がっていた。飛んできた勢いのまま、腹から氷河に着地した。氷の床を滑り、少しせりあがっているところでようやく止まった。
「ぼく、今、飛んだ?」
氷河の上に降り立った子ペンギンは、きょろきょろと当たりを見渡した。追いかけてきたサメハダーは、もういない。胸を撫で下ろし、座り込んだ。今までよりも、随分と長い時間、空を飛んでいたような感覚だった。それまで感じたことのない手ごたえのようなものが、子ペンギンの胸に湧き上がっていた。
その一部始終を
子ペンギンの背後でずっと見ていたぼくは、気付かれないように、子ペンギンの背後にそっと降り立った。冷えた体がぶるっと震え上がった。
「見てたよ。ちょっとだけだけど、飛べたんじゃないかな」
びっくりして振り返った子ペンギンは、ほっと息を吐いて言った。
「……あれじゃまだまださ。言っただろう? 君みたいに自由に空を飛べるようにならなきゃ」
否定する子ペンギンだったが、その頬はほんのりと朱に染まっていた。ああ、この子は褒められ慣れていないのだとぼくは思った。おまけに、自分を中々認められないのだろうと。
「厳しいんだね」
「笑うかい?」
「いいや、笑わないさ」
ぼくは子ペンギンの頭に手を置いて言った。
「夢を持つことは、大事なことだから」
子ペンギンと別れたぼくは、海の上を飛んでいた。
あんなことを言ったけれど、ぼくは何か夢を持っていただろうか。考えてみたけれど、何も浮かんでは来なかった。ぼくも偉そうなことは言えたもんじゃない。
氷河の上に留まって、子ペンギンが夢を叶えられるか見守ることもできた。それをしなかったのは、あの氷河がぼくの帰る場所ではなかったからだ。
子ペンギンは、また「空を飛ぶ」練習を始めた。その努力が実ることはないかもしれない。けれど、きっと今日のように子ペンギンを生かすことはあるのだろう。そう考えると、少しだけ救われたような気持ちになった。
心が軽くなったぼくは、水平線に向かって、まっすぐに飛んでいった。