3.雨林の空
空を飛んでいた。
雨が降り続く林の中を、ゆっくりと飛んでいた。
木々の隙間から見える空は、黒い雲で埋め尽くされていた。しとしとと降る雨は、知らず知らずのうちに体力を奪っていった。木の洞や、傘になりそうな大きめの葉で雨宿りをしながら、少しずつ進んでいった。
雲の向こうで日が暮れたのだろう。少しずつ、辺りが随分と暗くなっていった。そろそろ寝床を探さなければならなかった。明るいうちに探しておくべきだったと後悔してもあとの祭りである。居心地のよさそうな場所には大概先客がいて、余所者のぼくには居場所なんてものがなかった。相席をお願いしても、返ってきたのは
「ここは私の縄張りだ。出ていけ」
居住者の冷たい目だった。
「俺が先に見つけたんだ。後から来た奴が出ていくのが道理だろう?」
こころない、冷たい言葉だった。
「嫌なら戦って奪え。それが道理ってもんだ」
強者の冷たい理論だった。
既に居る者の立場から考えてみれば、どれももっともな意見なのだろうけれど。
雨が強くなった。そろそろ寝床を見つけなければならない。ぼくが焦り始めた時だった。立ち並ぶ木々の向こうに、微かな光が目に留まった。
光の方へ進んでいくと、そこには葉を傘にして空を見上げる火蜥蜴がいた。葉の先から落ちる雫が、時折尻尾の炎に当たってじゅわっと音を立てていた。
炎が消えれば、死んでしまう。ぞっとした。雨林に迷い込んだ火蜥蜴たちは、こうやって命を落としていくのだろうか。木の洞に隠れようにも、いくら湿っているとはいえ隠れる場所が燃えてしまうかもしれない。それで、森の住民はこの火蜥蜴を拒絶したのだろう。葉の傘では、完全に雨を防ぐことはできない。このままでは、火蜥蜴は死んでしまう。
ぼくに気付いた火蜥蜴が、ぎゃうと鳴いた。
弱弱しい声だった。短い脚で懸命に走り、ぼくの目の前までやってきた火蜥蜴に、警戒の色はなかった。
「きみも、居場所を見つけられなかったのか」
ぼくが尋ねると、火蜥蜴はこくりと頷いた。
ぼくは、小さな火蜥蜴と自分の炎が雨に濡れないように、翼で覆い隠した。それから、ぼくの炎を火蜥蜴の尻尾にかざした。弱弱しかった炎が、少しずつ大きくなっていった。火蜥蜴の体が震える。寒さを訴えている。抱き寄せると、小さな体からほんのりと温かみが感じられた。
ぐったりとした火蜥蜴を抱え、雨を防げそうな場所を探して歩いた。
しばらく歩いていくと、岩壁に葉で覆われている部分があった。よくよく見ていなければ、それはただの葉の塊だと思ってしまっていただろう。手で葉をかき分けると、そこには休むのにちょうどよさそうな洞穴があった。
突然、その洞穴の中から何かが飛び出した。咄嗟に身をのけぞらせて避けたものの、飛び出した何かが掠った部分から、生暖かいものが肌を伝うのが分かった。
洞穴の中から飛び出したのは、長いたてがみを持つ黒い狐だった。空色の瞳がギラギラと輝き、ぼくを睨みつけていた。
戦うのは避けたかった。ぼく自身、既に疲れ切っている。炎の技は雨のせいで大した威力にならないし、敵意むき出しの相手に、ぼくの手の内を晒すようなことは避けたい。それに何より、手元には今、瀕死の火蜥蜴の子がいる。
「一晩泊めてもらえないだろうか」
「残念だが、この場所は今、私たちが使っている」
黒狐からは、他の場所で出会ったのと同じ敵意を感じた。当然だ。せっかく隠しておいた安息の場所に、無断で踏み入られたようなものなのだから。
「せめてこの子だけでも入れてやってくれないか」
ぼくは火蜥蜴の子を見せて言った。
「雨に打たれて弱っているんだ」
狐は目を細め、迷うそぶりを見せた。それから低い声で尋ねた。
「お前の子か」
「違う。ここで初めて出会った」
ぼくは迷わず真実を答えた。嘘を吐く理由がなかったからだ。
答えるや否や、狐はぼくの手から火蜥蜴を奪い取った。あまりに鮮やかな手つきで、ぼくは奪われたことすら気付かなかった。
「こいつだけだ。お前は知らん」
「ありがとう」
礼を言うと、狐は顔を背け、洞穴の奥に入っていった。姿が見えなくなったあたりで、ぶっきらぼうな声が聞こえた。
「入り口の番くらいならさせてやる」
暗闇の中から空色の双眸が消え、雨音に寝息が一つ混じり始めた。よくよく聞けば、寝息は一つではない。黒狐と火蜥蜴のものを足しても、二つ三つほど足りなかった。
入り口は、ぼくが体を丸めてちょうど入るか入らないかくらいの大きさだった。炎で奥を照らしてしまわないように、炎が雨に晒されないように、ぼくは体を横たえた。
途端に、どっと疲れが襲ってきた。体と瞼が重たくなり、ぼくはいつの間にか意識を失っていた。
目を開けると、辺りはもう明るくなり始めていた。雨はもう止んでいるようだった。
洞穴から這い出して、体を伸ばした。雨で冷えたのと、長い時間狭い場所にいたのとで、体が随分縮こまっていた。
ぼくが体を動かしていると、洞穴の中から昨晩の黒狐が顔を出した。
「よく眠れたか?」
相変わらずぶっきらぼうな物言いだった。それでも昨晩とは打って変わって、言葉に温かみがあった。
「おかげさまで。あの子は無事?」
「ああ」
狐は洞穴の奥を指差した。そこには白と黒、二匹の狐の子と一緒にすやすやと寝息を立てる火蜥蜴の子の姿があった。その隣には、少し体が大きい九尾の狐の姿もあった。ぼくがよく知っている九尾狐は金色の毛皮を持っていたけれど、そこにいた九尾狐は冬に積もる雪のような白銀の毛皮を纏っていた。
「妻子がいたんだ」
「私の大事な家族だ」
穴の奥から白銀狐が顔を出した。ぼくを見るなり冷たい氷の礫を吹き付けようとした九尾を、黒狐が制した。
「近頃は、寝床を求めるふりをして子を攫う輩もいる。それで警戒していた。お前は、そういうやつじゃなかった。悪いことをした」
こうべを垂れる黒狐に、ぼくは「いいんだ」と言った。黒狐のいうことを考えてみれば、白銀狐が私を攻撃しようとしたのも頷ける。
「あの子はどうする?」
「残念ながらぼくの子じゃないから、置いていこうと思う」
ぼくは黒狐に手を差し出した。黒狐は僕の手に触れて、何かを察したようだった。
「ならば尚更、連れて行ってやるべきじゃないのか」
ぼくを見つめる黒狐は、親の顔をしていた。おやの顔を知らないぼくにも、何となくそんな気がした。確かに、火蜥蜴を連れて安住に地を見つけ、大人になるまで世話をするということもできなくはないだろう。けれど、ぼくは首を横に振った。
「ぼくはこれから長い距離を飛ばなければならない。山を越え、谷を越え、海を越え、遠くまで行かなければならない。拾った手前、無責任な話だけれど、そんな危険な旅にあの子を連れていくことはできないよ」
それを聞いて黒狐は「そうか」と呟いた。それから意地悪な顔をしてこう言った。
「私があの子を殺しても、文句は言うまいな」
「その時はその時だよ。それに、あなたはそんなことをする方じゃないでしょう」
ぼくが笑うと、黒狐も「冗談だ」と言って笑った。
「気をつけて」
「ありがとう。元気で」
火蜥蜴が目を覚まさないうちに、ぼくは狐の住処を発った。
「あの子をよろしく」
と、心の中でだけ告げた。
雨が上がった後も、そこかしこの木から雫が零れ落ちてきた。それが時折ぼくの炎に当たって、じゅわっと音を立てた。この場所では、随分と都合が悪そうだった。
けれど仕方がない。ぼくの帰る場所は、この森ではなかった。ただそれだけのことだった。それに。
ぼくにはあの黒狐や白銀狐のように、大切に想える誰かがいなかった。
あの火蜥蜴がそうではないのかと問われると、それは違うと思う。ならば見殺しにすればよかったではないかという話だが、それも違う。生かしたいから助けた。ただそれだけだった。
たったそれだけだというのに、胸にぽっかりと穴が開いたような気分になった。
心の空白を振り切るように、ぼくは朝日に背を向けて飛んでいった。