5.つれてかえる
雨の日の帰り道、友達と別れた直後に、ぼくはそいつに出会った。
道端に置かれた段ボールの中で、まだ小さなポチエナが震えていた。野生で出会ったときの気性の荒さは影もなく、ぼろきれに包まれて、今にも消えてしまいそうな声で鳴いていた。よく見れば、段ボールには黒いマジックで「拾ってください」と書いてある。このポチエナは、捨てられたのだ。それも、体の大きさから考えると、生まれてすぐに捨てられたらしい。酷いことをする人もいるものだ。
雨は止む気配もなく降り続けている。このまま放っておけば間違いなく凍え死んでしまうだろう。そうでなくとも、何も食べなければ餓死してしまう。どうにかしてあげたいけれど、連れて帰ろうにも、父も母もポケモンは苦手だ。連れて帰ったら間違いなくどやされる。どうしたものだろうか。
→連れて帰る
見捨てる
食べ物を置いていく
保健所に連絡する
ぼくは心を決めた。ぐしょ濡れの箱の中からぐしょ濡れのポチエナを抱え上げ、家に連れて帰ることにしたのだ。母に見つかればどやされるだろうが、それよりも目の前の命を見捨てることをぼく自身が許せなかった。
家に帰ってただいまを告げると、ぼくは洗面所に駆け込んだ。手を洗い、うがいをして、ドライヤーでポチエナを乾かした。ドライヤーの音は居間の母にも聞こえるだろうが、雨が降っているから、濡れた髪を乾かしていると思ってもらえるだろう。それからタオルを一枚拝借してポチエナを包み、リビングに向かった。
「この子を飼わせてください」
ぼくが抱えたポチエナを見た途端、母の表情が強張った。
「どこで拾ってきたの」
「帰り道で拾ってきた」
「捨ててきなさい」
「この子を飼わせてください」
「母さんも父さんもポケモン嫌いだって知ってて言ってるの?」
「ぼくがちゃんと世話をします。毎日散歩も連れて行くし、しつけもしっかりやります。この子を飼わせてください」
「エサ代と、トイレと、予防接種と、いくらかかると思っているの?」
「その分ぼくのお小遣いを減らしていいから。この子を飼わせてください」
ぼくが何かを言うたびに、母は理由をつけて否定しようとした。そしてそのたびに、ぼくは食い下がった。ここで引いたら、ポチエナは助からない。もう二度とあんな思いをするのはごめんだ。ただその一心で、母の否定を否定し続けた。
そして、とうとう母が折れた。
「父さんに聞きなさい。ただし、飼うことになっても、母さんも父さんも一切手出しはしません」
第一関門を突破したぼくは、父が帰ってくるのを待って同じように説得を試みた。反対されるかと思いきや、父は思ったよりもすんなりと認めてくれた。ただし、母と同じく世話は自分でするようにとのことだった。
翌日が休みだったこともあって、父がポケモンセンターに連れて行ってくれた。ポチエナに伝染病の予防接種をしつつ、ポケモンフーズとモンスターボールを買うためだ。予防接種とフーズの代金はとても払えなかったので父に払ってもらい、モンスターボールの二百円は自分で出した。ポチエナは注射にもおびえることなく、すんなりと予防接種を受けた。案外図太い性格なのかもしれないと思った。けろりとした顔で帰ってきたポチエナにモンスターボールを差し出すと、自分から開閉ボタンに触れて中に入った。まるでモンスターボールがどういうものなのかを理解しているふうだった。
ポケモンセンターからの帰り道、父になぜポケモンが嫌いになったかを尋ねてみた。すると父は大きな手を見せた。手の甲からてのひらにかけて、歯形の跡がついていた。
「昔な、ポチエナに嚙まれたんだ。あいつら動き回るものを見るとすぐに噛みつくから。小さい頃だったから、それがトラウマみたいになったんだ。今もだいぶマシにはなったけど、まだちょっと怖いと思ってしまう」
「じゃあ、母さんは?」
「さあな、帰ったら聞いてみたらいい」
父はそう言ったが、母に同じ質問をする勇気はなかった。
それから毎日が少しだけ騒がしくなった。通学の時には首輪とリードをつけてポチエナを散歩した。学校の先生に事情を話して、学校にいる間はボールから出さないという条件付きで許可してもらった。帰り道にも同じように一緒に歩いて帰った。ご飯は朝も晩もぼくの部屋で食べてもらって、寝るときは一緒に布団に潜った。動くものを見るとすぐに噛みつくという父の言葉が嘘のように、ポチエナはぼくに懐いていた。
ほらね、救う方法があっただろ。ぼくの中で良心が言った。
そうだね、とぼくは良心に言った。
最後にもう一度忠告だ。良心が言った。
二度と戻ろうなんて考えるんじゃあないぞ。同じ選択をしても、同じ結果にたどり着けるとは限らないんだから。
わかったよ。ぼくは言った。
それきり、良心は口をきかなくなった。
ポチエナはすくすくと育ち、ぼくが小学校を卒業するころにはグラエナに進化した。もうちょっとぼくが小さければ背中に乗せてもらえたかもしれないと思うと残念だけれど、今ではもうリードがなくても一緒に歩けるほどによく言うことを聞いてくれる。
両親は両親で、ぼくにできない部分の世話を焼いてくれた。なくなりかけたフーズやトイレシートを買い足してくれたり、健康診断のためにポケモンセンターに連れて行ってくれたり。相変わらずグラエナに触れようとはしなかったけれど、グラエナも両親のことはちゃんと理解してくれているようで、ボールから出ていても二人に近づくことはなかった。
もう、戻ろうとは思わなかった。
ポチエナはちゃんと助かって、ぼくとグラエナは幸せに生きている。それで十分だった。
他の選択肢の可能性を探ろうなんて気には、到底ならなかった。
それでいいんだと、ぼくの中で良心が呟いた気がした。
戻ったらどうなるか見たいって?
やめてあげてよ。彼らはもう、ハッピーエンドを手に入れたんだ。
ここで巻き戻したら、今度はどう転ぶかわからない。
両親が許してくれたかどうかわからないし、良心が助言をしたかもわからない。
それに、今よりもっと悲惨な未来が待っていたかもしれない。
例えば、彼がポチエナに噛まれてポケモン嫌いになるとか。
それか、もっと酷いことになっていたかもね。
だから、もうそっとしておいてあげて。